「ドラッカー話法」研究序説

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以下は、ドラッカーの対話法、レトリック論をまとめた草稿の一部です。

ドラッカーの語り口、聞き方、人への接し方は、きちんと考察の俎上に載せられるべきテーマであると以前から考えていました。

まだ不完全ですが、なにがしか参考になればと念願しております。

井坂康志

 

目次

 

はじめに――「ドラッカー話法」の力をどう引き込むか

序章 ドラッカー話法――三つの原則

■私がドラッカーに会ったとき

■なぜドラッカーは「ドラッカー話法」を選んだのか

■断絶の時代とドラッカー話法

■知識は人と人との間にある

 

Ⅰ ドラッカー話法は知識労働者最強の武器

1 ドラッカー話法の基本――学び続けるということ

■知識労働者は学び続けなければならない

■明日どう変わったか――感化力の秘密

■ドラッカー話法を身につける

ショートストーリー① できる経営者ほどドラッカー話法の名手

■ドラッカー話法の力を借りる

2 ドラッカーの教え――ささやかな「窓」を持つ

■見立てで本質を語る

ショートストーリー② プロ野球が教えてくれるビジネスの未来

■「窓を持つ」ことではじめて見えてくるもの

■自然体で語る

■窓は限られているほどよい

3 ドラッカーの教え――「かたち」は本質を表す

■質は形に現れる

■達人ゲーテに学ぶ

■質的に見ること

■人は芸術作品

ショートストーリー③ 銃持参の客

■人はかたちあるものに反応する

■「もの」は人を考えさせる

4 ドラッカーの教え――自分固有のリズムで語る

■「ゆるさ」は資産

■「あるがままの目」

■あなたの「ストーリー」はどこにある?

■語り口がものを言う

ショートストーリー④ 素敵なセーターはどちら?

■聞き手にまかせる――「何を語らないか」

■ロジカル・シンキングにできないこと

■聞き手を選ぶ

 

Ⅱ フィードバック話法を身につける

5 ドラッカーの教え――ひたすら耳を傾けよ

■聞けない人は話せない

■なぜ聞けないのか

 ショートストーリー⑤ 松下幸之助の夢

■いい話を分けてもらう――雑談は素材の宝庫

■無意識の悪習を絶つ

■フィードバックの方法

6 ドラッカーの教え――聞き手の目線で語る

■目線をどこに置くか 

■観察は一つの仕事

■「アウトサイド・イン」

■事前に知っておくこと

ショートストーリー⑥ 日本人顧客の心をこうしてつかんだ

■心のストライクゾーン

■何を見ているかは一人ひとり違う

7 ドラッカーの教え――「問い」からはじめる

■「本当にそうなのでしょうか?」

■偉くなるほど世間は狭くなる

■問いの持つ暗示効果

ショートストーリー⑦ 数字は何を語るか

■よい問いは学習回路を開く

■究極の問い――五つの質問

8 ドラッカーの教え――時間との関係で自分の動きをモニタリングせよ

■フィードバック分析を使う

■セルフモニタリング日誌

ショートストーリー⑧ 忘れられない朝

■日誌――ドラッカー話法を生む最高のツール

■遺書を書いてみる

■人生は神秘そのもの

 

Ⅲ レセプティブ思考を武器にする

9 ドラッカーの教え――受け入れることからはじめる

■ゆったりと受け入れる

■しゃべりすぎは確実にマイナス

ショートストーリー⑨ 名指揮者の話

■傾聴の哲学

■好きなもの、共感できるもの

ショートストーリー⑩ 救世主は誰か

■早口は天敵

10 ドラッカーの教え――沈思黙考する

■なぜうまく話せないか――言葉は醸成を要する

■「守りの言語」

ショートストーリー⑪ ミラー教授の話

■記憶の井戸にアクセスする

■沈思黙考――頭脳と心を手放してはならない

■あなたの白い小石

11 ドラッカーの教え――人にフォーカスする

■人こそ最高のコンテンツ

■誰もが実は合理的

■強み以外は見てはいけない

ショートストーリー⑫ 言葉の魔術を使いこなす人たち

■批判する力は役に立たない

■「すでに起こった未来」を使う

■受け身は強い

12 ドラッカーの教え――聞き手の知性を信頼する

■聞き手は自分より賢い

■信頼しなければ信頼されない

ショートストーリー⑬ ゴルフとSOX法四〇四条の関係

■批判は不信のコミュニケーション

■答えは聞き手が知っている

終章 ドラッカー話法は自己変革のプロセスである

■ドラッカー話法は自己変革を促す

■学び中心の生活

ショートストーリー⑭ 人生のかけがえのない時間

■何をもって覚えられたいか

 

あとがき

 

 


 

はじめに――「ドラッカー話法」の力をどう引き込むか

 

「マネジメントはドラッカー山脈の一つの峰に過ぎない」、そう聞いたらあなたはどう思われるでしょうか。

「えっ? マネジメント以外のドラッカーなんてあるの?」そう感じるかも知れません。

しかし、ドラッカーの書に接するとき、私たちはある素朴な事実に気づかざるをえなくなります。「なぜ、彼の言葉はかくも世界中の人に読まれ、しかも行動を促しているのか」。

特に岩崎夏海さんの小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら?』が二百七十万部もの大ベストセラーになってから、ドラッカーが経営だけでなく、人の心の奥底にある何かにリーチする事実に多くの人々が気づき始めています。そこにはきっと秘密があるはずなのです。

それはいったい何だったのでしょうか?

答えは意外なほどシンプルなところにあります。

「ドラッカー話法」がそれなのです。ドラッカーは、たくさんのことを書き、語ってきましたが、そのなかで、彼流の言葉の操り方によって、人や社会を高め、創造していく人だったのです。

この「ドラッカー話法」は、日々をビジネスの世界に生きる人のみならず、どんな人に対しても役に立つものです。わけても、知識を使って成果を上げる人たち、ドラッカーの言う知識労働者にそのことが言えます。

なぜなら、知識労働者が成果をあげられるかどうかは、言葉を有効に使うことができるかにかかっているからです。知識ある人たちは、他の知識ある人たちとともに成果をあげます。せっかく知識があっても、それを人に伝えられなければ、何の意味もなくなります。

医師が典型でしょう。医師は自分の持つ意図や技能を的確に患者や同僚に伝えられなければ、かえって患者を危険にさらすことになります。同じことは知識を使って働き、未来の可能性を広げる人にとって誰にでも言えることです。

もちろん人に何かを伝えるのが簡単でないことは誰でも知っています。誰もが伝わらないもどかしさ、わかってほしい人にわかってもらえない苦しさ――これは実存的な不安に通じる大きな苦しみです――を知っています。

もちろんドラッカーも伝えることの難しさをよく知っていました。しかし、そこで慌ててはいけません。

ドラッカーに学ぶ者ならば、性急な方法ではなく、自分らしくゆったりしたアプローチで、適切に自らの考えや思いを伝えることができます。なぜなら、ドラッカーが巧みに使いこなした話法は、人間意識の深奥にリーチできるからです。

 

ドラッカーの話法は、不安の話法ではありません。信頼の話法です。

ドラッカーの話法は、批判の話法ではありません。受容の話法です。

ドラッカーの話法は、分析の話法ではありません。知覚の話法です。

ドラッカーの話法は、宣伝の話法ではありません。内省の話法です。

 

ドラッカー話法は、自分の可能性を信じ、誇り高く人生を歩むあなたを力強く応援してくれます。派手さや華やかさはないかもしれません。しかし、ほかの誰でもなく、あなた自身でありながら、あなた自身を最高の素材として、人と信頼関係を結ぶ力を与えてくれるのです。

ドラッカー自身が、そのような話法を地道に続けた結果、あれほどまでの世界的な業績を残すことができたのです。

本書では、ドラッカーが実際に行っていた話法に独自のアレンジを加えて、一般向けに応用しています。深い感化力を伴う伝える方法を身につけるのみでなく、話し方、伝え方を経由して人生を創造していく方法を紹介していきます。

ドラッカー話法を学ぶことで、あなたは人生の旅を続けるうえで、自分の可能性を広げながら、自分を創生していくことができるはずです。

その意味で、本書は「○○秒でわかる!」とか、「○○だけで思いはかなう」といった、自称「実用的」な方法を紹介するものではありません。ドラッカー話法のスタンスは、「すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる。本当に役に立つものは、熟慮と沈思黙考、そしてしかるべき時間を要する」というものです。

しかし、ご紹介するものはどれもシンプルで、誰でも使いこなすことが可能ですから、安心してください。

二〇一五年七月

ジョゼフ・リー

井坂康志

 

 


 

 序章 ドラッカー話法――三つの原則

最も大きな変化は意識に関するものだ。――ドラッカー、二〇〇五年五月七日、筆者の質問への回答

 

  • 学び続けることが知識労働者の条件です。
  • フィードバックする対話法が大切です。
  • 受容的な傾聴姿勢を身につける必要があります。

 

 

 

■私がドラッカーに会ったとき

二〇〇五年五月七日――。この日のことを私は生涯忘れないでしょう。

誰の人生にも奇跡は起こるものですが、私にとってはこの日が奇跡の一日でした。

あのマネジメントの父にして、二〇世紀の知の巨人、ピーター・ドラッカーの自宅に赴き、インタビューをすることができたからです。それはまだ三〇歳になったばかりの私にとってあまりに大きな出来事でした。

私の人生の中で、あれほど充実した時間はありませんでした。わずか三〇分ほどでしたが、私は以来ドラッカーの世界から出ることができなくなりました。文字通りのドラッカーとの出会い。そのなかで、私は何をするために生きているのか、これから何ができるのかを自問自答することにもなりました。

そして、ドラッカーはその半年ほどしてから、天国に旅立ったのでした。

 

ドラッカーが語ってくれた言葉に、次のようなものがあります。

「最も大きな変化は、意識に関わるものだ」。

それまでの自分は経済や政治を中心とする社会科学に違和感がありました。特に企業の業績や利益ばかり口にするビジネス書に嫌気が指していました。それがドラッカーのこの一文で、自分がいかに心の声に耳をふさぎ、自分の心の欲求に見て見ぬふりをしてきたかを知ることになりました。

それに、ドラッカーの人を迎える姿勢が、とても柔和で、優しかったこともあります。ドラッカーは日本の見知らぬ青年であった私を完全に受け入れてくれていました。そんな彼の姿勢が、ロジカルなものをよしとするビジネス社会の悪習に染まった私の心を一気に溶かしてくれた気がしました。

ドラッカーの発言、立ち振る舞いは、それまで私が当たり前と思ってきた専門家のそれとは明らかに違うものでした。私がその時感じたのは、自分の無限の可能性を手にしたという感覚に近いものでした。そして、このときの印象が、その後曲がりなりにもドラッカーを研究し、実践していくもう一つの人生に私をいざなうことになったのは間違いないのです。

「ドラッカーに学び、自分を創生していく生き方を選びたい」、ただその強い心の奥底から響く声に導かれていったのでした。

 

■なぜドラッカーは「ドラッカー話法」を選んだのか

本書はドラッカーの話し方について書いています。後から振り返ってみると、ドラッカーによる話し方、言葉の使い方や伝えるときの振る舞いなどは、非常にシンプルなものでした。聞き手への尊敬にはじまり、聞き手への尊敬に終わるものでした。それは、聞き手を敵とみなし、論破したり貶めたりに必死な現代のビジネス社会に見られるものとはまったく違うものでした。

話しているうちに、わかってきたことがあります。ドラッカーは、自らの話し方を「あえて」選んだのということです。

ドラッカーは戦争や革命の吹き荒れる二〇世紀を生きた人です。ご承知のように、ナチスやソ連だけでなく、日本その他の全体主義によって命を失った人たちは数千万を下らない、そんな時代がつい先日まであったのです。ドラッカーは、「せめて二一世紀をもっとまともな時代にしたい」と考え、人と社会を守ることが最も意義ある仕事と信じて、そのような強い心の欲求に導かれて、マネジメントをはじめとする理論をつくっていったのでした。

ドラッカーの語り口に耳を澄ませるほどに、彼の原点となる動機を実感することが多くなっていったものです。

自分自身であり続けながら、同時に自分を創生していくことができれば、しなやかで強い自分の人生を生きることができることをドラッカーは教えてくれます。

私は今、はっきりとこう考えています。「ドラッカーの考えはこれまでも役立ったし、これからも役立つ」。そして、ドラッカーの中にはどんなときも大いなる未完があり、その未完を発展させるのは、私たち一人ひとりなのです。

ドラッカーはあるところで「自然を観察する人が、自然の神秘に畏敬を抱くように、社会を観察する人は、言葉の神秘に畏敬を抱く」と言っています。

二〇世紀を損なった指導者たちが、一人の例外もなくまず言葉を堕落させたことがドラッカーの心にあったに違いありません。ドラッカーは後までも、言葉を貶め、下品なものにする人に嫌悪感をあらわにしたと言います。

人と社会に関する限り、言葉をどう用いるかが有無を言わせずに未来を決めてしまうからです。

なぜなら、多くの場合、人は言葉の取り扱い方一つで、あまりに無力になってしまうものだからです。反対に言えば、言葉が人と社会のハンドルなのであれば、言葉を適切に取り扱うことで、人と社会の舵を取り、意味ある世界を自ら作っていくことが可能になっていくともいえます。そして、現代はますます言葉と現実社会との関係は強くなっているのです。

 

■断絶の時代とドラッカー話法

『断絶の時代』で述べられているように、二一世紀の現在、世界はまったく混沌としています。現代は大いなる調整の時代、身づくろいの時代だからです。

過渡期にはいろいろな迷いが生じます。ある時は、昔がよかったという人が出てきたり、突然未知の世界に飛び込んでいこうとしたり、そのなかで傷つき迷いながら、新しい価値を形成する時代に来ているのです。それがドラッカーの基本的な時代についての考え方でした。

ドラッカーは、価値の転換が起こっている現代の基本的な心得をさまざまなところで語っています。それも、すべて言葉の使い方に関わるものなのです。

まず言葉についての心得の第一は、「生涯学び続ける知識労働者であってほしい」というものです。

第二は、「人の語っていることをよく耳を傾け、自分と他者との関係を言葉を通して観察する」、いわゆるフィードバックとしての言葉の使い方です。

第三は、「この世界への認識を深めるためには、聞き手を深い次元で受け入れる、聞き手の上に立とうとしないで、下に立とうとする」、レセプティブな思考を推奨するものです。

ドラッカーにとって、語ることは聞くことと同義でした。わかってもらいたいときはわかったあげることからしかはじめられません。そのような融合の思想がドラッカーにはあります。

 

■知識は人と人との間にある

ドラッカーはこの三つの原則が、知識社会におけるコミュニケーションの基本にならなければならないと考えていました。

いずれも、ドラッカー話法の特徴は、人との関係において横につながっていこうとするところにあります。まったく上下の関係ではなく、ひたすら人の語っていることを自分の語っていることとして聞き、自分が語るときは人が語っているように語るものなのです。

詳しくは以降に述べますが、ドラッカーはさらにすごいことを言っています。どんな人であっても、真剣にその人を理解しようとしないと、マネジメントに必要な質的な感覚は育たないというのです。

人はとかく自分に都合のいいところ、時には無意識に相手の弱みを見つけてそこに働きかけ、相手を支配しようとすることもあります。するとすぐに関係は序列的なもの、冷たく非創造的なものになってしまいます。そうではなく、「自分が変わればこの世界が変わる」というのがドラッカー話法の特徴になります。自分が理解できないものを否定したり軽蔑したりするのではなく、理解できないほどに知りたいという方向になるのです。ひたすらに相手に耳を傾けると言う態度を取るのです。わからなければわからないほど傾聴の姿勢を強めるのです。

ドラッカー話法にあって、必要な知識は人と人との間にあるものです。ですから、あらかじめ知恵や知識が人の中にあるとは考えないのです。自分の中に判断力や知恵があると考えたとたんに、二〇世紀の過剰に合理的で人を量としてしか見ない立場に戻ってしまい、人間関係を分断していくものになってしまいます。

ですから、ドラッカーのいう知識社会は、その瞬間瞬間に関係性のなかに現れるものでなければなりません。

以下の章ではそのためにドラッカーがとった方法をエピソードとともに語っていきたいと思います。

 

 


 

Ⅰ ドラッカー話法は知識労働者最強の武器

 

 

ドラッカーは、コミュニケーションの新しい可能性を開く特別大切な働きを「学び」に求めていました。この学ぶことのなかに、知識社会を生きるための最も有効な力が働いており、この学びのあり方によって人と人を融合させる文化を作ろうとしたのです。ですから、知識社会とは、学びの思想を基本にしています。

学びにとって大切なのは、自らを観察し、周囲を観察することです。学ぶことができるかどうかの多くは、この観察のあり方にかかっています。ドラッカー自身、「我見る、ゆえに我あり」と述べていた通りです。

特に現代のような転換期を生きるときには、予測はほとんど意味を持ちません。何より大事な課題は、現状を徹底的にモニタリングし、そこから自分自身や自分の組織を創生していくことです。観察は学びを促進する働きのほかに、人や組織を新たに結び付け、刷新する役割をも担っています。そして、この結びつきの働きを通して成果を上げうる機能を知識と呼ぶのです。ドラッカーの言う知識とは、ともに学ぶ働きなのです。

 


 

1 ドラッカー話法の基本――学び続けるということ

 

知識労働者は学び続けなければならない。――ドラッカー

 

 

  • 言葉は知識労働者の武器です。
  • ドラッカー話法はストーリーの話法です。
  • ストーリーは自分自身の内部に眠る宝に気づかせてくれる力があります。

 

 

■知識労働者は学び続けなければならない

私たちが「何かを成し遂げよう」とするとき(ドラッカーはこのことを「成果を上げる」と呼びます)思い出してほしいのが、ドラッカーの次の言葉です。

「知識労働者は学び続けなければならない」。

ドラッカーは学び続ける人生を生きた人でした。学び続けるとは、言い換えれば、意識して言葉を学ぶこと、日々何らかの言葉や言葉の使い方を学びながら過ごす人生のことです。

ドラッカーの本業コンサルタントなども言葉の仕事です。コンサルタントは「聞くこと」「相談に乗ること」が仕事の大半を占めます。そのほかにもドラッカーが大学で教えたり、論文や本を書いたりなど、「教え」「書き」「相談に乗る」の三本柱を生活の中心に据えていました。言葉とともに生きた人だったのです。

しかし、改めて考えてみると、不思議なことがあります。世の中では誰もが言葉を使っています。中には誰よりも知識を持っていたり、言葉を知っていたりしながらも、なぜか成功できない人が大勢います。残念ながら、言葉や知識の量と成功は必ずしも比例しません。

たとえば、一度に十紙を購読しようが、年間数十のセミナーに出席しようが、本を何百冊読もうが、それを活用できないのであれば、意味をなしません。仕事であろうが趣味であろうが、言葉は使ってこそ意味があります。

時々、言葉数の多さや外国の言葉、専門用語をたくさん知っていることをそれとなく自慢する人がいますが、はっきり言えば、そんなものは自己満足以上のものではなく、まったく無意味です。

言葉の本質は「伝わる」ことにあるのですから。

おそらくあなたのまわりにも、思いあたる人はいるでしょう。

 

・学歴が高く、いろんな知識を持っているのに、今一つさえない人。

・とにかく真面目で、いつも勉強しているのに、結局何も達成できない人。

・四六時中セミナーなどに出ていて、それらしいことを言うのに、まったく成功できていない人。

・自信満々で人に命令することに慣れているのに、実は誰もついてきていない人。

・根拠のないことを堂々と言うから一見すごい人に見えるが、実は陰では評判の悪い人。

 

あなたは決してこのような人の仲間に入ってはいけません。

このような人たちは、「間違った言葉の使い方を覚えてしまった」人たちです。

私たちのお手本になるのがドラッカーです。ドラッカーが使ったように言葉を使えばいいのです。

本書では、ドラッカー流の言葉の使い方を「ドラッカー話法」と言います。

ドラッカーはまぐれや偶然であのような言葉の達人になったのではありません。ドラッカーは、どうすれば学んだ知識が、本当の意味で成果につながるかを考え抜いた人です。そのためのツールが言葉の使い方だったのです。

では、ドラッカー話法を使いこなすにはどうすればよいのでしょうか。

 

■明日どう変わったか――感化力の秘密

本題に入る前に、まずお伝えしたいことがあります。

それは、ドラッカーは知識を学習と訓練によって、誰もが身につけることができるものと考えた点です。

これは経験を積み、学習し、必要な訓練を反復的に行えば、誰でもどのような知識でも習得可能であるという主張でもあります。そして、このようにして培われた知識が、現代における最大の資本であり資産なのだとドラッカーは言ったのです。

知識が最大の生産手段となる社会のことを、知識社会と言います。ドラッカーは知識社会が到来したことを一九六九年の『断絶の時代』という本で世に知らせ、この本は世界的な大ベストセラーになりました。

そもそも知識社会は才能や生まれつきの能力だけで人の値打ちを判断されることはありません。誰にでも学びの機会は平等に開かれています。最初からエリートはエリートという社会ではないのです。優秀な人材であれば、自由に組織を動くこともできます。

 

ドラッカーがクライアントによく言っていた言葉があります。

「私のコンサルを受けて、明日具体的な行動がどう変わったかに関心がある」。

確かにドラッカーのコンサルティングでは、必要な知識を実務の一環として修得することは厳しく求められます。しかし、最初から学問的な知識を持っていることが最重要視されるわけではありません。

知識社会に見合う人材になるためには、誰もが自分の可能性を広げ、時に自分を自在に変えながら、自律的にキャリアを展開する力が必要です。そのためには、学んだことを実践に転換する、言い換えれば、言葉を行動に変える能力が大切になるのです。ドラッカーが大事にしている哲学の一つと言ってよいでしょう。

 

■ドラッカー話法を身につける

知識を正しく積むことができれば、それは会社を離れた後も人生の土台になります。いわゆるセカンドキャリア(第二の人生)、パラレルキャリア(複数の仕事を同時に行う)も思うままになります。その証拠に、ドラッカーは自分のコンサルティングを受けた人たちに、「今までの知識を生かして、異なる分野に応用するように」と助言しています。

たとえば、ケーブルテレビ会社の経営で大成功したボブ・ビュフォードは、ドラッカーの助言を受けて人生の半ばに大胆なギアチェンジを行い、メガチャーチという大規模教会の組織者として大成功を収めています。

ドラッカーの指導を受けた人たちには、世界を代表する知識人材がたくさんいます。ジャック・ウェルチ、伊藤雅俊、飯島延浩・・・。またドラッカーの交流関係の顔ぶれは実に華やかです。

彼らの中には最初から才能豊かな人々も多くいたと思いますが、しかし、それを凌駕するほどの学びと習得への情熱があればこそ、成功を収めることができたのだと思います。ドラッカーに学び、あらゆる経験や知識を味方にし、変化を上手に利用しながら、自らの可能性を開いてきたのが彼らだったのです。

 

ショートストーリー① できる経営者ほどドラッカー話法の名手

GEの名経営者ジャック・ウェルチの講演を聴いたことはあるだろうか?

世界ビジネス・フォーラムでのこと、マイケル・ポーター作の図表やらで埋め尽くされた資料をさんざん示したあげくに、ウェルチは行きつけのイタリアン・レストランの話を始めた。ふわりと漂うトマト・バジルのソースの香りに巻かれると、二町先からも客が吸い寄せられるのだという。

ボストン訛りで彼はまくしたてる。「チャアトではないのよ。ソアースなの」。

私なりに翻訳すると、図より香りのほうが人を呼ぶという意味のようだ。

ビジネス本は洪水状態だ。あたかも一冊ですっきりと経営の本質が分かって、めくるめくすばらしい人生が開けるように喧伝される。もちろんそんなことは千に一つだって起こりやしない。そんな都合のいいものがあるなら、誰もわざわざ本に書いたりはしない。コカ・コーラの原液よろしくアトランタ本社の地下数キロもくり抜かれた倉庫に、何重にも鍵をかけてしまっておくはずだ。

だが、現実問題として、できる連中が決まって手にする道具立てのようなものはこの世に存在しないのか。

そんなことはない。一つだけある。というか、一つしかない。

例外なくドラッカー話法の名手であることがそれである。おしなべて、語り手であったという一点であるのは、世界の名経営者たちに見られるほぼ共通した特徴だ。

 

■ドラッカー話法の力を借りる

そのために、私たちは実践できる知識の構築が不可欠となります。そのような実践的知識は何からできているのでしょうか。

それはドラッカー話法です。

ドラッカー話法は知識労働者の知られざる武器と言ってよいでしょう。

ドラッカーが人を惹きつけ、多くの知識労働者を鼓舞し、今なお学ぶ人が後を絶たない秘密、それはドラッカーが紡ぎだしてきた話法の質にあるのです。

 

私たちの試行錯誤の中で、分かったことが二つあります。

ドラッカー話法の力はまださほど知られていないこと、その可能性は事実上無限大、はかりしれないくらいの潜在力を秘めているということです。

ドラッカー話法は、啓発の言語の華ともいえますが、人類の歴史と同じくらい古いものです。いや、正確には人類の叡智は神話や昔話などのドラッカー話法にしっかりと封印されているのです。

ギリシャの哲学者アリストテレスは『詩学』という本の中で次のように言います。

「もっとも偉大なのは隠喩(メタファー)の達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、それによってである」。

ドラッカーは比喩や話法の達人でした。ドラッカー話法のすごさは、その絶妙な感化力にあります。人間のロジカルな部分を飛ばして、一気に地下室にまで飛び込んでしまう力を持っています。日本語でいう「腑に落ちる」という状態がそれです。頭ではなく、お腹にしっかりと落ちなければ、知識は行動にいたりません。

 

 


 

2 ドラッカーの教え――ささやかな「窓」を持つ

 

 

「真の発見の旅とは、知られざる眺望の探索にあるのではない。新たなる目の獲得にある」――マルセル・プルースト

 

 

  • 本質を語るのに有効なのは見立ての技法です。
  • ものを見る上での定点を持っておきましょう。
  • 要求の少ない話ほど受け入れられやすいものです。

 

 

■見立てで本質を語る

ドラッカー話法を語る上でとても大切なものは、見立てること、そして定点を持つということです。

一つドラッカーの事例をご紹介したいと思います。

ドラッカーが最初に書いたマネジメントの本をご存じでしょうか? たぶん読んだ方はそれほど多くないかもしれません。

『企業とは何か』と言う本で、一九四六年、ドラッカー三六歳のときの著作です。ドラッカーは当時、第二次世界大戦が終わった後に、社会をけん引してくれる組織を一生懸命探していたのです。社会とは一つの生き物ですから、宿命的に心臓とか脳のような中心的な器官を必要とします。いわば、社会の心臓の役割を果たすのがどこかを探していたのです。

そのころドラッカーはニューヨークにいて、雑誌に記事を書いたり、講演をしたりして生計を立てていました。そんな活動のなかで、会社が社会の心臓なのではないかと考えるようになったのです。

当時ドラッカーは生活の必要もあってとても忙しかったのですが、ゼネラルモーターズからの調査研究の依頼があったとき、すべてを後回しにしてその仕事を受けたのです。

そのなかで分かったことは、ドラッカーが想像していた以上に、企業が社会だけではなく世界全体の基本形をなしていたことでした。企業で人はものをつくり、お給料をもらいます。でもそれだけではありません。企業は人々にとって、仕事を学ぶ学校であり、仲間と会う場所であり、何より自分自身を確認する場所だったからです。そのことはドラッカーにとって大きな驚きでした。

 つまり、ドラッカーは社会全体を企業に見立てて研究をしたのです。いいかえれば、社会全体をよい場所にしたいのならば、企業をよい場所にすることが最優先事項だと気づいたのです。

ドラッカーが企業のマネジメントを志したのは、そのような理由からだったのです。

未来の社会に実現することは、すでに企業の中に実現していたのでした。

 

ショートストーリー② プロ野球が教えてくれるビジネスの未来

野茂英雄はメジャー・リーグでオールスターにも出た初の日本人選手が彼だった。一九九五年のことだ。

野茂がドジャースでデビューを飾ったときなんかは、逐一NHKで放送された。そのことが野茂の凄さを際だたせたからだ。野茂の登板はTV関係者に前もって分かっていた。

私はシーズンが終わったある日、ある銀行幹部と昼食をとっていた。

「メジャー・リーグが日本で放送されるなんて夢みたいではないですか?」なんとはなしに私は水を向けた。

相手は含みのある笑みを口の端っこに浮かべた。

私は付け加えた。「私、野茂がメジャー入りして全試合観てるんですよ。ずっと日本の野球が好きでした。こんなに熱くなるのは七〇年代のON時代(古いね)以来です」。

「なるほど」相手は言う。

私は夢中で続けた。私は日本の野球と比較するためにメジャー・リーグを観ていた。

「日本の野球が好きだったのですが、最近は誰も選手の名前など分かりません。東京ドームに行っても、みんな酔っぱらってるし、鳴りものはひどい。野球なんかどうでもいいように見えてしまいます。でも、私はアメリカ野球の敏捷性や身体能力に目を見開かれます。ファンも詳しい。家族で見に来るお客さんもたくさんいますよ」。

彼はちょっと意地悪な笑みを浮かべて言った。「私は日本野球が好きでね。日本の野球には文化があるんですね。鳴りものも酔っぱらいもみんな日本のサラリーマンが欲求不満を吐き出すためのものなのです。本当にアメリカ野球が喜ばれているのか、私は疑問だな」。

だが最近はどうだ。日本の野球ファンもこぞって松井、イチローばかり見ているではないか。

日本はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の初代王者だ。日本の選手にとって、メジャーはたまらない魅力だ。選手にとってはいまだかつてないチャンスだ。その所在を最初に示してくれたのが、野茂だった。真骨頂はそこにあった。

野茂のすごさは扉をぶち破ったにとどまらない。日本の密封された内向き市場を外に向けて解き放った。サッカーはかなりましなほうだけど、ことプロ野球について言えば、純然たる国内市場のみのスポーツだった。もっと正確に言えば巨人の独壇場だった。

今日、日本野球が戦わなければならない相手は広く世界にいる。市場として見たら、他のスポーツやヤンキースまでもが競争相手になっている。

ところで、その後先の銀行幹部は考えを変えたろうか。私には分からない。たぶん朝方にはレッドソックスやヤンキース、夜には巨人をTVで観るのだろう。日本の野球ファンにとってそれがベストでない理由がない。

 

グローバル化は現実の一部

ここ二〇年ほどの日本プロ野球には変化とグローバル化のエッセンスが凝縮されている。要は、まったく新しい流通チャネルがある日ひょいと現れてしまった。そうしたら、一夜にして内向きな市場が、あごに手をかけられて、強引に外側に顔を向けさせられたわけである。

MLB、NBA、NFL、NHL、FIFAなどのメジャー・スポーツ協会もどんどんグローバルなものになっている。ネットや衛星放送、CNN、ESPNなどは本来アメリカ国内向けに放送していたが、今や世界で成功している。

野球なんかは目立つ例だけど、地味ながら似たところは結構ある。日本のゴルフ場なんかがそうだ。長らく同族とか企業の占有物だったけど、今では外資系の巨大プライベート・エクイティ・ファンドの草刈り場だ。アメリカでは住宅ローンなんかが証券化されて、世界に売り出されてひどいことになったのは記憶に新しい。

グローバル化というのは、政府が「よしやってみよう」っていってやるものではない。それは私やあなたがいて生活するのと何ら変わらない現実の一部である。現実を変えようとしてもそれは無理というものだ。それは腹を立てたり悲しんだりするものはない。ただそこにあるものである。

日本のプロ野球が教えてくれること――それは人並み優れた力を持つなら、その力を最も正当に評価する国にいともたやすく流出するということだ。

それとだいじなことを一つ。スポーツの世界で起こることは一〇〇%確実にビジネスにも起こる。アメリカには、ちょっとびっくりするくらい著名な講演者でプロスポーツ出身の人たちがいる。それは偶然でもなんでもなくて、彼らはスポーツ界で先んじて学んだことをビジネスに応用しているだけだ。

スポーツの話はビジネスの比喩としてものすごい効力がある。なぜなら、スポーツは筋書のないドラマだからだ。人生そのものだ。

 

 

■「窓を持つ」ことではじめて見えてくるもの

窓を持つと大量にやってくる情報のなかで、あなたに意味のある情報が自動的に選別されるようになります。

それともう一つ、その窓から入ってくる情報が、世界の見立てに役立つからです。現在のような複雑な世界で生き抜くには、柔軟に窓を見ていく力を要求されます。

ドラッカーがどのような窓を持っていたかはその点でとても参考になるでしょう。

彼は特別な窓を持っていたわけではありません。時事的な情報は地元の新聞程度から得ていたと言われています。

むしろ、日本画のような心の静寂をもたらしてくる定点を持っていたことのほうがドラッカーの知覚力に大きく影響していたと見てよいと思います。日本画は彼にとって心を落ち着かせるパワフルな芸術であったとともに、世の変化のなかの本質のみを見出すためのものだったのは間違いないのです。

その証拠に、彼は執筆などで疲労すると意識的に日本画を眺めていたという逸話が残っています。日本画の世界はいわばこの変転極まりなき世界の雛形だったのです。

ポイントは、日本画が彼の心を落ち着かせ、生産性を向上させていたということだけではありません。むしろ窓として選ぶ対象は、何より心から受け入れられるもの、称賛でき、尊敬できるもの、そして好きで好きでたまらずいつまででも見ていたいものでなければならない点です。日本画はドラッカーにとってまさしくそのようなものだったからです。

適切な窓を持つことによって、世界はもっとシンプルなものになります。シンプルと単純は違います。シンプルとは、本質だけがしっかりと浮かび上がっている状態です。このような定点が人に話を伝えるときの理想的な条件を提供してくれます。

 

 ・心から共感できるもの

 ・尊敬できるもの

 ・大好きなもの

 ・いつまで見ていても飽きないもの

 

この世界の変化は、すべてどこかの小さな変化が発展した結果です。いきなり絶え間なく大きな変化が起こっているのではありません。それらはすでにどこかで起こっているのです。

窓を持つことによって、世界がはっきりと余裕をもって眺められるようになります。そのことが聞き手にも大きな意味を持ちます。変化に対応するために、話し手が心から共感を寄せる窓を経由して、同じ風景を見ることができるのは、聞く者として大きな喜びの一つです。

窓は小さくてかまわないのです。

シンプルな窓ほど、大きな可能性を見せてくれます。その窓から見える風景は、あなたの語ることに自信と説得力を与えます。

 

■自然体で語る

窓を選ぶには決まった望ましい方法があるというわけではありません。

すでに慣れ親しんだテーマを思い起こしてみるとよいと思います。特にスタイルは関係ありません。重要なのはスタイルより、「継続的に使える窓」であることです。特に努力しなくても毎日見てしまうもの、たとえばジョギングや散歩、猫のことなど何でもよいでしょう。

窓が窓たるゆえんは、常に意識を向けていることにあります。このどこに意識をフォーカスしているかは、伝えるときの最高の視点になります。日々ひたすら観察していること、話をしたら何時間でも話せること、いくら話しても疲れないこと、そのようなところが窓になります。

実際に大好きなことについて話をしているとき、人は知らずに自然体になっているものです。意識しなくても、必然的に頭が休み、自然に適切な言葉が選択されていくものなのです。そして「こんな話をしなければならない」というルールもなくなっています。

このような状態は聞き手にもポジティブな反応をもたらします。あなたは長時間堅苦しい話をじっと聞いているのをうれしく思うでしょうか。しかも、その話をすべて覚えなければならない体で話されたら誰でもうんざりしてしまいます。

話し手が心穏やかで自然体であるとき、確実に聞き手も心穏やかで自然体になります。人は要求されないことが好きなのです。

要求されない話ほど人を聞く気にさせるものはありません。

日々少しでもよいので、「毎日」何らかのかたちで見ているものがないかを確認してみてください。あなたは自分だけの窓を味方にすることによって、世界をシンプルに見立てることができます。そうすることで、どんな状況でも自然体で冷静であることもできます。自分の力を出し切ることができ、しかも話を聞き手の心に定着させることができるようになるのです。

 

■窓は限られているほどよい

窓を持つことが大切なのは、もう一つ理由があります。

すでに私たちは高度な情報社会にいます。ここ十年ほどの情報をめぐる変化は、私たちを絶え間のないノイズのなかに追い込んでいます。スマホを手にしたことによって、その流れは強まっています。SNSやメールなど、時には知りたくもないことまで運んできます。

むしろ現状を正確に見るならば、窓が多すぎることのほうが、かえって私たちの情報感度を麻痺させているというのが本当なのかもしれません。

大量にやってくる情報のどの程度があなたにとって有益なのでしょうか。必要なのでしょうか。

確かに情報に大量に接することは便利なのかもしれません。しかし、ドラッカー話法について言うなら、便利さはかえって豊かさを減少させます。なぜなら、ドラッカー話法は本来便利なものではないからです。

ドラッカー話法は「文明の進歩」に支配されてしまうことでむしろ自由の精神を失ってしまいます。そうなってしまうと本末転倒ということになります。

すでに述べたように、ドラッカーが日本画を眺めたのは、それによって心を落ち着かせ、自分が本当に見たいものに戻ってくるためでした。そして、世の中が慌ただしくなるほどに、そのようなゆったりと余裕を持った窓を持っておくことが広く役に立つことは間違いないのです。

また、窓を限定することによって、心の静寂やストレス対処など、ものを深く考え、現実を繊細の精神で眺めることも可能になるはずです。

このような小さな習慣が、あなたの視野を広げて、ドラッカー話法の持つ可能性をも広げる大切な役割を担ってくれるはずです。

 


 

3 ドラッカーの教え――「かたち」は本質を表す

 

さしあたっては、いつも専ら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。――エッカーマン/山下肇訳『ゲーテとの対話』

 

  • かたちあるものほど説得力を持つものはありません。
  • 人やものを量としてでなく、質として見ることがポイントです。
  • 芸術作品のように体験していくことです。

 

 

 

■質は形に現れる

ドラッカーの考え方を一言で言えば、「すべてをありのままに見る」ということだと思います。

いきなり大仰な話になってしまいましたので、説明が必要ですね。

「ありのままに見る」とは何でしょうか。言い換えれば、質的に見るということなのです。

合理的で論理的な考え方では、量を問題にします。すべてが量的な説明で済んでしまいます。ところが、色や音などについて質の体験をしようとすると、一つの意味を持つ統一した世界として考えなければいかなくなります。

たとえば、ベートーベンの交響楽は、音波の量だけではかれるものではありませんし、日本画の美しさも色の波長の違いだけでははかれません。ドラッカー話法にとって特別に大切なのは、体験の質で考えなければ意味がないということです。合理で考えるならば、音楽も絵画も数式で計算できる世界になってしまいます。

ドラッカー話法も同じで、分割すると意味をなくしてしまう世界です。

もしそれを科学の考え方でとらえると、物語や芸術の世界はとらえきれません。

ところが、私たちはうっかりすると合理的に説明できる楽さにとらわれるあまりに、ロジカルな世界にビジネスや人生を近づけようとしてしまい、ロジカル・シンキングのほうに実生活を引っ張り込んでしまうことをするのです。そうすると、ロジカルは合理の世界ですから、合理で説明可能なものだけを重視して、その他の世界は見えなくなってしまう、特に人間の内面世界が見えなくなってしまうのです。

ドラッカーの偉いところは、質的体験のなかで、経営や社会、人間の問題をとらえようとしたところです。彼ははっきりと、どんな問題も人間的問題に戻ると断言しているのです。

わけても、質的体験のなかでこの世界をつかまないかぎり、本当の意味でのドラッカー話法を紡ぎだすことはできません。ドラッカーがマネジメントに普遍性を与えることができた急所はここにあります。彼はどこまでもこの世界の質的な意味を探りながら、マネジメントを打ち立てたからです。

 

■達人ゲーテに学ぶ

ドラッカーはものごとを形態で見ることの大切さを説いています。ドラッカーが尊敬したストーリーテラーの巨人ゲーテもまた形の研究を重視しています。形は質的体験を基本とするもので、そのためには芸術的なアプローチによって深めてられていくものです。ですから、ドラッカー話法のようなアートが、現実と人々の内面世界を結び付ける決め手の方法を与えてくれるのだと考えられるのです。

ドラッカー話法が仲立ちになるとき、はじめて現実と内面世界が結びついてくるのです。

そこでドラッカーは考えました。どのようにすれば、ゲーテの言うような質的な方法(対象的思考と呼びます)を身につけることができるのだろうか。この対象的思考を一人ひとりが自分のものにしていくと、質的にあらゆるものを見ることができるようになる。

そして、この対象的な思考をさらに深めていくと、今あるものの目に見えない可能性まで予感として感じ取ることができるようになるとドラッカーは考え、それを「すでに起こった未来」と呼んだのでした。

ドラッカーは対象的思考を一生懸命訓練しました。何によって訓練したかというと芸術です。日本画や、文学によってです。ドラッカーの書斎には、ビジネス書はまったくなく、ほとんどが芸術書、歴史書、そして小説ばかりであったのです。

この訓練はドラッカーに言葉を学ぶ人にとっても大切なことではないかと思います。私たちが芸術を愛し、芸術的な行為をするときに、その芸術活動が質的体験を大切にしていくうでの一つの回路を提供してくれているからです。そのことを意識するのとしないのとでは長い時間が経つうちに大きな開きを生んでくると思います。

 

■質的に見ること

対象的思考とは、特に聞き手に何が必要かを考えるときに大きな意味を持ちます。

第一が、聞き手を量ではなく質として考えるということです。それは私たちのなかの想像力が行う思考ともいえます。想像力を通して、一つひとつの体験を質的にとらえていくことが、それぞれの内面の芸術的豊かさにつながっていきます。そしてその心はあらゆる人間活動にも開かれていきます。新しい可能性が考えられるのです。ドラッカーはこのことを現代にふさわしいアプローチで徹底的に示してくれたのでした。

具体的な例をあげましょう。たとえば職場の部下に指示を与えるときに、質的に見るとはどのようなことになるでしょうか。まず、部下が五人いたら、全体の五分の一ではなく、一人ひとりを質的に体験していかなければなりません。そのうで、室内管弦楽団を組織するように、芸術的に人を形成していかなければなりません。

もし部内が忙しすぎるときなど、質を体験する方法で考えてみると、まずあなたは徹底的に一人ひとりの部下を理解するところから出発します。部下がどんな批判や愚痴を言おうが、一人ひとりがどんな人間なのかを徹底的に知ろうとするのです。そして、その人はどういう環境に育ってきた人なのか、内向的か外交的か、強みや弱みはどのようなものか、知的か行動的かなどを一人ひとりについて体験しようとするのです。

 

■人は芸術作品

質的に伝えることができるようになれば、部下が信頼感を自ずと持つようになってきす。

そのときに、もし上司が数量的に考えて、部下の評定は何点であるかとか、どの程度優秀な人材がいるのかとか、能力給はいくらかとか考えると、部下はあなたを無意識に軽蔑するようになり、信頼しなくなるのです。人を質的に見るかどうかの違いです。

同じように、何かの説明会であなたが話すことになっており、五十人が集まったとします。初めて来る人たちで、お互いが知らない間柄であったとしても、まずは一人ひとりの雰囲気や顔つきなどから、ちょうどベートーベンの交響曲に耳を傾けるように、心を開いて一人ひとりの存在に耳を傾けることができるようになると、聞き手はあなたを信頼し、それだけ伝わりやすくなるのです。

特に現代のビジネス社会の人間関係では、つい批判的に見がちになります。周囲を見回して、どれくらいの専門知識があるだろうかとか、このなかで自分より偉い人がどれくらいいるかとか、そのような見方をするととたんに空気は冷たいものとなり、信頼は砂漠に置かれた氷のように溶けていきます。

そのようなものではなく、一人ひとりが芸術作品のように、私たちが美術館に行って作品を一枚一枚心路開いてみるように、一人ひとりをかけがえのない作品のようにひたすら理解に努めるときに、どのような人間関係でも芸術的な雰囲気が生じます。

同時に、相手がどのような生き方をしているのかが見えてくると、それは一つの新しい視点を手にしたのと同じことです。そのようなことをドラッカーは組織の中で実現させようとしたのでした。

 

ショートストーリー③ 銃持参の客

私がコンサル業界に入ったのは一九九二年のことだった。

一般にコンサル会社と言うとき、時に少々うさんくさい目で見られないこともない。現にいんちきなコンサル会社など掃いて捨てるほどある。だが、私の勤め先はきわめてまっとうだった。

最初に関わったのは不動産戦略セミナーだった。不動産ローン地獄の脱出法を指南するもので、腕利きのアドバイザーなんか結構がいた。参加者は大部分がローン問題で首が回らなくなった人たちだった。みんなわらにもすがる思いできていた。

だいたいその種のローンはリスクがべらぼうに高い。裏のディベロッパーなんかが仕切っていて、脅迫まがいで返済を迫ってくる。そこで私個人が目にしたことだ。

防弾チョッキと不動産。いささか奇妙な取り合わせだ。でもその業界ではそれが現実だった。私はパートナーシップ・ファンドを悪用した不動産ベンチャーを排除するプロジェクトに参画するはめになった。

いちばんやばい問題は何か。関係者が言うには、事務所に拳銃持参でやってくるやからがいるという。

資料のとりまとめと情報収集に一月を要した。加えて、投資家には一人残らず同意をとらなければならなかった。

ある晩、私は資料片手に弁護士のもとに赴いた。マークというのが彼の名前だった。資料を瞥見し、瞬時に不穏な何かを読みとった。

「マークさん、どうも私はこの案件でパートナーの地位につかされてしまったみたいです。資料にそう書かれているんです。私に何かあったらどうしましょう? 撃たれたりしない?」。

マークさんは一瞬だけ笑顔を見せたが、たちまち眉間に指をあてて考えていた。どうすればうまく伝わるか頭の中でシミュレーションするかのようだった。マークさんは言った。「ジョセフさん、簡単だ。大丈夫だよ」。

もう一つのベンチャーには別のパートナーがいた。かなりやばい人物だったみたいだったが、そいつが私に貸してくれたのが防弾チョッキだった。デュポン製のものだった。鉄の五倍の強度という。撃たれたときのためにそれが存在しているくらいのことは子供でも分かる。

私はここで一呼吸置くことにしている。そして、おもむろに荷物をほどく。実物の防弾チョッキを聴衆に見てもらう。私は拳を固めて何度も強くたたく。スーツの上着を脱いで羽織ってみせる。そしてメッセージが参加者一人ひとりの心に届いたのを確認する。話を続ける。

定例会合でパートナーはピストルを引き出しにしのばせていた。私はスーツ下にかさばるチョッキを着込んでいた。まずいことに、場所はパームスプリング。恐ろしく暑いのだ。

私はマークさんの顔をのぞき込んだ。彼だけが心の支えだった。私が所在なさげなのを見て取ったマークさんは、親指を上に向けて、明るく言ってくれた。

「ジョセフさん、私がいるから大丈夫」。

この一言にどれだけ救われただろう。

私は防弾チョッキを演壇上に置く。休み時間に、何人かを呼んで触れてもらう。実際に着てもらう。そうすることで、未来の顧客と心の通う貴重な情報交換の場が持てる。

プレゼンでは人は声より見たものを記憶する。さらには見たものより触われたものを記憶する。

防弾チョッキは何より見て触わった証だ。それ以上のものもある。聴衆の多くは日本人ビジネスマンだった。銀行、法務、不動産業界の人たちで、日本ではまずもって銃とか防弾用具に触れる機会など皆無である。

マークの心意気を気に入ってくれる人も少なくない。

 

■人はかたちあるものに反応する

ドラッカーがよく言うことに一つに、「ものごとの本質は形に現れる」というものがあります。「形に現れる」とはつまり、「目で見て知覚できる」という意味です。

多くの場合、抽象的なことが優位な話では、状況や情報を頭脳で理解することはなかなか困難です。特にロジカルな内容を伴うならば、論理的な整合性がとれているほどに知覚することは決して楽とはいえません。

ふだんから専門的な語彙や理解力を鍛えられている人たちであっても、頭脳のなかのみの処理ではそれがうまくいかないことも起こりえます。

しかし、人はものについては一定の固定観念やイメージのようなものをもっており、具体的な形を見せられると得心のいくことが多いものです。

また、実物を目にしたとき、はっきりと認知することができるようにもなります。そもそも私たちがリアルなものとして認知するものは、極端な言い方をするなら、形やものと密接にかかわりを持っているものです。

しばらく前にあるテレビ番組を見ていたとき、私はその思いを強くしました。その番組は、学校の生徒たちが近所で暮らしているおじさんやおばさんをもっとよく知ろうと街に出ていき、実際に話を聞く内容となっていました。

子供たちのグループは、学校の近所に住むおじいさんのところへ赴きます。そして、何か思い出の品物を見せてほしいと頼むのです。

おじいさんが持ってきたのは、さびた飯ごうでした。よほど古いもののようで、表面はでこぼこです。おじいさんは、飯ごうの話を始めます。昔戦争があったころ、おじいさんは兵隊として南洋に出向き、いつもこの飯ごうでご飯を炊いていたというのです。

おじいさんが語ったことはそれだけです。その飯ごうを大切に使っていたということだけで、それ以上のことは不明なのです。しかし、話を聞く子供たち、そして番組を見る私たちには、いろいろなことがイメージできます。

若かったおじいさんが、部隊の戦友たちと一緒に行軍している姿や、敵と遭遇した時のはりつめた緊張感、そんなものが一つひとつ、何も言わなくても伝わってくるのです。

その番組を見たのはずいぶん前のことです。NHKの朝の番組だったということしか覚えていないのですが、おじいさんの飯ごうのことは今でも鮮やかに覚えているのです。

飯ごう自体はあえて何も語っていません。戦争の悲惨さを主張するわけでもなければ、食糧事情の厳しさを示すわけでもありません。ただそこにあるだけです。しかし、そこにあるだけで、ストーリーの「語られない部分」を私たちに問いかけてくれるのです。

 

■「もの」は人を考えさせる

ものに接したとき、あなたにどんな信条があって、どんな思想傾向があり、どのような世界観を持っているかなど、関係ありません。人は誰でも、目の前にあるものに意識を寄せる傾向があります。そしてこれこそが、ドラッカー話法の時に聞き手に高い認知への誘因を呼び起こす理由なのです。

これは簡単に言うなら、頭の中にあるイメージをその場で確認することによって、「語られることのないストーリー」をそれぞれがそれぞれの仕方で想像することでもあります。この想像する力はドラッカー話法にとってかけがえのない宝物です。実物が語る声に耳を澄まることで、自分自身の心の動きや、その所有者があえて言葉にしないことに気づくこと、背景にある感情や心の働きに目を向けていくことも有益です。世の中には、そのように「語られない」ことがたくさん存在しますし、それらを自らの想像力で一つのストーリーとすることには大きな意味があります。

これはビジネスの世界でこそ、不可欠な視点です。しかも最もパワフルな力とは見えないものを見ることにあります。

成功したベンチャーの経営者などには、他人の評価や客観的なデータなどものともしない、見えないものを見る力があります。この力は「構想力」とも呼ばれますが、この世界を構成する要素の中で、見えていないところに思いをめぐらせる起点となるのです。

 


 

4 ドラッカーの教え――自分固有のリズムで語る

 

 

対話には音声を必要としない。いや身振りすら必要としない。言語は一切の感覚的特性を捨てても、言語たり得るのである。――マルティン・ブーバー/植田重雄「対話」

 

 

 

  • 「ありふれた」素材ほど人を動かします。
  • 「誰もが知っていること」を違う視点から語るのがポイントです。
  • 聞き手にまかせる姿勢が効果的です。

 

 

 

 

■「ゆるさ」は資産

ビジネスの最前線に立つ人たちに語る場合など、困難やストレスを誘発する話よりも、しなやかでゆったりした話のほうが好まれると考えてよいでしょう。大きなストレスを抱える人たちに必要なのは弛緩であって、さらなる緊張ではないからです。

私たちは誰でも、仕事だけをして日々を暮らしているわけではありません。買い物をしたり、立ち読みしたり、テニスをしたり、庭いじりをしたりなどそれぞれの日常を送っています。

どんなに厳しいビジネス現場で心理的にも極限に追い込まれ、疲労がピークに達しているビジネスパーソンでも、自分の時間を一秒も持たない人はいません。私たちはどんなときも生身で生きているわけですから、いつなんどきも緊張しているわけではなく、緩んだ時間が必ずあるのです。

ドラッカーが使う言葉の技術、それがたとえ話です。たとえば話は「緩さ」を持ち味としながらも、効果絶大の話法です。

論理が頭脳的側面から働きかけるのに対し、たとえ話は心理的側面から働きかけ、聞き手をゆったりと落ち着かせます。

パフォーマンスを最適な形に調整するすぐれた方法と言えます。

たとえ話は認識の可能性を広げるというかけがえのない効果があります。状況を広い文脈から解釈し、分析し、どう機能させれば可能性が広がるかを触発することがたとえ話の役割と言ってよいでしょう。

そのためにドラッカーが重きを置くのは――

・なるべく本題と関係なさそうなところから題材をとること

・見えていない可能性を「見える化」するものであること

 

の二つです。

 

■「あるがままの目」

人は誰でも、「現状はこんなものだ」という固定的なイメージを持っているものです。

現状認識の多くは、「自分が見たいように見ている」に過ぎないもののようです。

自分で自分の認知の器にしっかりとふたをしめている状態です。

しかし、ドラッカーによる現状認知は、徹底してあるがままに状況を見ることにより、「そうであるかもしれない可能性」を見つけていくことです。

ドラッカーのコンサルティングで有名なものがあります。ある飲料会社の社長からの経営相談を受けたときのことです。ドラッカーは社長から現状の問題を長々と聞いたのち、こう聞くのです。

「あなたの会社は何をする会社ですか?」

社長は答えます。「飲料会社に決まっています」。

「本当はびんを製造する会社なのではないですか?」。

この瞬間に社長の頭に、自社が容器の会社なのだという可能性が浮かび、新しい展開の道筋が見えたというのです。

私たちが現実ととらえているものは、自分がそう思いたいから思っているものに過ぎません。人間は自分に関係のあることについてとても主観的です。ですから自分の観点や理解だけで状況を認知していたのでは、正しい状況認識とは言えないのです。

 

「人と社会をありのままに見る」。

ドラッカーがよく口にした言葉です。短くシンプルながら、観察上のポイントを射ています。 

その意味でも、たとえ話はやさしく認識変容を促すのに、とても効果的です。何よりたとえ話は視点を変えてくれます。そのための基本として、私たちは第三者の「あるがままの目」をどうしても必要とするのです。

だからこそ、日常生活の素朴なストーリーが価値を持つのです。ありふれた風景であっても、きちんと目を向けさえすれば、尽きせぬ泉のようにいくらでも、つめたくて澄んだたとえ話を汲むことができるからです。

 

あなたはこんなふうに首を傾げるかもしれません。

「別に私はそんな変わった日常なんか送ってない。当たり前に生活しているだけだし、そこに何か特筆すべきものなんか何もない!」。

間違いです。

反対に、日常という鉱脈から掘り取られた話であるほどに、説得力は劇的に増すものだからです。しかも、ありふれた話が、用い方によっては尋常でないまでの説得力を持つことはめずらしくありません。

 

■あなたの「ストーリー」はどこにある?

なにごとも仕込みがなければなりません。何もないとこらからストーリーが降ってわいてくるわけではないからです。

魚釣りを趣味としている人なら、ただ川や湖に行って釣り糸を垂れるほど単純なものでないことをよくご存じでしょう。しかけなどの準備を前々から行っておき、当日の天候もチェックして、身支度を整え、早起きしてようやく釣り場に到着するところまできます。ゴルフやジョギングもすべてそうです。

そのときにあなたを動かすものは、魚釣りやゴルフ、ジョギングへの欲求であり、思いです。

しかし、思いだけで現実化するわけではありません。どこへ行けば魚が釣れるか、どんな魚を釣りたいか、どんな条件でよく釣れるかなど、魚を釣るという目的を実現するための情報がなくてはならないからです。

さらには、釣りのスキルなどさじ加減を含む繊細なテクニックも必要になります。それらすべてをトータルに考えなければ目的を達成することはできないのです。

たとえ話にしても、事情はまったく変わりません。

あなたは流暢に見事なストーリーを交えたスピーチを聞いたことがあるに違いありません。「自分もあんな話ができればいいな」と思ったでしょう。

しかし、ドラッカー話法にもしっかりした準備が必要です。次にその話をしていくことにしましょう。

ドラッカー話法の多くはすでに知っていることのなかにあります。

これから新しいストーリーを手にするためにも、その生かし方を知ることが大切です。

また目的を定めないままに本や学校などで話のネタを手にしても、それをどこでどのように生かしたいと思った動機や生かし方がはっきりしなければ、せっかくの知識も宝の持ち腐れになってしまいます。

やはりドラッカーから学ぶべきことはそこなのです。

ドラッカーは、ストーリーを蓄積する際に、それを知識としてフル活用できるように整理しながら学ぶ習慣を身につけています。

学ぶほどに使える素材の範囲が広がり、さらに学ぶ量が増えていく、「知的拡大生産」をドラッカーは実践していたのです。

話の源はひとくくりにできるものではなく、大きくいくつかの引き出しに分けることができます。ドラッカーの場合、経営に加え、歴史、技術、芸術、宗教等かなりの多数に及ぶのですが、使えるストーリーを整理するには、引き出しごとに自分の知識の仕分けをしておくとよいでしょう。

ちょっとした日常の出来事でも、どの角度から解釈するかで効果はまったく違ってきます。一番いいのは、自分が好んで学ぶ傾向のあるところに関連できることです。

ほとんどの人にとっては知識の引き出しは偏っている傾向が見られます。

ドラッカーの場合、引き出しの偏りを調整するために、三年ごとに特定の領域を徹底的に学び、実際に活動して見てから、知識の偏向を調整していたことはよく知られています。

バランスのよいストーリーを蓄積し、そのストーリーを実践で生かすために日ごろから意識しましょう。後に詳しく述べるように、できればメモを取ったり日記をつけたりというのも有効です。

 

■語り口がものを言う

あったことをそのまま坦々と話すだけでは芸がありません。いくつかのポイントを念頭に置いておくといいと思います。

第一が、「その話が何を教えてくれるか」に力点を置くことです。

どんな話も、教訓とまでは言わなくとも、人生やビジネスの機微にふれる核みたいなものがあります。そこに意識できることが、すでに学びなのです。

それは自分から学ぶという感覚に近いものがあります。無意識に学んでいたことに意識を向けて、磨き上げていくということは、ある意味で最高の自己啓発ですから、この機会に自分が何を経験してきたか、何を知っているかを徹底的に洗い出すことを強く勧めたいと思います。

どんなふうに語るとこのポイントが引き立つかは、この後の事例を参考にしてみてください。

第二が、あまり上手に話そうとしないことです。詳細で流暢なほどに価値があるということではありません。

というのは、話とは、コンテンツ(内容)だけではないからです。それらを生かすための語り口や振る舞いを持つことで、話の力は倍増するものです。ですから、付け焼刃は厳禁です。武器になるのは今持っている経験や知識です。そして熱意です。

とはいっても、素材を求めてがつがつする必要はありません。一見関係ないと思われる分野の知識にも自分自身をオープンにしておくと、自分だけのささやかな話の素材はほぼ自動的に入ってくるのではないでしょうか。何より好きなもの、関心のあるものから話の素材は出てきます。自然体が一番です。

  

ショートストーリー④ 素敵なセーターはどちら?

九八年の冬のこと、私は寒風吹きすさぶニューヨークにいた。

五番通りとマディソン通りを入った五二番街のオムニ・バークシャー・ホテルを私は定宿としている。そのとき私は妻へのクリスマス・プレゼントを大至急あつらえる必要に直面していた。

ちょっと入ったところにはフェラガモの店がある。そこで軽めのセーターを物色していた。開店間もないのもあって人影はまばらだった。

ひょいと見ると店員さんと六〇あたりとおぼしきご婦人がなにやらやり合っている。ご婦人はグリーンのセーターを手にしていた。かたや店員さんはオレンジのを持っている。どっちがいいか決めかねているようだ。

私はいいのがないかと奥に入っていった。どうもぴんくるものはない。あきらめて店を後にしようとした。店員さんとご婦人はまだわあわあやり合っている。

店員さんはオレンジ派のようだが、ご婦人はグリーンも捨てがたいといった様子。まさに店を出ようとしたそのとき、誰かに呼ばれた気がした。

「そこのお兄さん」ご婦人が私を呼び止めたのだ。その証拠に明らかに私にむかって手を振っている。

「私?」

「そう、あなた。あなたなら決着をつけられると思うの」。

私はファッション・センスはゼロで、これが美しい謙遜でないのは妻を筆頭に私の知人友人のなかで女性の戸籍を持つ者なら知らぬ人はない。セーターの素敵さ加減を尋ねるのに私ほどふさわしくない人物もいないと断言できる。このご婦人は、そのありえない質問をしているのだ。

「お兄さん、どっちが似合うかしら?(店員をさして)この方はオレンジがいいって言うのよ。あたしはぜったいグリーンなんだけどさ」。

あくまでも私の感覚ではという強力な留保条件付きながら、グリーンかなという気がした。

「グリーン……、ですかね」。私が言うと、彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、店員に向き直った。

ご婦人は続けた。「でもオレンジがだめって言うわけではないのよ」。

「失礼ですが、どちらから?」私は尋ねた。

「ロンドンなんだけど、わりにしょっちゅうニューヨークにも来るの」。

素朴な疑問を口にしてみた。「じゃ、二つ買ってはいけないんですか?」

はっとした表情が浮かんだ。「そうね、何でそれに気づかなかったのかしら。ニューヨーク用、ロンドン用に一着ずつ持っていてもいいわね。別に二着買う手持ちがないわけではないんだし」。

私は店員さんを見た。言うまでもなく満面の笑みだ。ご婦人に見えないように、小さく親指を上に向けた。私も思わず頬が緩んだ。「お役に立てたらうれしいです」と婦人に言った。「お兄さん、ありがとね」と彼女も返してくれた。

赤の他人の意見ほどいざというときあてになるものはない。友の助言が勝率を二倍にするなら、赤の他人の助言は勝率を十倍にする。

ご婦人が店員にさほど信を置いていないのははっきりしていた。それでもセーターは気に入っていた。ご婦人は情報をきちんと交通整理してくれる誰かが必要だったのだ。そのときたまたま通りかかった人(この場合は私)が、うってつけの役だったわけだ。

赤の他人の私からすればセーターを二つとも勧めて得することなど何もない。利害関係にないからだ。だから、売る側からしても、利害関係にない人の意見はものすごく頼りになる。

 

■聞き手にまかせる――「何を語らないか」

それともう一つ。

可能性に気持ちを向けられるのがドラッカー話法の持ち味です。

ドラッカー話法の達人は、「何を語らないか」にも意識を向けているものです。

そしてそこが最も大切なのですが、そのような達人は、「すべてを語らない」重要性も知っているのです。つまり、語らない部分は聞き手に補ってもらうという柔軟な姿勢も、伝える姿勢としてなくてはならないものです。

足りない部分は、自分は知らなくてもいいのです。論理的な話で聞き手に委ねるのは許されませんが、たとえ話では、聞き手の想像力に任せてしまうことが十分に可能です。

 

その点でもドラッカーに学ぶことがたくさんあります。

ドラッカーは日本画のコレクターでした。ご覧になった方はわかると思いますが、水墨画とか禅画は、一瞬の筆さばきで、見事な空間を創造します。要はこの世界の空間を大胆に省略するのです。そこにドラッカーは鋭いリアリティを感じたのでした。

ですから、詳細だからといって説得力があるわけではないのです。話すときも同じです。かえって省略のしかたが個性を際だたせることも多いものです。要点を絞ることで、かえって詳細に話すよりリアリティが出てくることもあります。

 

当然のことですが、あなたの話を聞く人たちの思いは、それぞれに違います。ただただ情報を得たいと思っているだけの人、次の朝礼に生かせる話が聞きたいと思っている人、すぐに儲かる話に興味のある人などなど・・・。

それぞれ聞きたいことがあるのです。

しかし、いい話を聞いているとき、人は頭がくるくると回り始め、心の中でもう一人の自分との会話が始まるものです。そしてはっとさせられるのです。

 

・自分のやりたいことって何だったのか

・次に目指すべき道は何だろうか

・過去にあったあの出来事の意味は何だったのか

 

ドラッカー話法には、そんな自問自答を通して、はりつめた心を溶かしてしまうくらいの力が実際にあります。

初めは混乱し、不安、恐れ、緊張のなかにあった人が、たった一つの話だけでかつて感じたことのない温かな感情に満たされてしまうこともあります。

それは聞き手本人の心の中にある何か温かいものが、ストーリーという回路を通って引き出されるからです。

聞き手には聞き手の想像力や経験、感情があります。ドラッカー話法は学習の回路を開く宝物の鍵のようなものかもしれません。

ですから、解釈とか注釈を入れすぎず、なるべくフラットに、自分が感じたことをそのまま語ることが大きな効果を持ちます。正確に説明しないと伝わらないのではないか、と不安になる必要はありません。聞き手には少なくとも、あなたの「何かを伝えたい」という熱意はしっかり伝わっています。

基本スタンスは、「聞き手にまかせること」、それに尽きます。

 

■ロジカル・シンキングにできないこと

そのときに一つ、大事なことがあります。

ドラッカー話法はいわゆる論理とは違い、あらゆる人によって等しく同じに受け取られるわけではありません。このところは誤解のないようにしてください。

もしあらゆる人間に等しく受け入れられるようなストーリーであるとすれば、それは正しい意味でのストーリーではないのです。ドラッカー話法は誰もが認識できる論理の公式のようなものではなく、人によってまったく異なる解釈を許すものでなければならないのです。

そこには話し手に対する畏敬の気持ちと、ひたすら相手を受け入れる受容的(レセプティブ)な内的条件が整っていないと、ドラッカー話法の示す核心に迫ることはできません。

ですから、もし誰かにドラッカー話法で話をしようとするとき、相手が合理的で科学的な、言い換えれば批判的で拒否的な態度で向き合ってくるときには、何を話しても疲労感しかない状態にもなりえます。

反対に、その人の中に本当に話し手の心を受け入れたいという条件が整っている場合には、ドラッカー話法は奇跡的と言っていいほどの説得力を持ちます。そのときはもはや科学など問題にならないような、ある種の共同体験にさえ迫っていきます。

ですから、聞き手にまかせるときには、聞き手の内面の状態、内的条件を見る眼がぜひとも必要になるのです。

うっかり聞き手の内的条件を問題にすることなく話してしまうと、ある意味では聞き手に対しても失礼ですし、反感しか持てないということもあるのです。そのようなときには、沈黙せざるをえないかもしれません。

一方で、自然科学の場合などは、数式などで誰にでも伝えることができるし、相手が批判的拒否的な態度をとることがかえって説得力を高めることにもなるのです。

要は何が言いたいかというと、ドラッカー話法をどう受け止めるかは、それぞれの個人的で主観的なものであって、聞き手の内面的成熟や感受性、美意識に依存するということなのです。

ですから、そもそもストーリーとの出会いに絶対に必要な内的条件があるのです。それがロジカル・シンキングと全然違った点です。

その部分を飛ばして、ロジカルに説明しようとすると、あるところまでくると行き止まりになってしまって、同じところをぐるぐる回り始めるようになります。

 

■聞き手を選ぶ

もちろんロジカルな説明が不必要というのではありません。論理のなじむところでは、ロジカルな説明がふさわしいところも少なくはありません。ただし、聞き手を量ではなく質的存在と見るときには、大切なのは何といっても聞き手に合わせた話し方をすることです。

自分に合わせた話し方を採用してはいけないのです。

まず自分を無にしてそして聞き手のところに自分をもっていかなかったら、ストーリーを媒介する絆が育まれません。

時には聞き手は批判的で斜に構えた姿勢をとってくるかもしれません。そのときは、「そのような姿勢をとらせているのは何か」「その姿勢の奥底には何が潜んでいるのか」ということを見ることからはじめなければいけません。

そのときに自分に意識が行っていたらうまくいかないでしょう。自分が相手をどう見るかが何よりだいじであって、相手が自分をどう思うかは二の次なのです。

それから、自分はこんな知識を持っているんだという姿勢ではだめです。大切なのはどこまで聞き手の心に近づいていけるかというところで、そこがドラッカー話法で説明する際の最大の勝負ポイントなのです。

そして、結果として、あの人の話が聞けてよかった、あの人と会えてよかった、少し気持ちが楽になったし、気づけば共感が寄せられたということであれば、それだけでドラッカー話法の言語は聞き手に通じたということになります。

ロジカルな言語はけんかの言語です。それに対してドラッカー話法の言語は調和の言語です。どんなにロジカルに相手をやっつけても、優位を示しても、当人が憎しみや屈辱感しか持てなかったら、それは何も語っていないどころか、何も語らないほうがはるかにましということなると思います。

ですから、ドラッカー話法を聞く人の内部で何が進行しているのか、それが知的関心なのか、悩みなのか、渇望なのか、そのような相手の内面にまで下りて行ってそれを実感できることが話し手の大切な資質なのかもしれません。