ポストモダンの言葉

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ドストエフスキイの墓所(サンクトペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー修道院)

 

「二つの対立する考え方があるってわけね?」と208。

「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」

「殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。

「多分ね」と僕。「殆んど誰とも友だちになんかなれない」

それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。 

村上春樹『1973年のピンボール』

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科学的客観性

「科学的客観性」と呼ばれるものは、科学者個人の不党派性の産物ではなく、科学的方法の社会的もしくは公共的性格の産物であり、科学者個人の不党派性は、それが存在する限りで、この社会的に或いは制度的に組織された科学の客観性の源泉ではなく、むしろ結果である。K・ポパー/小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』未來社

 

 

「知りません。教えてください」

自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知っていそうな人、その答えにたどり着ける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。

それだけです。

「それだけ」というわりにはけっこう大仕事ですけど。

喩えて言うと、こんな状況です。

道を進んでいたら、前方に扉があった。そこを通らないと先に進めない。でも、施錠してある。とんとんとノックをしたら、扉の向こうから「合言葉は?」と訊かれた。さて、どうするか。

「学び」とは何かということを学んできた人にとっては、答えは簡単です。

「知りません。教えてください」です。扉はそれで開きます。

「合言葉」というものはこれまでの道筋のどこかに置いてあったり、売っていたりして、それを自分はうっかり見逃したのだと思っている人は、あわてて来た道を戻ったりしますが、もちろんどこにもでき合いの「合言葉」なんて売ってはいません。学びの扉を開く合言葉は「知りません。教えてください」なんです。

内田樹『街場の教育論』


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小さな白い石

私は机の上に小さな白い石を置いている。これは聖書のヨハネ黙示録のなかの神秘的な一節を指している。それは次のようなものだ。「霊が告げた。勝利を得るものには、白い石を与えよう。その石には、これを受ける者だけが知りうる新しい名が記されている」。

私は聖書学者ではない。しかし、私がこれを自分でどう解釈するかは知っている。もし「勝利を得る」なら、その結果として、私の真にあるべき姿、すなわちもう一つの隠された自己を見出すだろう、ということを意味しているのだ。人生は、白い石の探求なのである。人によってその白い石は異なる。もちろん、「勝利する」ということが何を意味するかにもよる。思うに、これは、人生のささやかな試練を通過することを意味する。そうして初めて自由に完全に自分自身になれる。そしてそのとき、自分の白い石を手にすることができる。

チャールズ・ハンディ『ハングリー・スピリット』

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ふだん通りのこと

「おっと、こうしちゃいられない」

地獄への道はこの言葉によって舗装されている。これは長く生きてきてわかったことの一つである。みんなそうつぶやきながら破滅への道を疾走して行った。

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだん通りのこと」ができるかどうかを自己点検した。まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。別にこれは「次にいつご飯が食べられるかわからないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。

状況がじたばたしてきたときに、「ふだん通りのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。

内田樹『街場の大学論』


壁と卵

高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。

村上春樹「エルサレム・スピーチ」


結び合わせるパターン

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先日私の属しているカリフォルニア大学理事会の面々に、西洋における教育の欠陥を訴える手紙を書いていたとき、図らずもこんな一節がまぎれ込んでいたのを覚えている。

「学習する事柄を結び合わせるパターンを壊してしまうこと、それはすなわち質の破壊にほかなりません。」結び合わせるパターン--これは本書のタイトルと同義である。これをもって本書のタイトルとしてもいいくらいの言葉である。

結び合わせるパターン。どうして学校ではこんな大切なことについてほとんど何も教えないのだろう? ひょっとしたら教師たちは、自分たちが死の接吻の運び手であり、触れる物ことごとくを味気ないものに変えてしまうということをわきまえていて、真に重要なものには何一つ触れるまい、教えるまいと賢くも考えているからなのだろうか。それとも、真に重要なものを敢えて教えようとしないからこそ、彼らは死の接吻の運び手になっているのだろうか。

グレゴリー・ベイトソン/佐藤良明訳『精神と自然--生きた世界の認識』思索社

 


知識人の役割

知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族なりがこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけることである。

エドワード・W・サイード/大橋洋一訳『知識人とは何か』平凡社


アマチュアリズムと知的独立

知識人が相対的な独立を維持するには、専門家ではなくアマチュアの姿勢に徹することが、なにより有効である。

エドワード・W・サイード/大橋洋一訳『知識人とは何か』平凡社


しかし、月と名づけられたきみをあいかわらず月とよんでいるのは、もしかしたらぼくが怠慢なのかもしれない

カフカ/前田俊作訳『カフカ全集2』新潮社

 


内的平静

内的平静の瞬間を確保し、その時間の中で本質的なものと非本質的なものとを区別することを学べ。

シュタイナー/高橋巌訳『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

 


ぜんたいとしては人生を祝福しなさい

「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールに口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。

「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。

「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」

「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」

私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。

「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」

「だから人生を限定するの?」

「かもしれない」と私は言った。「僕はきっと君の御主人にかわってバスの中で鉄の花瓶で殴り殺されるべきだったんだ。そういうのこそ僕の死に方にふさわしいような気がする。直接的で断片的でイメージが完結している。何かを考える暇もないしね」

私は芝生に寝転んだまま顔を上げて、さっき雲のあったあたりに目をやった。雲はもうなかった。くすの木の葉かげに隠れてしまったのだ。

「ねえ、私もあなたの限定されたヴィジョンの中に入りこむことはできるかしら?」

と彼女が訊いた。

「誰でも入れるし、誰でも出ていける」と私は言った。「そこが限定されたヴィジョンの優れた点なんだ。入るときには靴をよく拭いて、出ていくときにはドアを閉めていくだけでいいんだ。みんなそうしている」

村上春樹『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』

 


人が悪の道具にされるとき

ナチスの大量殺人者アイヒマンについての本の中で、ドイツ系アメリカ人の哲学者、故ハンナ・アーレント女史は、「悪の平凡さ」について書いた。だが、これほどに不適切な言葉はない。悪が平凡なことはありえないのである。往々にして平凡なのは、悪を成す者のほうである。

アーレント女史は、悪を成す大悪人という幻想にとらわれている。しかし、現実にはマクベス夫人などほとんどいない。ほとんどの場合、悪を成すのは平凡な者である。悪がヘンシュやシェイファーを通じて行なわれるのは、悪が巨大であって、人間が小さな存在だからにすぎない。悪を「闇の帝王」とする一般の言い方のほうが正しい。

主の祈りが「試みに遭わせず、悪より救い給え」というのは、人が小さく弱いからである。いかなる条件においても人が悪と取引をしてはならないのは、悪が平凡だからではなく、人が平凡だからである。それらの条件は、常に悪の側からの条件であり、人の側からの条件ではないからである。

ヘンシュのように、自らの野心のために悪を利用しようとするとき、人は悪の道具とされる。そしてシェイファーのように、より大きな悪を防ぐために悪を利用しようとするとき、人は悪の道具とされる。

これまで長い間、私は、つまるところ、彼ら怪物と小羊の二人のうち、いずれが行なおうとしたことのほうがより大きな害を成したか、ヘンシュの権力への欲求とシェイファーの自己への過信の、いずれがより大きな罪だったかを考えてきた。

しかし、ようやく私は、おそらく最大の罪は、これら昔からの二つの悪ではなかったと考えるに至った。おそらく最大の罪は、二〇世紀に特有の無関心という名の罪、すなわち、殺しもしなかったし嘘もつかなかった代わりに、賛美歌にいう「彼らが主を十字架につけたとき」、現実を直視することを拒否したあの学識ある生化学者による罪のほうだったと考えるに至っている。

ピーター・F・ドラッカー/上田惇生訳『傍観者の時代』


 

悪の力に対して闘うマントラ

1 「なにが他人への関心を失わせるのか?」

2 「なにが無意識に相手の弱点を探して、相手を支配しようとさせるのか?」

まず、「なにが他人への関心を失わせるのか?」--これはなんでもない言葉のようにみえますが、私にとってはとてもだいじな聖句(マントラ)です。なんのためのマントラかというと、「悪の力」に対して闘うときのマントラです。

もう一つの「なにが無意識に相手の弱点を探して、相手を支配しようとさせるのか?」も同様ですが、第一のマントラが「ルツィフェル」的な悪に対する呪文であるとすれば、このマントラは「アーリマン」的な悪に対するマントラです。共同体との関係で「悪」が問題になるときには、基本的には、この二つの方向があると思います。

高橋巌『神秘学概論』


 

 

隠喩
もっとも偉大なのは隠喩(メタファー)の達人である。

アリストテレス『弁論術』

 


東大話法とは?

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。

規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。

規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。

規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。

規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。

規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。

規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。

規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を始める。

規則14 羊頭狗肉。

規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。

規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。

規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。

規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。

規則20 「もし〇〇であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

安冨歩『幻影からの脱出--原発危機と東大話法を越えて』明石書店

 


正真正銘の真実

ミッチェル・サンダーズが静かに言った。「この話の続きをお前は信じないと思う」
「信じないかもしれない」と私は言った。
「信じないさ。その理由がわかるか?」
「どうしてだろう?」
彼は疲れたような笑みを浮かべた。「それが実際に起こったことだからさ。ひとことひとことが正真正銘の真実だからさ」

 ティム・オブライエン/村上春樹訳『本当の戦争の話をしよう』文春文庫

 


一貫した自分なんてどこにもない

今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自分なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。

村上春樹「『海辺のカフカ』を中心に」『文学界』2003年4月号


地球村

電子技術による新しい相互依存は、世界を地球村のイメージで創りかえる。

巨大なアレクサンドリア図書館の建設にむかうかわりに、世界それ自体が、まさに初期の頃のSF本に書かれていたのとそっくりに、コンピューター、電子頭脳となったのである。そしてわれわれの感覚が外にむかったように、ビッグ・ブラザーはわれわれの内へとむかう。

マーシャル・マクルーハン/森常冶訳『グーテンベルクの銀河系』みすず書房


沈黙が伝えるもの

相互に激しい言葉のやりとりがあっても、対話とはならないように(ディスカッションの語源が元来撲り合う意であるが、ある程度思考力のある人間がやりあの奇妙な言語のスポーツともいうべきものが、これにはもっともよくあてはまる)、対話には音声を必要としない。いや身振りすら必要としない。言語は一切の感覚的特性を捨てても、言語たり得るのである。

マルティン・ブーバー/植田重雄「対話」岩波文庫


人に統一を与えるのは何か

メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様的に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが〈なんじ〉と呼ぶひとの場合にもあてはまる。わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう。

マルティン・ブーバー/植田重雄「我と汝」岩波文庫


 

成熟

男の成熟、--それは子供の頃に遊戯の際に示したあの真剣さを再び見いだしたことを言う。

ニーチェ/木場深定『善悪の彼岸』岩波文庫


 

着手の哲学

してみてよきにつくべし

世阿弥

 


小さくはじめる

神の経綸なるものは最初は極く小さく造り、漸次拡がって終には世界大となる。

岡田茂吉

 


苦しむ勇気 

涙を恥じることはない。この涙は苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。

V・フランクル

 


成功を目指してはならない

成功を目指してはならない--成功はそれを目指し目標にすればするほど遠ざかる。幸福と同じく、成功は追求できるものではない。それは自分個人より重要な何かへの個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように結果として生じるものだからである。

V・フランクル

 


われわれを過去へと押し戻すもの

大方の予想に反して、われわれを過去へと押し戻すのは未来である。つねに過去と未来のはざまに生きる人間の観点から見ると、時間は連続体つまり途絶えることなく連続する流れではない。時間は中間すなわち「彼」が立つ地点で裂けている。そして「彼」の立つ地点は、われわれが通常理解しているような現在ではなく、むしろ時間の裂け目である。しかもこの裂け目は「彼」の絶えざる戦い、「彼」が過去と未来に抗することによって存在する。人間が時間のうちに立ち現れることによってのみ、また人間が自らの場を占めるかぎりでのみ、無差別な時間の流れは断ち切られ、[過去・現在・未来の]時制となる。この人間の立ち現れこそ、時間の連続体を過去と未来の力へと分裂させるのである。それはアウグスティヌスの言葉を用いれば一つの始まりの始まりである。

アレント『過去と未来の間』みすず書房

 


そう、それで十分

ぼくはありのままに存在する、それで十分、たとい世間が誰も気づいてくれなくたってぼくは平気だ、たとい誰もが注目したって、それでも平気だ。

ウォルト・ホイットマン「ぼく自身の歌」

 


「生きる理由がある」

倒れかかった建物は--矛盾するようでも--それに重みをかけるとかえって支えられ強められるものです。人間でも似たりよったりで、つまり外的な困難に応じて彼の内部の抵抗力も増すように思われるのです。この前提となるのはむろん--すでにこの前指摘したとおり--「生きる理由がある」ことで、ニーチェをもう一度引用しますが、そのとき初めて人間は「どんな事態にも耐えられる」わけです。

ヴィクトル・フランクル/宮本忠雄訳『時代精神の病理学』


時代の道標

わたしが歌うフォークソングには、気楽なところはない。親しみやすくもないし、心地よい甘さにあふれてもいない。やさしく打ち寄せる波とはちがっている。商業性が欠如していると言ってもいいだろう。それだけではなく、私のスタイルは型破りであり、ラジオの枠組みの中で分類するのはむずかしかった。

わたし自身にとっても、歌は軽い娯楽ではなく、もっと重要なものだった。歌とは、異なる現実の認識へ--異なる国、自由で公平な国へ--導いてくれる道標だった。

ボブ・ディラン/菅野ヘッケル訳『ボブ・ディラン自伝』

 


「なにが」より「どのように」

重要な点は、なにが考えられているかではなく、どのようにそれが考えられているかということである。

エーリッヒ・フロム/日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社

 


観察者と観照者

観察者は、観察すべき人間をよく記憶し、記述するために緊張している。これに反して、観照者は概してこのような緊張をおこすことはしない。彼は自由に対象を見れる態度をとり、自分に示されるものを、虚心に待ちうける。ただ始めのうちは、彼の思慮がはたらくけれど、その後になるとすべて恣意的なものは消滅する。彼は記述することはひたすらおこなわず、生起するものをそのまま生起させ、忘れることすらおそれない。(忘れることはよいことである)とすら彼はいう。彼は記憶に課題を与えたりはしない。彼は残るに値いするもののみを残し、記憶の有機的働きに委せきっている。彼は観察者のように草を緑の飼料として運びこむことはしない。彼は干し草を投げて裏返し、太陽の光を当ててやる。彼は特徴に注意をはらわない。(特徴は誤りにおちいらせると彼はいう。)重要なことは、対象の〈特質〉や〈表示〉ではない。(興味をひくことは重要ではないと彼はいう。)すべてすぐれた芸術家は観照者である。

マルティン・ブーバー/植田重雄訳『我と汝・対話』岩波文庫

 


反対が真実かもしれない

今まで送ってきた生活が、掟にはずれた間違ったものだという疑惑が、真実なのかもしれないのである。社会で最高の位置を占めている人々が善と見なしていることに、反対してみようとするきわめて微かな心の動き――これこそ本当の生活なので、そのほかのものはすべて間違いかもしれない、こうした考えが彼の心に浮かんだのである。勤務も、生活の営みも、家庭も、社交や勤務上の興味も――すべて間違いだったかもしれない。彼はこれらのものを、自分自身に向かって弁護しようと試みた。しかし、とつぜん、自分の弁護しているものの脆弱さを痛切に感じた。それに、弁護すべきものすら何もなかった。

トルストイ『イワン・イリッチの死』


心理療法の最上の格率

忘れることのできないのは恐らくあらゆる心理療法の最上の格率となしうるであろうゲーテの次の言葉である。「われわれが人間を彼らがあるがままに受け取るならば、それはよい扱い方ではない。われわれが彼らを、彼らがそうあるべきであったかのように取り扱うならば、われわれは彼らの行くべき方向へと導くのである」

フランクル/霜山徳爾訳『死と愛』みすず書房

 


歴史が事実を語るとき

事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時だけ語るものなのです。

E. H. カー/清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書、1962年

 


欠点に言うべきこと

善人は弱さや欠点さえ味方につける。自慢のたねがわが身に害にならなかった者がひとりもいなかったように、欠点がどこかでわが身のために役に立たなかった者もひとりもいない。……誰しも生きているあいだは、自分の欠点に感謝する必要がある。……われわれの強さは弱さから生い茂ってくる。

エマソン「償い」

 


小さな対象を相手に

さしあたっては、いつも専ら小さな対象ばかりを相手にし、その日その日に提供されるものを即座にてきぱきとこなしていけば、君は当然いつでもよい仕事をはたして、毎日が君に喜びをあたえてくれることになるだろうよ。まずその仕事を年鑑とか雑誌などに出すのだね。それも、決して他人の依頼に応じないで、いつでも君自身の考えどおりにやりたまえ。

エッカーマン/山下肇訳『ゲーテとの対話』(上)岩波文庫

 


熟慮からはじまる

見識ある判断とは熟慮から生ずるもので、衝動的なものではなく、本源的なものであって、にわかに生ずるものではない。それは、皮相の背後へと突き入って真理と目されるものにまで達しようとした後に初めて到達される結論である。

ラスキ/飯坂良明『近代国家における自由』岩波文庫

 


成功より価値

成功した人間になろうとするな。むしろ、価値ある人間になろうとせよ。

アインシュタイン『ライフ』誌1955年2月

 

 


すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる

人類の偉大なる産物は(略)無用なる読書、また無用なる思索の中から生まれたのであることを忘るべきでない。

先年私が慶応義塾長在任中、今日の同大学工学部が始めて藤原工業大学として創立せられ、私は一時その学長を兼任したことがある。時の学部長は工学博士谷村豊太郎氏であったが、識見ある同氏は、よく世間の実業家方面から申し出される、すぐ役に立つ人間を造ってもらいたいという註文に対し、すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ、と応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立した。

すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。(略)すぐに役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである。

小泉信三『読書論』(岩波新書、1950年)

 


〈うつろな人間たち〉

「僕はごらんのとおりの人間だから、これまでいろんなところで、いろんな意味で差別を受けてきた」と大島さんはいう。

「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。

だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。

ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う〈うつろな人間たち〉だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。」

 村上春樹『海辺のカフカ』

 


時間は心の中を流れる

とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。すべての人間はそれにかかわりあい、それをよく知っていますが、そのことを考えてみる人はほとんどいません。たいていの人はその分けまえをもらうだけもらって、それをいっこうにふしぎとも思わないのです。この秘密とは――それは時間です。

時間をはかるにはカレンダーや時間がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。

なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。

ミヒャエル・エンデ『モモ』



観察者の任務

思うに、観察者であることはしばしばまことにうらがなしいことだ、それは警官にも似たメランコリーにひとをひき入れる。また実際、自己の職務を首尾よく果たす観察者は、高等な任務をおびた密偵とも見られうる。観察者の技術は隠されたものを明るみへ持ち出すことだからである。

キルケゴール『反復』

 


沈黙で失敗する者はいない

「沈黙で失敗する者はない。」このいささか風変りな言葉は、さまざまな社会的地位にあって、成功を収め人に抜きんでた私の親友の一人が、いつも口にしていた文句であった。実際、きわめて多くの面倒で不愉快な人生のいざこざも、しばしばこのやり方で、たやすくきり抜けることができる。これに反して、多くの人が愛好する「自分の意見発表」は、たいていただ双方の意見のくいちがいを一層きわだたせるだけで、時には事態を収拾のつかないものにしてしまうことがある。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために』

 


真面目になること

宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肘を乗せる。肘で前に出した顔を支える。そしていう。

「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」

「救いに・・・」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押し付けるようにしていう。--

「こういう危うい時に、生れ付きを敲き直して置かないと、生涯不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しは付かない。此所だよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそういう経験があるかい」

小野さんは首を垂れた。

「なければな、一つなって見給え、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。--法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。--しかしそう無神経なら今日でも、こう遣って車で馳け付けやしない。そうじゃないか、小野さん」

夏目漱石『虞美人草』

 


一端に触れれば世界の果てまで反響する

余の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これは全然無意味なようであるが、しかし実際は正しいことなのである。なぜというに、一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触しているが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。

ゾシマ長老の追憶の場面、ドストエフスキイ/米川正夫訳『カラマゾフの兄弟』

 


貧富を分けるもの

翁はこう言った。

将来のことを考える者は富み、目先のことだけを考える者は貧する。将来のことを考える者は百年後のために松杉の苗を植える。まして春に植えて秋に実るものはなおのことだ。それゆえ富裕だ。

目先のことだけを考える者は、春に植えて秋に実るものをなお遠いといって植えない。ただ目の前の利益に迷って、蒔かないでとり、植えないで刈り取ることばかりに目をつける。そのために貧窮する。

蒔かないでとり、植えないで刈る者は、目の前に利益があるようだが、一度とれば二度と刈ることはできない。蒔いて取り、植えて刈る者は、年々尽きることがない。そのために無尽蔵なのだ。

二宮尊徳『二宮翁夜話』中央公論社

 


パン屋のリアリティー

僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル――そういうものがもしあればということだが――を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原形が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。小説というのは多かれ少なかれそういうものである。リアリティーというのもそういうものである。パン屋のリアリティーはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない。

村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』講談社文庫

 


真摯さって、何だろう?

「マネジャーの仕事は、体系的な分析の対象となる。マネジャーにできなければならないことは、そのほとんどが教わらなくとも学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。才能ではない。真摯さである。」

みなみは、その部分をくり返し読んだ。特に、最後のところをくり返し読んだ。

――才能ではない。真摯さである。

それから、ポツリと一言、こうつぶやいた。

「・・・真摯さって、なんだろう?」

ところが、その瞬間であった。突然、目から涙があふれ出してきた。

それで、みなみはびっくりさせられた。自分がなんで泣くのか、よく分からなかったからだ。しかし、涙は後から後からあふれてきた。それだけでなく、喉の奥からは嗚咽も込みあげてきた。

おかげで、みなみはもうそれ以上本を読み進めることができなくなってしまった。そのため、本を閉じると机の上に突っ伏し、しばらく涙があふれるのに任せていた。

読み始めてからだいぶ時間が経ち、もう日も暮れかけて薄暗くなった自分の部屋で、みなみは一人、しばらくさめざめと泣き続けていた。

岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』ダイヤモンド社