『ドラッカー×社会学-コロナ後の知識社会へ』刊行!

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『ドラッカー×社会学 コロナ後の知識社会へ』公人の友社

ドラッカーの知識社会論・社会生態学・マネジメントと社会学的思考の重なりを見出す対話から、新たな認識と活動の地平をひらく。コロナ禍の困難のもと、歴史的叡智を有効な資源としてビジネスにも学問研究にも活用するノウハウ満載の、したたかな旅への必携書。

 

 

執筆者紹介

井坂康志(いさか・やすし)

メディア・プロデューサー、ものつくり大学特別客員教授。1972年埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。著書に『ドラッカー入門 新版』ダイヤモンド社(共著)、『P・F・ドラッカー―――マネジメント思想の源流と展望』文眞堂(経営学史学会奨励賞受賞)、翻訳書に『ドラッカーと私』NTT出版などがある。

多田 治(ただ・おさむ)

一橋大学大学院社会学研究科教授。1970年大阪府生まれ。琉球大学法文学部助教授を経て現職。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。著書に『沖縄イメージの誕生』東洋経済新報社、『沖縄イメージを旅する』中公新書ラクレ、『社会学理論のエッセンス』学文社、『社会学理論のプラクティス』くんぷる、『いま、「水俣」を伝える意味』くんぷる(共編著)などがある。

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おわりに――新しい風景

 

多田さんと初めて出会ったのは1992年5月のことです。今は大隈タワーの建っている、早稲田大学第二学生会館の(確か)10階音楽室前の廊下でした。

あの頃、今のようにスマホやSNSはありませんでしたから、人と会おうと思うと電話かわざわざ出向いていくしかありませんでした。情報誌に掲載された「わせだフォーク村」の無駄に過激な煽り文句に導かれた私は、新歓会場に赴き、幹事長とおぼしき人物をつかまえたのでした。その方が多田さんだったのです。

以来、多田さんとは同じ学部だったこともあって、政治、経済、社会、哲学、思想、文学、音楽、そして書き切れないほどの雑多な新しい風景を共有できたのは、私にとってこの上なく幸いなことでした。昭和から平成に変わる頃の中学・高校をほうほうの体で脱出した私にとって、多田さんとの自由で人間的な交流ほどにこわばった心を溶かしてくれたものはなかったのです。それにしても、あの頃はすべてが埃っぽく、粗雑で、知識や情報はもっぱら本や雑誌、新聞からでした。電話やポケベルがフルに活躍していました。

多田さんと私は学生時代に「アイソレーションズ」という音楽ユニットを組み、多田さんのオリジナル曲をライブ演奏していました。昭和から平成にかけての学生の所在なさや呻吟を歌った曲が多く、多田さんの少しごつごつした詩と温かみのあるメロディアスな旋律が好きでした。

やがて多田さんは大学院へ、私は出版社へとそれぞれの進路を歩んでいくことになった1990年代の半ば、決定的な変化が世界を覆います。一つはウィンドウズ95が発売されたことです。秋葉原や新宿などの家電量販店では長蛇の列をなして、人々が争うようにウィンドウズOSを買い求めたのは1995年末のことです。さらにもう一つ、インターネットの商業利用を通して、世界は一つのショッピング・センターへと姿を変えました。

ただしあの頃、パソコンというととてつもなく巨大で高価なものだったし、インターネットと言ってもつなぐのにうんざりするくらい時間と手間のかかるものでした。それでも90年代半ばには世界を一変させるだけの技術的素地は十二分に整っていたのを、実感します。

90年代から現在に至る世界の変化を眺めるとき、改めて多田さんの指摘する「現実の二重性」のもつ重みを感じざるをえません。その最たるものが、知識そのものの変化です。もはや私たちにとって、本や雑誌、新聞は多くの知識媒体の一つに過ぎなくなりました。大学の講義もオンラインもしくはハイブリッドへとスタイルを変えました。

ご存じのように、多くの場合学生時代の人間関係は、社会人になると、仕事や生活という強い現実の前にひどく薄まるか、消滅してしまうことが少なくありません。けれども、多田さんと私においては、知識の変化と並走するように、それぞれ活動分野は異にしつつも、関係をイノベーションできたのは幸運でした。刷新の結び目は常に「知識」だったように感じています。それを決定づける象徴的な出来事が、2004年の多田さん初の著作の刊行でした。私にとって今なおかけがえのない意味を持つ出来事です。大学卒業後、音信の途絶えた数年を経て、多田さんの記念碑的著作『沖縄イメージの誕生』を編集する役回りをはからずも遂行できたのです。本書は多田さんの博士論文をベースにしたものであり、同時に、多田さんと私の原点を確認させてくれた思い出の書物です。

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さらに10余年、多田さんと私の間にまたもや劇的な関係性のイノベーションの機会が訪れました。「はじめに」で多田さんが言及してくださっている拙著『P・F・ドラッカー――マネジメント思想の源流と展望』の刊行です。多田さんはいち早く推薦文を寄せてくれたばかりか、本書をテクストとした講座や講演会を企画し、学生時代の音楽ユニット「アイソレーションズ」の復活ライブと二本立てで、日本全国を回るという血湧き肉躍る行動に駆り立ててくれたのです。

源流

アカデミックな知識とは成り立ちが違うものの、音楽は知覚による知識の代表格です。知覚と分析、まさに「現実の二重性」に両面からアプローチしていく講演&ライブは、東京・明治大学、一橋大学にはじまり、函館から仙台、浜松、尼崎、長崎、壱岐にまで及びました。同ツアーを支えてくださった皆様にはこの場をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。

さて、95年のデジタル化とインターネットの普及を境に知識の持つ意味が大きく変化したと述べました。改めてドラッカーの所説に耳を傾けるならば、彼の言う「断絶の時代」は今なお進行中です。「断絶」とは19世紀に基礎を持つ文明と21世紀的文明のつなぎ目を表現しており、おおむね1960年代後半から2020~2030年まで続くことになる。その後の時代はわれわれの見たことのない、後の歴史家のみが評価可能な時代になるだろうと述べていました。そんな2020年、狙いすましたように、コロナ禍が世界を覆い尽くしました。何とも暗示的です。パンデミックは旧時代の残滓ばかりか、傾いた20世紀文明の屋台骨までをもなぎ倒し、新たな文明の指針を私たちの前に示してくれたようなところがあります。

ノアの洪水の後、鳩が若葉を運んでくるように、新しい文明の中心となる知識がどこに芽吹いているのかを見出したい――。本書がささやかながら試みたのはその点にあります。

奇しくも日本では、元号が平成から令和へと変わりました。私たちの多くは少なくとも二つ以上の時代を生きていることになります。「二つ以上」という認識が重要だと思います。異なる時代を架橋する論理や作法がどうしても必要になるからです。その範となる先達が、本書で示したドラッカーであり、渋沢栄一のような人たちだったのです。

多田さんと私

すでに私たちは、草履をはいて刀を差していた江戸時代の人が、革靴に背広をまとうくらいの、まったく相貌を異にする時代を生きています。衣服や髪形などのわかりやすい形態をとっていないだけで、「現実の二重性」の主観や内面で進展する個々の世界においては、ある意味で明治維新をも凌駕する変化が進行中なのです。

ただし、明治期と異なる点が少なくとも一つあります。江戸末期から明治にかけて、渋沢栄一や福沢諭吉のような活躍ができる人は、ほんの一握りでした。社会の必要に対して、知識人の供給が圧倒的に不足していたからです。当時の知識人たちが、一人で何役もこなさなければならなかったのは、渋沢や福沢の生涯を見ても明らかでしょう。

ひるがえって、現在はどうでしょうか。知識そのもの、そして知識ある人たちであふれています。実に豊かでかつカラフルです。彼らは組織やチーム、時に技術や論理、感性、総じて「知識」と言われる資源を駆使して、まったく異なる次元の生産性を実現しているように見えます。そして、少なくとも誰もが、そんな知識社会に参画する資格を備えているのです。

多田さんとの対話を通して、現在進行中の知識社会の諸課題について考えを深めることができたのは、私にとって感慨深い体験でした。それぞれのビルドゥングス・ロマン(自己形成物語)が必然的に投影されているだけになおさらです。

むろんコロナや知識をめぐる変化は展開中でもあり、控えめに見ても考察は限定的なものにとどまっています。それでも、この小著が多少とも新しい風景の一端を示すことができたなら、著者の一人としてこれにまさる喜びはありません。

2021年5月