ドラッカー1970年のインタビュー

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コンサルタントの条件

ピーター・F・ドラッカー、ジョン・F・ギボンズ(聞き手)

井坂康志訳

 

はじめに

経営コンサルタントとしてドラッカーが世界をリードしてきたのは誰もが知っている。その世界的影響は他を圧している。その認識がインタビューのスタートである。まずはコンサルタントとは何なのか。いかなる役を果たすものか。足かけ数十年にわたるコンサルタント人生でとられた方法はいかなるものか。そこから聞いてみることにしたい。

なお、ドラッカーの知的世界はあまりに広大であって、その頭脳の働きに思いを馳せるならば、いつしか主旨からの脱線もやむをえない。だが、そのほうがかえって読者の興味を引くものとなりうるし、何より彼の真実の姿と独自の思考法を浮かび上がらせうるものと期する次第である。

 

私は代打ではない

― はじめに経営コンサルタントという仕事について聞きたい。あなたは世界屈指の名声をすでにお持ちだ。仕事の依頼を受けて実際にとりかかるまでどう進めるか。生じがちな問題はどのようなものか。顧客の頭はどのような問題で占められているか。

ドラッカー ここ二年ほどの経験に徴するのがよいだろう。ある老舗の大手企業と仕事をした。経営陣が刷新され業績回復を目指していた。だが今一つ軌道に乗り切れず苦闘していた。新社長には何より片腕となる人が必要だった。新旧人材の混成チームで新市場に着手しようとしていた。それを称して「計画」と呼んでいたが、なぜかうまくいかない。手詰まり感があった。老舗の大企業だ。砂浜に打ち上げられた鯨だ。腐臭さえ漂いはじめていた。

私を指名してきたのは一年ほど前だ。幹部の話を聞いた。何ら手ごたえがなかった。彼らの発想は、昨日までの仕事を幾分ましに行う程度のものだった。半世紀以上前の一九〇六年、東部オクラホマの工場新設断念を今もってくよくよしていた。未知のリスクを何より恐れていた。慎重なのは結構だが、いささか慎重過ぎるのではないかと釘を刺して、すぐ戻ると言い残してその場を後にし、別室で検討した。確かに問題は山ほどあった。だが、きちんと見れば機会もあった。覚悟さえあれば誰にでも見える種類の機会だった。だが、同社は主戦場を限定していた。機会も問題も見方一つだ。この商売をしているとしょっちゅうである。

私は小企業と仕事するのも嫌いではない。成果が見える。人も動きやすい。ある急成長企業の仕事を引き受けた。成長企業の多くは、財務的制約をわずかでも超えるとたちまちにして破綻に瀕する。そこも同じだった。社長は自分に代わって私に経営してくれないかとまで言ってきた。もちろんお断りだ。経営の代打はしない。確かに、経営者にも代打がありうると最初にいったのは私だ。だが、できない。第三者あっての代打である。打撃は得意に決まっている。だが自らの立ち位置は別の誰かに判断してもらわなければならない。

もう一つ例をあげよう。ある企業と良好な関係にあった。異常なほどの急成長を遂げていた。そこはかなりの大企業で、海外にも進出していた。新任社長は会社の成長と共に昇進してきた人だった。五年、遅くとも八年内には再編しうると考えていた。その姿はもはや小企業ではなかった。だが、四半世紀前の創業時の姿勢が捨て切れずにいた。何より内向きだった。結果、社員は目の前の仕事に忙殺されるだけになっていた。

それでも一五億ドルもの売上げがあった。決して悪くなかったが国内事業と国外事業の間の深刻な断裂があった。ごく限られた市場からスタートした。成長市場だったため、新製品をどんどん投入していった。その後他社が続々と参入してきた。本来の市場から離れたとたんにうまくいかなくなった。本来の市場に強みがあるのは財務数字からも明らかだった。だが少しでもそこを離れると成果は惨憺たるものとなった。そんななか社長が言った。「私にコンサルタントは必要ない。耳を傾けてくれる人がほしい」。そこで私に白羽の矢が立った。私は個人営業で生身の人間だ。耳がついている。コンサルティング会社も選択肢にあったようだが、残念なことに会社には耳がついていない。

 

顧客が必要とするものは何か

― なぜそうなったか。

ドラッカー 会社にはそれなりにコスト観念がある。なるべく若手のコンサルタントをということになっていた。実際、若者でもこなせる。それにあまりに報酬が高いと売上げが食いつぶされてしまう。

コンサルティング会社などではすでにベテランが顧客と信頼関係を結んでいる。継続的な関係がある。だが、あなたや私のような個人営業では必ずしもそうではない。それでもクライアントにはきちんと聞いてくれる部外者が必要だ。トップにいる者にとって耳の痛いことをずけずけと言ってくれる人はどうしてもなければならない。できる人でなくてもかまわない。むしろ長期にわたり経営者のそばにいて、付きそうだけでもいい。

それだけで一つの仕事たりうる。だが、それだけではコンサルタントの高給は稼げない。会計士や弁護士、かかりつけ医などに近い専門機能もなくてはならない。

私の場合はまず耳を傾ける。その後で助言する。「マネジメントには最低限の情報収集の仕組みが必要だ。いくら集めても体系性がなければごみの山だ。まともな情報一つ得られない」。そんなふうに諭したりする。相手が必要とするものは何か。経営者が求めるものは何か。その問いからメモをしたためる。三〇から四〇ページにまとめる。そこから仕事に入る。現在手にしうる戦略、課題、前提条件を示す。何をなすべきか、その礎を明らかにする。

― あえて言えば診断医だ。

ドラッカー 確かに。指にとげが刺さったくらいのものなら専門医に見せるまでもない。その場で私が抜く。現状見る限り、役員報酬制度が害をなすことがあまりに多い。本当にまともなものがない。「御社のものは報酬制度の体をなしていない」とはっきり言わないとわかってもらえない。数字でごまかすことはない。もしあなただったらどうするか。財務責任者を呼びつけて事実関係を調査するか。だが、それでも本質は見えないし、後で火種になる。

私ならまず人事担当者と会う。税務のことは知らないし、ストック・オプションのことも知らない。ただ人の問題を聞く。何をしているかを見る。それに一月かける。役員報酬の泣き所は人材にある。できる人間が他社に引き抜かれるのは問題ではない。真の問題は二流の吹きだまりになることだ。そうなると、有能な人材を明日の成長分野に投入できなくなる。人事の新陳代謝も悪くする。いわゆる大企業病である。外科手術さえ必要になる。数字で偽装されただけのいんちきな役員報酬プランはやめてしまうのが賢明だ。

 

「経営者の先生」

― あなたのコンサルティングは、ある種在野の精神科医のごときものと言われたことがある。自らコンサルティングに携わった研究者リンドール・F・アーウィック(一八九一–一九八三年)などはあなたを称して「経営者の先生」とした。精神科医と教師という二つの顔を持つと理解してよいか。

ドラッカー 冗談として聞いてほしい。私は「もぐり」の精神科医と思っている。まず、コンサルタントは職業柄クライアントの来歴から問題関心まで山ほど聞く。つい右から左に流れてしまうものもなくはないが、一般にクライアントの語る内容の多くは傾聴に値する。経営者が孤独というのも一面の真理である。だがそれだけではない。

むしろ人間の問題である。クライアント一人ひとりと親密な関係を育んできたと言いたいわけではない。しかし、関係のまずい人と一緒に仕事はできない。そんな人間的次元の問題が時として仕事とも深く関係して来る。一見複雑な構造問題が、単に感情に発する場合さえある。別段悪気はない。ただ理解が足りない。同じことを話しているのに、何かいつもかみ合わない。二〇年一緒に働いてわかり合えたためしがない。そんなものは精神分析の仕事である。だが、われわれが用いる方法は本職の精神分析医はまず受け入れてく

れないだろう。ところで、あのアーウィックが私を「経営者の先生」というのか。今ひとつよくわからないが―。漠然としたものに聞こえる。

― それはたぶん……。

ドラッカー ちょっと説明してくれないだろうか。

 

組織はマネジメントされていない

― 少し考える時間がほしい。その間別のことを聞きたい。確か半ば冗談であなたが言ったことだと思うのだが、きちんとマネジメントされるアメリカ企業はせいぜい三 パーセントから五 パーセント程度だと。

ドラッカー そんなに高いと言ったか。そのときはいくぶん気分がよかったのだろう。だが、きちんとマネジメントされていないのは一般に企業だけではない。医療機関、政府、大学も同じくらいにマネジメントされていない。人間の本来持つ力を体系化するのはそもそもが容易な仕事ではない。摩擦も生じる。エネルギーの浪費はきわめて大きい。

まず、すぐれたマネジメントとは何かを問わなければならない。名は伏せるが、昨日ある大企業の幹部と会ってきた。業績不振部門の新任幹部と話をしてほしいと言われた。部門売上げは一億ドルに満たないのに、五〇もの製造ラインがある。ほとんどは一製品あたり一〇〇万ドル程度しかない計算になる。それでも、陣容は立派で、さらに製品を出そうとしている。

加えて、小規模ロットのものがあった。木靴だった。一一種もあって、全売上げは一一〇〇万ドル、間接費の項目は二〇〇もある。とても手に負えない。しかも間接費の大半はそのまま売り値に転嫁され利幅が大きいだけでまったく売れていなかった。今どき誰がクロム貼りの木靴を好き好んで買うだろうか。

次のように助言した。「こんなにごちゃごちゃしたなかでちゃんと利益が出ているのは二つか三つだ。思い切ってやめてもいいものは何か。一年で売上げが五倍になるものは何か。聞かせてほしい」。相手は馬鹿ではなかった。現状認識と行動力に問題があることを知っていた。それでも、五〇の製品をやめるふんぎりがつかなかった。なお全製造ラインに執着さえした。

消費者も流通業者も名も知らない製品ばかりだった。テンソルランプがあるかと思えば、コーヒー沸かし器がある。いずれも金属板を使用するくらいしか共通点がない。すべて同部門で製造されていた。全製造ラインなど幻想だった。さらには上位を占める優等生さえ不振になっていた。誰も自ら知るところを実行に移すだけの勇気がなかった。なかにはすぐれたマネジメントが行われる企業もないとはいわない。だが例外とする意見を変えるつもりはない。

― 現在は多少ましになりつつあると言えるか。

ドラッカー まったくだめだ。見た目ばかり立派で中身が伴わない。

 

コンサルタントは教育者か

― アーウィックに戻りたい。あなたを経営者の先生とした件だ。個で活動するコンサルタントは教育者でもあるか。言わんとしたところはそこだろうと思う。

ドラッカー たぶんそんなところだろう。確かにクライアントが何を持ち帰り役立ててくれたかは一つの尺度だ。業績への直接的貢献以上の価値を持つ。とはいえ、私にできるのは働きかけることだけだ。

― 次に聞きたいこととつながってくる。成果の尺度は何か。独自のものはあるか。

ドラッカー なくはない。私は年に一度あらゆる仕事を振り返る。現実はなかなかそうもいかないのだが、三週間ほど確保してそれ以外の予定は入れないようにする。

しばらく前にGEで分権化等の組織改革プロジェクトを指揮したハロルド・スミディから教えてもらった尺度がある。あるクライアントにいたくがっかりさせられた話をスミディにした。そのクライアントは私が何を言っても「すばらしい、いいですね」しか返してくれない。そのくせ何も変わらない。スミディが教えてくれた。「何もがっかりしなくていい。尺度は相手の反応だけではない。実際の意思決定も見てみるとよい。いくばくかなりともあなたの考えが反映されていれば、役立ったことになる。そうでなければ手を引くことだ」。結局一年経たずに私は手を引いた。確かにその尺度は役立つと思った。

もう一つはクライアントの目線の変化を観察するようにしている。何を中心に仕事を見ているかだ。目線は人が能力を発揮する上での鍵となる。主観を伴う尺度だ。

例を挙げよう。ニューヨークの大銀行だ。私の仕事を評価してくれていた。だが、何の貢献もなしていないのは誰よりも私が知っていた。すぐに手を引いた。以来その仕事は受けていない。今も彼らは私のファンといっている。他社にも私を推薦してくれる。それでも、私は何も貢献していない。彼らが自尊心を満たしただけだ。

なぜそうまで断言できるか。そこにいた誰一人私の言うことに耳を傾けなかった。それだけではない。私ならそういうだろうという思い込みでしか聞いていなかった。実績と名声ある人としか思っていなかった。お墨付きがほしいだけでコンサルを雇う会社も決して少なくない。だが、この銀行はそうではなかった。みなが真面目だった。人間関係には非の打ち所がなかった。それでも、私には役に立てる手ごたえがなかった。原因を見極める時間をとるのさえ無駄な場合もあるのを私は知った。

私の仕事は人の代わりに考え抜くことにない。何をなすべきかを引き出す助力のみである。

最近の例である。ある企業から依頼があった。やはり成長企業だった。自分たちが思うほどではないにせよ、かなりのスピードで伸びてはいた。実質的に単独の経営者が支配していた。私が助言したのは、まず本来なすべきなのになされずにしまった事業を考え抜くこと、そしてそのなかでの自らの果たす役割を徹底的に理解すべきことだった。そのためだけに数日をかけよとまで言った。同社幹部はシンプルなマネジメントを都合よく考えていた。その証拠に、全権限を事業部から単独管理体制に移行させようとしていた。それ自体は決して珍しくない。だが、誰にも責任を持たせなかった。社員はメッセンジャー・ボーイではない。それをマネジメントとは呼べない。現在裏目に出ているのはみなそれが原因である。決して悪気はなかった。むしろ人間的にはよい人たちだった。だが、事態は容赦なく悪い方に向かった。

人に信を置くことをしなかった。生き生きと人に成果を上げることを許さなかった。それが成長への足かせとなった。同社幹部はその結果が自ら招いたものとは考えなかった。急遽新体制への移行がはかられた。そこで私が助言したのは次のことだった。まず現状ではいけない。本来なすべきことを考え抜くことだ。そこから展開の道筋が開ける。むろん一般論だ。私個人の意見など意味がない。

そこでもう一度腰を据えて月末までの三日間話し合いに費やした。ようやく次の展開が始まった。そのときは拙速を避けるだけの時間的ゆとりがあった。基本的な考え方を討議できたのは幸いだった。そんな場面は私はひたすら耳を傾ける。そして問う。「理解できない。何が言いたいのかわからない。あなたは事業を手にしたが、他の者を全員放置しているという以外にない。それでうまくいったか。事業はいかにして手にしたのか。なぜ社員がそこに来てくれたのか」。

相手は答える。「私たちは現状にふさわしい事業をしている」。私は続けて言う。「なぜ社員がここにいると思うか。ほかに行くところがないからだ。そんな彼らを放置し続けたら、約束の履行を怠ることになる」。

同社の幹部は憮然としていた。現在どうなったか知らない。このようなものをコンサルティングと呼んでよいか。ひたすら耳を傾け、結果相手が意味を手にする種類のものだ。

 

引き受ける尺度

― 教育とは本来そのようなものではないか。

ドラッカー だが私は教師業のみにどっぷり浸かったことはない。むしろ学ぶことに心惹かれてきた。そこにコンサルタントとしての隠れた資質があるようにも思う。

― 実際各方面から引っ張りだこだ。

ドラッカー そのように見えるのも無理はない。

―仕事はどう選別するか。何を進んで引き受けるか。

ドラッカー まず、昔なじみの義理がある。基本的には引き受ける。例外もある。公私ともに親しいクライアントがあったが、遠慮させてもらったことがある。実際私はどんな大企業でも断るべき時は断ってきた。同社経営会議の席で、副社長が私を全員に紹介した。「ドラッカー先生を改めて紹介するまでもない。もはや家族同然、わが社の一員だ」。その日が最後となった。役立てなくなった。ただのお世辞ならばよかった。だがそこには、私が次期社長候補として暗に彼を推挙し、それを他の役員に印象づけるかのごとき含みがあった。

有名な「ヒポクラテスの誓い」に、「知りながら害悪を及ぼしてはならぬ」という。コンサルタントもクライアントを常に益すると保証はできない。だが、知りつつ相手を損なうのは職業倫理に反する。私は同社を去った。むろん多忙というのも時に断らざるをえない理由の一つだ。だが義理もある。友人もいる。これが個人営業の醍醐味だ。常に人が相手だ。野菜や果物を相手にするのと違う。それと、仕事とそうでないものをなるべく区別しないようにしている。報酬のないものもある。実際のところ、意識して私は無償の仕事もしてきた。人というものは年齢を経るほどに金銭を超えた何かを求めるようになる。ここしばらくその割合はかなりものになっている。バランスよく進めていきたいといつも思うのだが、いかんせん計画というものがさほど得意でない。

そんなこともあって、なるべく小さな組織と付き合うようにしている。新たな課題に挑戦できる。現実世界が見える。私は学ぶことを中心に世界を見てきた。まがりなりにも事業の発展のお役に立てたのはそのおかげと思う。だが、マネジメントがここのところさほど関心を引かなくなった。学ぶべきことがなくなったからではない。むしろ近年私の関心は政治学的なものに回帰しつつある。一五年ほど前などは、トップマネジメント関係の仕事に意識して取り組んでいた。学ぶ必要があったからだ。現在さほどの関心はない。来年になればまた変わるかもしれない。

いずれにせよ自分を役立てられるもの、強みが発揮できるものを探す。私の強みは、基本戦略の所在を探り当てることにある。意味ある意思決定を徹底的に考え抜くことにある。現実の物事を前に進めるのは、正直言えば私以外の誰かがやってくれればいい。強みもないし関心もない。

たとえば、瀕死の企業を再浮上させるのに関心がある。野心的だ。死んだはずの人が一年後元気にぴんぴんしていたら、誰でも驚く。どんな沈没寸前の船も浮上できる策はある。そこを探り当てるのが心を奮い立たせる。もちろん衰退企業ばかりと付き合っているわけではない。正しい行動は事態を不安定なものとする。人種も文化も違う多国籍企業のトップマネジメントチームにここしばらく関心を寄せてきた。役立てるか、学べるか。そこが尺度である。今まで五回もやってきたことをまた頼まれたら正直うんざりである。役に立てない可能性もある。そんなときは、深く考えずに決めてしまう。

 

若いマネジャーに必要な姿勢

― なるほど。興味深い。

ドラッカー 理屈がないものもある。

― 若いマネジャーに教育を行うときなどはどうか。

ドラッカー 彼らが何を求めているか。簡単だ。道具箱にどんな道具があるか、それを知りたいと思っている。道具箱のものすべてを完璧に使いこなせる人はいない。だが、何があるか知っておくのは必要だ。会計やマーケティングはさして難しいものではない。誰もが修得すべきものだ。そのためには講義、書物いろいろある。大切なのはいかに学ぶかだ。書物から学べない人がいる。講義から学べない人もいる。私の知る中には講義、書物ともに学べない人さえいる。実は私もそうだ。私は教えることによってしか学べない。

次に人は自らが何者か、強みは何かを知っておかなければならない。若いマネジャーに私がまず聞くのはそのことだ。「問題に焦点を合わせてはいけない。ここ数年で最もうまくいった仕事は何か」と問う。多くはそんなことさえ意識せずにいるのは質問してみるとわかる。質問自体が相手を驚かせる。次に言う。「それでは一週間前を思い出してみよう。いつもよりうまくできたことはないか。なぜうまくできたのか。何を学んだか。強みは何か―」。

そうすると、人を観察し行動様式を分析するのに強みがある、人に生き生きと働いてもらうのに強みあるといったことがわかってくる。若いマネジャーのみの問題ではない。強みを知るとは、誰もが人としての成長を手にするプロセスそのものである。同時に、いかにして強みを現実に適用しうるかをも知らなければならない。弱みが克服可能とは考えない。

第三はコミュニケーション・スキルと言いたいところだ。だが、巷で言われる意味とはだいぶ違う。人には自分が何者かを他者に理解してもらう責任がある。私の言うのはそれだ。スキル以前である。知るべきことに進んで目を向けることだ。そのことを若いマネジャーに伝える。組織の理解はそこからはじまる。組織の真の姿は何か。人間集団だ。コミュニケーション・スキルなどではない。そこには英語を手足のごとく使いこなせる者は一人もいないかもしれない。そんなことは問題ではない。

英語を教えても意味はない。誰が何を知るべきか、そのほうがよほど大切である。その点を若きマネジャーには理解してもらう必要がある。組織の責任はそこに尽きる。コミュニケーション・スキルなど必要ない。私自身そのようなものに心動かされたことはない。

 

全世界が図書館

―コミュニケーション・スキルは成果ではないと。

ドラッカー そうだ。似て非なるものだ。自分を理解してもらう、それが仕事

である。

私は物事を理解しながら前に進めていく。それがなしうるかは私の働きぶりいかんにかかっている。少なくとも理解を伴わずに前に進むことはできない。相手も不安になる。場合によってはいつもと異なる方法をとることもある。私はクライアントの想像を遙かに超える数のアイデアや分析を出すことにしている。それを理解する者はいない。その間半年ただぼんやりする私をみなが遠巻きに眺めている。

そこで私は彼らのところに行って話す。何か言いたいからではない。教えてもらうためだ。さりげなく教えてもらう。組織の感性はそうして知ることができる。そもそも組織は理解と信頼の上に成り立つものであって、職階図の上にはない。理解のないところに信頼はない。若い人ほどそんな基本を知らない。そんなとき純粋さほど始末に負えないものはない。ある種の純粋さ、熱血は扇動政治家や独裁者の証だった。今世紀最大の純粋な人物を上げろと問われれば、私は「ヒトラー」と答えるのに躊躇しないだろう。だが、若者がそれを理解するのはなかなかに難しい。

少し別の視角をとってみよう。すぐれたサッカー指導者とそうでない者と何が本質的に異なるか。すぐれたコーチは、フォーメーションの数以前に、なされるべきプレーが何かを徹底的に考え抜く。もちろん、フォーメーションはある程度なくてはならない。そうでなければ選手は何をすればいいかわからなくなる。だが、必要を超えたプレーは誰も求めない。すぐれた指導者は試合の状況を見て、そこからシナリオを組み立てる。学習能力の高い選手なら一を聞いて十を知るだろう。さらに自己流に応用もしてみるはずだ。要は新しい課題にはそれまでと違う方法で考え抜くことが避けて通れない。それは容易ではない。だが人が学ぶべき姿勢である。

― 経営教育の一環としてマネジメント・ゲームなどは役立つか。

ドラッカー そのようなものは知らない。学校ではおよそ現実を反映しないものばかりが教えられている。取組みとしてはそれなりにおもしろいものかもしれないが、事業の現実こそが教えられなければならない。今あるものは見かけ倒しだ。すぐれた意思決定が自動的に促成栽培できるかのように考えられる。すぐれた事例の基礎は意思決定にはない。学ぶことにある。

― 同じことは自己啓発にも言えるのでは。

ドラッカー そのとおりだ。そこで少なからずスキルが生きてくる。ゼネラリストとジャーナリストを同じ人種と思う人が多い。間違いだ。広く浅い知識を持つからゼネラリストなのではない。広く浅い知識はジャーナリストの特性だ。この分け方はかなり役立つ。両者を混同しないことだ。

ジャーナリストは話せるし書ける。そこに長けているほどに有能である。だが話し書けることを実行できない。冗談と受け取ってほしいのだが、口先だけなら私は自分がさる医学の権威であるとその筋の専門家にさえ信じさせることもできなくはない。だが、いざ執刀してみろといわれればできるはずがない。では専門家のほうはどうか。ジャーナリストの知ることを知らない。ジャーナリストは電話三本であらゆる情報を仕入れ、そこから必要なものを探し当てる。だが専門家は何をすれば必要な情報が手に入るのか知らないし、必要性を評価できない。口先だけの人と信頼に足る人の見分け方さえ知らない。

若いマネジャーは人に教える方法を習得しなければならない。世界全体を情報システムとして利用できるようにならなければならない。彼らは人に聞けない。砲兵学校の射撃の授業では、一発目と二発目はわざと外せと教わる。一発目は上に外し、二発目は下に外す。三発目で初めて的を射抜けと教わる。無駄がなければ当てられない。彼らが知らずにいるのはそのような種類の知識である。

ただ闇雲に情報を探し回っている。きちんと手順を踏むべきことを知らない。ジャーナリストという人種は、たいした腕のない者でも、その技法を早く身に付ける。決して難しくはない。明日には知らなければならないことなど山ほどあるのだから、今は一呼吸置いて考えてみる。今日の午後には数時間、中心人物と話してみる。そんなことからどこに行けばいい情報が得られるかがわかるようになる。ゼネラリストはその方法を知らずにいる。

― 学校でもそこまで教えない。

ドラッカー ちなみに私は図書館に調べにも行かない。人に聞いてしまう。そのほうがいい情報が速く集まる。

― 確かに。

ドラッカー 人がこんな本があると教えてくれる。それを見てみる。ジャーナリストのいい加減な習性だ。やってみると悪くない。いわば全世界が図書館だ。若者が学ぶべきはこの発想である。昇進するほどに知らないことも増える。人に理解してもらわなければならないことも増える。少なくとも、自分の言いたいことくらいは知っておかなければならない。所詮すべてに通暁するなどかなわない。ならば、情報収集法を早いうちに知っておかなければならない。

 

専門家の責任

― 若いマネジャーのことを聞いたが、もう少し突っ込んでみたい。組織で働く大勢の若き専門職だ。彼らには専門知識がある。しかるべき肩書きもある。その際、責任はどう考えられるべきか。専門職はいかに動くべきか。

ドラッカー 現状やや問題だと思う。すでに今日専門職の役割が行き過ぎているように感じる。専門知識を思考の代用物としている。間違いだ。ハンマーを片手に家を建てようとしている。はじめから用途が違う。若者が学校で学びうるのはスキルである。理解力は学べない。そもそも学校は理解する力を学ぶようにはできていない。何より他者への共感を学ぶようにはできていない。

私はゲーテによる次の章句が好きだ。「才能は孤独の内にのみ育まれ、人格は試練の内にのみ育まれる」。きわめて深い人生への洞察がある。学校は閉鎖空間である。同世代の人間しかいない。実社会ではそんな場所はありえない。不自然である。あまりに均質であって、異質な経験のもたらす交流がない。一七の少年は自分同様に世の全員が同じように異性を知らないと考えがちだ。もちろんそんな馬鹿な話はない。だが、同質的な集団ではそんな非常識が常識となりうる。要は似た者同士が同じ場所をぐるぐる回っているだけだ。どこにも行けない。

専門職教育も同じだ。若くて優秀で意欲ある者には、数学で博士の学位をとらせるより先にオペレーションズ・リサーチを教える方がずっといい。多少の例外がないわけではないが、私なら専門家が自分の専門知識にあぐらをかくのは許さない。熱電灯の技術についてその道一筋で行こうとする者がいるとする。その人が四五歳になるあたりには、確実に自分をもてあますようになる。家族や同僚の厄介者にさえなる。しかもそのあたりには後生大事にしてきた専門知識が別の知識に取って代わられるなど十分にありうる。

私もその問題には取り組んできた。置かれた状況は実にさまざまだった。医療機関などでは、企業よりはるかに極端な形で問題が噴出していた。チームにあって人は資源であるとともにメンバーでもある。クオリティ・コントロールによる管理は万能ではない。

私はなぜ神が世界を創造したのかは知らない。だが、少なくともクオリティ・コントロールのためでないことくらいは知っている。経営幹部は「なぜクオリティ・コントロールなのか」と問わなければならない。そこが始まりである。私がこじんまりしたリベラル・アーツの女子大で教えていた頃のことだ。学生には常々複数の専攻を同時履修するよう言っていた。新入生に希望する課程を尋ねる。語学専攻を希望するなどと言うと、私は美術専攻を勧めたりもした。もともと絵心はないわけだから、多少でも上達すれば儲けものだ。画家になれるはずはない。むしろ学ぶことに意味がある。得意でないことをやってみる。

自分自身を知る。結局向いていなかったと知るだけかもしれない。それでいい。せめて愉しみくらいはわかるようになる。三〇歳になるまでにそんな経験を持っておくことだ。それより前に一つに限定するのは早過ぎる。人は自らの上げうる成果とそのもたらす喜びを知らなければならない。一度でも経験があれば一生手ごたえは残る。若いうち何かに真剣に取り組めば、望む成果は手にできなくとも、心の高揚感は忘れることがない。

三〇歳前が肝心だ。自分のできないことを知るのも無駄ではない。限界もわかる。実は今も私はそれがうまくできない。人に何か新しいことをやるよういわれると、やってはみるが失敗は火を見るよりも明らかだとつい言い訳してしまう。守るものの少ないうちに経験しておくのがよい。

私は高度な知識を持つ専門職の人々ほど外に連れ出すようにしている。マーケティング・プランの達人のところにその人をつれていくといい。専門知識が自分が思うよりはるかに広範な用途を持つことを知ってもらうためだ。私などは一六歳の女の子が一本のヘアピンをいくつもの用途に巧みに使うのにいたく感動させられる。きわめて独創的である。むろん専門知識はコンピュータのように何にでも応用できるものではない。用途を絞るほどに役に立つ。そうすることで、道具がいかに人を新たな世界に誘うか、そして、そのために人としての真摯さ、責任を伴わなければならないかを知る。

 

奏者と指揮者

さらに物事を関連づけて理解することを学ばなければならない。私はマーケティング・プランナーがそのままビジネスマンになるべきとは思わない。そうならないほうが本人のためだ。何より専門知識にコントロールされてはいけない。自ら専門知識をコントロールできるようであってほしい。現在何より必要とされながら、ないがしろにされているのがその姿勢である。

しばしば私は専門家から常識を疑われることがある。彼らが苦労して手にした専門知識を私は粗雑に扱い過ぎるとされる。だが、私はあえてこう言いたい。「確かにあなたは世界最高のマーケティング・プランナーかもしれない。だからどうした」と。彼らは専門知識自体を目的と見がちである。だが、どこまでいっても道具だ。目的あっての手段である。道具の召使いになるほど愚かなことはない。道具を人の召使いとしなければならない。そのために人は成長しなければならない。

そのようなことはあまり世間では言われない。というよりまったく知られていない。専門職は今後も減少する兆しはない。すべての知識に通じるゼネラリストなど存在しない。だが、知識の持つ意味を広い世界の文脈で理解する者はなくてはならない。誰もができることではない。しかし今日学びうる知識は増える一方である。道具に支配されるのではなく、道具を支配すべきということだ。残念な例もある。おおむねビジネス・スクールがなすことは私はどうも好きになれない。人は数字をいじくり回す方法を覚えた。しかも複雑で広大なこの世界を単純な方程式に従わせるなど無謀である。それほど私の気質に合わないものはない。見てみればほとんどが初級の数学であって、ただの道具以上のものではない。

私は一通り学んだ学生をチームに入れて、実務体験をさせることがある。ある銀行になかなか優秀なマネジメント・サイエンスの使い手を送り込んだ。彼はあらゆる見解は仮説であって、答えなどないの一点張りだった。私は言った。「自分がいかに不合理なことを言っているかわかっていない。ないのは問いの方だ」。

仕事は実際はかばかしいものではなかった。それは彼自身の問題だった。彼はオペレーション分析以外に何ら関心を持たなかった。ドライバーを手にしているのに、どのナットを固定すべきなのかもわかっていなかった。次第に自らの専門知識を仕事の一部とすべきことを彼は学んでいった。自らが崇め奉る手法のほぼすべてはどこかで誰かがでっち上げたものと知った。現在はすぐれた分析が行えるようになっている。

彼がその後銀行に行ったかは知らない。何より本人が銀行を望んでいなかったのではないか。少なくとも私の目には銀行向きでないように見えた。彼の意識は組織内部に向けられていた。

銀行員は組織の外に意識が行くのがふつうだ。持って生まれた気質を変えることはできない。それでも、すぐれた分析ができるようになった。他の専門職も事情は変わらない。プロは担当する楽器演奏で一流なのは当然である。オーケストラでは、テューバ奏者の仕事はテューバを演奏することである。さしあたり他の楽器の演奏は考えない。テューバ奏者は一つの作品をテューバのパートで判断する。その意味ではモーツァルトの作品にテューバが登場するものは少ない。テューバ奏者にとっては自分の出る幕がなく、モーツァルトはつまらないということになる。

他方で、作曲家が演奏家として一流とは限らない。一歩引いて卓越した音楽を追求しつつも、自ら卓越した演奏をなしうるわけではない。では指揮者はどうか。テューバ奏者に他の楽器の音を聴くように言う。それに難渋する。

― 確かにその通りだ。

ドラッカー 音は自分でつくるものだ。そのために、聴けなくなる。何も耳に入らなくなる。だが、すぐれた指揮者はホルン奏者のところに行って、この最終部はどう聞こえたかと問う。聴くよう促す。そうしてはじめてホルン奏者は居場所を持つ。ヴァイオリンが走り過ぎるときには、それについて行って、よく耳を澄ませる。そうでなければ全体が早過ぎるか遅過ぎるかのいずれかになる。テンポをきちんとはかる。ヴァイオリンが遅過ぎるなら、耳を傾ける。そうしないと適切な指示が出せなくなる。

 

マーシャルとスローン

― なるほど。少し話は変わる。あなたほどの方ならコンサルティング企業を自ら設立して大成功できたはずだと誰もが思う。

ドラッカー 疑問だ。できなかったと思う。強みがない。

― なぜやってみなかったか。

ドラッカー やろうとも思わなかった。私は自らマネジメントする者ではない。実践には向いていない。人のマネジメントにことのほか強みがない。自ら話したり書いたりすることを実行できない。人に任せられない。みな自分でやってしまう。そうしないと気が済まないたちだ。秘書はみな口をそろえて、飛行機の予約一つさせてくれない、信用していないと文句を言う。信頼していないのではない。自分でするのが嫌いでないだけだ。そのことさえわかってもらえない。私はマネジメントの実践者ではない。

企業を自ら立ち上げることもなかった。売り込む強みがなければならない。私にはなかった。今まで数え切れないほど同じ質問を受けた。いつも答は同じだった。「したくなかったのではない。できなかった」。私が誰よりよく知っている。私がマネジメントの地位にいるときは、それは惨めなものだ。同僚からは冷たい視線を浴びる。指示がいつも違うと文句を言われる。

― マネジメントの世界で影響を受けた人はいるか。

ドラッカー 失敗から少なからず学んできた。だが、ご質問の趣旨が私にマネジメントの何たるかを教えてくれたのは誰かという意味ならば、二人いる。ともに異なるタイプだった。それでも多くを教えてくれた。存命の方は除外することにする。まずジョージ・マーシャル(一八八〇−一九五九年。第二次世界大戦の陸軍参謀総長、マーシャル・プランの立案者)だ。アメリカの強みの一つに、公私の区別なき忠誠心がある。マーシャルは卓越した垂範者だった。同時に比類なき指揮官だった。方針はシンプルだった。人に要求する人だった。要求するのに、徹底的に考え抜いた。その人に何ができるか、それが最重要の問いだった。それについてきわめて有能だった。

人を育てる天才だった。第二次世界大戦に突入したとき、マーシャルを筆頭に司令官はみな六〇を越えていた。一人とて実戦経験がなかった。それでも、ほぼすべてに成功した。第二次世界大戦は知識こそが力たることを証明した戦争だった。司令官はみなマーシャルによってその地位に引き上げられた。三〇代に陸軍幼年学校での指揮官補佐時代に知遇を得ていた人々だった。彼らがなしうることをマーシャルは考え抜いた。人間的な欠点も、指揮官としての強みを発揮する妨げとはなりえなかった。しかもマーシャルは功績をことごとく本人に帰した。

他方完璧主義の一面もあった。だからといって、即時に人を切り捨てはしなかった。マーシャルは任命した者の過誤を自らの過誤とした。そんなところから私は学んだ。要求水準はありえないほどに高いものだった。そんなところから温順でありながら、軍に一人の友人もなかった。自伝にも書かれている。孤独の人だった。だが、孤独さえ仕事の一部だった。マーシャルの発言を私はよく思い出す。「友を持つ者は敵も持つ。どちらか一方というのはない」。だが私自身は友敵いずれでもなかったと思う。

マッカーサーとの間にさえ友情はなかった。そのマッカーサーを支えたのがマーシャルだった。だが、パットン将軍には耐えられなかった。マーシャルは誇り高き謙遜家だった。がさつなタイプには虫酸が走った。それも苦労した理由の一つである。

もう一人はまったく異なる。GMのアルフレッド・スローンである。マーシャルは自らの観念に縛られはしなかった。だが、スローンは結局自らの観念から逃れられることができなかった。あまりに権力を掌中に収め過ぎた。マーシャルが権力の座にあったのはたかだか五年に過ぎない。おそらく五年というのが最高位にある者の理想的な在位期間だ。スローンが自らの成功に溺れたのは否定できない。築き上げた帝国の防衛にあけくれた。三〇年もの間権力の座に居続けたためと思う。

それでも、ものごとをじっくり考え抜くことの大切さを知っていた。真の理解には意見の対立が不可欠なのを知っていた。意思決定には十分な時間と情報のフィードバックがなければならないのを知っていた。強みを見るべき一方で、弱みを見てはいけないのを知っていた。

マーシャルは有徳だった。スローンは有能だった。スローンに徳があったとは思わない。もちろん私個人の意見だ。いずれがいいということではない。だが、私がスローンから学んだのは間違いない。人間的にはどちらかというと偏屈だった。マーシャルとは異なるタイプだった。二人は見ているものが違った。マーシャルは広大無辺の世界を意識し続けた。だが、ことマネジメントについて言えば、スローンからのほうが学びは多い。マネジメントなるものの存在を知るにいたったのはスローンのおかげだ。

― 職業としてのマネジメントの発明者はスローンか。

ドラッカー 特許を申請していたら、あるいは受理されていたかもしれない。だがスローンは法律を編纂するのには向いていたかもしれないが、発明者ではなかった。

それにマネジメントには先覚者が存在した。アンリ・ファヨールがいた。彼はマネジメントを一つの仕事とした。他方、スローンはリーダーシップというものを企業の地位と権力に伴うものというより、一つの機能と見た最初の人だった。

スローンは心に潜む地位や権力への意志にはあきれるほど鈍感だった。人間としては慎み深い好人物といってよかったが、地位のもたらす名声に執着があった。むしろその被害者だった。

マネジメントについて私に影響を与えたのはこの二人である。実際に親しい間柄でもあったし、多くを学んだ。