分身との対話

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以下は、2001年以来、断続的に行われてきた井坂康志と上田惇生(ドラッカー学会学術顧問、ものつくり大学名誉教授)との対話である。ドラッカーのポストモダン性を意識したところに特徴がある。

 


ドラッカーを巡る対話

 

2001年6月9日~7月28日

 ① なぜ、いま再びドラッカーなのか

井坂 今、再びドラッカーブームが起きています。

上田 世界中で、「あの人の書いたものは必ず読む、講演は必ず聴く」といわれる三人の経営学者がいる。経営の師の師といわれるピーター・ドラッカー、『エクセレント・カンパニー』(一九八二年)のトム・ピータース、経営戦略論のマイケル・ポーターである。中でも群を抜いて人気があり、尊敬されているのがドラッカーである。

書くものはすべてベストセラーになる。世界中で翻訳されて読まれる。社員の数だけ購入するという企業がある。この状態が六〇年続いている。九一歳だが、GE、GM、IBM、生まれたばかりのベンチャー、あらゆる種類のNPO、各国の政府、政府機関、地方自治体のコンサルタントを現在も行っている。

彼が住み、教鞭をとる(クレアモント大学院大学のある)カリフォルニア州クレアモントは、千客万来である。一〇日に一度はファックスのやりとりをしているが、今週は日本のトップ企業、某国の首脳、来週は中国の政府機関、カナダの州政府一行というように、よく体がもつと思われるほど人と会っている。

コンサルタントとは相談を受けることだ。問題があるから相談にいく。ドラッカーのところには毎週、毎月、世界中の組織の抱える問題が押し寄せる。彼には最新の世界がよく見える。

ある企業は、世界の最先端を走っているにもかかわらず、さらに先を行くために、現在の成功から、さらにいかに進むべきかを聞きにいく。ある企業は、世界で一、二のシェアを誇りながら、さらにグローバル化するためには、いかに人事すべきかを聞きにいく。すでにテイクオフした新興国の首脳が、お忍びで先進国入りの手だてを聞きにいく。

ドラッカー学会設立の動きも

ドラッカーが『ウォールストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』『ジ・エコノミスト』『ハーバード・ビジネス・レビュー』『フォーブズ』に書けば、その日の昼にはウォール・ストリートやシティで話題になる。現在も「ネクスト・ソサエティ(次の社会)」という題で大部の論文を書いているところだ。また話題を呼ぶだろう。

日本でも新聞、雑誌にインタビュー記事が載ると、経営者や経済学者が参考にし、引用する。NHK、民放のドラッカー特番の視聴率は、つねに高率であって再放送が繰り返される。

さすがに高齢で海外講演は控えているが、衛星やビデオによる講演会には数百人のビジネスマンが集まる。巨大スクリーンとテレビ受像器五〇台を並べた大会場に、三〇〇〇人もの人が詰めかけたのを見たことがある。ドラッカー本人のいないドラッカー・セミナーも満員。各地、各社でドラッカー研究会が開かれている。ドラッカー学会結成の動きもある。

ドラッカー自身、今年の末から来年にかけて二冊の新著を書き上げる予定だが、ドラッカーについての本も続々と出ている。日本だけでも、ジャック・ビーティ『マネジメントを発明した男 ドラッカー』(ダイヤモンド社)、枝川公一『巨人ドラッカーの真髄』(太陽企画出版)、竹村健一・望月護『ドラッカーの箴言 日本は、よみがえる』(祥伝社)、小林薫『ドラッカーとの対話――未来を読みきる力』(徳間書店)といった具合だ。

 

数知れない彼に教わったCEO

ドラッカーが発明したとさえ言われるマネジメントのブームは、戦後のフォード再建とGEの組織改革の成功をきっかけとして、一九七〇年頃まで続いた。

ところがドラッカーだけは、このマネジメントブームが去ったあとも読み継がれた。今日の転換期を予告した『断絶の時代』(一九六九年)、高齢化社会の到来を知らせた『見えざる革命』(一九七六年)、バブルの危険を警告した『乱気流時代の経営』(一九八〇年)、起業家精神についての嚆矢の書ともいうべき『起業家精神とイノベーション』(一九八五年)、ソ連の崩壊を予知した『新しい現実』(一九八九年)、今日の転換期の行方を活写した『ポスト資本主義社会』(一九九三年)、ビジネスの前提と現実が変わったことを知らせた『明日を支配するもの』(一九九九年)……と続いたのだから当然といえば当然である。

そのドラッカーが今再びブームだ。ソニーの出井伸之会長も言うように、断絶の時代はいよいよこれからがクライマックスとの認識が日々深まっているからであろう。

世界中の企業トップが、彼の書くものは必ず読むというが、ドラッカー・ファンの経営者は数知れない。名前を挙げろといわれても挙げられない。私のことを忘れたかといわれるのがおちだ。

ある中堅企業のオーナーは、マネジメントについては、ドラッカーの言うとおりにやっただけだという。ある大企業幹部は、就職した後、大学に残って学問の道を進むか、官庁に入って国のために働くべきだったかと悩んでいた。そのとき、世界で五〇〇万部、日本だけで一〇〇万部という大ベストセラー、経営学の古典『現代の経営』(一九五四年)の冒頭の言葉、「経営管理者は事業に命を吹き込むダイナミックな存在である。彼らのリーダーシップなくしては、生産資源は資源にとどまり、生産はなされない」を読み、選択は正しかったと勇気百倍したという。そのような人が無数にいる。

経済学者、経営学者、評論家も多くがドラッカーのファンだ。ドラッカーの話を聞こうとツアーが組まれる。すると、経営コンサルタントが多く参加する。経営の先生方の先生がドラッカーである。師の師といわれるゆえんである。

経営上の理念や手法の主なものは、ほとんど彼が草分けである。コアコンピテンスもカンパニー制もマネジメントスコアカードもそうだ。

人間、社会、マネジメントは全てつながっている

井坂 ドラッカーの世界は二つあるように見えますが

上田 人間には他の人とともに生き、他の人に貢献するとき喜びを持つ、という社会的存在としての側面と、死ぬときは一人という個の存在としての側面がある。後者の側面についてドラッカーが書いているのは一九四九年、三九歳のときの論文「もう一人のキルケゴール」だけである。他の著作はすべて社会的存在としての人間についてのものである。

しかしドラッカーは、個としての人間、時間を越えた永遠の存在としての人間のあり方を考えないかぎり、人間に実存はありうるかとの問いに答えは出せないと繰り返し言っている。彼の言によれば、社会だけでは「社会にとってさえ不足である」。

あまり知られていないことだが、ドラッカーは一九四二年から一九四九年まで、バーモント州のベニントン大学で哲学と宗教を教えていた。われわれはここでもドラッカーの懐の深さを知ることができる。

守備範囲の広さがドラッカーの特徴だ。マネジメントの師の師であるだけではない。日本が経済大国になると最初にいったのも、高齢化社会がやってくるといったのも、ソ連が崩壊するといったのも、彼だった。

一見すると、彼には二つの世界がある。マネジメントのオーソリティであるとともに、現代社会の哲人、「現代社会についての最高の哲学者」(ケネス・ボールディング)である。サッチャーはドラッカーの言にしたがって世界の民営化ブームに火をつけ、ニクソンは、政府にできることには限界があるとのドラッカーの言を否定して失敗した。

このドラッカーの二つの世界は、絡みあっている。というより一体である。二つの世界があるように見えても、問題意識は同じである。彼は、社会的な存在としての人間の幸せに関心がある。だから社会とその発展に関心がある。彼は継続と変化の双方を求める。継続がなければ社会ではなくなり、変化がなければ社会は発展しない。彼の問題意識は、いかにして継続のメカニズムに変化のメカニズムを組み込むかだ。経営学者の小林薫さんは昔からドラッカーは山脈だと言っている。山の向こうにまた山がある。

一言で言えば関心は文明にある。出来過ぎた話に聞こえるかもしれないが、子供のころの最も古い記憶が、オーストリア=ハンガリー帝国の政府高官だった父親と、後のチェコスロバキア初代大統領トーマシュ・マサリクとの会話、下の応接間からガス管を伝わってきたのは「文明の終わりだね」との言葉だったという。第一次大戦が始まったのが一九一四年、ドラッカー四歳のときだ。

社会の機能のほとんどが、異なる専門知識を持つ複数の人間の協業によって果たされるようになった今日の組織社会、しかも働く人間のほとんどが、組織において、あるいは少なくとも組織を通じて働くという意味での組織社会では、人間の幸せは、それらの組織がいかに継続と変化の担い手となるか、いかにマネジメントされるかにかかっている。こうして人間、社会、文明、組織、マネジメントはつながっている。

ドラッカーは処女作『「経済人」の終わり』(一九三九年)において、ファシズム全体主義の暴威の原因は、マルクス社会主義の破綻にあるとまで社会主義を酷評した。それゆえに社会主義にあこがれていた当時の西側進歩的文化人の不興を買った。ところが、共産主義全盛時の旧ソ連の組織論、管理論の権威から高く評価されていた。

日本でも、マルクス経済学の泰斗、九州大学の故・高橋正雄教授などは、熱烈といってよいほどのドラッカー・ファンだった。高齢化社会の到来を告げたドラッカーの名著『見えざる革命』(一九七六年)に寄せた『中央公論』での名文は今でも忘れられない。マル経の牙城だった九大経済学部ではドラッカーが必読書とされていた。今、中国はマネジメント教育の進め方についてドラッカーのところへ教わりに行っている。

井坂 では、ドラッカーとは何者なのでしょうか。

上田 ドラッカーは自分のことを社会生態学者と言っている。

生態学とは何かというと、見て、それを伝えることを指す。自然生態学者は、南米のジャングルへ行って、この木はこう生えるべきとはいわない。社会生態学者も社会についてこうあるべきとは言わない。あくまでも、見ることが基本である。それだけではない。社会生態学者は変化を見つける。その変化が、物事の意味を変える本当の変化かどうかを見極める。そしてその変化を、機会に変える道を見つける。

社会生態学という言葉も、知識社会、知識労働と同じように彼の造語だ。日本では戦後の企業経営に与えた影響があまりに大きいため、経営学者としてのドラッカーが有名だが、彼の本質はこの社会生態学者であるところにある。社会生態学者だからこそ、生きた存在としての組織、社会的機能としてのマネジメントがよく見える。

見ることがあらゆる物事の基本

社会生態学は、分析と理論ではなく、知覚と観察を旨とする。社会生態学と社会学との違いはここにある。社会生態学は、分析や理論にとらわれない。分析や理論が完全なことはありえない。

しかも社会は大きく変わっていく。社会科学のパラダイムは変化してやまない。加速度的に変化していっている。社会生態学は、総体としての形態を扱う。だから全体を見る。全体は、部分の集合よりも大きくはないかもしれない。しかし、部分の集合ではない。

ドラッカーは、自分は、ゲーテの『ファウスト』(一八三一年)に出てくる望楼守だという。最終で、ファウストが悪魔メフィストフェレスとの契約における禁句、時の流れに向かって「止まれ、おまえはいかにも美しい」と言ってしまうクライマックスがある。その直前、物見やぐらにいる望楼守リュンケウスが自分のことを「見るために生まれ、物見の役を仰せつけられ」と朗々とうたう。そしてあちらでは何が起こり、こちらでは何が起こっているのかを教えてくれる。その「物見の役」がドラッカーである。世界がどのような状況にあり、どのような状況が迫っているかを見て、伝えることがドラッカーの仕事である。

そのような予感は、少年のころすでに持ったという。オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦で敗れ、ハプスブルグ家の支配が終わった何年か後、共和制を祝う何周年目かのパレードがあった。旗を持って先頭を歩いていたドラッカーは、水たまりをよけて歩道に寄った。そのまま進んでいくパレードをわきから見たとき、自分は先頭に立って歩く者ではなく、そのありさまを人に伝える役ではないかと思ったという。事実彼は、政治家にも実業家にもならなかった。

ドラッカーの著作の一つに『傍観者の時代』(一九七五年)という大部の半自叙伝がある。原著名は『アドベンチャー・オブ・ア・バイスタンダー』である。バイスタンダーとは傍らに立って見る者のことだ。もちろん彼は、見ているだけの無責任な傍観者ではない。見て、伝えて、教え、相談に乗る。

ドラッカーの数ある著作を読んでいくと、同じ話が別の文脈で出てくることがある。これこそまさに、あらゆるものが、あらゆるものにかかわりを持っているからだ。世の中、別の引き出しに入れて、別々に論じ切ることのできるものなどあまりない。そもそも別の引き出しに入れることに無理がある。

これから先の私の話も、あちこち飛んでいくことになるかもしれない。


 

②マネジメントを発明した男 ─── 経営者としての顔

井坂 前回、ドラッカーには「社会生態学者としての顔」があるとのべられましたが、氏を未来学者だという人がいます。

上田 予測があまりに当たることから、最高の未来学者と紹介されることがある。しかしこれは間違いだ。彼自身、未来学者ではないと断言している。未来など誰にも分からないと言っている。たとえ誰かが予測したことが起こったとしても、世の中では、誰も予測しなかったことで、はるかに重大なことが、あまりに多く起こっている。したがって、予測という行為そのものにあまり意味がない。

ドラッカーは未来について確実に言えることは、二つしかないという。第一に未来は分からないということ、第二に、未来は現在とは違うということである。

したがって未来を知る方法もまた二つしかないという。一つの方法は、すでに起こったことの帰結を見ることである。彼自身の予測についても、すでに起こったことの帰結、つまりすでに起こった未来を知らせたにすぎないという。

昨年子供の生まれた数が三〇万人減ったとする。すると、六年後に小学校に上がる子供が前年と同じということはありえない。小学校にとってはとんでもないことが起こるわけだ。すでに起こったことを観察すれば、そのもたらす未来が見えてくる。

 

一人ひとりが未来をつくる

私はドラッカーの新著を翻訳するときには、関係の文献に目を通している。『見えざる革命』(一九七六年)のときも、高齢化についての本や論文に目を通した。共訳者の佐々木実智男氏とともに集められる限りのものを読んだつもりだが、高齢者の福祉、医療、住宅、趣味の類についてのものばかりであって、高齢化社会そのものの社会、経済、政治を論じたものは一つもなかった。

ソ連の崩壊にしても、情報化の中にあってあのような体制が続きえないことは、誰にでもわかったはずである。ソ連や東欧諸国には、西側の情報がどんどん入っていた。起業家社会やNPO社会の到来も、ドラッカーが最初に正面から取り上げた。いずれも、誰にでも見えていたはずである。そしてドラッカー最大の警告が『断絶の時代』(一九六九年)で行った今日の転換期の到来である。

ドラッカーが二九歳の時の処女作『「経済人」の終わり――全体主義はなぜ生まれたか』(一九三九年)と三二歳のときの二作目『産業人の未来――改革の原理としての保守主義』(一九四二年)で筆をおいて、政治家あるいは実業家に転進していたとしても、一級の政治学者として名を残していただろう。『「経済人」の終わり』では、当時誰にも見えていたはずでありながら、見えていなかったことを三つも予告していた。

第一が、ナチによるユダヤ人抹殺であり、第二がナチスドイツのヨーロッパ征服であり、第三が独ソ不可侵条約の締結だった。

『産業人の未来』では、今日に至るも、まだ多くの人が気づいていないことを予告している。理性至上主義、計画万能主義の帰結である。

未来を知るもう一つの方法は、自分で未来をつくることだ。これは難しいようだが、誰でもできる。子供を一人つくれば、人口が一人増える。たとえ小さなものであっても事業を起こせば、世の中が変わる。歴史はそうやってつくられる。歴史は、ビジョンを持つ一人ひとりの起業家がつくっていくものだ。

外生的に扱えるものなどない

井坂――ドラッカーはいわゆる経済学者でしょうか。 

上田――ドラッカー自身、断固として、経済学者ではないと言っている。経済学は、あらゆるものの中心に経済を置き、かつ経済を他のものと分離した、独立したものとして扱う。そうでなければ学問として成立しない。せいぜい記述に終わる。

経済学の本家となったマクロ経済学では、知識、技術、心理という重大な要素を外生変数として扱う。扱わざるをえない。そうすることによってのみ、一つの学問として成立している。ドラッカーは、そのようなことは自分にはできないという。

貨幣の供給量を増やせば景気がよくなるといって、企業家心理や消費マインドなど、貨幣の回転速度にかかわる部分を外生変数とせざるをえないマクロの理論が、特効薬の処方箋たりえないのは当然である。彼は、経済学は、マクロ経済、ミクロ経済、グローバル経済を統合できたとき、初めて意味あるものたりうるとして、いつになるかはわからないにしても、そのような経済学の誕生を期待している。

ものづくりの技が歴史を変えてきた

人類の歴史をじわじわと、そしてときには急激に変えてきたものは、政治的な事変、事件ではなく、技能、技術の進歩だ。狩猟の技術に始まり、稲や小麦の農業技術、灌漑の技術、衣食住にかかわるそれこそ諸々の技術、馬の鐙(あぶみ)、火薬、印刷、蒸気機関、鉄道、コンピュータなどだ。馬の鐙という技術さえ、騎士の成立を通じて封建制をもたらしたという。火薬がその封建制を崩し、中央集権への道を開いた。

彼は、二一世紀においても、カギを握るのはものづくりの技だという。今の先進国が先進国の地位にあり続けるためには、理論の裏づけのある技能を維持していかなければならない。イギリスで産業革命が成立したのは、蒸気機関を可能にした工具製作技術があったからである。今日の途上国の不幸は手を動かすことを嫌う風潮にある。今年開学した「ものつくり大学」の名づけ親は、同大学総長の哲学者・梅原猛氏だが、英文名インスティチュート・オブ・テクノロジスツの名づけ親は社会生態学者ドラッカーである。

ドラッカーは大経済学者でいえば、明らかにケインズよりシュムペーターに近い。これは何も、シュムペーターがドラッカーの父親の弟子だったためではない。ちなみにピーター・ドラッカーの父、アドルフ・ドラッカーはオーストリア=ハンガリー帝国の政府高官を務めたあと、ウィーン大学で経済学を教えた。オーストリア有数の文化人であって、ザルツブルグ音楽祭の創始者でもある。後に渡米して、ノースカロライナ大学、カリフォルニア大学バークレー校の教授となった。

ドラッカー家はオランダ系であって、一七世紀にはオランダで聖書、法話集等の宗教書専門の出版社を経営していた。ドラッカーとはオランダ語で印刷人のことである。

彼はイギリスにいたころ、ケインズの講義にも出ている。ある日、ケインズにしても、周りの学生にしても、その関心は人間でなく金だということを痛感したという。逆に、自分の関心は、人間と社会だということを確認したという。

ところが面白いことに、経済を中心とせず、経済を社会の一要素として書いた経済についての論文が、経済の実相を知らせるものとして読まれ、引用され、人々に影響を与えている。

たとえばケインズの死の直後、一九四六年に発表した「ケインズ――魔法のシステムとしての経済学」(『すでに起こった未来』に収載)は、直ちに大きな反響を呼んだだけでなく、ケインズ学派が圧倒的な力を握るにいたるまでの間、経済学の論文集や大学の教科書に広く収載されていた。

一九八六六年に『フォーリン・アフェアーズ』に発表した「変貌した世界経済」(『マネジメント・フロンティア』(一九八六年)、『イノベーターの条件』(二〇〇〇年)に収載)は、一次産品経済と工業経済の分離、製造業における生産と雇用の分離、実物経済とシンボル経済の分離を知らせて、その年、最も読まれ、最も引用された論文となった。

なぜならそれは、アメリカの通商政策、日本の産業政策、途上国の開発政策に対し重大な疑念を投げかけたからだ。

世界には、ノーベル賞をもらっているべきであってもらっていない人が何人かいるとされている。いずれもノーベル賞のカテゴリーに入らない人たちである。その一人がドラッカーである。ノーベル賞には物理学、化学、医学、文学、平和、経済の六分野しかない。ドラッカーは自分で経済学者ではないと言っている。私は、現代文明でマネジメントの果たしてきた役割からして、平和賞だと思っている。

ドラッカーは、社会はかくあるべしとする社会学者でもない。社会を見て、それを伝える社会生態学者であるというのが自己規定だ。

ドラッカーの関心は、社会的存在としての人間にある。その人間が幸せであるためには、社会の発展が必要である。その発展の担い手が、企業、政府機関、病院、その他NPOなどの組織である。したがって、組織が立派な仕事をできるか、立派にマネジメントできるかに関心を持たないわけにいかない。

 

ドラッカーの経営学者としての顔

この関心から、マネジメントを集大成し「マネジメントを発明した男」とされるにいたったのが、経営学者としてのドラッカーである。

アメリカに渡った二年後の二九歳のとき彼は、ファシズム全体主義の本質をえぐった処女作『「経済人」の終わり』(一九三九年)を発表して、後の大英帝国の宰相ウィンストン・チャーチルの激賞を受けた。

ダンケルクでの惨敗後、首相に就任したチャーチルは、イギリス陸軍の幹部候補生学校の卒業生全員にこの本を贈っている。同じく同書に感銘を受けた『タイム』誌のオーナー、ヘンリー・ルース氏が、同誌国際面編集長のポストをドラッカーにオファーする。しかしドラッカーはフリーのライター、大学講師として糊口をしのぎつつ、次作『産業人の未来』(一九四二年)を著した。

これを読んだGMが、同社のマネジメントについての研究をドラッカーに委託する。その成果が後にフォード再建の教科書となり、GEの組織改革と、それに続く世界の組織改革ブームの火つけ役となった名著『会社という概念』(一九四六年)である。

『会社という概念』は、企業経営、経済、そして世界そのものまでを変えることになった名著であり、体系としての「マネジメント」の原点である。しかしそれは当初、GMには受け入れられなかった。ドラッカーは、GMのマネジメント、特に今日いうカンパニー制を高く評価していたが、シボレー事業部の分離など幾つかの提案を行っていた。

ところが、自分たちを完全無欠と信じていた世界一のメーカーGMは、人為的なもので完全無欠なものはないとするドラッカーの考えと、それらいくつかの提案を受け入れるわけにはいかなかった。

後日、GMの総帥アルフレッド・スローンが書いた名著『GMとともに』は、ドラッカーの『会社という概念』を意識したものである。しかし前著は、後著にいっさい言及していない。GMがドラッカーのクライアントになったのはその数十年後のことだ。苦境に陥ったGMのトップマネジメントが、かつての非礼を詫びた後のことである。

ドラッカーは、この『会社という概念』執筆にあたって、参考のためにマネジメント関係の文献を総ざらいしたという。その結果、マネジメントがいまだに一つの体系としてまとめられていないことを実感する。これが、マネジメントのオーソリティとしてのドラッカーのルーツである。

 

現場こそドラッカー経営の原点

トム・ピータースによると、あらゆる経営手法がドラッカーに行き着く。これは本当だ。経営戦略、カンパニー制、目標管理、情報型組織、コアコンピテンス、経済連鎖、ABC会計、マネジメントスコアカード、ナレッジ・マネジメントなど、すべてドラッカーから出ている。なかには五〇年以上前に説いたものもある。

そのため、ドラッカーのことをモーツァルトだという人がいる。あらゆる種類の主題が湧き出てくる。それを誰かが編曲し発展させても気にかけない。

ところが、ドラッカーの本質を、本能的にといってよいくらい良く理解している日本において、運用の段階で間違ってしまうケースが幾つかある。カンパニー制がそうだ。『会社という概念』で示したGMのカンパニー制では、カンパニーの長は、第二次大戦中、本社のトップマネジメントが海軍省と契約した注文を断り、こちらのほうが得意だからといって、注文内容を変えることまでできた。それだけの独立性を持っていたのである。

ところが日本では、事業部制と名づけて、単なる製品別部門制にしてしまった。カンパニー制での本社の役割は、カンパニーに対し「こうしろ、ああしろ」と指示するのではなく、「あなたたちのためにできることは何か」と聞くことにある。

カンパニーの長とそのカンパニー内の部門長との関係も同様である。仕事の源は顧客にある。仕事は顧客に近い現場にあるとの考えこそ、ドラッカー経営の原点である。

ナレッジ・マネジメントについても同じことがいえる。知識をデータベース化して共有したところで、せっかくの知識を情報に落とし、さらにはデータにおとしめるだけに終わる。得られるものはデータのファイルであって、知識ではない。そのような取り違えがほかにも見られる。

目標管理も、日本で行われるものの多くは、似て非なるものになっている。ドラッカーのいう目標管理は、はるかに主体的であって、現場で働く者が、部門全体の目標を念頭に、上司とのやり取りの中で主体的に定めるものである。

日本では言葉だけが独り歩きし、目標を「与えて管理する」という、似ても似つかないものになっていることが多い。

 


 

③知識社会を生き抜く知恵 ─── 全員がエグゼクティブの社会

 

 

井坂――ドラッカーは二一世紀冒頭の今日をどうとらえていますか。

 上田――日本で、バブル崩壊以降を「失われた一〇年」と呼んでいる。

ドラッカーは、「失われた一〇年」はアメリカにもあった、ヨーロッパにもあったという。一九八〇年代がそれだ。何をやってもうまくいかなかった。ところが今では、一九九〇年代の飛躍の前の、雌伏の時だったという評価になっている。彼はインタビューで、日本でもそうなるかもしれないと言ってくれた。

だが、そのためには、財政赤字と不良債権という二つの難問を解決しなければならないと付け加えられてしまった。この二つはとてつもなく大きな問題である。しかし日本には、唐の文化の移入、鎖国、開国と明治維新、戦後の復興という転換の能力があるではないかという。ドラッカーは、これに期待している。ただし、かなりの覚悟が必要であるとも警告した。

ドラッカーの観察によれば、本当に大事なのは一〇年の問題ではない。歴史の転換期にかかわる問題である。ドラッカーは『ポスト資本主義社会』(一九九三年)において、この転換期は、一九六五年から一九七〇年の間のどこかで始まり、二〇二〇年頃まで続くと言った。

われわれとしては失われた一〇年からの脱却も大変だが、この五〇年の転換期をどう乗り切るかのほうがもっと大変だ。これを個々の会社で見るならば、景気の良しあしを言う前に、構造的にどのような段階にあるかを見極めるほうが大事だということだ。そこでポイントは、すべてこれからは、知識が中心になるということにある。

井坂――ドラッカーのいう「知識」とはどのようなものでしょうか。

上田――今日知識とは、成果を生むための高度に専門化された知識のことだ。

彼は、ソクラテス以来、ついこの間まで、行動のための知識は、テクネ(技能)として低い地位しか与えられていなかったと指摘する。それらは体系的に教えられるものではなく、中世のギルドに見られるように徒弟制度の中で会得すべきものだった。しかし、今日われわれに必要とされている知識とは、まさにこの行動のための知識、しかも客観的で伝達可能な体系化された専門知識だという。

知識は高度化するほど専門化し、専門化するほど単独では役に立たなくなる。他の知識と連携して役に立つ。知識は、他の知識と結合したとき爆発する。得意な知識で一流になると同時に、他の知識を知り、取り込み、組み合わせることで大きなパフォーマンスをあげられる。

ドラッカー自身、統計学から中世史に至るあらゆる領域について、いちどきに一つのテーマに絞って徹底的に勉強している。これを六〇年以上続けている。

 

知識社会は組織社会である

ここでドラッカーの組織論が出てくる。専門知識を有機的に連携させ、さらには結合させる場が組織である。組織とは、企業、政府機関、NPOなど、人が目標に向かってともに働く場すべてを指す。したがって、知識が中心となる社会は、必然的に組織の社会となる。脱大組織はあっても脱組織はない。

もちろんここにいう組織とは、硬直的閉鎖的なものではない。特にこれからは出入り自由のものとなる。雇用関係の有無さえ問わない。協力、連携、パートナーシップを含む多様なつながりとなる。

かつては「お仕事は」と聞いた。今では「お勤めは」と聞く。これが再び「お仕事は」と聞くようになる。知識の力が、組織社会を生んだ。その知識の力が、組織にしばられない組織社会へと、組織社会の変質をもたらす。

資本主義社会の後が今日の転換期としてのポスト資本主義社会である。資本主義の後の社会というわけで、特質が定まっていない社会である。そこでドラッカーはポスト資本主義社会と呼ぶ。このポスト資本主義社会の後にくるものがおそらく知識社会である。そのころには「え、おカネが中心の社会があったのか」というようになる。すでにがんや心臓病の特効薬を見つければおカネなど、どこからでもやってくる。

 

教養とは生きた知識のこと

知識社会では、一般教養となる知識の性質が、かつてのものとは変わってくる。生きた知識が教養として求められる。こうしてドラッカーは教養論にまで進む。

かつては、むしろ役に立たない知識、生きていない知識が教養とされた。ドラッカーはその典型として、ラテン語教育を挙げる。欧米ではいまだに教養としてラテン語を教えている学校があると指摘する。論理性を養うとか、他の外国語を学ぶ基礎になるとかの理屈を付けている。開き直って、役に立たないからこそ教養なのだとの説もある。

ところが、歴史をみると、ラテン語は、ヨーロッパではどの国でも、公用の書き言葉として使われていた。物書きを職業とする官吏や書記にとっての必須の技能だったからこそ、書記養成のための高等教育機関で必修科目にされていた。しかも、ドラッカーによれば、論理性うんぬん等のラテン語擁護論が現れたのは、書き言葉が、ラテン語から各国それぞれの国語に変わった後のことである。せっかくのラテン語擁護論も、ラテン語教師の失業防止策ととられても仕方のない面がある。ドラッカーは学校の科目も新陳代謝がなかなか行われないと嘆いている。

彼はソフィストとソクラテスとの違い、儒教と道教、儒教と禅との違いは、人間は「いかに(How)」生きるかという問題と、人間とは「何か(What)」という問題のいずれを中心に置くかという問いの違いだったという。人間にとって最も重要な問いだったが、実用とは関係がなかった。しかもそれらの知識は絶対的な善だった。知識とは絶対的な存在だった。

ところが今や、知識は役に立つことがわかった。世の中を変えるのは知識であり、これからはますますそうなることが明らかになった。ということは、知識には役に立つものと立たないものがあるということだ。つまり知識とは相対的な存在であることが明らかになった。その結果、よい知識とよくない知識があるのではないかとの疑念が生じた。ドラッカーは三〇年以上前に、これを指摘した。世紀のベストセラーで、今も読まれている『断絶の時代』(一九六九年)においてだった。

知識はよいものであるとずっと考えられていた。知識の追求そのものが善であり、目的であるとされていた。こうして、「知識とは何なのか」という問題が装いを変えて再び出てきた。「教養ある人間とは、何を知っている者なのか」との問題まで出てきた。人間とは何か、いかに生きるかを考えるだけでなく、今や生きた知識が必要不可欠になっている。博識の野蛮人というのは困る。他方、無知の紳士というのも困る。これがドラッカーの重要な問題意識の一つだ。

 

井坂――教育はどう変わるとドラッカーは考えていますか。

上田――今後、特に必要とされる知識がマネジメントだという。

ところが大学の経営学部以外ではまったく教えられていない。中学、高校および大学の他の学部では、相も変わらず、一人ひとりの人間が、組織などとは関係なく、一人で仕事をしている時代と同じことを教えている。しかも経営学部で教えていることさえ、日進月歩の実業の世界に追いついていない。

マネジメントとは、高度に専門的な知識を他との協働で有効なものとするための方法である。これがドラッカーのマネジメント論である。したがってマネジメントもまた、日々進化していく。マネジメントのパラダイムは転換してやまない。マネジメントとは企業のためのものという前提がすでに崩れている。それは、あらゆる種類の組織のためのものだ。さらには、一人ひとりの人間のためのものだ。今や、自らをいかにマネジメントするかが、重大な意味を持つ。ドラッカーが『明日を支配するもの』(一九九九年)で展開したパラダイム転換論は体系としてのマネジメントの本質と、その現在の状況を確認するものだった。しかもいかに働き、いかに貢献するかという問題は、いかに生きるかという問題に直結する。

ドラッカーによれば、教育の中身と方法が、これまでとはまったく異なるものとなる。知識が中心である社会における教養とは、読み書きに加えてコンピュータ、外国語、マネジメントの知識、自らの専門領域についての高度な知識、その他の専門領域の意味性の知識、そして自らをマネジメントするための知識を持つことである。

 

いかに自らをマネジメントするか

特に、いかに時間をマネジメントするか、いかに自らの考えをプレゼンテーションするか、いかに他人とコミュニケーションを図るか、いかに変化の先頭に立つか、つまるところ、いかに自らをして貢献せしめるかといった、自らをマネジメントする能力が不可欠となる。

かつては、経営幹部に特有の機能だったマネジメントが、あらゆる人間にとっての教養、常識となる。意思決定の能力やイノベーションの能力は、知識労働者にとって、成果を上げる能力そのものである。こうして全員がチェンジ・リーダーとならなければならない。

ドラッカーは一五世紀の半ば、グーデンベルグの活版印刷の発明に始まった印刷革命が教本を可能とし、教育を変えたと同じように、IT革命も教育を変えるという。

ドラッカーは身に着けるべき知識を二つに分ける。学ぶことと教わることである。算数の九九に始まり反復学習によって学ぶことは、「学習ソフト」が助けとなる。こうして教師は監視する役から解放され、物事の意味を教えるという本来の役を果たすようになる。

そこからさらに進んで、教わる者の強みを引き出し、それを伸ばすことができるようになるという。知識が中心となる社会では、強みを伸ばすことによって得られる高度の専門性と、周辺知識の意味性への理解が物を言う。

 

井坂――ドラッカーは知識社会を生きる心得についてどう言っていますか。

上田――ドラッカーは、マネジメントする能力は、知力とは関係ない、方法論があるだけだと言ってくれる。幾つかの方法を教わっておけばよい。私はドラッカーのこういうところが好きだ。

意思決定にも方法論がある。意思決定では個別の問題ではなく根本を考えなければならない。問題が一般的なものか、特殊なものかを識別することが最初のステップである。起業にも方法論がある。起業は機会を分析し、外の世界を見たうえで、トップを目指して小さくシンプルに始めなければならない。

もっといえば、人事にも方法論がある。リンカーンは司令官に任命しようとしたグラント将軍が酒飲みであることを幕僚から指摘されたとき、「銘柄を聞いて他の将軍に送ってやりなさい」と言ったという。より重要なのは仕事ができるという強みであって、酒飲みであるという弱みではない。

こういうものの考え方は、誰かから教わらなければ分からない。問題は誰もそれを教わっていないことにある。自分でわかるようになったときには六〇歳になっている。ドラッカーはそれらのことを教える。

 

全体からとらえると真実が見てくる

ドラッカーのありがたさは、豊富な経験から原則と方法論を引き出して教えてくれるところにある。時には「なぜか分からないが」といい、「なぜかが分かるまでは待ってはいられない」といって、豊富な知識と経験から得た行動のための原則と方法論を教えてくれる。

こうして組織のなかの全員が社長のように行動できるようにならなければ、会社は伸びない。直ちに後れを取り、脱落していく。このことは国全体についてもいえる。ドラッカーにいわせれば、知識社会の構成員はすべてがエグゼクティブである。

ドラッカー自身は若いときから分析力にたけていたにもかかわらず、組織を通じて成果を挙げるには、森羅万象あらゆるものを、全体として見る能力が必要だという。

理論だけではだめだ。理論は、相対的に最も太い線をとらえて抽象するにすぎず、多くのものを捨象する。現代の世の中には捨象してよいものなどない。だから見ることが大事なのだ。これこそドラッカーの教える方法論として最も大切なものだ。

ここにおいて、見て、聞いて、感じるという直接全体をとらえる能力が必要となる。理屈は通っていても、全体からは間違っていることがあまりに多い。部分を足し合わせたものが全体とはならない。

ドラッカーは高等数学の「バタフライ理論」なるものを紹介する。ある日ある時間に、あるチョウがアマゾンでぱたぱたと羽ばたいたという事実があり、翌週シカゴで雨が降ったという別の事実があったとする。この二つの事実の間に関係がないと証明することはできないということが証明されているそうである。あらゆるものがあらゆるものに関係しうる。私はさらに進んで、関係しうるということは、関係しうるという関係がそこに存在するということであると、勝手に考えている。

特に今日のように、瞬時に世界中に情報が伝わる時代では、何が何に関係あるかは理論付けしきれない。まさにドラッカーの言うように理論付けを待ってはいられない。無理に抽象化すれば大事なことを捨象する。理屈だけでうまく説明が付く場合のほうが、逆に危険だ。

 

 


 

④マネジメントの基礎知識 ─── 現代の万人のための帝王学

  

井坂――ドラッカーの青年時代の顔とはどのようなものなのでしょうか。

上田――ドラッカー自身、その構想力、分析力、情報量は、若い頃から並外れていた。天才的な頭の良さに加えて猛烈に勉強していた。

高校を出た後、学校にあきあきしていた彼は、実社会に出たくて商社に就職する。すでに沈滞をはじめていたウィーンを出てドイツのハンブルグに行く。ハンブルグ大学に籍をおいたのは、親の手前だったという。そうはいっても、仕事の後は毎日が図書館通いだった。ただし週末にはよくハイキングをしたらしい。

一年ちょっとでフランクフルト大学に籍を移し、証券会社に入る。わずか一九歳で景気上昇を予測する論文を書いて経済誌に掲載される。ところが、最新の理論モデルとデータを駆使した論文が出た直後、あの株式大暴落が起こる。それ以来、彼は理論による予測、特に数学モデルを使った予測は一切やめたと言っている。

勤めていた証券会社が潰れた後、新聞記者になる。ここですぐに国際問題と金融問題を担当する論説委員に抜擢され、日によっては一日二本論説を書くという生活を送る。彼自身の言葉によれば、飛び抜けて優秀だったからではなく、第一次大戦後のドイツでは、三〇代、四〇代の働き手の多くが戦死していたため、若手の論説が起用されていただけだという。それにしても大したものである。ドラッカーにはときとして必要以上に謙遜する癖がある。

とはいえ、彼は当時の心構えについて、知っておくべきことで知らないことはない状態になろうと決心していたという。パンテオンの屋根におかれた彫像群の作者フェイデイアスが、誰の目にも見えるはずのない背中部分について支払いを拒んだアテネの会計官に対し言った言葉「神々が見ている」こそ、若き日のドラッカーのモットーだった。

 

全体を全体として知覚することの大切さ

二一歳で博士号をとり、大学在学中に主任教授の代講までしている。ちなみにそのときの下級生であり、代講相手の学生だったのが、ドラッカー夫人となるドリス・シュミットである。彼女とは後日、ロンドン時代に、ピカデリーサーカスの地下鉄のエスカレーターで上行きと下行きですれ違うという劇的な再会をして恋が芽生える。

ちょうどこのフランクフルト時代、後にナチスの幹部になった学友に勧められたナチ入党を断る。ナチが政権掌握直後に提供してきた情報省の仕事も断る。それどころか、すでに社会の継続と変化について問題意識を持っていた彼は、継続のメカニズムとしての法治国家の生みの親の一人、議会主義者F・ユーリス・シュタールについての評論を書いて、名門出版社モーア社の、政治法律叢書一〇〇号記念として出版されるという破格の扱いを受ける。

シュタールはプロテスタンティズムの再興者でありキリスト教徒だったが、人種的にはユダヤ人だった。ユダヤ人を評価した論文がナチの気に入るはずがない。事実、出版の二週間後、禁書にされ焚書される。そしてドラッカー自身、立憲政体を信奉する保守主義者のキリスト教徒として、ドイツでは教職に就くことも文筆を生業とすることもできないと悟り、イギリスに渡る。

ドラッカーは若いころから構想力、分析力に優れていた。それでいながら、観察することの大切さ、全体として知覚することの大切さを説き続けてきた。最近では環境問題、途上国問題、教育問題など、二一世紀の重要課題はすべて、全体を全体として捉える能力によってのみ解決が可能であると断じている。英語でいうならば、コンシーブ(conceive:理解する)よりも、パーシーブ(perceive:知覚する)、左脳よりも右脳、分析よりも観察が大事だといっている。事実、彼もわれわれにおなじみの右脳・左脳という言葉を使って説明している。

ドラッカーは数字に弱いという人がいる。とんでもないことであって、彼は大学で統計学を教えていたこともある。数字をそれほど重視しないのは、数字になったときには過去のもの、意味のないものになっているからにすぎない。明日を変える重要なことは、残念ながら定量化になじまないというのが彼の考えである。

 

ロンドン時代の雨宿りがドラッカーと日本を結びつけた

かつて駐日大使のライシャワーが日本人は構想力や分析力が弱いと書いたとき、ドラッカーは「構想力や分析力は弱いかもしれないが、ヨーロッパが膨大な神学の体系を組み立てていたころ、日本は知覚の華たる『源氏物語』を生んでいたではないか」と言ってくれた。彼が日本に寄せる期待や愛情の一因はここにもある。

ドラッカーの日本画、特に水墨画の収集と知識は一級品である。日本の主要都市のデパートで公開したことがあるほどだ。

大学で東洋画の非常勤講師を務めたこともある。彼によれば日本画と中国画は、似てはいても根本的に違う。中国人は日本画を前にしては落ち着けない。日本画が書いているのは、物よりも空間だという。

そもそも日本との最初の出会いが、ロンドン時代に雨宿りに飛び込んだ画廊でやっていた日本画展だった。あまりの衝撃に、それ以来、日本画の虜になってしまった。同時に日本という国に強烈な関心を持ち続けることになった。

 

井坂――ドラッカーはマネジメントの基本をどうとらえていますか?

上田――昔は国王、領主の治世いかんによって、国民、領民の幸せが左右された。そこで帝王学なるものが生まれた。会社でもつい近ごろまで、社長の経営次第で会社の運命、社員の幸せが左右された。リーダーの才覚で成功するか失敗するかが分かれた。

ドラッカーは、これからはそうではないという。組織の構成員一人ひとりが自らを律する帝王学を身に着けなければならない。万人のための帝王学として書いたものが、三五年も前の著作『経営者の条件』(一九六六年)である。今も増刷され広く読まれている。マネジメントの知識こそ現代における帝王学である。

 

企業経営三つの役割

マネジメントについてドラッカーは、三つの役割を言っている。

第一は、それぞれの組織に特有の社会的機能をまっとうすることである。事業を通じて社会に貢献することである。新聞社であればよい紙面作りに努め、八百屋であれば安くて新鮮な野菜を売ることである。社会に貢献する気のない組織はギャング団ぐらいのものである。他の組織はすべて、社会に貢献するからこそ、存在を許され、場所を占有し、人を雇用し指示することを許されている。

第二は、それぞれの組織にかかわりを持つ人たちが生き生きと生産的に働けるようにすることである。社会的な存在としての人間は、自らの能力を存分に発揮し、自己実現し、社会に貢献することを求める。特にこれからは、生き生きと生産的に働くことのできない組織からは、人が去っていくという時代になる。

第三は、世の中に悪い影響を与えないことである。自らの存在と活動のゆえに世の中に与えるインパクトをなくすことである。少なくとも最小限にとどめることである。物を作っているのであれば、どうしても音が出るであろう。だが、音量は極力、小さくしなければならない。ドラッカーはそれらの迷惑は極力、小さくしなければならないという。

さらに一歩進み、組織の強みを用いて、社会の問題を解決することだという。できれば事業化することだ。電力会社、自動車メーカー、コンビニ、病院、いずれも社会のニーズを満たすことが事業となっている。このことはあらゆる事業についていえる。ドラッカーのいう組織の社会的責任とはこういうことである。

企業の社会的責任という名の、何か特別の責任が存在するわけではないと強くいう。社会の特定の人、層、機関に特別の責任を与えることは、政治学的に間違いである。ヨーロッパでは、はるか昔に葬られた考えである。

近代企業の生まれるずっと前、あの『パンセ』(一六七〇年)のパスカルが指摘したとおりである。特別の責任を課すならば、特別の権限を与えることになる。権限に責任が伴うように、責任には権限が伴う。

マネジメントにとって利益とは、これら三つの役割を明日も果たしていくための必要条件である。同時に仕事ぶりを測る尺度である。目的ではない。必要条件のほうが、目的よりもきつい。尺度もまた目的よりもきつい。

私自身、経団連で働いていた三十数年の間、金儲けのために企業を経営しているなどという経営者には一人も会っていない。ドラッカーのいうように、利潤動機というものは存在しない。利益とは社会の公器としての企業がその役割を果たし続けていくためのコストであり、条件である。そして成果の判断基準である。

ドラッカーによれば、そもそも利潤動機なるものの実在が怪しい。経済活動の動因を説明できなかった古典派経済学が空想したものにすぎないという。

 

「当たり前」ということのすごさ

心理学には物欲、性欲、食欲はあっても、利潤欲なるものはない。物欲によって事業をしている人など、どれだけいるのだろうか。利潤欲とは、経済についての学問の根幹に据えるだけの、普遍性のある存在なのだろうか。しかもこの利潤動機という言葉が、ドラッカーによれば、企業活動に対する無用の反感と誤解を招いている。困ったことに経営者自身が、金儲けのために働いていないのに、この利潤動機という言葉を軽はずみに使っている。企業のよい点は、利益という必要条件が存在することである。つまりは倒産する機能が内在化されていることである。倒産するという機能は、自由企業体制なる制度の最も優れた点である。この機能を奪うならば、国営やボランティアで運営しても同じことだ。その意味では、かつての住専問題近くはそごう問題で、公的資金、つまり税金を使おうとしたときの世論の反発は正しい。つぶれるということは、経営に誤りがあった証拠である。

それがはっきり目に見える形に表れるところが、企業体制のすばらしいところだという。この言葉をドラッカーから聞いたときには、正直言ってどきっとさせられた。彼の言うことは常に当たり前のことである。強いていえば、忘れられがちな当たり前のことだからこそのすごさがある。

経営者が会社をつぶすことは、本業によって社会に貢献できず、社会からの預かりものである人材を生き生きと働かせられず、地域社会に害をなすという点で、先に述べた三つの役割のどれも果たせなかったことを意味する。いかに仕方のないことだったと弁解しても、最大の無責任ということである。

ドラッカーはこれに加え、仕事のプロとしての倫理があるという。すなわち、知りながら害をなすなである。これは古代からの医師の倫理、ヒポクラテスの誓いである。これこそまさにプロとしての倫理である。ここにも当たり前のすごさがある。ところが昨今、日本では知りながら害をなしたという不祥事がいくつか起こっている。ドラッカーに言わせれば、社会的責任に反する行為として最大の罪である。第一の役割としての事業を通じて社会に貢献するということは、社会のニーズに応えるということである。つまるところ客を創り、客を満足させるということである。ドラッカーのマーケティング論の真髄はここにある。

 

マーケティングの理想は販売活動を不要にすること

ドラッカーによれば、客とは、企業にとっては財・サービスを買ってくれる消費者であり、病院にとっては病人であり、大学にとっては学生である。ここにおいて、客となるべきでありながら客になっていない人たち、つまりノンカスタマーへの関心が事業の明日を決する。ノンカスタマーに注意しなかったために衰退していく業種、企業は多い。変化はノンカスタマーから起こるからである。このノンカスタマーの概念とその重要性を明らかにしたのもドラッカーだ。

デパートは自分の店の顧客については十分なデータを持っていたという。しかしそれでは、新種の膨大な消費者、たとえば営業時間中に買い物に行くことのできない、働く女性を満足させることはできなかった。気がついたときは遅かった。事業とは顧客の創造であるとのドラッカーの言はあまりに有名である。

客を創ることをマーケティングという。マーケティングとは販売活動の総称ではない。販売活動を不要にすることこそ、マーケティングの理想である。逆に、消費者運動こそマーケティングの恥である。

これもインタビューで聞いたことだが、これからは、およそあらゆるものが、アウトソーシングの検討の対象になるという。聖域はない。そこに働く者がその分野で一流であってもトップになれない仕事は、すべてアウトソーシングの対象となる。経理や研究開発も例外でない。そうすると、どうしてもアウトソーシングできない分野として残るものは、何か。この問いに対するドラッカーの答えがマーケティングである。マーケティングこそ、あらゆる事業にとって不可欠の機能である。

ドラッカーは組織の存在価値は組織の外の世界にある、組織の成果は外にあると口を酸っぱくして言ってきた。組織は一義的に社会のためのものだ。そこにいる人間のためのものではない。しかしこの当然のことが忘れられる。客よりも会社、会社よりも上役という思考では明日はない。これは何も会社にかぎったことではない。あらゆる組織にいえる。

 

 


 

⑤チェンジ・リーダーの条件───価値創造のイノベーション

  

井坂――ドラッカーはイノベーション論の大家としての顔もあります。

上田――社会は、継続と変化の双方が実現して発展する。継続と変化の相克をいかに乗り越えるか。ドラッカーが二〇歳のころからの、変わることのない問題意識である。組織もそうだ。継続だけでは衰退する。知識が中心となる変化の時代では、継続だけでは明日はない。他方、変化だけでは組織でなくなる。蓄積もなければ、他の組織との協業もない。

組織は変化のためのメカニズムを内部化し、変化を創造し続けなければならない。日々の改善であり、既存の製品・サービスの進化であり、価値の創造としてのイノベーションである。これがドラッカーの言う、チェンジ・リーダーの条件のエッセンスである。考えてみれば、ドラッカー自身がこれらのことを、身をもって実践してきた。

組織が変化の先頭に立って繁栄していくには、イノベーションが欠かせない。ドラッカーはあらゆる事業に不可欠の機能として、マーケティングとともに、このイノベーションを挙げている。

企業は安定を求めた途端、不安定になる。すぐに別の企業あるいは産業が、安くてよい製品やサービスで市場を奪う。IT革命後は特にそうなる。聞いたこともない企業、関係ないと思っていた産業が、市場を奪う。何でもあり、誰でもありの時代である。力を失うブランドが次から次へと出てくる。

 

生き残るために自らを陳腐化させる

明日のことはわからない。わからないからこそ、自分で明日を作ることが必要となる。自分で自分を陳腐化しなければならない。そのほうが、結局はリスクが小さい。これからは先端に立つためではなく、単に生き残るためにも、チェンジ・リーダーたることが求められる。そのためには、変化を歓迎する気風を組織の中に育てておくことだ。幸いドラッカーは『イノベーションと起業家精神』(一九八五年)で起業家精神の方法論を述べている。

ドラッカーがこの領域に最初に取り組んだのは、実に一九五〇年代の半ばである。企業やNPOの幹部を教えるニューヨーク大学大学院の夜間セミナーでのことだった。当時、ドラッカーは一〇〇〇を超えるイノベーションの事例を調べている。彼の教えるイノベーションの方法論は、想像によるものではない。

知識を中心とする時代とは、変化が常態となる時代である。当然、企業は変化を続けなければならない。そのとき、一人ひとりのマネジメントの能力が大きな力を発揮してくる。今、求められているマネジメントの能力は、継続のマネジメントではなく、変化のマネジメントのためのものである。

一九〇〇年~一九六五年の間に発展した継続のマネジメントから、一皮むけた変化のためのマネジメントが必要になっている。驚くことにドラッカーは、一九〇〇年~一九六五年は継続の時代だったと言っている。言われてみればそのとおりである。自動車産業を始め、今日の大きな産業のほとんどが、一九世紀後半に生まれている。

個々の企業だけでなく、産業そのものもまた、イノベーションを怠ると衰退の道を歩み始める。扱う製品やサービスが、利益のあがらない市況品になっていく。そこへ新商品・サービスを手に別の産業が参入してくる。金融サービス業が、今置かれている状況がその典型だ。IT革命を追い風に、今やコンビニまで金融サービス業に進出してきた。金融サービス業の商品が市況品になってしまったからだ。市況品の扱いはコンビニの方が上である。

金融サービス業では、もう三〇年もイノベーションを行っていない。カードによる個人融資ぐらいのものだ。デリバティブは業界内のゼロ・サム・ゲーム用のテクニックにすぎない。ドラッカーが二年前に書いた「イノベーションか、廃業か――金融サービス業の岐路」(『ジ・エコノミスト』一九九九年九月二五日号、『チェンジ・リーダーの条件』に収載)は、世界の金融サービス業に衝撃を与えた。

日本では、澁澤榮一の後に、はたして何人の澁澤榮一が現れたただろうか。ドラッカーが最も高く評価する日本人経営者が澁澤榮一だ。

これらのことは企業以外の組織についてもいえる。むしろ、企業のような競争下にない組織、特に政府関係機関についていえる。

 

井坂――変化の時代における一人ひとりの人間の生き方について、ドラッカーは何と言っていますか。

上田――不得手なことで一人前になるには、大変な時間と労力とコストがかかる。並のレベルに達するだけでも大変である。ところが得手なことで一流になるのは、至って簡単である。やがて一人ひとりの人間が、それぞれの得意とする分野で能力を伸ばすことができない学校、大学へは誰も行かなくなる。学校は不得意なことを補うところではなく、得意なことを伸ばすところにならなければならない。ドラッカーはその日が本当の教育革命が成就したときだという。

習得すべき専門の知識の総量が多くなることは避けられない。そうすると、一八歳から二二歳の間大学に行って終わりというのではなく、三年から五年ごとに大学に戻り、新しい知識を身につけて再び仕事に戻るという、学習と実践のフィードバックが必要になる。医学やIT、バイオ、環境問題など、動きの速い分野については、特にこのことがいえる。

自動車の免許証さえ書き換えが必要というのに、なぜか日本だけは、医師の継続学習と免許の書き換えが義務づけられていない。日進月歩の知識社会では、継続教育が慣行となっていく。

これからは誰もが自己啓発に取り組まなければならない。そこでドラッカーは、置くべき場所に自らを置かなければならないという。

 

「自分の強み」を本当に知る

知識労働者は、自分を雇っている組織よりも寿命が長くなる。今日の平均寿命では、八〇歳代まで生きることを覚悟する必要がある。非常勤かもしれないが七五歳前後までは働ける。意外と早くそうした社会になる。人口の高齢化が進むなかで、六〇歳で働くことを強制的に禁止できるほど現代社会の生産性は高くない。ドラッカーの問題意識はここでも具体的である。六〇歳で全員に働くことを辞めさせたのでは、社会が扶養の重荷に耐えられない。定年の延長ないし禁止は、社会的な要請である。

働く者、特に知識労働者は働き続けることを望む。こうして平均労働寿命は五〇年に及ぶようになる。まさに「五〇~六〇歳花なら蕾、七〇~八〇歳働き盛り」である。私が六〇歳になったとき、ドラッカーが面白いのはこれからだ、自分の知的生産性も六〇歳を過ぎてから飛躍的に伸びたと書いてきてくれた。

そもそも会社の平均寿命が三〇年そこそこである。今日のような激動の時代にあっては、会社はそれだけの寿命を保つことさえ難しくなる。長期存続が当然とされてきた組織、つまり大学をはじめとする教育機関、病院、政府機関も大きく変わらざるをえない。たとえ存続できたとしても、その構造、仕事、必要とする知識は変わらざるをえない。

これからの知識労働者は、自らの属する組織よりも長生きする。ドラッカーは、まずこのことを前提として人生を設計しなければならないという。ここで大事なことが、自らの強みを早期に知ることである。強みについては、誰もがよく知っていると思っている。だが、大抵は間違いである。知っているのは、せいぜい得意でないことについてだ。下手の横好きは、遊びならよくとも、仕事では困る。

何事かを成し遂げられるのは、強みによってだけだ。弱みは何物も生み出さない。幸い組織の妙味がここにある。組織の中で一人ひとりの人間それぞれの強みを生かし、弱みを意味のないものにすることが人事の要諦である。

「会社のほうが自分より長生きする。会社のほうが自分よりもしっかりしている。会社に寄りかかっていれば大丈夫」という人たちよりも、「自分のほうが会社よりも長生きする。自分のほうが会社よりしっかりしている。会社に寄りかからなくとも大丈夫」という人たちのほうが、仕事はできるし、会社としてもはるかにありがたい存在だ。

仕事の仕方についても同じことがいえる。仕事の仕方も人それぞれ。それが個性である。ドラッカーは、なぜかはわからないが、仕事の仕方についての個性は仕事に就くはるか前に形成されているという。したがって、仕事の仕方も、強みと同じように与件だ。与えられたもの、決まったものである。変更はできない。少なくとも簡単にはできない。

自分の強み、得意な仕事のやり方を発見することは難しくない。数年を要するかもしれないが、どのような分野で、どのような仕事のやり方が成果をもたらすかはわかるようになる。ドラッカーは、そのための手っ取り早い方法として、一六世紀の半ばにカトリックのイエズス会とプロテスタントのカルバン派が採用していたフィードバック分析を推奨する。

何か大きなまとまったことを行う際には、期待する成果をあらかじめ書き留めておき、何カ月後かにそれを実際の成果と比べてみる。そうすると、成果の側面から見た自分の得手不得手、分野と方法がよく分かるという。

 

優先すべきは自分の価値観

ドラッカーは、自らが強みとするものと、自らが価値ありとするものとが違うときが問題だという。価値ありとするほうを優先させなければならない。景気が悪いと簡単にはいかないが、進路を大きく変えることである。所を得るべく動かなければならない。

組織にも企業にもそれぞれの価値観がある。一人ひとりの人間にも価値観がある。成果を上げるためには、自分の価値観が仕事の価値観になじまなければならない。同じである必要はないが、共存しうるものでなくてはならない。さもなければ、心楽しまず成果も上がらない。

強みとする分野と仕事の仕方が合わないことはあまりない。両者は直接的な関係にある。ところが自分がよくできること、しかも特によくできることが価値観に合わないことがある。世の中に貢献しているという実感がわかず、人生そのもの、あるいはその一部を割くに値しないと思われる。

ドラッカー自身、若いころ得意で成功していたことと、自分の価値観との相違に悩んだことがある。一九三〇年代の半ば、ロンドンの投資銀行で順風満帆だった。強みを存分に発揮していた。しかし金儲けでは世の中に貢献している実感がわかなかった。

ドラッカーにとって価値あるものはカネではなく人である。金持ちになることに価値を見いだせなかった。大恐慌のさなかにあってカネがあるわけでも、ほかに職があるわけでもない。見通しが立っていたわけでもない。しかし彼は投資銀行を辞めた。それが正しい行動だった。

こうして自分の強みは何か、自分の仕事のやり方はどのようなものか、自分にとって価値あるものは何か、という三つの問題に答えが出さえすれば、いわゆる得るべきところも明らかになる。

ただしこれは、働きはじめた若いうちにできることではない。得るべき所を子供のころから知ることのできる者はわずかしかいない。

 

自らの得るべき所を知る

相当の能力を秘めていてさえ、自らの得るべき所を知るのは二〇代後半過ぎだ。しかもフィードバック分析を行うことによってである。そうして初めて得意なことや自分流の仕事の仕方がわかってくる。これらのことがわかれば、得るべき所もわかってくる。逆にいるべきでない所も明らかになる。そこでドラッカーは、大組織で成果を上げられないことがわかったならば、大組織でよい地位を提供されても断らなければならないという。

最高の仕事は、頭の中で計画してできるものではない。自らの強み、仕事の仕方、価値観を知ることで、用意していた者だけが手にできる。なぜならば自らの得るべき所を知ることによって、働き者で有能ではあるが、とりたてて才能があるわけではない普通の人が、超一流の仕事をできるようになるからである。

これらのことは、ドラッカーが『明日を支配するもの』(一九九九年)で、微に入り細にわたって言っていることである。一度しかない人生。自らにとって価値のないことを追求していたのでは、あまりにもったいない。ドラッカー自身がそうだった。先の見通しもないのに退職してアメリカに渡り、新しい人生をはじめた。あの戦前の深刻な不況期に、である。

自分について知っておくべき大事なことは、緊張や不安があるほうが仕事ができるか、安定した環境のほうが仕事ができるかである。どちらでもよいという人はあまりいない。

さらに重要な問題として、意思決定者とその補佐役との、いずれとしてのほうが成果を出せるかである。補佐役さえいれば、自分の責任で自信をもって意思決定を行える人たちがいる。逆にナンバー二として活躍していたが、トップの座に就いた途端に耐えられなくなる人もいる。トップの座には意思決定を行える人が必要だ。

これらのことから出せる結論は、自らを大きく変えようとしてはならないということだ。それではうまくいかない。

それよりも、自らの得意とするもの、仕事のやり方、価値ありとするものを伸ばしていくべきだ。

 

 


 

⑥人を幸せにするのは何か───「脱」経済至上主義のあり方

 

 

井坂――人間と社会についてドラッカーは何といっていますか。

上田――ドラッカーの関心の中心には常に人間がある。人間とは、どんなに偉くなろうと、おカネを残そうと、楽しく暮らそうと、死ぬときは独りという存在だ。そういう個としての人間がある。同時に、社会的な絆を必要とし、社会に貢献するとき人生の意味を見いだす、社会的な存在としての人間がある。人間の実存はこの両方が確立してはじめて可能となる。

ドラッカーが、個としての人間について書いているのは、「もう一人のキルケゴール」だけである。他はすべて社会的な存在としての人間が、いかにして活躍し、貢献するかにかかわるものだ。彼は社会的な存在としての人間に焦点を合わせる。そこでドラッカーはこう問いかける。社会的な存在としての人間が幸せであるためには、何をおいても社会として機能する社会が存在しなければならない。そのための条件は何か。

社会が社会たるための条件については、『産業人の未来』(一九四二年)で詳しく論じている。人の集まりが単なる群衆ではなく、社会として機能するには、そこにいる一人ひとりの人間に位置づけがなければならない。位置づけのない人間の集まりは群衆にすぎない。同時に役割がなければならない。役割のない人間の集まりは烏合の衆にすぎない。

社会が社会として成立するには、一人ひとりの人間にこの位置づけと役割という、二つのモノが与えられていなければならない。一般的な傾向、あるいは少なくとも通念としては、これまでアメリカでは役割ばかりが重視され、日本では位置づけばかりが重視されてきた。この二つはいずれも同じように重要であり、必要にして不可欠である。仕事だけでは悲しいし、居るだけでは困る。

 

大衆の切なる叫び――「脱」経済至上主義

この二つの条件に加え、そこに存在する権力が納得できるものでなくてはならない。納得できれば、世襲であろうと、神からの授かりものであろうとかまわない。これが社会、ひいては組織が社会として成立するための三条件である。ドラッカーの「社会に関する一般理論」である。

もちろん人は自由と平等を求める。奴隷状態には我慢できないし、恵まれた者とそうでない者がいることにも我慢できない。しかし、何が自由であり、何が平等であるかは時代によって、社会によって異なる。人間は神の子であると規定していた時代もあったし、政治的な存在であると規定していた時代もあった。

これに対しアダム・スミスが、人間は経済的存在、エコノミック・マン、エコノミック・アニマルであると戯画化して以来、それがそのまま今日に至っている。

ブルジョア資本主義は、経済を中心に据えて利潤追求を行えば、「神の見えざる手」が社会を望ましい状態にするとした。逆にマルクス社会主義は、生産手段を資本家の手から奪い利潤追求をなくせば、プロレタリアは解放されるとした。ここで注意しなければならないのは、ブルジョア資本主義とマルクス社会主義のいずれもが、経済中心のイズム、経済至上主義だったという点にある。

ところが、第一世界大戦による大量の戦死者と、その後に起こった大恐慌による大量失業者の発生で、そんな経済至上主義はいらないという状態になった。

経済のために生き、経済のために死に、経済のために戦い、経済のために休戦するなどということは嫌だということになった。しかし、自らの手で勝ち取った民主主義に愛着のあったイギリスやフランスは、自由と平等にこだわり、全体主義に進むには躊躇があった。

一方、国家統一の副産物として、与えられた民主主義しかなかった国、つまりドイツ、イタリア、日本は、耐えきれずにファシズム全体主義に走った。ファシズム全体主義の本質は、軍国主義でも弾圧でも暴力でもない。それらは付随的なものである。本質はもっと深い。それは、「脱」経済至上主義である。

ナチスドイツでは、工場でいちばん偉いのは工場長ではなく、古参党員の守衛だったり、商店ではオーナー経営者ではなくベルリン直結の新入り店員だったりした。ファシズムは、経済のために生き、経済のために働き、経済のために死ぬことを拒否する大衆の切なる叫びへの一つの答えだった。これがドラッカー二九歳のときの処女作『「経済人」の終わり』(一九三九年)のテーマだ。

 

井坂――ドラッカーにはNPOの師としての顔があります。

上田――経済至上主義は人を幸せにするのか。幸せにしないとするならば、何が人を幸せにするのかとのドラッカーの問題提起は、ドラッカー自身の中にずっと息づいている。彼は、瞬間的ではあったにせよ、日本の会社主義に「脱」経済至上主義社会の一つの形を見いだした。

勤務時間が終わった後まで仕事の話をするサラリーマンのいる日本は、従業員を部品扱いする欧米とは異質だった。企業にせよ政府機関にせよ、勤め先がコミュニティとなり、絆と安定をもたらしていた。ところが、会社主義は行き過ぎのあまりの袋小路に入ってしまった。

それにもかかわらず、ドラッカーはまだ日本に期待している。もし日本が、人と人との絆を大事にしつつ、開放的で出入り自由な組織を実現できれば、それこそ世界のモデルとなりうるという。ドラッカーの人間重視と日本好きが重なった形だが、事実、日本では会社を辞めていく者を物心ともに応援する会社が現れてきている。同時に他社からやってきて間もない者を、子会社の社長にする会社も現れている。

 

NPOの隆盛に見る問題解決の糸口

人は経済至上主義で幸せたりうるか。この問いへの答えが自由を否定する全体主義でないならば、真の答えはどこにあるのか。人間が経済のためのものでないことは、誰もが知っている。私はこの常識が常識でなくなっていることが、今日の日本に閉塞感をもたらしている根因であると思う。皮肉なことに、経済を中心に置くと経済までおかしくなる。

アメリカでは、NPOが自己実現と絆の場となっている。自らの能力をフルに発揮し、社会に貢献し、他者との絆を確認する所がNPOだ。

ちょうど政府が社会的な問題の解決にほとんど無能であることが明らかになった今日、アメリカだけが解決の糸口をつかんでいるかに見える。つまり二つの種類の問題を同時に解決する糸口をつかんでいる。それがNPOの隆盛である。NPOは助けられる者にとっての救いだけではない。助ける者、ボランティアにとっての救いである。

それは今、もっとも求められている、一人ひとりの人間の市民性を回復する足がかりとなっている。ドラッカーは、人は一年に一度納税し、四年に一度投票するだけでは、社会的存在としての自我を満足させることはできないという。NPOでは、自らの得手とする能力を武器に、目に見える形で社会に貢献できる。

アメリカのNPOは、アメリカ人が急に慈善に目覚め、寄付の額を大幅に増やすようになったために急成長したのではない。企業のマネジメントに多くを学んだ結果である。ドラッカーはさらに進んで、今日では企業のほうがNPOから多くを学ぶ段階になっているという。幾つかの例を挙げれば、知識労働者の動機づけ、使命感であり、取締役会(NPOの理事会)とマネジメント(執行部)との関係である。

彼は企業経営、政府機関運営の師であるだけではない。NPOのマネジメントについての、世界一の師でもある。彼の書いた『非営利組織の経営』(一九九一年)はNPOのバイブルとなっている。ドラッカーの名を冠し、ドラッカーが名誉会長を務めるドラッカーNPO財団が表彰する年間最優秀NPO賞の授与は、毎年、大きく報道されている。最高のNPO活動を広く知らしめることによって、他のNPO活動の水準を大幅に向上させようとするこの方法こそ、ドラッカーが説くベンチマーキング手法の実践である。

これからは、一人ひとりの人間にとって不可欠のコミュニティなるものが大きく変わる。もう村や隣近所ではない。それはどこに見いだせばよいか。アメリカでは、ボランティアとして働くNPOがそれである。日本では、新しく自由で柔らかなものに変身したあとの会社をはじめとする諸々の組織かもしれない。あるいは、それぞれの人間の、それぞれの専門領域の世界かもしれない。

他方、社会の力、中央政府の力によって社会を救おうという時代が完全に終わった。政府に対し社会を救えと要求はしていても、本気でそうは思っていない。そのような意味での社会主義は通用しない。福祉社会主義も通用しない。ケネディのような進歩主義も通用しないし、ジョンソンの掲げたプログラムも役に立たない。

政府が自らの手で社会を救うことができないことは、今や誰もが知っている。ドラッカーは、政府には不得手なことがあるという。自ら実行者になることだ。基盤やルールは作れるし、作らなければならない。しかし自らはプレイヤーになれない。恐ろしく不器用である。

もともと、そのようなことは常識だった。第一次世界大戦後つまり一九一八年から一九六五年ごろまで続いた一時の幻想に過ぎない。日本はまだ惰性でそれにすがっているが、すでに崩壊していることが万人の常識となる日は近い。すでに申し上げたように、世界の民営化ブームに火をつけたのはサッチャーだ。そのイギリス保守党に民営化のアイデアを与えたのが、ドラッカーの『断絶の時代』(一九六九年)だった。

 

多元社会到来と第三ミレニアムの課題

ドラッカーは、かつて日本やアメリカで機能していたような、利害の連合という政治手法も通用しなくなったという。利害集団という観念は知識労働者には通用しない。イズムが危険なだけで役に立たないことが明らかになった一方、利害による連合、いわゆる支持層に代わるべきものが現れていない。そもそも、社会の中核を占めることになる知識労働者の要求に応える政党がない。行き着く先はまだ見えない。無党派は答えのヒント、重大な手がかりであっても答えそのものではない。

しかも失われた一〇年から脱却するとともに、転換期の五〇年を無事に乗り切るという問題に加え、もう一つ、第三ミレニアムつまり二一世紀以降に持ち越されているとてつもなく大きな宿題がある。それは、二〇二〇年、二〇三〇年、へたをすると二一〇〇年、二二〇〇年になっても解決できないかもしれない課題だ。

社会の問題が、政府の手で解決されないことは明らかである。もちろん、個々の人間がばらばらで動いても解決はしない。社会のニーズは諸々の組織の力によってのみ解決される。しかもそれらの組織が、製品の提供、医療の提供、教育の提供というように、それぞれ特化、専門化した領域でそれぞれの強みを発揮したとき、それらのニーズはよりよく果たされる。

つまり社会は多元化したということだ。おまけにかつてのコミュニティがなくなるわけではない。新しいコミュニティも生まれつつある。単一の目標を持つ無数の組織と、それら新旧のコミュニティが併存するという、多元社会が到来する。というよりも、すでに到来している。

すると、この多元社会で社会全体の問題は誰が扱うのか。どこが扱うのか。どう扱うのか。すき間にある問題はどうするか、という課題が出てくる。これをドラッカーは、第三ミレニアムの課題として位置づける。第二ミレニアムは集権化を求めた。第三ミレニアムは多元化を求める。集権化には集権化の課題があった。多元化にも多元化の課題がある。

 

井坂――環境問題については何といっていますか。

上田――この社会の多元化にかかわる問題も、問題を全体として捉えなければ、解決の糸口さえ見つからないという種類の問題である。たとえば、エネルギー政策における、住民投票の位置づけだ。

環境問題も二一世紀のみならず、第三ミレニアム最大の問題だという。この環境問題も、全体として把握するとき、ようやく解決の可能性がみえてくる種類の問題である。

その解決の前提として大事なのは、必要とされているのはアセスメント(事前評価)ではなくモニタリング(観察・監視)であるとの認識である。複雑な生態系では何が起こるかわからない。これはあらゆることについていえる。アセスメントだけでは大抵失敗する。

ドラッカーの基本姿勢は、物をよく見ることにある。丁寧に見ていかなければならない。あらかじめ評価する能力は人間には備わっていない。アセスメントの努力は必要でだが、評価しきれると錯覚することは極めて危険である。おまけに費用対効果が恐ろしく悪い。増えるのは書類ばかりである。

これは事業についてもいえる。ドラッカーは、事業はすべからく小さくはじめよと説いている。おまけに予期せぬ客が来たら、それが本当の客だといっている。何事であれ事前評価は難しい。

環境マネジメントの最高の方法は、ビジネス化することである。社会的な問題をビジネスに応用して成功した例は、たくさんある。ドラッカーは、自社の製品に微量ながら有毒な物質が含まれていることを知ったある会社が、化学製品の毒性を研究して、毒性検査ビジネスとして成功させた例を紹介している。社会的な責任がビジネスにつながった。これは不便だとか、これは困るというものからイノベーションが生まれる。問題にこそチャンスがある。

 

 

 


 

⑦ITは意識を変える───技術は文明の変革者

 

 

井坂――ドラッカーは、現在進行中の転換期をどう見ますか。

上田――歴史は何百年に一回、大きく変わる。今から三二年前、ドラッカーは『断絶の時代』(一九六九年)を書いた。そのとき彼には、歴史の大きな断絶が見えた。その断絶がまだ続いている。そして近ごろ、このドラマがいよいよ佳境に入った。この本は、日本でも大ベストセラーになった。日本人の物を見る目は鋭い。

しかし三〇年以上も前にドラッカーに共鳴したにもかかわらず、その後、大した手も打たず、それどころかバブルとその崩壊まで経験してしまったのだから残念としかいいようがない。二〇〇〇年に新訳を出したところ、またよく読まれている。

ドラッカーはそのほぼ一〇年後『乱気流時代の経営』(一九八〇年)を書いて、断絶の後に乱気流がやってきたことを知らせた。特にバブルに気をつけろと懇切丁寧に注意を与えてくれた。すでに起きている未来を教えてくれるだけではない。どうすべきかまで教える。しかしこのときも、真剣に受けとったところはあまりなかった。

そしてそのまた一〇年後、つまり『断絶の時代』初版刊行のちょうど二〇年後、『新しい現実』(一九八九九年)を書いた。書き出しはこうだ。「平坦な大地にも峠がある。そのほとんどは地形の変化であって、気候や言葉や生活様式が変わることはない。しかし、そうでない峠がある。本当の境界がある。そして歴史にも境界がある」。つまり、あの断絶は「峠」であり、「境界」だったというわけだ。

さらにその四年後の『ポスト資本主義社会』(一九九三年)では、その峠は一瞬のものではないと説いた。峠には長さがある。五〇年くらい続く。今度のそれは一九六五年ごろに始まり二〇二〇年くらいまで続くという。

 

何によって憶えられたいか

この五〇年より前は、資本主義社会あるいは社会主義社会という、経済至上主義の時代だった。あるいは政府自らが社会を救うとの信条が隆盛を極めた時代だった。二〇二〇年より先の人たちは「カネが中心の社会って、どんな社会だったのだろう」「政府にそんなことまで期待していたのか」といぶかる。ドラッカーはさらにもっとたつと、歴史家の研究を待たねばならなくなるという。

われわれがとんでもない大転換期にあるということは、今や日本でも常識となった。現在の閉塞的な状況が明日の飛躍のための雌伏期だったと思い返されるようになる可能性は、十分にある。そうでなければ困る。

ドラッカーが挙げている日本と日本人の長所の一つに、転換の能力がある。かつて日本は、あっという間に仏教と唐の文化を取り入れた。明治維新という世界に例のない偉業を成しとげた。第二次世界大戦の廃墟からも立ち直ったではないかという。

しかし、今、転換を求めているといっても、はたして明治維新や終戦直後ほどの覚悟ができているかというと、かなりの心細さを感じる。

われわれの今の転換期は一九六五年ごろ始まり、おそらくは二〇二〇年ごろまで続くであろうというものである。しかも二〇二〇年以降の安定期といえども、知識が中心の社会であるからには、「変化が常態」という種類の安定期であるにすぎない。

したがって多くの読者の方々は、転換期しか知らないという希有の世代、そして残りの方々は転換期に生まれ転換期を生き、その後、変化が常態という世界まで活躍を続けなければならない前代未聞の世代となる。

これは苦しいことか。もちろん楽しいことと受けとめるべきだろう。大ドラマを毎日、見させてもらっているのだから。おまけに役までもらっている。自分次第で主役の一人になれる。

そのための箴言を一つ紹介しておきたい。これはドラッカーの言葉というより、ドラッカーが通っていたルーテル派系のミッションスクールの宗教の先生の言葉だ。それは、「何によって憶えられたいか」だ。この言葉を折にふれて思い出せば、それだけで人生が変わるという。

今、到来している高齢化とは、短に平均年齢が延びたというだけのものではない。誰もが八〇歳、九〇歳まで生きるというものである。

今でも十日に一度はドラッカーから、ファックスが来る。必ず近況を知らせてくれるが、昨日はカナダの州政府、明日は中国の教育機関、次の日は毎年二本ずつ出しているマネジメントビデオの収録、来週は某国の政府首脳、日本の企業トップとの会談と、目の回る忙しさだ。

やはり理想は、ドラッカーのように九〇歳を過ぎて主役を張ることだろう。ちなみに、夫人のドリス・ドラッカーも、法律と理工の知識をバックに特許弁理士として活躍、六〇歳からは発明家、八〇歳からはベンチャーの事業家として自分の発明した製品を商品化している。

 

知識労働と肉体労働それぞれが抱える課題

現在の転換期は二〇二〇年~二〇三〇年まで続く。転換期の五〇年間には、社会、経済、政治、文化、教育が足並みをそろえて変わるわけではない。早く変わるものもあれば、遅れて変わるものもある。すでに変わってしまったものもあるし、変わろうとしているものもある。項目がはっきりしてきたにすぎないものもあるし、それすらよくわからないものもある。いずれにしても、この転換期後の時代が、経済至上主義社会でないことだけは確かだという。

経済については、資本中心の時代から知識が中心の時代へと変わる。すでに、ガンの治療法など知識さえあれば、資本などどこからでもやってくる。単純肉体労働が中心という時代は終わって久しい。

生産性についても、重要なのはもはや単純肉体労働のそれではない。肉体労働の生産性にかかわる問題は、テイラー以降の生産性革命が一応解決した。これからの問題は、知識の裏付けを持つ肉体労働の生産性である。もはや一国の経済、一人ひとりの人間の働きがい、生きがいの源泉は、知識労働である。知識労働の生産性が最大の課題である。

幸いなことに、知識労働の生産性向上についても方法論がある。意思決定の方法論やイノベーションの方法論と同じように、ドラッカーが教えている。経営者にドラッカーのファンが多いのは、人間と社会について多くを学べるからだけではない。

ドラッカーの魅力は、膨大な知識と豊富な経験とに基づいて、行動のための原則と具体的な方法を示すところにある。彼は固定化した処方は示さない。原則を示す。だから応用が利く。ちなみに、知識労働の生産性向上の第一の原則は、成果に貢献しない仕事はしないことである。

知識労働は、それが自己実現に結び付くとき、大幅に生産性が向上する。したがって労働観も変わっていく。

しかしここに一つ重大な問題が残る。知識社会への流れから取り残される人たちである。全員が知識労働者になれるわけではない。雇用機会や所得についてはさほどの心配はいらない。人手不足が心配なくらいだ。だが、彼らの尊厳、生きがい、社会的な位置づけの問題が残る。

知識社会化が進行する先進国の中でも、アメリカと日本の社会だけは、生きた知識への敬意が伝統的に強いため、彼らの存在が大きな社会問題となることはないかもしれない。

しかし、問題が存在し続けるという事実には変わりない。この問題の解決の基本は、単純肉体労働および単純サービス労働の生産性を飛躍的に向上させ、貢献と働きがいを鮮明にすること以外にない。経済学者は肉体労働者の働きがいの問題には触れない。しかし、ドラッカーにとって、取り残される肉体労働者も重大な関心事である。カウンター・カルチャーの問題として正面から取り上げている。なぜなら、彼らもかけがえのない大切な人間であり、取り残される者のいる社会は、社会として機能しているとはいえないからだ。

おまけにITが世の中を変える。eコマースのインパクトがものすごい。ただ、eコマースに何が載り何が載らないかは、載せてみないと分からないという。

ドラッカーはIT革命を産業革命と対比させている。蒸気機関が産業革命を起こし、産業、経済、社会を変えた。しかし、蒸気機関は何も新しいものは生まなかった。それまで生産していたものを大量に生産するようになっただけである。もちろんこれだけでも、革命と呼ぶに十分の偉業である。

産業革命は、鉄道を生み出したとき、文字どおり世界を一変させた。距離感を縮め、史上初めて人類に移動の自由を与えた。全国マーケットなるものを生んだ。

IT革命についても同じことがいえる。コンピュータの発展によってデータを高速処理できるようになった。それまで半年もかかっていた複雑な計算や設計が、瞬時に行われるようになった。

しかし新しいものは生んでいない。プロセスをルーチン化しただけである。もちろんそれだけでも革命である。だが、一時喧伝されたコンピュータによる意思決定などは実現していない。その気配もない。

ところがIT革命もまた、産業革命の鉄道に相当するものを生み出した。ドラッカーはそれがeコマースだという。eコマースは距離そのものをなくす。その影響は印刷革命や産業革命と同様、それ自身とはまったく関係のない領域を変える。つまり世の中全体を変える。

 

これからの主役はあなたかもしれない

その最大の影響は、コンピュータを中心とするIT産業に対するものではない。印刷革命では印刷職人が貴族にまで列せられたが、すぐに主役の座は出版社や編集者にシフトした。IT革命でも、主役は機器から中身へとシフトする。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではない。IT革命の本当の主役はまだ現れていない。その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のもの、組織の内部についてのものにすぎないという。

ネットバブルがついにはじけた。ドラッカーはバブルの前に、ネットのバブルがやってくる、しかしそれはバブルにすぎないのだから気をつけなさいと警告していた。

IT革命は世の中を変える。しかし本当の主役が現れるのはこれからだ。それはあなたかもしれない。

 

井坂――ドラッカーには人生の師、万人の友人としての顔もあります。

上田――組織がどうマネジメントされるかによって、社会の豊かさも人の生きがいも左右される。ドラッカーは四四歳のとき『現代の経営』(一九五四年)を書いて、マネジメントの祖とされるに至った。五六歳のときには世界最初の、しかも今日に至るも最高の経営戦略書とされる『創造する経営者』(一九六四年)を書いて、事業とは客の創造であると断じた。ドラッカーの経営学は、内部化されたアウトサイダーとしてのコンサルタントの仕事を通じて、生まれ育ってきている。

世界中の大小の組織を相手にコンサルタントをしていることから、あとからあとから問題が押し寄せてくる。そのために最新の世界がよく見える。これに加えてドラッカーは一九三八年来、大学と大学院で教鞭をとってきた。大学院での学生は大企業の幹部、中小企業の起業家、病院やNPOの管理者である。つまり学生もまたドラッカーの洞察の源泉になってきた。今でも、毎週土曜日にはクレアモント大学院大学で教えている。この学生たちとの対話が彼の想像力をかき立てる。

書きたいモノの種は尽きない。かえって増えている。著作は主なものだけでもすでに三二冊ある。

それらに加え、『ハーバード・ビジネス・ウィーク』『フォーブズ』『ジ・エコノミスト』などに寄稿している。書くことを構想し、あるいは書き始めはしたものの途中で止まっているものもたくさんある。『仕事の歴史』『アメリカ史』『ネクスト・エコノミー』『ウェイステッド・センチュリー』など、題名を聞いただけで読みたくなるものばかりだ。これでは体が幾つあっても足りないし、一〇〇歳を越えても種は尽きない。

ドラッカーは一八歳の時、ヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」を見て感動し、八〇歳の時の作品であることを知った。そして、なぜその年であのような大作を作ったのかを聞かれたヴェルディの、「まだ満足できなかったからだ」という答えを知った。今、ドラッカーは八〇歳どころか九〇歳を越えた。しかしベストの作品はどれかと聞かれれば、次作だと答え続けている。

ドラッカーは何回も書き直す。日米同時出版の場合には書き上げたページごとに原稿を送ってくる。それをどんどん直してくる。せっかく翻訳したものをばっさり削除してくることもある。せっかくの面白いものをもったいない限りだ。しかしドラッカーにしてみれば、ベストを求めているにすぎない。

彼の言うことは思い当たることばかりである。しかもこちらが年を経て経験を積めば、また新しいことに思い当たる。ドラッカーはかつて、ダンテやゲーテはあらゆる年齢層に喜びと洞察を与えると言った。私に言わせれば、彼自身がそのような存在である。

今、私は『ジ・エコノミスト』に掲載予定の「ザ・ネクスト・ソサエティ」の原稿を待っているところである。この論文も、来春発行予定の新著に含まれていることになっている。その間、『抄訳マネジメント』(一九七五年)の新訳に取り組んでいる。お恥ずかしいことだが、二六年の間に新しく見えてきたもの、改訳しなければと思うようになった部分がある。

 

 


 

⑧すでに起こった未来を語る───ドラッカーとは何者なのか

 

井坂――ドラッカーの基本的なものの考え方を要約して下さい。

上田――世の中には真理があるとする考えと、真理などないとする考えとがある。真理がないとする者は、弱肉強食、ご都合主義、自分勝手とまったく話にならない。原理原則もない。とすると、真理はあるとする立場に立たなければならない。これがドラッカーの考えである。これには誰でもうなずくであろう。しかし最近の日本では、過渡期特有の現象なのか、真理などないとする考えや態度が蔓延し始めた感がある。

真理はあるとする立場に立つと、次にその真理はつかめるとするか、はかない存在の人間にはなかなかつかめないとするかに分かれる。前者は理性至上主義、理性万能主義、いわゆるリベラルだ。ソクラテスやフランス啓蒙主義がこの考えに立つ。後者は、イギリスの正統保守主義、アメリカの憲法制定者たちの考えである。ドラッカーは後者である。

真理がつかめるものならば、それを知らない人々は遅れているのであり、真理を知らせ、啓蒙してやりさえすればよいということになる。しかし、理性万能のリベラルはそこで止まらざるをえない。したがって、反対するときは強硬であっても、いざ権力を握ると行動できない。計画屋が描いた青写真を広げて、理解を求めるだけである。

ところが、それ以上に困ったことには、そのようなリベラルが失敗した後には、必ずといってよいほど、「真理は自分がつかんだ」という絶対主義者が出てくる。甚だしきは「自分が真理だ」とまでいう。ソクラテスの後にも独裁政治が現れたし、フランス啓蒙主義の後にはロベスピエールの恐怖政治があった。ブルジョア資本主義という経済至上主義の後のマルクス、レーニン、スターリンがそうであり、生物学、心理学が一世を風靡した後のヒトラーがそうだった。その前の時代のリベラリズムのエッセンスを切り取って、自分がそれを手に入れたという。

 

唯一正しいという答えはどこにも存在しない

そうするとその真理をつかんだ人間たちは、真理をつかんでいない人たちに言うことを聞かせる義務が生じる。そこに生じるものは、権利ではない。義務である。ギロチンにかける、銃殺する、強制収容所に入れる義務が生じる。真理を理解しない者は、進歩に反する、人類の幸せに反する、国家社会に害をなす。真理を握った者は、いかに破壊的なことでもできる。国家の安全、社会の発展、同胞の幸せのためである。

ドラッカーのいう正統保守主義とは、保守反動主義のような過去の再現は断固拒否する。少しでもよい明日を創造しようとする。だが、理念とビジョンは掲げても、詳細な青写真は描かない。手持ちの手慣れた道具で、個々の問題を解決していく。万能薬などという都合のよいものなどないことを知っている。医学にしても、何千年にわたってあらゆる病いを癒す万能薬を発見しようとしてきた。今はそのようなことはやっていない。それぞれの病気に合った、ベストの治療薬を探している。

組織の構造にしても、ドラッカーの考えは決定版などないというものだ。カンパニー制にしても、機能別組織にしても、チーム制にしても、それぞれの長所と短所を持つ。それらの長所と短所を知っておけばよい。組織について大事なことはただ一つ。構造は戦略に従うということだけである。

とるべき組織の構造は仕事によって異なる。さらには同じ一つの組織の中でも、この仕事にはこれ、この仕事にはこれといったように、それぞれ別の組織構造が必要となる。そのときどきによっても変わる。このことは組織以外のことについてもいえる。

何事にせよ、これが唯一の正しい答えといえるものはない、というのが彼の考えだ。しかも、そのときのベストの解決法が、数年どころか数カ月でベストでなくなる。

あらゆるものを、常時見直しの対象としていかなければならない。一定期間後に、法律や機関の有用性について見直しを行い、特別の理由がなければ廃止するサンセット方式の採用は、当然のことにすぎない。

ドラッカーはすでに『産業人の未来』(一九四二年)において、たとえ戦争遂行のためでも、統制的な措置は一切とるべきでないと強く主張した。それらの統制的措置は戦後も生き続けるといった。おそらく戦争には勝つだろう。しかし、戦争が終わったときに新しい旅が始まるのではない。そのときは単に馬を替えるときであるにすぎない。戦争のためといって始めたものは、平時にもそのまま残っていくと警告した。私はここにドラッカーのすごさを見る。日本では、今ごろになって戦争中に始めたものの手直しをやっている。

 

井坂――最近、大きく取り上げられているコーポレートガバナンスの問題を、ドラッカーはどうとらえていますか。

上田――資生堂の福原義春・名誉会長は、ドラッカーを読むといつも幾つかの発見をすると言っている。私自身、ドラッカーの書いたもの、言ったことにはかなり目を通しているはずなのに、常に新たな発見をする。

予想もしなかった、とんでもないこと同士のつながりを見つけることもあれば、まったく新しいことを知らされることもある。アウトソーシングできない機能はマーケティングだけだとの考えに目を開かされたのも、かなり最近のことである。ドラッカーは基本をとらえる。しかも唯一の絶対のものがあるとする観念論にはくみしない。

ごく最近も、今日さかんに議論されているコーポレートガバナンスについて、ぎょっとするようなことを聞かされた。

 

知識社会のリーダーシップのあり方

コーポレートガバナンス、つまり会社は誰のものか、誰のためのものかの問題は、会社のコンセプトにかかわる問題、原理原則にかかわる哲学の問題であるとの論がある。会社はシェアホルダー(株主)のためのものであるとの考えに立つ人、にこの論者が多い。

これに対し、会社は誰のものかは、社会における会社の位置づけにかかわる問題、つまりその国その国によって異なる文化の問題であるとの論がある。会社はステークホルダー(関係当事者・利害関係者)のためのものであるとの考えに立つ人にこの論者が多い。

ところがドラッカーは、会社の経営はマネジメントに任せてもらいたいというときにステークホルダー論が幅を利かし、いやそうはいかない、それではまともな経営はできないというときにシェアホルダー論が優勢になったと観察する。

加えてドラッカーは、今アメリカの最先端の企業は、会社は誰のものかなどとは聞きにこなくなっているという。今彼らの関心は、傑出した人材をどうしたら手に入れることができ、とどまってもらうにはどうしたらよいかだという。

今、アメリカでもっとも競争の激しい市場は何か。人材市場である。一流の人材にずっと活躍し続けてもらうための方法は何か。ここでもドラッカーの答えは明瞭だ。給料でもボーナスでもない。ストックオプションでもない。つまりカネではない。ともに事業をするパートナーとして遇することだという。

ちなみに、会社は誰のものかとの問いに対するドラッカーの答えも、至って簡単である。社会のものだという。したがって、社会のなかに存在する社会のための機関として、富の増殖機能を伸ばしていくことがマネジメントの責任だという。具体的には、マーケティング、イノベーション、生産性、人・モノ・カネの活用、社会的責任の遂行である。だからこれらについて目標を定めよという。最新の経営手法バランスト・スコアカードのルーツもここにある。ドラッカーが五〇年も前に言っていることである。

知識社会におけるリーダーシップのあり方をどうとらえているか。ここでもドラッカーは、唯一絶対のリーダー像などないという。リーダーシップ・タイプなど存在しないということだ。外交的な人、内気な人、すぐ行動する人、よく考える人など優れたリーダーはいろいろいる。

これまで多種多様な組織のコンサルタントを引き受け、いろいろな人に会ってきたが、そこに共通の性格などはなかったという。共通するのは、仕事に真摯に取り組んでおり、仕事ができるということだけだ。そして、フォロワーがいるという当たり前のことだ。

しかも優れたリーダーには、教祖的なカリスマなど一人もいなかったといっている。ヒトラー、ムッソリーニ、レーニン、スターリンはリーダーではない。カリスマは破壊者とはなりえても、リーダーとはなりえない。

 

井坂――ここであらためて聞きますが、ドラッカーは幾つの顔を持っているのでしょうか。

上田――その領域は、強いていえば社会、政治、行政、経済、経営、歴史、哲学、技芸(東洋美術)の八つだろう。しかしこれらは一体となっている。だから領域というよりも、人間社会の八つの側面、八つの窓を持っているというべきである。具体的には、相談に乗るコンサルタント、大学で教えるティーチャー、知っていることを広く知らせるライター兼スピーカーである。一言でいえば社会生態学者、つまりゲーテの『ファウスト』に出てくる物見の役である。彼は自分自身について、既成の学問体系による○○学者という自己規定はしない。いかなる分野をも中心に位置づけることを好まないからだ。あらゆる分野が、あらゆる分野にかかわりを持っているからだ。

ドラッカーの問題意識と方法論は一貫している。もちろん重点は移行していく。たとえば人口問題については、高齢化よりも少子化に危機感を持つようになっている。方法論については、理論化よりも全体を全体として把握する能力、つまり知覚の重要性を強調するようになっている。

 

井坂――上田さんとドラッカーとはどのような関係ですか。

上田――初めて単独で訳した『若き経営エリートたち』(W・ガザーディ)の序文を書いていたのがドラッカーで、それが邂逅の始まりだった。

その数年後、ドラッカーの『マネジメント――課題・責任・実践』(一九七四年)を野田一夫先生をはじめとする五人で訳した。日本語版にして上下巻一三〇〇ページという大著だった。その後ドラッカーに、英文のまま圧縮したものを作るから見てほしい、さらにそれを訳したいと申し出た。それが今も広く読まれている『抄訳マネジメント』(一九七五年)だ。

昨年出した『はじめて読むドラッカー』シリーズ三部作と同じ作業を二六年前にも行っていたことになる。わからないことはしつこいくらい聞いた。続いて、高齢化社会の到来を予告した『見えざる革命』(一九七六年)を訳した。このときも何でも聞いた。こちらの読解力不足でわからないことがほとんどだったが、時にはドラッカーの表現不足や誤解もあった。こうしていつの間にか新著の原文の原稿をチェックする役割をするようになった。日本やアジアについては調べものを頼まれたりする。私が経団連に入って最初に教わったのが「わからないことは何でも聞け」という当たり前のことだ。それだけのことがドラッカーとのつながりをもたらした。

しかし、私の前には、『現代の経営』によってドラッカーを日本に紹介した野田一夫さん、『「経済人」の終わり』を最初に訳した岩根忠さん、『断絶の時代』に「断絶」という訳語を当て、今日の転換期の到来を際立たせた林雄二郎さん、『ドラッカー名言集』をまとめた小林薫さんなどの諸先輩がおられる。ドラッカーと立石一真さん(立石電機、現オムロンの創業者)、盛田昭夫さん(ソニー創業者)との付き合いは家族的なものであって、私などにしてみれば神代のものだ。どうしてあのような人たちは若いころに出会って、親しくなっているのだろうか。

旧ソ連のアジア部、特に回教圏の今日の状況は、あるところはロシアの一部であり、自治領であり、同盟国である。すでに存在する状況でありながら、説明が難しい。『新しい現実』(一九八九年)のソ連の崩壊を論じた部分は、まだ起こっていない段階だっただけに翻訳に苦労させられた。

すでに起こった未来が見えない訳者としては、書いた本人に何度も聞かなければならなくなる。

 

私たちの責任でもあるドラッカーの大きな間違い

このインタビューは、依頼を受けたときからプロの翻訳家に英訳してもらい、ドラッカー本人に贈るつもりだった。私自身の理解度を確認したいためもあった。そこへ新しいアイデアが浮かんだ。たとえ冒頭部分だけでも、それを読んだ本人の感想、苦情、注文を文中で紹介しているという評伝は寡聞にして知らない。そこでドラッカーに趣旨を知らせて、二ページほどにまとめた第一話から第八話までの全体構成と、シアトル在住の日本人の方による翻訳が間に合った一・二話の英訳草稿を送った。

すぐに返事が来た。褒めすぎであるとの評に続けて、もしインタビューで言い漏らしているならば書き加えてほしいという注文が二点と、感想が一点あった。

第一の注文は、六〇年の間には間違ったことや『創造する経営者』(一九六四年)のようにあまり耳を傾けてもらえなかった著作もあった。それらのことを指摘してほしい、完璧な人間などいないのだからという。

そこで私なりに考えた。予測の間違い、しかも世界にとって、もっとも重大な間違いは何か。細かなことはどうでもよい。重大な見立て違いは何か。そして私は見つけた。

しかし、それはこれからわかるというものだ。もちろん日本の行方である。世界中の人たちが、あのドラッカーが一つだけ大きな間違いをした、それが日本への期待だったということにならないようにしなければならない。これは私たちの責任だ。

耳を傾けられなかった著作など、なかったといってよい。ドラッカーが例に挙げた『創造する経営者』は、作り話と思われたくないので名前まで挙げさせていただくが、日本有数の総合コンサルタント会社、タナベ経営の中村広孝・取締役東京本部長のいちばんの推奨作品である。

もう一つの注文は、自分には先達がいた。彼らに負うところが大きかったということを言っておいてほしいという。フランスのアンリ・フェヨール、ドイツのヴァルター・ラーテナウ、アメリカのメアリー・パーカー・フォレットなど西欧の先人だけでなく、日本の三人の巨人、福澤諭吉、岩崎弥太郎、澁澤榮一にも多くを教えられたという。しかも澁澤榮一こそ一九世紀から二〇世紀にかけての、世界の偉人の一人であり、偉大な明治人だったという。

読後の感想は私への謝意が入っているので面映いので、そのまま翻訳して本連載の締めくくりとさせていただく。加えてドラッカーの肉声に触れていただきたく、本人の了解を得たので原文をそのままご紹介する。読者の方々には、これまでのご愛読に心より感謝申し上げたい。

ドラッカーからの手紙 「私も多くを学んでいる」

私の著作への私を超えた造詣、理解、洞察の深さに強い感銘を受けました。あなた方は、私自身が私のマネジメント研究にかかわる動機と貢献の核心とするものを鮮明にしてくれました。すなわち、マネジメントとは、企業をはじめとする個々の組織の使命にとどまることなく、一人ひとりの人間、コミュニティ、社会にかかわるものであり、位置づけ、役割、秩序にかかわるものであるとの私の考えを明らかにしてくれました。私はまさにここに私の特色があると思います。

あなた方はトム・ピータースとマイケル・ポーターの名前を挙げられましたが、私もこの二人は当然特記されるべき人たちだと思います。しかし彼らのいずれも、企業を専ら財とサービスを生むための機関として見ています。もちろんそのとおりです。

しかし私の場合は、社会への関心の原点が第一次大戦時、二〇年代、三〇年代における西欧社会および西欧文明の崩壊にあったためだと思いますが、企業とそのマネジメントを経済的な存在としてだけでなく、社会的な存在として、さらに進んで理念的な存在としてとらえてきました。

確かに企業の目的は、顧客を創造し、富を創造し、雇用を創出することにあります。しかし、それらのことができるのは、企業自体がコミュニティとなり、そこに働く一人ひとりの人間に働きがいと位置づけと役割を与え、経済的な存在であることを超えて、社会的な存在となりえたときだけです。そしてまさにこのことを知覚し、理解するうえで、あなたとこの連載インタビューに勝るものはありません。

私が特に感謝し、心底感服するのは、このことについてです。次回を心躍らせて待っています。私自身が多くを学んでいるところです。敬具

ピーター・F・ドラッカー

 

 


ワルシャワの街の落書き

社会生態学の方法論――現実を見るということ

2006年2月

社会生態学者の作法

井坂 ドラッカーの生涯を特徴付けるものとして、その活動領域の多様性がある。しかも、それぞれの領域において桁外れの業績を挙げている。初めにドラッカーという人物の自己規定を伺いたい。

上田 ドラッカーは自分のことを社会生態学者と呼んだ。少なくとも経済学者と自己規定したことはなかった。

科学が事物を因果の連鎖で捉え要素に分解するのと対照的に、生態学者は生命体を見るように全体から事物を把握する。本来生態学とは、見ることを指す。自然生態学者は南米のジャングルに行ってこの木はこう生えるべきとはいわない。社会生態学者も社会をこうあるべきとはいわない。あくまでも見ることが基本である。それだけではない。社会生態学者は変化を見つける。その変化が、物事の意味を変える本当の変化かどうかを見極める。そしてその変化を、機会に変える道を見つける。

社会生態学という言葉も、知識社会、知識労働と同じように彼の造語である。日本では戦後の企業経営に与えた影響があまりに大きいため、経営学者としてのドラッカーが有名だが、彼の本質はこの社会生態学者であるところにある。社会生態学者だからこそ、生きた存在としての組織、社会的機能としてのマネジメントがよく見える。

事実と現実の違い

井坂 では、社会生態学者が観察する対象とは何か。それは社会や人間にとっての現実だと思う。だが、彼にとっての現実とは何か。

問題は、彼がなぜ「見解からスタートせよ」といい、「事実からスタートせよ」といわなかったかである。事実と現実とは、ほぼ大差のない言葉として使われる。だが、彼の思考では、明らかに事実と現実が峻別して用いられている。両者の区別が彼の思考システムを理解するうえでの鍵となる。

事実とはそれ自体意味も訴求力も持たない。それはただ存在しているだけである。あるいは生起したというだけである。事実は、解釈され、意味を獲得することで初めて現実としての力を持つ。ここでドラッカーの思考様式に一定の補助線を引く目的で、事実と現実の差異を明らかにしておきたい。

雨が降るというのは事実である。それ自体は自然現象であり、単に雲から無数の水滴が落ちるというだけである。しかし、それは見る人によってまったく異なる現実を作り出す。屋外で労働している人と、家の中でくつろぐ人、それぞれに雨の持つ現実は異なる。雨音さえも同じようには聞こえない。乾燥する季節に降る雨は恵みである。梅雨や台風の時期の雨はうんざりである。漱石の小説に、雨の日には来客を拒絶する紳士の話が出てくる。彼にとって雨の日は亡くした子供を思い出させた。

これが社会や人に関わるとさらに複雑になる。いかなる名曲であっても、スコアそれ自体は何のメロディも奏でない。指揮者とオーケストラの合奏を待って、初めて旋律として人に感動を与える。貨幣とは紙や鉱物に過ぎないが、人間にとっては価値の媒介手段であり、これほど現実的なものはない。事実とはいわばテクストであり、一方で現実はそれを具体的に意味あるものとするコンテクストである。

あらゆる見解は「検証されざる仮説」

上田 では、私も現実と事実を分けて考えてみよう。

ドラッカーは無人の森で木が倒れても音はしないという。音波が発生しただけである。これが彼のコミュニケーション論の基本である。彼は意思決定の際に、「見解からスタートせよ」と説く。会議の席ではさまざまな見解が噴出するのが常であり、それが自然の状態である。しかし、ここで認識すべきは、見解とは事実ではないということだ。まだ事実としての客観性を持たない仮説に過ぎない。見解の基礎となっている現実とは、そのときにその人に見えるものに過ぎない。それぞれの人の経験や知識、知覚によってその現実は成立する。

思考方法や思考内容についても、人には個性、習性、癖がある。それぞれの経験がある。同じ対象物であっても、人によって見え方はまったく違う。同じ車窓から眺める景色も、見る人によってすべて異なる見え方をする。見え方が違うということは、人はそれぞれ異なる現実を持つことを意味する。現実とは、ありのままの事実ではなく、個々人の経験、価値観、嗜好によって意味づけられた主観の産物である。

読書や会話を通じて、人は日常的にさまざまな情報に触れる。しかし、現実のものとして受け入れるのは、すでにある経験、価値観や嗜好と合致するものである。事実そのものを直接つかみとるというよりは、自らが好み、理解できるもののみを現実として受け入れる。そのため、人によって異なる見解が形成されることになる。

井坂 その点について、『経営者の条件』でドラッカーはこう述べている。

「何事についても、選択肢すべてについて検討を加えないならば、視野は閉ざされたままとなる。成果をあげるエグゼクティブが、意思決定の教科書に出てくるような原則を無視して、意見の一致ではなく、意見の不一致や相違を生み出そうとするのは、このためである。」

上田 意見、つまり見解とは、人が見た現実をもとに紡ぎ出され、形成されるものである。現実が多様であるほど、したがって見解が多様であるほど、意思決定はよく行いうる。人は自らの現実しか把握できない。その認識能力はきわめて限定されたものである。このことは言い換えれば、人間が持つにいたった現実とは、それがいかに説得的に響こうとも、検証されざる仮説に過ぎないということである。

ここでのドラッカーのメッセージは、一個の人間が持つ見解とは仮説に過ぎず、知られていないことのほうが無数にあるという点にある。そしてそのことを認識せよという点にある。

すべてを知ることが不可能であり、かつそれぞれが自らの持つ現実に縛られた存在であるならば、選択肢は多ければ多いほどがよい。したがって見解の不一致は自らの見ていない現実を見る好機となる。さらには、事実を知る契機ともなる。

スローンの意思決定

井坂 よく知られた話がある。GM(ゼネラル・モーターズ)のCEOアルフレッド・スローンの意思決定に関する逸話である。

「スローンは、GMの最高レベルの会議では、『それではこの決定に関しては、意見が完全に一致していると了解してよろしいか』と聞き、出席者全員がうなずくときには、『それでは、この問題について、異なる見解を引き出し、この決定がいかなる意味をもつかについて、もっと理解するための時間が必要と思われるので、検討を次回まで延期することを提案したい』といったそうである。」(『経営者の条件』)

事実スローンは全会一致を極度に警戒し、危険なものと見なした。対立意見が一つも出ない場面では、無条件に意思決定を一週間ずらしたという。これは何を意味するのだろうか。

上田 よい意思決定と満場一致は原理的に相反するということである。逆にいえば、限りある存在としての人間の能力では最善の意思決定、これが唯一という意思決定は行いえないとする信条の表れでもある。それは、人間の認識能力は完全ではありえず、誤りやすいゆえに、ともすれば事実に反する都合のよい現実からスタートしてしまうということである。

人はそれぞれ相異なる現実を持つために、予定調和的な美を期待することは不可能である。絶えず摩擦と対立が生ずる。加えてエントロピーの法則による劣化、陳腐化が進行する。これこそが社会をめぐる事実である。ドラッカーが探し求めたものとは、不滅の真理ではなかった。不完全な人間社会で相対的に機能する意思決定にほかならなかった。

「見解からスタートせよ」とはそのための手法である。なぜなら、相反する意見の衝突、異なる視点の対話、異なる判断からの選択があって、初めて検討すべき選択肢が提示され、相対的に信頼できる決定を行う条件が整うからである。そうしてはじめて、そもそもが仮説に過ぎないということを認識しうるからである。ここから、意見の不一致が存在しないときには、意思決定を行うべきではないという手法も導き出されることになる。

実際、いかなる組織にあっても満場一致で意思決定がなされるならば、それは異常と見なしてさしつかえない。事実とは常に多様な角度からの検討を要するものだ。

誰もが一つの現実しか見ていないということは。見られることのない多くの事実が存在していることを意味する。

『新しい現実』はなぜ書かれたか

井坂 みなが同じ見解を表明するならば、何かが病み歪んでいると考えてよい。会社であれば、個が抑圧され意見が出しづらい環境なのかもしれないし、経営者の取り巻きが幅を利かせているだけなのかもしれない。国家においても同様である。旧ソ連では国民の90%以上が投票で同一の党幹部を支持していた。

上田 考えてみれば選択肢のないところに意思決定の必要性はない。リスクなきところに意思決定など不要である。しかし、リスクなき人間社会など存在しない。だからこそ意思決定とは個々人が異なる現実を見るという、まさにその現実からスタートしなければならないものなのだ。初めから調和的で美しいものには必ず嘘がある。

井坂 さらにいうならば、事実とは過去から現在を示すものであるのに対し、現実とは現在から未来を照射するものである。現実とは人間の期待や価値観をも含む。合理的なものであるはずがない。

ドラッカーは1989年に、自らの観察をもとに『新しい現実(New Realities)』を刊行した。彼はソ連崩壊を予告したこの書のなかで、カリスマ支配の脆弱性に触れ、次のような考えを表出している。

「現実が主人である。カリスマの公約、プログラム、思想に対し現実のほうが膝を屈することはない」(『新しい現実』)

ドラッカーが現実にこだわり続けた理由をここに見ることができる。実際の世界では、現実が主人であって事実がそれについていく。同時に、ドラッカー自身、現実によって形成された世界のさらに先の新しい現実を読み解くことによって、変化を先取りした。

だが、現実からスタートするとは、決して当たり前の手法ではない。むしろ、これまでのモダンの世界では現実とは事実の従者とされていた。

モダンつまり近代合理主義は、物事の因果律、原因と結果を重んじた。17世紀のデカルト流一元主義以来、極端なまでに重視されたのが、客観的事実の探究であった。そこでは、理性の働きに信頼した分析中心の体系的大伽藍が構築された。科学的精密性が最高度に優先され、部分は全体の総和に等しいとの信念が一般化し、市民生活にまで浸透していった。そこでは、人間の価値観や経験による現実とは、真理の探究を妨げる雑音に過ぎないとされた。

これがモダンの時代だった。

されどモダンは死なず

上田 モダンの手法は自然哲学から経済社会にまで拡張されていった。科学としての経済学の申し子たるマルクスにいたっては、物質的基礎を持つ生産諸力こそが他のあらゆる要素を規定するとした。マルクスは自らの見た現実を事実と取り違えた。マルクスのみならず、フロイト、ケインズも同様だった。

彼らはポストモダンの現実まで見たにもかかわらず、モダンの方法論にとらわれて論理と経験の体系化を目指し、結果的には一つのねじが緩むだけで全体が崩壊しかねない「科学体系」を構築した。

このモダンの流れは現在においてもいまだ権勢を揮っている。マルクスを批判しその対抗関係において一時期存在価値を有するにいたった近代経済学にいたっては、科学的客観的事実の追求に躍起になるあまり、経済に強いインパクトを与える技術や心理といった現実としての要素を外生変数としてしか扱わずに来た。経済学者には経済は少なくとも半分しか見えていない。

ここにドラッカーが絶対に自分は経済学者ではないとする根拠がある。だが、彼はミクロ経済学において最大の貢献を行った。何ごとにせよ金は関係ないという考えがある。ドラッカーは違う。あらゆるものに必ず経済的な側面があるという。しかし、あらゆるものに経済という部分があるというのと、経済が世界の中心にあるというのとでは、本質的な違いがある。少なくとも、ドラッカーは後者の考え方を断固退ける。

景気の上昇とは貨幣の好循環を意味する。これはドラッカーも認める。景気がよいということは貨幣が循環するということである。そこで財政政策と金融政策が発動される。むろん、これにも意味がある。しかしそれだけでは意味はない。貨幣の回転率を乗じなければならない。この貨幣の回転率を決定する要因は、経済それ自体ではない。消費者マインド、経営者マインド、つまり心理の世界に属する。いくら貨幣を注入したところで、経営者や消費者が死蔵させたら何の意味もない。反対に注入するほどに回転率は下がる。これが90年代の日本で起こったデフレの現実だった。

だから、ドラッカーは経済を独立したものとして考えることは間違いだとする。彼が自らを経済学者でないとする理由である。

これらのものの見方の背後には、現実をどう見るかという方法論がある。事実とはそれ自体何ら意味を持ちえないものである。さらには、確定された事実とはその時点ですでに過去に属する。

したがってわれわれは現実をさまざまな角度から検討しなければならない。ドラッカーが知覚と分析を組み合わせるのは、仮説的な現実のなかから相対的に信頼できるものを選択するためである。現実の世界では、因果関係のみで把握できるものなどほとんど存在しない。

現実とは経済学者が頭の中で推論するモデルをはるかに上回る複雑さである。このことは、現実は、あらゆる物事は合理的であり、かつ人間の理性で把握可能とする近代合理主義の手法では扱いえないことを意味する。

加えて、世界が村になった今日では、現実どころか事実さえあまりに複雑である。すでに複雑系の科学がバタフライ効果として証明しているとおりである。

モダンとポストモダン

  モダン(事実) ポストモダン(現実)
   

17~20世紀

モダン

デカルト、ルソー、マルクス、フロイト

フランス啓蒙主義、共産主義

過去、現在

機械

因果関係

分析

科学

静態的

アセスメント(計画・予測)

部分・要素

 

20世紀~

ポストモダン

ハミルトン、バーク、トクヴィル、渋沢栄一

正統保守主義、フェデラリズム

現在、未来

生命体

相関関係

知覚

生態学

動態的

モニタリング(観察)

全体・形態

「見る」様式への回帰――あらゆるものはあらゆるものに関係する

井坂 株価は人間の心理や期待で動く、現実の典型例である。あの精緻をきわめた近代経済学さえ、明日の株価を合理的に予測することなどできたためしはない。かつて株価は合理的市場仮説によって説明可能とされていた。

合理的市場仮説は、株価は将来利益の現在価値に等しいとする。しかし、現実の株価は、この理論株価よりもはるかにボラティリティが高く、人知を超えた乱高下を行う。

まして、現在のようにバーチャルな世界市場で先進国の国家予算規模の資金が瞬時にやりとりされる状況にあっては、そもそも人為的な制御など不可能である。むしろ、市場の裁定には限度があり、投資家は必ずしも経済合理的には行動しないことが研究対象とされるようになっている。

上田 これからはモダンを超えた手法が必要となる。社会生態学である。社会生態学は、分析と観察を旨とする。そこでは観察が主であって、分析は従である。社会生態学は、分析や理論、要素への還元にとらわれない。数字にもとらわれない。

現実の世界では、因果関係よりも相関関係によって物事は変化する。経済社会の枠組みは変転してやまず、その原因把握は人間の認識能力を超えている。

ドラッカーは若いときから分析力に長けていたにもかかわらず組織を通じて成果を挙げるには、森羅万象あらゆるものを、全体として見る能力が必要だという。理論だけではいけない。理論は相対的に最も太い線をとらえて抽象するに過ぎない。多くのものを捨象する。とくに現代の世の中には捨象してよいものなど存在しない。

だから見ることが大事となる。この方法論が社会生態学である。

社会生態学は、総体としての形態を扱う。だから全体を見る。全体は、部分の総和よりも大きくないかもしれない。しかし、部分の集合ではない。そこでいいうるのは、「あらゆるものはあらゆるものに関係する」ということのみである。これがドラッカーのいうポストモダンの基本的な考え方である。南米の蝶の羽ばたきがシカゴに雨を降らしうるというバタフライ効果である。

少なくとも、ドラッカーの思考法は、物事を合理的に解明できると信じたモダンとは根本的に異なる。ドラッカーのポストモダンの思考法では、見ることを基本とする。そこで得られた現実から時々刻々に信頼できる事実を導こうとする。

ポストモダン――21世紀の射程

井坂 ポストモダンという用語をドラッカー的に解釈するとどのようなものか。

上田 歴史的な概念である。そして文明に関わる概念である。

真理を究めることはできると考えた幾何学者がいた。デカルトである。確実なる拠点を得るならば、次の真理を明らかにできる。さらに次の真理を明らかにできる。宇宙のすべて、やがては神の存在まで論理的に証明できるとした。神の存在を持ち出せば許されたからかもしれない。

真理が一つ与えられれば、そこからすべてを解き明かせると考えた点にモダンの特徴がある。因果関係はすべて人間の理性を通して明らかになるという思想だ。だが、間違った思想だ。因果関係でわかるものなど限られている。

見て考えているだけでは、幻かもしれないし、悪魔からのものもかもしれない。しかし、考えている私がいること、それ自体は間違いない。「われ思う、ゆえにわれあり」というデカルトの命題がこれだ。彼がモダンを作り上げ、その後の進歩をもたらし、やがて袋小路に入った。

すべてを因果の連鎖でとらえることなどできない。日々の人間活動を見ればわかることだ。全体を把握しなければビジネスをはじめとしたいかなる活動も遂行できない。壮大な青写真をあらかじめ描くことは失敗にいたる第一歩である。ソ連における計画経済の失敗がこのことを裏書きしている。だから小さくシンプルにスタートせよ、とのドラッカーの助言が現実的となる。それがポストモダンの思考方法だ。つまり形態で見るということだ。環境、途上国、教育などすべて21世紀の問題は、ポストモダンの方法を要求している。

社会生態学者としてのドラッカーに最も大きな影響を与えたのはゲーテではないかと思う。たとえば『ファウスト』だ。この作品はゲーテがほぼ生涯をかけて書き上げた傑作として知られる。

ファウスト博士にとって森羅万象知らざるものはない。だから世の中がつまらない。感激の種がない。そんなファウストに対し、「刻(とき)よとまれ」といわせるほどに美しいものを見せてやろうと名乗り出たのが悪魔メフィストフェレスだった。ファウストはこの言葉を口にしたときには、魂を差し出すと契約する。

劇のクライマックスの直前、舞台には塔が立っている。その上に物見の役がいる。あちらで何かが起こっている、何かが攻めてくる、何か異変がある。状況を見て、人に知らせる。物見の役リュンケウスである。ドラッカーは自分が現代のリュンケウスであるという。

リュンケウスが自己紹介をする。「Born to see、 meant to look」――見るために生まれ、物見の役を仰せつけられ、という。物見の役は、見て、変化を知らせる。それがドラッカーである。人為の世界を、見て、知らせる体系が社会生態学である。社会生態学の役割は変化を見つける。その変化が本物かどうかを見る。

井坂 社会生態学とはいわば見る様式といえる。ドラッカー自身の思考様式は、いわば西洋のリベラルアーツの系譜を丹念に押さえたものといえる。『ファウスト』には次のような台詞が出てくるが、ドラッカーの見る様式に通じる。

「この忙がわしく飛び交う飛翔の中から、七色に浮かび出ている静かな虹の美しさ。或は鮮かに描かれ、或は朧ろにかすんで、まわりに香ばしく涼しい狭霧を散らせる。虹こそは人間の努力を映す鏡だ。あれに思いをいたせば、もっとよく分るであろう。人生は、彩られた映像としてだけ掴めるのだ」(ゲーテ『ファウスト』第二部)

見えないものを見、そして行動する

上田 さらに、見る様式について付言しておきたい。

ドラッカーには、マネジメントの父、現代最大の哲人という捉えられ方がある。もう一つ、技術と文明の権威としての側面がある。アメリカ技術史学会の会長を務めていたことがある。彼にとってなぜ技術が重要だったのか。それは、「技術が文明をつくる」からである。ダーウィンの頃、ダーウィンとは別に進化論を唱えたラッセル・ウォーレスの言葉に、「あらゆる動物のなかで人間だけが意識して進化する」というものがある。ドラッカーはこの言葉をよく引用する。すなわち、人間だけが道具をつくる。道具、技術、知識の力によって人間は進化することができる。これができる唯一の動物が人間である。生活、文明を自らつくるのが人間である。ここから、技術と文明の問題にドラッカーは関心を持つにいたった。

ドラッカーのものの見方は深遠である。宇宙には秩序が存在するはずであるとする。秩序とは、形であって、知覚すべきものである。われわれにわかっているものはごくわずかである。大事なことは見えないものばかりである。

ドラッカーはメンデレーエフの周期律の凄さは、目に見えないことを見つけたことよりも、見えなかったものから見えるものの位置を明らかにしたことにあるといっている。

イノベーションも見えないものを見るための方法論である。そこからさらに進んで、見えるものの位置までわかってくる。そしてそれらのものは、物事が変化しているときに見えてくる。実際、現代社会の巨大な変化のほとんどは、彼が最初に見つけたといってよい。日本は経済大国になると世界に向かって最初にいったのは彼だった。日本人ですら信じなかった。ソ連の崩壊を予言したのも彼だった。これはベルリンの壁崩壊の2年前だった。

今、ようやく現実感が持たれはじめた高齢社会もそうだった。はじめて『見えざる革命』の原稿に接したとき、共訳者とともに高齢化社会に関する本と論文をすべて読んだ。一流のライブラリアンに調べてもらい、60点くらい読んだ。しかし、高齢者の医療、年金、住宅、趣味を扱う文献はたくさんあったが、高齢化社会がどのような社会になり、経済になり、政治になるかについてのものは一つもなかった。したがって、あの本が高齢化社会自体について書かれた世界ではじめてのものだったことは断言できる。

高齢化社会の到来は人口統計を見れば誰でもわかることだ。ドラッカーだけではない。今年何人生まれたかによって、18年後の人口はわかってしまう。にもかかわらず、経済学者も社会学者も、高齢化社会の問題を考えていなかった。ドラッカーの高齢化社会論が目立つことのほうがおかしいほどだ。

ドラッカーのすごいところはすべて当たり前のことばかりだというところにある。通念になっていること、政治家のいうこと、新聞に出ていることとが自分の感覚と違うことはたくさんある。そのとき、「あなたのほうが正しい」といってくれるのがドラッカーだ。

こうしてドラッカーは、明日への行動の刺激を与えてくれる。ドラッカーは人の頭を刺激してくれると最初に言ったのは、今から65年前、処女作『「経済人」の終わり』の書評を書いたウィンストン・チャーチルだった。


 

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見えないものをどう見るか

――未知なるものの体系化

 2006年2月

 

企業とは何か

井坂 前回、ポストモダンについて伺った。これを企業経営の視点から考えていきたい。まず、相も変わらず「企業とは誰のものか」という問いが存在するが、これについてどう考えるか。

上田 企業とは株主のものとも言われるし、従業員や顧客といった利害関係者のものとも言われる。だが本当にそうなのか。

ドラッカーの社会的責任論を見るならば、問いの立て方自体に問題がある。企業とは誰のものかという問題以前に、人は何のために働くのかという問題があるのではないか。

これまでも、企業の持つ社会的意味に関わる不祥事がいくつも起こってきた。では、企業とは何なのか、何のために存在しているのか。私は世のため人のために存在しているとしか答えられない。人が働くのも世のため人のためである。

井坂 ドラッカーは次のように述べている。「経営管理者は現実的でなければならない。しかるに、冷笑家ほど現実的でない者はいない」(『現代の経営』)

世のため人のために企業は存在するなどというと、冷笑する人がいる。非現実的だという人がいる。だが、それを冷笑するほうが現実的でない。まして、利益のために企業経営を行うなど、非現実きわまりない発想である。

上田 ドラッカーは、そもそも利潤動機なるものが存在しないとする。経済活動のダイナミズムを説明できなかった古典派経済学がでっち上げたものだという。事実、心理学にはそのようなものはない。

実は、利益とは明日のためのコストであって、存続の条件となるものである。明日さらにすぐれた事業を行うための条件である。条件とは手段であって、それを目的と取り違えることこそ非現実きわまりない。ただし、条件としての利益は、通常目的としている利益よりもはるかに高率である。

われわれの事業は何か、さらには、社会に対していかなる貢献をなしうるか。素晴らしい世の中をつくるために何をなしうるか、このような企業の存在の本質に関わる問題について、週に5分でよいから役員室で議論するならば、社会的責任に関わる深刻な事態の多くは起こらずに済むはずである。

典型が、未公開株の譲渡に関わる問題である。良識ある有力者に未公開株を保有してもらうという考え自体は、パーフェクトである。素晴らしい株主を持つことができる。ところが譲渡先に本業に関係のある官僚がいると意図とは関わりなく事件になる。

通常、組織にはこの種の問題に敏感な者が存在する。企業の外部の視点からものを考える者が存在する。そのような者が、たとえもごもごとではあっても発言をし、それに耳を傾けることができれば、事件は起こらない。

しかし問題は、事件になるかならないかではない。実に今日、企業は、望まずして、社会における正義の実現に寄与すべきことを期待される存在になっているのである。60年前ドラッカーがこれを期待し、今日では社会がこれを期待している。

井坂 物事の本質を見る者は、理路整然と自説を展開できないことが多い。そもそも、本質を論理で的確に言葉で表現することが、至難の業である。それは、楽器の調律の歪みや、絵画の色彩感覚のまずさを論理で表現できないのに似ている。それは論理の世界ではなく、知覚の世界に属する。

 

反駁なき提案を警戒せよ

上田 調和的で美しい提案に対して、われわれは警戒しなければならない。地球環境のため、地域住民のため、貧困解決のため、などさまざまな非の打ちどころのない提案が世の中には多く存在する。しかし、反対できない提案にわれわれは警戒感を持たねばならない。それは、よい意思決定と全会一致は原理的に相反するためである。全会一致を強いる論理は異常であるためである。

人間の認識能力には限度がある。人間とは不完全かつ脆弱なものである。見えていない現実のほうが想像を絶するほどに大きい。したがって、反対意見が想定されるときに、ようやくよい提案といいうるものとなりうる。反駁の余地のない意見は、現実の世界では危険過ぎる。

「これはおかしい」「しっくりこない」といった感性が現実の世界では重要である。私自身、この経験がある。

かつて属していた組織のなかで、使途のあてのない管理職の積立金をある団体に寄附しようという提案があった。それ自体は、美しく、理路整然として非の打ちどころのない提案だった。出来過ぎの提案だった。反対できないことにしっくりこないものを感じた。だから、私は話がうますぎるとしてその場で決定することに反対した。

反対できない提案とは、フェアとはいえない。反論できないロジックを使うのはアンフェアであり、発展の可能性を著しく低下させる。いかなる提案も、反論される可能性を必要とする。反駁を許さない論理を警戒しなければならない。その独善性を意識しなければならない。

反対できない意見にしても、一時的に支配的な現実に過ぎない。悲劇はそれがしばしば正義や真理を僭称することから起こる。ドラッカーは、真理や正義というものを人間が直接手にできるものとは考えない。正義とは人間のものではない。正義や真理を手にしたと称する人間や政党が現れる時代は、社会にとって間違いなく危機である。

彼らには、自らの正義や真理を理解しない人間を、人民の敵、進歩の敵、非国民として、強制収容所に送り、断頭台にかけ、銃殺する責務が生ずるからである。そのような人々にとっては、反対意見など存在しない。理解する者と理解しない者が存在するだけである。フランス啓蒙主義が教育を過度に重んじ、真理は教えればわかるものであり、わからない人々への教化のみが重要と考えたのもそのためだった。だからその直後にギロチンの時代がきた。

80年代の終わりに、メセナやフィランソロピーが奨励された。現在でも企業の環境対応やCSR(企業の社会的責任)に引き継がれている。

むろん、企業が社会貢献や環境活動、ボランティア活動等について熱心であること自体は素晴らしい。しかし、しばしば社会的機関としての企業の本質が見失われることがある。われわれは、責任という言葉をもっと深刻に捉えなければならない。責任と権限とはコインの両面に過ぎない。どちらか一方が独立して存在することなどできない。法律の世界でも、国民の権利義務として、一対の概念として捉えられる。

ドラッカーは新たな責任の付与は新たな権限の付与につながるという。ボランティアを企業の新たな責任と認識することで、それに不熱心な社員に昇進や給与で差を付けることがあってはならない。価値観をステイクホルダーに押しつけることは企業に許されることではない。権限の濫用である。そういうことに胡散臭さを感じるという美意識が必要である。

 

言葉を持たないポストモダン

井坂 彼が正義の語を使うのは、機会の平等などきわめて限られた文脈においてのみである。少なくとも、それはア・プリオリに措定されるものではない。

上田 そもそも、世の中で「なぜ?」という疑問に一語で答えられるものなど例外である。原因は「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」である。あらゆるものがあらゆるものにつながっている。だが、このことがわかっている者ほど、議論では負ける。論理の明晰さと比較して見劣りがしてしまう。

世の中うまい話に注意せよという。「こんなにうまい話があるのだろうか」と感じる者はどこにもいるはずである。彼らの意見が黙殺されることが悲劇を招く。理論で完全に説明できることは、危険である。その他の感覚を排除してしまう。見られることのない現実が見られないままに終わる。理論は無限の現実のわずかを占めるに過ぎない。このことを忘れてはならない。

そこで重要なのは、conceive(分析)すること以上にperceive(知覚)することである。これが社会生態学の流儀でもある。だが、現実の世界では前者が後者に勝つ。ポストモダンの世界は見えざるものを知覚する世界である。ゆえに、言葉やスローガンがいまだ存在しない。言葉で十分に表現できない。

井坂 知覚の世界に関わる表現手法は、論理の世界以上に知覚としての文学や芸術の世界に近い。事実、これまでも重要な世界史的な出来事が文学の世界において先取りされたケースは少なくない。ロシア革命を先んじて描写したドストエフスキイの『悪霊』が代表例であろう。ゲーテの『ファウスト』にも貨幣鋳造の管理について、未来を活写する場面が出てくる。ナチス興隆の前にハイネの詩には「本を焼く体制は、やがて人間を焼くようになる」とあった。知覚による把握が正しいということは多い。

 

目標管理への誤解

上田 まったくそのとおりだ。ところで、このことはコミュニケーションの方法とも関係する。さらには目標管理にも関係する。

コミュニケーションは「われ」と「われ」という単独の主体の間に成立するものではない。「われわれ」がともに経験し、ともに把握することからそれは可能となる。それなくして情報は意味がない。ましてデータに意味はない。

ナレッジ・マネジメントがうまくいかないのは、ここに原因がある。従業員や顧客に関するデータをいかにトラック一杯分収集・整理したところで、ともに把握し思考されることがなければ、ただの巨大なごみに過ぎない。

ドラッカーの提唱した目標管理が、経営管理者が目標を与えて管理するという彼の思想と似ても似つかないものになったのも、この問題にまつわる誤解が関係している。目標とは経営管理者が独断で設定するものではない。経営管理者が勝手に決めたことを従業員にノルマとして課すなどということは、目標管理とは似ても似つかない手法である。

目標とは組織に働く者が協同で「われわれ」として設定するものである。ともに信頼に足る現実を選び取るものである。そのような試みにおいて、反対論の出ない不滅の真理なるものがありえようはずがない。ドラッカーは『現代の経営』で次のように述べている。

「今日、目標管理すなわち目標によるマネジメントについての議論のほとんどが、『唯一の正しい目標』を探求しようというものである。しかしそのような探求は、賢者の石の探求のように空しいだけではない。明らかに毒をなし、誤り導く。」

医学におけると同様、企業組織にあっても万能薬や賢者の石があると考えることは愚かである。本来一個の意見に過ぎないものを、あたかも唯一不滅の目標や解決策であるかのように提示することは大きな誤りである。日常の会議室でこのような言動がよく見られるが、警戒しなければならない。

 

未知なるものの体系化

井坂 世の中には知られていないことは無数にある。このことを踏まえて、ドラッカーは未知なるものの体系化といった。

上田 人間や社会にとって知られていないことは無数にある。喫緊の課題にもかかわらず知られていないこともたくさんある。存在も活用の方法も知られていない。しかし、その多くは学者の発明や体系化を待ってはいられない。

人間社会にとって、大事なものは目に見えない。現実は目に見えない大切なものによって支えられている。それらを見て、その意味を今あるものとの関係で明らかにしていく方法が、未知なるものの体系化である。それは、見えないものを明らかにするのみならず、今あるものの意味をも示す。ドラッカーのイノベーション論の根底にあるのも、この方法にほかならない。そして、ドラッカーによる最初にして最大のイノベーションが、マネジメントだった。

未知なるものの体系化には想像力を必要とする。五感を働かせ、対象を見定め、全体を観察する。変化を読む。ドラッカーの洞察の根源はこのものの見方にある。

井坂 ドラッカーはマネジメントの発明者として紹介されることがある。マネジメントと、未知なるものの体系化との間には、どのような関係があるのだろうか。

上田 正確には、ドラッカーはマネジメントを発明したのではなく、産業社会の将来像を見定め、すでに起こった未来の所在を探り当てたに過ぎない。それはすでに存在していた。にもかかわらず、認識されていなかった。知識社会にせよ、目標管理にせよ、彼がいいはじめたときには誰も認識していなかった概念が、20、30年後には世界の常識となっている。彼は誰もが見ているが誰も認識していないものに、名前とコンセプトを与え、生命を吹き込む。

ここにも彼の方法論が関係している。ドラッカーは造語の名手であり、コピーライターとしても超一流である。新たな言葉を通じて、見えざるものに名前を与える。たとえば、知識社会というシンプルな語の組合せは、今やすでにわれわれを取り巻く現実となって久しい。

未知なるものの体系化には、2つの方法がある。1つは現在欠けた必要なものを見ることである。もう1つは見えざる部分に言葉とコンセプトを与え、意味を与えることである。

ちなみに、彼のマネジメントに関する最初の著書は、『企業とは何か』(1946年)である。このとき、彼はマネジメント関連の既存の文献をすべて調べたという。しかし、その多くは人間の管理や統制に関わるものであり、彼の想定する生きた存在としてのマネジメント概念に関わるものではなかった。まして、彼の意にかなうものではなかった。

マネジメントの発明は喫緊の課題だった。彼はよく「それが何なのかはいずれわかる。しかし学者が解明するのを待ってはいられない」という。

 

犬はなぜ吠えなかったか

井坂  ドラッカーは体系化をどのような意味で使っているのか。

上田  かつてドラッカーは、私に日本版への序文として、「理論は体系化する。創造することはほとんどない」と書いてきたことがある。本来、体系化とは分析による整理・分類である。データを分類しても、それ自体は意味を持たない。意味を見出すための手段に過ぎない。未知なるものの体系化にしても、全体の目的論的意味を見抜くための手段である。

ドラッカーの場合は、新しいコンセプトの創造も行う。マネジメント、知識社会など、彼の造語とされるものの多くが自ら創造したものだった。

ゆえにドラッカーにあっては、体系化といっても捨象と抽象による論理にとどまるものではない。彼は雑然とした日常のなかで聞こえてくる微かな声に耳を傾ける。ドラッカーは『経営者の条件』において、「相応の経験をもつ大人として、ソクラテスが神霊と呼んだもの、すなわち『気をつけよ』とささやく内なる声に、耳を傾けなければならない」といった。現実の世界では、真に重要なことが誰にでもわかる大きな声で語られることはかえって稀である。小さなささやきを聞き落とさないよう注意が必要である。

また、こうも述べている。「10回に1回は、突然夜中に目が覚め、シャーロック・ホームズのように、重要なことはバスカヴィル家の犬が吠えなかったことだと気づく。」

なぜあるのかと問うこと以上に、なぜないのかと問うことが重要である。人はあるものには注意を向ける。ないものに注意を向けることはほとんど無い。

しかし世の本質が目に見えないものである以上、われわれは見えないもの、聞こえないものに注意し、そこに意味を見なければならない。目に見えるものは、目に見えない重要なものを基礎に成立していると考える必要がある。それは、理論や分析による以上に、知覚によって知りうるものである。

ドラッカーは明確な因果関係を提示しうるものに疑念を感じてきた。実際、明確な因果で結ばれるものなど、初等数学や初等物理の世界でしか成立しない。この世のものの多くは明示的な知識や情報よりも暗黙知に属する。

論理の連鎖での思考が西欧世界の特徴なのであれば、暗黙知を重視する点では、ドラッカーは東洋的な思考をも併せ持つのかもしれない。少なくとも、思想と現実が、ドラッカーにあっては分離していない。統合的にとらえている。未知なるものの体系化も、見えないものを見ると同時に、今存在するものを全体のなかで位置付け、意味付けようとする試みである。

 

マネジメントに通底する気高い精神

井坂 ドラッカーの最初の論文は1933年に発表したF. J. シュタールに関するものだ。シュタールは19世紀の半ばまで活躍した法理論家、政治家だった。プロシアの立憲制を支持した思想家で、ドラッカーによれば、ビルマルクのドイツ統一はシュタールの思想を具現化したものだった。

彼がなぜシュタールを評価したかという点も、今の問題に関わってくる。シュタールはプロテスタントの改宗ユダヤ人だった。彼は、「神の国」については一歩も譲らなかったが、形而上の世界と現実の世界を統合体としてとらえていた。つまり、現世にある不完全な人間社会や国家も、なにがしか理想的、理念的なものを体現しているのだという考えだった。

社会、国家、経済、これら不完全な人間による形成物も、真理を間接的に表象するものであり、その限りにおいて意味を持つとした。ドラッカーは、シュタールのこのような思考方法に共鳴した。事実ドラッカーの産業社会への視線も、理想と現実を一体のものとする思考法に貫かれている。

上田 実は、ドラッカーの根底にある問題意識は、企業のマネジメントではなかった。産業社会は正統な社会たりうるか、自由な人間社会として成立しうるか、にあった。ドラッカーにとってその答えが、成立しうる、だった。

しばしば、マネジメントは企業経営の手法であると理解される。最悪の場合、金儲けのための手法と誤解される。だが、マネジメントには、人間社会全般の成立に関わる問題意識が横たわっているという事実を忘れてはならない。

企業は、社会から、人間という尊厳あるかけがえのない存在を預かる。企業組織は、財・サービスを供給することで、人間社会の物的欲求に応える。のみならず、組織で働く人々に生き生きと成果を挙げさせ、成長の機会を与える点で、人間の幸福に関わる役割を持つ。

人は企業に雇用されるならば、職場でほぼすべての活動時間を拘束される。見ず知らずだった人から命令を受け、監視される。なぜ、神の子たる人間が企業において、拘束を受け、命令系統に組み込まれなければならないのか。なぜ自由で平等であるはずの人間が組織の束縛を受けるのか。むろん、生きていくためには仕方がないという見方もある。そこでは賃金と引き替えに人間の尊厳を譲り渡すものと考える。

しかし、それ以前に、企業に正統性はあるのかという問いを発しなければならない。ドラッカーを捉えた問題意識がこれだった。企業がそこで働く人々に対して、権限を持つならば、同時に、働く人々および社会に対して十分な見返りがなければならない。それは、社会に対し本業をもって貢献し、働く人々を仕事を通じて成長させることである。これなくして、企業は正統性を維持しえない。ドラッカーは、「企業の経営管理者は社会に対して借りがある」と述べる。彼らの権限は社会から許されてはじめて発揮しうるものである。これこそがマネジメントの責任である。

井坂 社会の是認なくして企業は一日たりとも存続しえない。このことを忘れてはならない。彼にとっては、新文明の中心的組織が偶々企業であったということに過ぎない。その意味においては、マネジメントはきわめて正統的かつ気高い問題意識を基礎に持つ。特に正統性保持の立場からの分析は西欧思想史のなかでも王道に属する。

 

ビジネスマンが文明を創造する

上田 産業社会が無前提に成立するものとはドラッカーは考えなかった。それは社会を構成する人間の意識的な営為によってなされるべきものだった。人間がつくっていくものだった。さらに、彼において、世の中心は、学者でも政治家でもなく、軍人でもなかった。企業におけるビジネスマンによる日々の活動こそが世界をつくる推進力だった。ここにドラッカーのマネジメント論の原点がある。

ドラッカーが産業社会における企業を見るときのキーワードが「正統性」である。彼は、伝統的な西欧思想である「権力の正統性こそが中心課題である」との認識から議論をはじめた。現実のものとして機能するためには、高次のビジョンと理念的な前提が必要であるとした。

企業における正統性は、第1に本業とする財・サービスの供給によって人間社会に貢献すること、第2に社会的な存在として、そこで働く人々に生き生きと成果を挙げさせ、自己実現させること、第3に社会に対する害を最小限のものにとどめ、かつ自らの得意とするものによって世の中の問題解決に貢献すること、によって成立する。これは、マネジメントの役割を別の角度からとらえたものにほかならない。

ドラッカーは、資本主義とは何かと問いかける。金が中心の社会とはご冗談でしょうという。市場経済とは何かとも問う。他のもの、官僚や学者が価格を決め分配を決めるという他の体制があまりに不首尾だったゆえに、偶々勝ち残っているに過ぎないという。

ドラッカーは、体制による問題解決を求めたカール・ポランニーには同意しなかった。しかし問題意識は是としていた。ドラッカーはマルクスの間違いを指弾したが、マルクス経済学者からは高く評価された。

ドラッカーの思想の中心にあるものは金ではない。人である。しかも生きて働く人である。


 

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マネジメントの新潮流

――ポスト・フォーディズムの企業のかたち

 

2006年2月

井坂 近年のマネジメントの文脈から「未知なるものの体系化」はどのように理解すべきか。

上田 すでに、ドラッカーは『断絶の時代』(1969年)で、このことを見据えている。彼はその前年1968年に何か大きな変化が起きたと感じていた。

ここでも、未来の全体像を描くために、欠けたパズルのピースを探し求めた。メンデレーエフの周期律もそうだが、今はないもののあるはずのものがわかった時点で、今あるものの意味も見えてくる。全体像が見えてくる。これはイノベーションの方法論そのものである。

ただし、彼の場合は、あるはずのものだけでなく、あるべきものまで自ら作り出した。その最初がマネジメントの「発明」であった。自ら言葉を生み、コンセプトを創造し、生命を与えることで、新文明の行く末を見据えた。

『断絶の時代』における最大のメッセージは知識労働者が世の中の主役になるという点にあった。土地や資本といった既成の生産手段に縛られない新たな労働者像が示された。ここにおいて、ビジネスマンこそが社会や文明の担い手とする従来の彼の主張がいっそう重要な意味を持つこととなった。

井坂 『断絶の時代』刊行の前年1968年は各所で根本的変化が生まれた年として記憶されている。欧米ではこの年に関する書物だけで相当な数に上ると聞いたことがある。なかでも、先進諸国では学生たちを中心とした反乱が頻発していた。パリ5月革命の年でもある。アメリカではピッピーたちによる反体制運動がうねりを上げた。日本でも全共闘と呼ばれる大衆運動があった。これらに共通するものは、反大組織であった。巨大政府、巨大企業など、人間の尊厳を傷つけ、搾取する強権を槍玉に上げた。同時に、大量生産・大量消費という戦後文明を象徴付ける産業システムに対しても、反発が高まっていく。

大量生産・大量消費の世界をフォーディズムと呼ぶことがある。自動車会社フォードの大量生産工場にちなんで付けられた名称である。20世紀初頭、第2次産業革命の影響で、生産性は飛躍的に向上していく。だが、生産性の向上ばかりでは経済全体は発展しない。消費が生産に付いていく必要がある。それまでは一部の富裕層の商品だった自動車をはじめとした奢侈財が一般大衆に普及しはじめたのはこのときだった。

消費者とは裏返せば、大量生産工場で働く労働者たちである。彼らが商品を購入できるようにするためには、賃金の向上が必要となる。そして、賃金が安定的に上昇する仕組みが必要となる。だが、一方で経済社会が高度化していくにつれ、深刻な事態が問題ともなった。その最たるものは恐慌である。市場の自己調整的機能が現実に付いていかなくなる状態が起こるようになった。そのたびに労働者が解雇さるならば、経済システムの安定性にとって大きなマイナスである。それは消費者にたいする負の側面のみならず、生産者、ひいてはシステム全体の危機を意味した。

このような状況から生起したのが、労働組合だった。労働組合の出現により、労働者の賃金は下がりづらくなった。解雇も容易には行えなくなった。さらに、ケインズに代表される福祉国家政策が実行されるようになり、景気循環による悪弊は次第に低下していく。同時に、安定的なシステムのもとに、企業は生産活動に励み、大規模化が進行していった。いわばフォーディズムの世界とは、政府、企業、労働組合の三者が巨大化していくプロセスを指す。

一方、戦後を特徴付けるこのようなシステムも、60年代後半から70年代初頭にかけて、衰退の兆しを帯びていく。いわば、市場の自己調整機能を超える出来事が頻発する。石油ショックや通貨の問題はその一例に過ぎない。ここから、ポスト・フォーディズムの世界への以降がはじまったとの見解をとる論者もいる。ポスト・フォーディズムとは単に大組織の有効性が低下したというのみではなかった。ドラッカーの語彙で言えば、社会による救済の終焉をも意味した。

 

大きな物語の終焉

上田 彼は当初より、企業の正統性はあらかじめ定められたものではなく、時代状況に合わせて創造されていくものと考えた。そもそも正統性とは、大衆の信条や価値観に応じて決まるものであり、唯一不滅の正統性がありうるという立場をとらなかった。わけても、企業においては、19世紀の王権や軍、教権などと異なり、経済、政治、社会それぞれの側面において、同時に正統性を確保しなければ、真に正統的存在たりえないと考えた。

井坂 1968年の転換は、この文脈から理解したときに、はじめてその意味がわかる。大企業、大政府、巨大労働組合、いずれをとっても、正統性維持の機関としては、不完全なものにとどまっていた。60年代の大衆運動が一貫して反大組織をスローガンに掲げた事実からもこのことは明らかといえる。

彼が80年代に入ってからNPOの議論を開始したこともこのことと無縁ではない。彼は言論活動の開始とともに、社会部門の非営利組織をきわめて重視していたし、自らその活動に携わってもいた。だが、60年代、大組織の根本的矛盾が明らかになった後、その補完的機能としてのNPOに改めて鋭い関心が向けられることとなった。

ここでもいくつかの未知なるものの体系化の手法が遺憾なく発揮された。そもそも69年の『断絶の時代』には副題にもあるように、来るべき知識社会への構想が大胆に宣言された。誰も見たことのない社会が始まった。

上田 知識社会は、生産手段としての知識を持つ多数の労働者からなる社会である。プロフェッショナルな個人による創意が発揮され、社会への貢献がなされる社会である。そのような社会にあって、大組織は十全な機能を発揮しえない。巨大政府による救済も意味をなさなくなる。

井坂 今や専門家同士の知識は国境を越える。かつて労働力だけは移動しないとの事実が国際経済学の前提であった。しかし、情報化の進む現在にあっては、アメリカの大企業のシステムをインド在住のエンジニアが請け負うことなどめずらしくない。すでに、頭脳は国境を縦横無尽に駆け回っている。そのような時代にあって、国家が専権的に徴税権を行使することは事実上不可能となる。事実、トヨタ自動車はすでに決済をほぼドル建てで行う。17世紀以来の国民国家ですら、消滅の危機に瀕している。労働組合にいたっては、それまでの賃金や雇用の維持といったレゾン・デートルの喪失を意味する。

60年代の変化を契機に、巨大組織の神話は徐々に希薄化していく。この時期に、日本でベンチャー企業なる造語が生まれたことも偶然ではない。個人による責任、個人による成果が重視される社会に変わったのはほかならぬこの年であった。優秀人材にとって、大組織のみが選択肢たりうる時代は終わりを迎えた。緩やかな専門家同士のネットワークが意味を持ちはじめたのもこのときからだった。

フランスの思想家リオタールは、『ポストモダンの条件』において、60年代の変化を「大きな物語の終焉」と表現する。いわば、大きな物語から、小さな世界(共同体)への転換がなされた。

すでに、明確なミッションと有能な現場さえあれば、階層型の大組織は不要となりつつある。むしろ、異質な専門分野を持つもの同士のネットワークが新たな企業の形態として行われる。大学の研究室と企業とのアライアンスによる製品開発は現在ではめずらしいものではない。むしろシリコンバレー・モデルとして歓迎されつつある。自前では設備を持たない企業が、複数の中小企業の強みをネットワークして成果を挙げる例も見られる。国際NGOが電機メーカーと組んで、環境にやさしいノンフロン冷蔵庫を開発した例もある。このような事例は枚挙に暇がない。

同じことが60年あたりに行われていたら、大問題となっていたはずである。今では大組織による強権など完全にリアリティを失っている。重要なのは協同で成果を挙げられるかの一点にしかない。

 

マネジメントの発展と変化

上田 ドラッカーに68年以降の変化が見えたことも、見えざるものの体系化という手法によるものだ。それは、全体を全体として把握する思考と密接に関係している。換言すれば対象を一つの生命体として観察するということである。このことはひいては、現実に存在するものには意味があり、宇宙の秩序のなかで位置付けられることを意味する。

目的論的視点を持つならば、全体を見なければ意味がなくなる。現時点で欠けているものの存在も、全体の秩序や意味から見つめ直すことで見えてくる。物事を点ではなく、意味ある立体として見る必要が生ずる。

井坂 ドラッカーのマネジメントの発明もこの思考でなされた。1930年代のドラッカーにとって、正統性を維持するための機関の発見が急務であった。この観点からすれば、彼の初期著作に一貫して流れる根本関心が理解される。

第1作『「経済人」の終わり』(1939年)は、正統性を喪失した社会の悲劇と、そこにつけ込み偽りの正統性を付与することで一時的な支持を得たナチズム全体主義の起源が探られる。第2作『産業人の未来』(1942年)では、大戦以降の新文明たる産業社会に適合可能な諸条件の探索と、その文脈における大企業の意味が見出された。そして、第3作『企業とは何か』(1946年)では、GMの分権制の観察をもとに、大企業こそが産業社会の中心的機関であることが見出された。

上田 生産手段の大規模化にともない、単独の人間では仕事が行えなくなった。そこから組織が生まれた。組織社会における人間の幸福は、それぞれの組織がいかによい成果を挙げうるかにかかっている。ここでマネジメントが必要となってくる。社会的存在としての一人ひとりの人間の幸福のためには、マネジメントがきちんと行われなければならない。マネジメントの歴史はこのようにして幕を開けた。

マネジメント発明の経緯からもわかるように、彼のいう正統保守主義の正統な嫡子として生まれたものである。ドラッカーの経営学自体も、社会についての一般理論を組織者会に適用するところからはじまっている。いずれも、問題関心は企業そのものではなく、正統性確保の方法にあった。誤解を恐れずいうならば、マネジメントが企業からはじまったのは偶然であった。当時の時代状況において、他にふさわしい機関が存在しなかったためだった。

井坂 ドラッカー自身がやや謙遜気味にいうように、彼が発見しなければ、誰か別の人がマネジメントを発見していたとするのは、あながち的外れとはいえない。それほどまでに、機能する社会、正統な社会は人間にとって不可欠な存在であった。マネジメントの発明以降、瞬時にこの概念は社会的機能として認知され、世界の常識になった。社会主義諸国でさえ、マネジメントを無視することはできなくなった。さらには、大学の独立した学部としても認知された。マネジメント・スクールもできた。これが現在のマネジメントと呼ばれるもののルーツであり、発展過程である。

上田 だが、一方で、GMを代表とする大規模生産組織を正統性の根拠とする思考も、時代の産物であり、大衆の信条や価値観に合致する範囲において正統たるものであった。ドラッカーは、マネジメントとは、社会に意味と絆帯を与える社会的機関であるとする。その意味で、マネジメントとは機能する社会にとっての手段である。資本主義や市場主義ですら手段である。便宜的な存在に過ぎない。大事なのは目的としての人間社会である。生命体としての人間社会である。彼が企業をはじめとした組織に注目したのは、その限りにおいてである。人間社会に位置付けと役割、そして正統性を付与する手段としての組織であった。ここに手段としてのマネジメントが意味を持つ。

 

組織の再定義

井坂 組織という語の印象を学生に聞くと、十中八九「冷酷」「非情」「非人間的」という答えが返ってくる。いずれにも暗く陰惨なイメージである。このような印象はゆえなきこととはいえない。従来、組織の原型とは、軍隊、官僚くらいしかなかった。ゆえに、組織という語にそれらの陰影が付きまとってきた。これは日本特有の現象ではない。欧米でもorganization manとは非情で機械のような人間像を指す。

現在にいたっても、われわれは組織という存在を扱いかねている。ドラッカーは「そもそも組織というものが最近の発明であるために、人はまだ、それらのことに優れるに至っていない」という。事実、組織は現実的意味を帯びはじめてまだ100年程度しか経っていない。

しかし、組織の概念が過去の経緯からあらぬ誤解を受けていることも確かである。これは企業に今だ汚らわしいイメージが消えないことと似ている。組織という語を見るならば、「組まれ、織られる」ものである。人体の部位を組織ともいう。英語のorganizationのorganも本来は有機体の意である。組織とは、人間同士の有機的協同を指すもの、あるいは生命体を指すものだったが、現実には、それとは似ても似つかない観念が固定化している。

1969年の『断絶の時代』による知識社会の提唱により、ようやく組織という語の本来の意味が生命を帯びはじめた。人間が組織という最近の発明に習熟する第一歩ともいえる。それによって、軍隊や官僚組織を範とする階層型組織、一元的な命令系統による組織が新たな視角によって問われはじめている。

当然といえば当然の変化である。

上田 知識社会とは、知識が生産手段となる社会である。今日知識とは、成果を生むための高度に専門化された知識のことだ。専門家同志が自らの強みを生かして協同的に成果を挙げる社会が知識社会である。ドラッカーは、ソクラテス以来、つい最近まで、行動のための知識は、テクネ(技能)として低い地位しか与えられなかったことを指摘する。それらは体系的に教えられるものではなく、中世のギルドに見られるように徒弟制度のなかで会得すべきものだった。しかし、今日われわれに必要とされる知識とは、まさにこの行動のための知識、しかも客観的で伝達可能な知識である。

そこでは、大規模生産工場のように、構成員全員が同じ時間に同じ場所で活動することに意味がなくなる。本来人はそれぞれ強みと弱みがあるのと同様に、それぞれのリズムやパターンがある。専門性を発揮し、成果を挙げる方法は人それぞれ異なる。このようなことを可能にするのが知識社会の特徴といえる。ドラッカーにおける組織とは、専門知識を有機的に連携させ、さらには結合できる場である。階層的か水平的か、指示命令系統が明確かプロジェクト型かはいっさい関係はない。組織とは、企業、政府機関、NPOなど、人が目標に向かってともに働く場すべてを指す。したがって、知識が中心となる社会は、必然的に組織の社会となる。脱大組織はあっても、脱組織はない。

もちろんここにいう組織とは、硬直的、閉鎖的なものではない。特にこれからは出入り自由のものとなる。雇用関係、資本関係の有無さえ問わない。協力、連携、パートナーシップを含む多様なつながりとなる。人類にとって、このような社会ははじめての経験である。

むろん専門家は単独で成果を挙げることはできない。知識は高度化するほどに専門化し、専門化するほどに単独では役に立たなくなる。他の知識と連携して役に立つ。得意な知識で一流になると同時に、他の知識を知り、取り込み、組み合わせることで大きなパフォーマンスを挙げられる。

 

いかに社会に貢献するか

井坂 成果を挙げるには組織を必要とする。一流の脳外科医は脳腫瘍の摘出には最高度の技術を発揮するが、足の親指の付け根の疼痛を治療できる保証はない。それぞれの分野にはそれぞれの専門家がおり、全体として連携することではじめて医療は成立する。同様に、いかなる専門家といえども単独では機能しえず、必ず他者との協同によって成果を挙げざるをえない。これが知識社会の特徴の一つである。

だが、大企業のみが有能な労働者にとっての唯一の選択肢である時代はすでに終わっている。知識社会における組織とは、必ずしも大企業のみではありえない。他者との協同によって専門性を成果につなげうる集団全般である。規模はもはや成果とは関係がない。

実際に、大企業のみを他の組織と区別して論ずる必然性は存在しない。中小企業、協同組合、NPO、大学等さまざまな大小の組織が連携によって成果を挙げつつある。現在にいたっては、90年代半ば以降の情報技術革命がこの動きをいっそう高度なものとしている。

1968年以降の大量生産・大量消費を特徴とするポスト・フォーディズムの世界にあっては、マネジメントの方法も異なるものとなる。ドラッカーが『企業とは何か』以来、大量生産を可能としたテイラーの科学的管理法を評価しつつも、その実態については、個々のリズムを無視した人間工学上劣悪なシステムと批判してきた。ポスト・フォーディズム以降の緩やかな連携による組織形態こそが、ドラッカーが当初より構想したマネジメント体系の適用対象として高度の現実性を帯びるものとなったことは間違いない。

上田 マネジメントとは、高度に専門的な知識を他との協働で有効なものとするための方法である。こうすることで、機能する社会は可能となる。これがドラッカーのマネジメント論の基本である。したがってマネジメントもまた、日々進化していく。マネジメントのパラダイムは転換してやまない。マネジメントとは企業のためのものとする前提がすでにポスト・フォーディズム以降の社会にあって崩れている。それは、あらゆる種類の組織のためのものとなっている。さらには、一人ひとりの人間の責任に関わるものとなっている。今や、自らをいかにマネジメントするかが重要な意味を持つ。いかに働き、いかに社会に貢献するかということは、人間の実存や幸福に関わる大問題である。いかに生きるかという根本的な問いへと直結するためである。

井坂 ドラッカーが『明日を支配するもの』(1999年)や、『ネクスト・ソサエティ』(2002年)で展開したマネジメントのパラダイム転換は体系としてのマネジメントの本質と、その現在の状況を確認するものだった。そして同時に、未知なるものの体系化と総合的意味付けを行うものだった。

上田 アメリカでは、NPOが自己実現と絆の場となってかなりの時間が経過している。自らの能力をフルに発揮し、社会に貢献し、他者との絆を確認する場所がNPOである。1968年以降、政府をはじめとした大規模組織が社会的な問題の解決にほとんど無能であることが明らかになった。現在にあって、アメリカだけが解決の糸口をつかんでいるかに見える。つまり2つの問題を同時に解決する糸口をつかんでいる。それがNPOの興隆である。NPOは助けられるものにとっての救いだけではない。助けるもの、ボランティアにとっての救いでもある。それは今、もっとも求められている、一人ひとりの人間の市民性を回復させる足がかりとして機能している。

これからは一人ひとりの人間にとって不可欠のコミュニティなるものが大きく変わる。機能する社会を創造する正統な組織にとって、その形態を問わず、コミュニティたることは第一の前提条件である。もう村や隣近所ではない。それはどこに見出せばよいのか。われわれは都市にこそコミュニティを見出さねばならない。アメリカではボランティアとして働くNPOがその役割を担っている。日本では、新しく自由で柔軟な組織に転換した後の企業をはじめとする場がその役割を果たすかもしれない。あるいはそれぞれの責任ある個人の、それぞれの専門領域の世界かもしれない。

他方、社会の力、中央政府の力によって社会を救おうという時代が完全に終わった。政府に対し社会を救えと要求はしても、本気でそう思っている人はきわめて少数派である。そのような意味での社会主義は通用しない。すでにリアリティも喪失している。ケネディのような進歩主義も通用しないし、ジョンソンの掲げたプログラムも役に立たない。

政府が自らの手で社会を救うことができないことは、今や誰もが知っている。その意味で、イギリス保守党に民営化のアイディアを与えたのがドラッカーの『断絶の時代』(1969年)だったのは、偶然ではなかった。

だが、このような見解は決して真新しいものではない。すでに明治期の実業家、渋沢栄一にあって、現在進行中の試みはすべて実行に移されていた。渋沢は500の企業を立ち上げ、600の社会福祉機関を支援し、成功させた。しかも、渋沢にあって、それらは目的としても手段としてもいっさい区別すべきものとされなかった。ドラッカーが最も高く評価する日本人の一人が渋沢だった。

 

人のほうが組織よりも長生きする

井坂 現在から振り返るならば、68年の持つ意味がいっそうよく理解される。それは社会による救済という戦前の亡霊が消えた年であった。巨大組織信仰の背後にあったのも、しぶとく戦後まで生き残ったこの観念の賜物であった。政府、企業、労働組合いずれも、巨大化により生活空間の構造化を行う試みであった。構造化によって市民生活のリスクを最小化する試みであった。このような強固な社会システムが居座り続けた日本においてさえ、90年代以降政府によるセーフティネットの代替案が模索され、構造改革が志向されていった。

ドラッカーの組織概念は、むしろ現在でネットワークないしネットワーク組織に近いと思う。ネットワーク分析は現在興隆を極めている。この語の持つ意味はまだ確定されたものではない。しかし、自律的な個の緩やかな連携による創発性を志向する場を指す語としては定着している。

ネットワーク分析とは、主体そのもの以上に、主体と主体とのつながりに着目するアプローチである。ドラッカーが観察対象とした現実も、つまるところこのつながりと言い換えてよいかもしれない。単独の音符が音階によって長調にも短調にもなりうるように、人間や組織も与えられたコンテクストによって異なる響きを発する。現在必要とされるのは、ネットワークにおいて人間社会を意味あるものとするためのマネジメントである。

そこでは個の自律性と責任が前提となる。

上田 すでに、会社のほうが人間よりも長生きする保証はない。会社のほうが人間よりもしっかりしており、会社に寄りかかっていれば大丈夫という時代ではない。それ以上に、人間のほうが会社よりも長生きし、しっかり自立しているほうが、会社にとってもはるかにありがたい存在となっている。

井坂 情報技術の成果を活用し、経済社会が高度化するにつれて、社会全体を人為的制御の下に置くことはもはや期待できない。社会による救済の終わりとはそのようなことだ。60年代以降、ケインズ型福祉国家政策の有効性に疑問符が付けられてから、この流れは強まりこそすれ弱まっていくことはない。

上田 大規模組織が有効性を持たなくなった後、社会で位置付け、役割、正統性を付与するものとは何か。これが現在のマネジメントの重要課題である。同時に、知識労働者の生産性をいかにして高めるかという課題とも直結する。まだ具体像は見えていないが、ある程度の予測は可能である。少なくとも大規模組織の復権はありえない。

技術や経済は変化しても、人間や社会の本質は変わらない。いかなる時代にあっても機能する社会を必要とする。真空のなかを浮遊する分子状態に耐えることができない。ドラッカーは、新たな企業の形態を異業種によるコンソーシアムを例としてヒントを与えてくれている。それは19世紀ヨーロッパの協同組合である。相互の対等なパートナーシップが鍵となる。しかも、われわれの多くは高度に都市化された空間で生活している。都市にコミュニティをつくること、小さな共同体をつくることも喫緊の課題となる。

 


 

 

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社会生態学の方法論

――「聞く」行為のポリティクス

 2006年2月

上田 ドラッカーの発言領域は驚異的なほどに多岐に及ぶ。それは通常の経営学の領域を遥かに超越する。

戦略論、意思決定、マーケティング、イノベーション等、いずれにおいても一流の立論を展開する。しかし、いずれも彼の経営手法における方法論は、マネジメントという大河から流れ出す奔流であり、そのマネジメントも思想的には保守主義、そしてその方法論としての社会生態学という果てしない海に注ぐものである。

社会生態学者は保守主義者たらざるをえない。両者は表裏一体の関係にある。そして、その特徴は限りなく複雑で限りなく危険な世界に立ち向かう手法を持つ。その方法論として、「見る」行為と同様に、あるいはそれ以上に重要な「聞く」行為についてさらに展開していきたい。

 

なぜ「聞く」のか?

「聞く」とは、見ること同様に、自らの把握できない現実を知るための方法として最も重要な意味を持つ。

社会生態学者は、知識社会、組織社会についての現実を見る。これらは20世紀特有の現象であり、その意味で人類史上例のない事象である。観察対象について先駆者を持たない現象である。

だとするならば、まず対象を見なければならない。その構造と変化を丹念に観察しなければならない。そうでなければ、空理空論に陥る。本質を雑音ととり違え、雑音を本質ととり違える。あるいは、単なる思い込みを事実ととり違える。

井坂 ここにおいて、社会生態学者は保守主義者たらざるをえない。近代保守主義者E.バークのとった手法もこれだった。彼はフランス革命という人類史上例を見ない急進的変革を丹念に観察した末、それが偽物であることを見抜いた。これがドラッカーの方法論であり、楼上の人リュンケウスの役割である。

彼の方法論は見て聞く、そして行動するという一連の有機的体系を基礎として持つ。ゆえに現実を起点とせざるをえない。複雑で危険な世界と正対し、全体を把握対象とせざるをえない。未来について青写真を描かず、手持ちの道具を変革の手段とせざるをえない。

反対に理性主義者は社会生態学者たりえない。複雑で危険な世界に唯一の原理を措定するならば、見て聞く必要はない。あるのは命令と統制のみである。理性による抽象とはつまるところ、専制につながる。ドラッカーがルソーからヒトラーへの連続性を洞察しえたのも、上記の根本認識による。

上田 この複雑な世界にはあらゆるものにあらゆる側面がある。とするならば、その側面はとうてい一人の認識能力で把握することは望みえないものとなる。同一人物が異なる時空に身を置くことは不可能である以上、必然的に他者の持つ現実に耳を傾けざるをえなくなる。現実の把握には他者の意見を必要とする。

ドラッカーがコンサルタントとして生涯を送った背景にはこの「聞く」行為の持つ決定的な意味が潜んでいる。それは単に情報を収集するのみではない。他者の見る現実をわが現実として共有する手法として重要性を持つ。ゆえに、いかなる組織もアウトサイダーを必要とする。まして企業のような外部に維持発展の機会を持つ組織にいたってはなおさらである。

 

万能薬への誘惑

井坂 社会生態学的手法は当然にして実行されるものではない。反対に、理性への過信は現代社会に普遍的に見られる危険といってもよい。

上田 企業の場合で言えば、MBA修了者への偏重がこれにあたる。2000年以降、わけても海外MBA出身者がマネジメントに採用される傾向が強くなった。しかし、MBAに典型的に見られる傾向とは、その定量化、ツールへの過信である。現実にMBA取得者自身に失望感が見られるように、それらは複雑な現実を把握する道具として驚くほどに陳腐である。

特に頭脳明晰な若者には、ドラッカーも警告するように、注意が必要である。彼らはツールや定量化に熱心なあまり、真に変化を引き起こす要因を見落とし、同時に現実との接点の薄い要因を重視しがちである。過剰に理論に頼る者は、あえて現実を見たり、人に聞くことをしない。その必要性すら感じない。

同時に、理論体系に没入するとともに現場から疎遠なため失敗を知らず、その分経験と直観に弱い。

ドラッカーが指摘するように、「一度も間違いをしたことのない者、 それも大きな間違いをしたことのない者をトップレベルの地位に就かせてはならない。間違いをしたことのない者は凡庸である」(『現代の経営』)。

むしろマネジメントやエグゼクティブは頭脳明晰である必要はない。マネジメントとは実践である。科学ではない。それはいかに成果を挙げるかに関わるものの考え方であって、本来頭脳の明晰さとは関係のない手法である。

 

保守主義的アプローチとしての二本柱

井坂 企業は内部においてコストしか持たない。機会を探し求めるならば、それは外部にしか存在しない。そして、外部における顧客は、そこに存在するものではない。企業自らが創造するものである。

上田 企業は20世紀以降、社会の中心的機関としての地位を手にした。それは単に経済的機関であるのみならず、社会的機関、ひいては政治的機関である。

20世紀以前までの中心的機関、たとえば教会、軍、王権等は、人に聞くことをしなかった。というよりも、人に聞く必要などなかった。あるのは意思決定とその執行のみであった。それは、個々の組織が社会的な正統性を宗教や権力の面で担保されていた事実の現れである。そこには議論の余地というものがそもそも存在しなかった。

しかし、企業とは正統性が予め担保されていないという史上初めての組織である。ここに企業組織の持つ最大の強みがあるとともに最大の弱みがある。

企業とはその経済的機能を通じて、社会的、政治的正統性を獲得し、創造しなければならない。そして、その達成を意図する点において、「人に聞く」すなわち、他者の現実をわが現実と調和させる意識的取組みが致命的なまでに重要性を帯びる。それは社会的行為であるとともに政治的行為である。

ドラッカーが次のように言うとおりである。「経営者がその権威を権限として行使できるのは、あくまでも、社会の公益を基礎とするときだけである」「事業にとってよいことであるか、あるいは経済全体にとってよいことであるかさえ、関係のないことである」(『現代の経営』)。

この機能を言い換えたのがマーケティングである。マーケティングとは、単に顧客を創造し、企業の生産機能を向上させるための機能ではない。顧客の創造と生産機能の向上を「通じて」、企業組織を社会的、政治的に正統的たらしめる機能である。いわば、正統性獲得のための機能と捉える必要がある。

さらに、正統性とは獲得されるのみでは十分ではない。それは現実社会の変化に合わせて創造される必要性をも併せ持つ。この正統性の創造、企業組織における変革の原理が、イノベーションに相当する。

ドラッカーがマーケティングとイノベーションを企業活動の両輪にたとえるのも、彼の思想的基礎としての保守主義、さらにはその手法としての社会生態学に深く根差すものと考えられる。

 

「知らない」からの出発

井坂 人は地位や名声を手にするほどに、他者に聞くことをしなくなる。また、「知らない」とはいいづらくなる。「聞く」とは、複雑で危険な現実に立ち向かう姿勢の現れである。相手が来るのを待つのではなく、自ら立ち上がって出かけていくきわめて能動的な行為である。反対に言えば、現実から目を背ける最良の方法が「聞かない」こととなる。

上田 わけても、企業の経営管理者にはこの傾向が強い。周囲にイエスマンばかりを置き、甘言を呈するとりまきばかりになった企業組織は末期である。目をつむり、耳をふさいでも、眼前の現実が消え去るわけではない。そのような企業組織は堕落し、陳腐化し、いずれは淘汰される。

マーケティングの方法論について見るならば、8割は「聞く」ことから成り立っている。顧客に聞き、小売店に聞き、流通業者に聞き、従業員に聞く。これらすべてがマーケティングである。対象は顧客だけではない。人間社会全般である。複雑な現実に対峙し、その把握を試みるものは、どこまでも聞き続けなければならない。問い続けなければならない。

そもそも、一人の人間に知りうることなどたかがしれている。知らないことなど無数にある。まして、マネジメントの立場にいる者にとって、その外部世界の複雑さ、変化の速さから、把握可能な現実など巨大な海の一滴でしかない事実を肝に銘ずるべきである。

だとするならば、「知らない」ことを謙虚に人に聞く行為がさらに重要となる。知ったかぶりをする人は魅力がないだけではない。その責任が重ければ重いほどに危険な存在である。彼らの意思決定が企業組織の未来に決定的な影響を与える。

ゆえに、ドラッカーは特にマネジメントに対して、「周囲を観察し、耳を澄ませよ」「歩き回れ」と助言してきた。見て、聞くことをしつこいくらいに推奨してきた。

さらには、「外へ出よ」とまで言った。ひとかどのトップ・マネジメントに対して、「街角に立て」「店のカウンターに立って見よ」さらには、病院院長に、「自分の病院のベッドに3日間寝てみろ」とまで言った。そうすることで、見えない現実が見える。聞こえなかったものが聞こえる。さらには、見えるべきあるいは聞こえるべきものが何なのかまでわかる。

全宇宙で知られているものなど無に等しい。「見る、聞く」行為とは、全宇宙に対して全身で対峙せよとのメッセージでもある。

 

「聞く」方法

井坂 ドラッカーのコミュニケーション論に見るように、情報はそれ自体意味を持ちえない。意味と文脈を獲得しなければ、それは何の訴求力も持たない。情報に意味をもたらすのは、人間である。しかも、異なる現実を持つ者同士の協同的行為である。「大工と話すときは大工の言葉を使え」とはそのような状況下で意味を持つ。

上田 聞くにも方法がある。

一つは自分が相手の立場だったらどう考えるかに常に気を配ることだ。誰にでも先入観や偏見はある。それを捨象する必要はない。先入観や偏見はこの価値観とわかちがたく結びついており、強みの一部をなす。だから捨てることはできない。

むしろ、自らの感性をベースに人の話を聞く。そうすれば、最初まったく受け入れがたく見えた相手の意見にも一部の理があることも見えてくることが多い。いずれにしても、それまで見えなかった相手の現実が、耳を傾けることで見えてくることは間違いない。

今一つは未来に対して耳を澄ますことだ。つまり、相手の言うことだけでなく、言わないことの意味まで考えてみることである。

たとえば利潤目当ての企業買収を誰もが行うようになったらどうなるか。あるいは、他人の著作物の盗作を誰もが行うようになったらどうなるか。今は小さな兆候に過ぎなくとも、それを誰もが行うようになれば、市場の権威や知的所有権といった経済社会の根幹に影響を与えることになる。

そこでの重要な尺度は美意識である。何か小さな事柄を、誰もが行うようになったとき、その状況は美しいかと問わなければならない。

さらに、自己啓発の手法としても、聞くことは重要である。彼の推奨する方法は2つある。

一つはフィードバック・アプローチである。これは自らの活動目標を紙に書き留めておき、半年あたりを目安にその達成度合いを確認していく手法である。いわば、自らに問いを発する手法であり、自己内対話を促すことで、自らの強みを客観的に明らかとする手法といえる。

今一つは、人に聞くことである。

率直に人に自らの強みを聞いてみることである。他者は本人以上に彼の強みを知っていると考えて間違いはない。ともに、自らの持てる強みを認識するとともに、行動への指針を示す点において、マーケティングとイノベーションと同様の意味を人に対してもたらすものと考えられる。


 

 

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21世紀文明学への視座―新たなドラッカー研究に向けて

2008年11月

思想と実践の展開のために

井坂 ドラッカー研究の現状をどう見ているか。

上田 ドラッカーの考え方を継ぎ発展させることに意味があると思う。この活 動に意味を感ずる人々は非常に多くいる。 組織の生成とは人為的でありながら、自然的でもある。ドラッカー学会にも原型はあった。2003年4月からドラッカー作品の読書会が開かれていた。そのようなものがあるということが、日本のドラッカー学会設立の契機になってい た。札幌の地で行われていたささやかな試みが種子だった。

ドラッカー学会は今なおささやかな存在である。文明を担うのに大仰な理屈 は必要ない。少し目線を上にあげればよいだけだ。なすべきことがあり、なす人がいる。それだけで十分である。すべて名もなきささやかな活動である。会に集う方々に共通するのは、すべてがドラッカーに励まされていることである。端的に言えば、「文明の担い手はあなたである」というメッセージを受け取っている人たちである。

文明の担い手は、貴族でも軍人でも政治家でもない。ふつうの新入社員、中堅、課長、部長、社長である。そのようなささやかな人々が世の中をつくっている。ささやかながらも、大いなるものに連なり、それを担うというメッセージに共鳴する人々がドラッカー学会に集まっている。産業活動に携わる営みの1つ ひとつが、確実に文明を前に進めていく。このメッセージはさらにもっと多くの人々を動かしうるものと思う。

井坂 研究対象としてのドラッカーをどう見るか。

上田 21世紀におけるドラッカーの位置づけ、そして意味を探すのはこれからである。現在わかっていることは、ポストモダンの論者であったこと、すな わちLandmarks of Tomorrow(1957)の著者としてのドラッカーである(『テクノ ロジストの条件―ものづくりが文明をつくる』ダイヤモンド社に収載)。

ドラッカーは、ポストモダンには言葉がないといいつつ、言葉でそれを書い た稀有な才能を持つ思想家であった。世界観の変化の書き手であり、社会生態学者であり、正統保守主義者であった。今後のドラッカー研究を進めていくうえで、重要な視角がここにあると思う。 彼の思想と実践を具体化する試みである。ポストモダンは語りえぬ世界といいつつも今後受け継ぎ発展させていくことは、言葉というメディアを通じてしか なされえない。ドラッカーに固有の変わらざる部分をきちんと明らかにしていくことが求められている。

井坂 ドラッカーの固有の枠組みを通じて現実を解釈するには、どのような姿 勢が必要か。

上田 現実の変化を理解するための処方をドラッカーは明確に教えている。緻密に見て緻密に描けである。何百種類あろうとすべて書き出す。すべて数えて 書く。この努力を惜しんではならないという。こうして定量化したときに、変 化は気の迷いでないということがわかる。あまり知られていないことだが、ドラッカーは数値目標を明確に言っている。

ポストモダンの現実を知るには、モ ダンの手法も動員せよということである。 測定可能な尺度、測定可能な目標が必要である。測定可能とは数値で表現されるということである。ミッション、ゴール、数値目標など、アクションプランについて述べるところには必ず出てくる。イノベーションもマーケティングもそのように把握されている。

井坂 定量分析の重要さも併せて指摘しているということか。

上田 ドラッカーを論ずる際の危険は、その発言を画一的に解釈してしまうことである。そして、そのポストモダン性を強調するあまり、彼が要所において 数値目標の重要性を唱えた事実を無視することである。本来彼は定量化が得意であった。才能があった。マネジメントの体系につい ても、彼の緻密な一面が現れている。ミッションを中心に置く。仕事を生産的 なものにし、人が生き生きと働けるようにする。そして社会に貢献できることがあればそれを行う。本人に情報を与える。建設的で意味ある仕事にしたうえで、その進捗状況を本人にフィードバックし、本人の成長を促す。そのような プロセスは緻密といってよいと思う。 

井坂 初期の作品において特に緻密な性向はよく表れている。

上田 こんな問いを立ててみよう。チャーチルとドラッカーのいずれがポスト モダンであったか。チャーチルのほうがポストモダンではなかったかと思う。 チャーチルは政治家であり、実践とのコミットメントの度合いが深い。知覚 による判断のいかんが、成果を左右する。そのチャーチルと比較すれば、ドラッ カーのほうがはるかにモダンではないか。

より正確に言えば、ドラッカーの特徴は知覚と分析の両方を説く点にある。あるいは定性と定量である。『傍観者の時代』に登場するヘンリーおじさんの話 に、「バッタのように事実ばかり集める」人を批判する表現がある。見ることと 考えることとの両方というのが正しい。いずれか一辺倒は間違っている。

研究にフォローの風―ドラッカー・ルネサンス

井坂 今なお支持される理由をどう考えるか。
上田 同世代で在世中に名をなし、世界的に貢献した論者はドラッカーばかりではない。むしろ政策的なコミットメントの度合いで言えばフリードマン(ノー ベル賞学者)やガルブレイスのほうが大きかったともいえる。貢献の度合いとは質的なものなので一概に比較することはできない。だが在世中にドラッカーのみが他の論者より抜きん出ていたわけではないのは確かである。

しかし没後もなお支持され、世に影響を及ぼす点において彼ほどの論者は稀 なのではないか。去る者は日々に疎しで、急激に存在感を失うのが通例である。

だが、彼の場合は没してなおその存在感が増している。一線の論者で彼を評価する者はあまりにも多い。たとえば、ジム・コリンズ が優良企業を取材し本を出すとき、タイトル候補は100も上がったという。そ のときに、彼が考えたのは、「すべてドラッカーの言うとおり」だった。むろん 却下された。最終的には、Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies(邦 訳『ビジョナリー・カンパニー』)に決まった。 そのジム・コリンズが言っている。ドラッカーは、明日使える。5年後も使 える。10年後も使える。50年後も使える。100年後も使えると。

ヒューレット・パッカードのデビッド・パッカードがドラッカーについて話 しているところなどは、聖書をもとに話しているようだったという。社訓を書 くにあたっても『現代の経営』を脇に置いていたと公言している。このような 人々が世界中で活躍している。ドラッカー自身は学問上の弟子を一人も残さな かった。しかし、実践の世界では事実上の弟子が無数にいる。

こう考えてみると、むしろドラッカー研究については、フォローの風が吹いている。風化していくどころか、若い20代の人々が読み始めている。ドラッ カー・ルネサンスともいえる現象があちこちで見られる。新しい仲間は日本中世界中に無数にいるということだ。

ドラッカー学会は、会員一人ひとりの持つ固有の知を組織化することでスパ イラル状に増幅する装置として機能していくだろう。別に難しい話をする必要 はない。ただ自分はドラッカーをどう解釈し、どう役立てているかを語れれば、 意味ある活動は次々に出てくるはずだ。もちろん研究仲間が多いほうがより実 りある活動ができる。

井坂 今後、とくに仲間になってほしいと思うのはどういった方々か。

上田 ドラッカー学会は研究対象の性質からも実務家が多い。今後、さまざまな領域で積極的にマーケティングをしていくことが望ましい。現状の先行きが見えないなかで、今後はドラッカーを語る、ドラッカーの使用法を語る、といっ た交流の場やしかけを作っていくことが大切ではないか。それが最大のマーケティングになるのではないかと思う。なすべきことは無数にある。

その際注意すべきは、ドラッカー自身が強調したように、いかなる組織も手 段に過ぎないということである。いかなる意味においても組織は目的たりえな い。手段を目的化させるほどドラッカーが嫌ったものはない。

仲間になる潜在層は広く大きい。ビジネスや非営利組織のみではない。糸井重里氏、村上隆氏などのアートの世界の住人が彼のファンである。あるいは最近、病院からの依頼で、看護師の方々相手の講演をしてきた。アート&サイエ ンス、つまり人や現場と向き合って仕事をする方々がますますドラッカーを必 要としている。

このような領域の方々に是非仲間になってほしいと思う。 また、今後仲間になってくださる方々には、今現在ドラッカーを読んだこと がないという人もいる。若い学生がそうだ。将来を構想する若い頃にドラッカーと出会えるかどうかは、後の人生に大きな違いをもたらすと思う。そのような 方々にもっとマネジメントを知ってほしい。

あるいは、経営者として、ビジネスマンとして立派に仕事をしてきた方のな かにドラッカーを読んだことがないという方が少なからずおられる。彼らはある意味でドラッカーを必要としない。ドラッカーを読まなくとも、立派にマネ ジメントができるからだ。

しかし、そんな彼らが後になってふとしたことでド ラッカーを読むと、多くの場合驚く。自分が意識せずに行ってきたことが、すでにそこに書かれているからだ。そのような方々に仲間になっていただき、経 験や知恵を持ち寄り増幅させていくことで、学会活動はより豊かになっていく。  

そのような実践志向の方々にとっても、入会のメリットは大きい。ドラッカーを読むことなくマネジメントを上首尾に行ってきた人々は、多くの場合、自らがなぜ成功してきたのかを知らない。少なくとも明示的な知識には置き換えていない。そのような方々がドラッカーの作品に出会うと、新しい自らの姿を発見できる。より客観的に自らを見ることができる。そして同じような経験をする人々が自分以外にもじつに多くいることを知る。そこから知的実践的な交流が始まる。

もちろん、すでにドラッカーを理解し、実践している方々はますます活発に参加してほしい。ある警備保障会社などは、ドラッカーのいうとおりにやって いることに気づいたが、そのことはあえて公にはしないことにしたのだという。

自ら考えたということで、モラールを上げるためだった。逆にP&Gの場合は、 社長自らがドラッカーに電話して経営の仕方を教わったことを公言し、そのこ とを誇りにしている。松下電器の中村邦夫氏も、若い頃担当した事業に関して ドラッカーが助けになったと述べている。トヨタのように、目立たないながらもドラッカーを勉強しており、トヨタ・ウェイとドラッカー・ウェイは同じと 考えている人のいるところもある。読む人もそれぞれで、利用の仕方もパブリ シティもそれぞれである。

「ささやかさ」の追求

井坂 今後目指すところはどのようなものか。 

上田 しばしば、企業の経営者は「儲かっていますか?」と聞かれる。しかし、医者や弁護士はそうは聞かれない。医者や弁護士がそう聞かれたら、侮辱され たと怒るであろう。では、なぜ社長は「儲かりますか?」と聞かれなければならないのか。そのような質問には怒るべきであろう。経営は儲けるために行って いるわけではない。利益は明日のいい仕事のために使っている。 

企業もNPOも政府も同じである。方法が違うだけで、世のため人のために 存在し機能することに変わりはない。 学会の採りうるしかけとして、たとえば雑談できる場があるとよいかもしれ ない。場を広げていくことが、会の活性化につながる。高度な知の連携もさることながら、絆をアピールするのも意味がある。絆は細胞分裂する。しかも不 揃いなのがよい。支部や研究会はそれぞれ規模や性質が違ってよい。それが理想型のように思える。

ドラッカーの作品を読み、それを実践に移す。そして、ドラッカーを語る。 そうすれば、ドラッカー学会は放っておいても発展していく。そう考えると、 なすべきマーケティングは山ほどある。実行するかどうかだけといってよいほ どだ。 他方、なすべきでないマーケティングもある。自発的なコミュニティの基本姿勢として、「宣教」するようなことはなじまない。言うまでもないことだが、 マネジメントは宗教ではない。無理強いするものではない。自由でしなやかな 活動が美意識の基本であってほしい。

同じ目的でもアプロー チが不適切なものならば意味を失う。ドラッカー教の普及などにすり替わった ら0点どころかマイナスだ。そんなものなら、ないほうがいい。同時に、われわれがドラッカーの遺産について専売特許を有するかのような知的驕慢にも気を付けるべきであろう。そもそもドラッカーの思想には聖典は存在しない。

ドラッカーを読むと自らがわかる。そこがもっともすばらしいところだ。ド ラッカーは尊い教えを得るためのものではない。本人の姿勢次第で本人が成長 する。ドラッカーが「それぞれの」ドラッカーたるゆえんである。 

井坂 先ほど美意識といったが、指針になるコンセプトがあれば教えてほしい。 

上田 ささやかさが1つのキーワードではないだろうか。

「何をもって憶えられたいか」を考えると素晴らしい人生になる。一挙手一投足が望みに向いていく。ドラッカーにならって私もよくこのことを話す。だが、 そう思わない人もいる。人に憶えられたいというのは不純であって、そのよう なもののために自分は仕事をしているわけではないという人が、ごく稀にいる。

立派な姿勢だ。しかし、多くの人はそれだけでは難しい。やはり認められたい。 自らの家族、友人、同僚などに憶えられたい。ほめられたい。 人の望みは高尚なものばかりではない。しばしば俗っぽいものであり、そこに意味がある。ささやかさとは、こんな現世的な望みをも肯定する考え方である。弱い人間をありのままに認め、肯定する考え方である。

井坂 もう少し説明してほしい。

上田 ささやかさとはドラッカーの哲学全般を貫く形容詞ではないかと最近考 えるようになった。 たとえば社会的責任に対して彼が言うのは、第1に、社会に対する自らのイ ンパクトを減らす、第2に、自らの本業を傷つけない範囲で社会に貢献すると いったことである。彼が言う社会的責任はそれだけだった。 世間でCSRなどと大仰に旗を振る。それとは正反対である。これ見よがしなものではなく、いたってささやかなものである。誰かが面倒を見なければな らない社会の問題に気づかせてくれる。少し目線を上げた者同士、問題解決に 前進できる。

ここで大事なのは、「少し」目線を上げることだ。目線を上げ過ぎないことで ある。目線を上げ過ぎると、大きなものしか目に入らなくなる。上を向き過ぎ ることは人が陥りがちな罠であり、しばしば害をなす。すぐに遠大なところに 目がいくのはどこかおかしい。あまりにたくさんの責任を担おうとすると、結 局権力を求めることになる。かえって害をなす。あるケーススタディにあるよ うに、年間何百時間以上NPO活動をしないと役員にしないといった、本末転倒なことが起こってくる。これでは権力の濫用である。極端とはいかなること であれ不健全である。

大事なのは「あいだ」である。彼は自分は、保守的保守主義者でも、進歩的進 歩主義者でもないという。彼は、キッシンジャーの先生格だったフリッツ・ク レイマーと外交問題について議論したとき、「締まりのない考え」と批判されたと書いている。確かにとらえ方によってはドラッカーの考え方は締まりのない ものである。だが、その締まりのなさ、あるいは生ぬるさは、意図したもので ある。意図した生ぬるさとは、したたかな戦略性をはらむ。 そこで大事なのは目線である。少し下を向いているのと、少し上を向いているのではまったく違う。質的に違う。目線の角度がいずれ決定的な違いとなっ て表れるし、目線は上げれば上げるほどいいというわけではない。あくまでもほんの少し、ささやかなものであるべきだ。

彼の考えには継続と変革という2つの極の併存があり、ともに極端に走るの を警戒する思考がある。恐らくそれは欧米の哲学体系では重要な前提であったに違いない。そのために、ものごとを徹底しないと気が済まない人には、ドラッ カーは理解しづらいだろうと思う。

知識社会における学会の役割

井坂 今後の学会の成果をどうとらえるか。 

上田 ジム・コリンズは大学の同僚と話をしていたとき、現代社会最高の思索 家は誰だと思うかと尋ねられたという。彼がドラッカーだというと、相手は「プ ラクティカル過ぎる(too much practical)のではないか」と答えた。この批判こ そドラッカーの本質をよく表しており、本人が聞けば大いに喜んだに違いない ものである。

ドラッカー学会に実務家が比較的多いのは、まさにこのドラッカーの本質による。同時に、ここが他の学会とは大きく異なるところである。そう考えるならば、研究成果は必ずしも印刷された論文ばかりではないのかもしれない。む しろドラッカーの知見を応用した仕事そのものが研究成果である。アートの世 界のように作品を成果とするならば、仕事そのものを研究成果としても何らおかしくはない。その意味では、いくら考えても、いくら行動しても、論文を書 かなければゼロという従来の学会像とはありようを異にする。 テーマ選びもドラッカーを超えてしまって何ら問題はないばかりか、推奨されるべきである。ドラッカーのものの考え方、問題意識と方法論を使用して、 何ができるかを考える。それは実践であり、仕事そのものといってよい。

ドラッ カーの問題意識を深く掘り下げ、明らかにしていく研究はむろん必要だ。だが、それだけでは足りない。彼の視座、思想を使用し具体化して、それを基礎に現 代の問題の実践指針とする応用研究がある。いわば臨床のドラッカー研究であ る。

井坂 実践もまた研究成果ということか。

上田 アメリカよりも日本のほうが、理論信仰が強い面もある。アメリカでは、 大学の教員がコンサルティングすることを推奨する風土がある。コンサルティ ングをしなければ現場がわからず教えようがないから当然というわけだ。だが、日本ではまだまだである。考えてみればおかしなことである。大学の医学部教 授に患者の診察を禁止するようなものだ。経営学者は現場から学ばなければ何 もできないはずだ。

だがそのアメリカでさえ、アイビーリーグなどでは週のコンサルティングに 割く時間には上限があるという。ドラッカーはそれを嫌って、ハーバード大学 の職も辞退した。 モダンが支配する空間では、言語や数字で客観的に理解できないものの価値 はゼロである。だが、ドラッカー学会は21世紀の学会である。ポストモダン の学会である。細分化し、整序し、体系化していく研究活動も大事だが、それのみでは足りないのもそのためである。

そう考えると、ドラッカー研究とは21世紀の学問、とくに社会科学と深くつながっている。その射程は従来の社会科学を超えた巨大な領域まで収めてい る。ドラッカーは20世紀に身を置きながら21世紀を支配する思想家であり、 ゆえにポストモダンの思想家だからである。私はドラッカー研究にこそ意味と意義を感じる。 むしろ、従来の社会科学というものが科学として成立することのほうが至難 である。経済学を例にとれば、それはものごとの経済的側面しか見ない。それ では意味あるものとはなりえないのではないだろうか。そのような知的領域が 衰退していくのは当然といえば当然である。

井坂 研究のドラッカーを超えた領域とはどのようなものか。

上田 ドラッカーも評価したフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、「新しい時代は新しい科学を必要とする」と述べている。新しい科学は古い科学 とそのなりたちを異にする。その模索のためにできることは、彼の業績に上積 みできる知見を探し、体系化することである。マネジメントをめぐる課題は常に大きく変化している。ドラッカー自身も折に触れて『ハーバード・ビジネス・ レビュー』等に新たなものの見方を発表していた。

彼亡き後、『マネジメント』は現代を生きる者によって随時改訂される必要がある。彼はマネジメントに明確なコンセプト、そしてフレームを与えた。そこから見えるものを解釈し、伝えるのは現に生きる者にしかなしえない仕事であ る。

あるいは、もしドラッカーが200歳まで生きたらここまで見通したであろうということを書き記す作業もある。それは1つの世界であり、体系となる可能性を秘めている。マネジメントに加え、社会生態学からの世界観、方法論は、 ポストモダンの時代における1つの体系たりうるということだ。 国家社会があり、企業があり、個人がある。それらには異なる課題がある。

しかしすべてに通底するマネジメント上の問題意識がある。あるいは社会生態学上の問題意識がある。それらを現代の視点で理解し、解釈していくこと、そして実践の土台とすることに無限の可能性がある。 言い換えるならば、ドラッカーの視座を使って、現在の変化をどう見るかということである。視座には現実の流れとともに生成消滅するものもあれば、いつの時代も変わらぬ真理に関するものもある。そして世界には誰からも見られ ることなく放置されている問題がたくさんある。それらについて観察し、分析し、思考し、書ける人々が多く出てくれば、ドラッカー学会は飛躍的に発展するとともに世界のお役に立てるはずである。そうなれば、もはやドラッカー研究という枠組みをはるかに超越する新しい知的世界を切り開くことにもなるだろう。

ドラッカー学は21世紀文明学―本物は凝縮される

井坂 新しい知的世界の構想について考えを聞かせてほしい。

上田 まずドラッカーが見通した変化の例を挙げればわかりやすいだろう。 グローバル企業というものがある。それはニューヨーク、東京、フランクフ ルトの子会社といった形で活動拠点がグローバル化したことに問題があるので はない。グローバル企業それ自体は企業形態の1つに過ぎない。機会と問題は、 市場がグローバルになったところにある。実はこれがドラッカーの洞察だった。

社会の高齢化の帰趨も同様だった。誰の目にも映っていながら、誰も何も言わない問題がたくさんあった。今でも有効な問題意識ばかりだ。 今日で言えば、原油価格の高騰がある。食糧問題が新しい形で現れつつある。 資源配分の歪みがグローバル経済を損ないつつある。ファンドが怪物化しコントロールが効かなくなった。恐慌の可能性もある。政府系ファンドの行動様式 は、企業経営のみならず人々の生活に巨大な影響を持つにもかかわらず、それが何なのかは認識されていない。世界経済の原理が根底から覆されようとして いる。

ドラッカーがこれを見れば、何もいわないはずがない。すべて経済の問題を 超えて、社会的政治的な問題だからだ。最初の一言は、「それらはマネジメン トされなければならない」であるはずだ。定量的かつ定性的に把握されなけれ ばならない。

新しいグローバル市場時代のマネジメントが、世界政府によるものか、協調によるものかはわからない。だがいずれにしても、国家主権の譲与が問題の焦点になる。すでに彼は『断絶の時代』のなかで、「主権国家には通貨について完全な主権があるとの考えそのものが、間違いである。たとえ、かつてはそうであったとしても、グローバル経済の出現と同時に成立しえなくなったはずであ る」と述べている。 彼の発言の端々から、その応用解を見出す道筋を得ることができる。そのための努力をすることである。回答として正しいか正しくないかはさほどの問題 ではない。新たな問題に対して、新たな問いを発することのほうがはるかに大 切である。

これがわれわれに対してドラッカーが望むことでもあった。彼の考えはシン プルだった。「私は検討のお役に立ちたい。しかし基本的な視座を忘れないで ほしい。人間にとって何よりも大切な自由と責任を蔑ろにしてはいけない」。

これがドラッカーの願いだった。

井坂 自由と責任は彼の思想の求心力となるものだ。

上田 そうだ。自由と責任を中核に据えて、変化を観察し記述することである。これらを真面目に組織的に行えば、あっという間に3000頁の報告書になってしまうはずである。これが新しい時代に書かれるべき「百科全書」かもしれない。

むろんそこでのコンセプトはポストモダンによることになる。すでに知られているものの合理による体系化ではない。いまだ知られざるものの体系化である。

そうすることで、将来何を知らなければならないかが見えてくる。

だが、それだけではない。新時代の百科全書は凝縮されなければならない。 偽物が蒸発するのに対し、本物は凝縮される。逆にいえば、あらゆるもので凝 縮されないものは消滅していく。凝縮されるものは受け継がれ、発展していく。

すべてがすべてにつながっているからである。ドラッカーは本物だから、必ず凝縮されていく。恐らく最終的に凝縮されて残るエッセンスともいえるコンセ プトが、自由と責任による自治であろう。いまだ見ぬ新時代のなかでどう自由と責任を解釈し実現していくか。ドラッカー学は21世紀文明学である。


ベルリンの朝

文化と文明の懸け橋としてのマネジメント――次なる百年のためのフレームワーク

2009年11月

世界観に着目する

井坂 今年はドラッカー生誕百周年に当たる。世界的にもドラッカーに関する実践や研究の機運が高まっている。今後目を向けるべき領域というものはどこにあるだろうか。

上田 やはり世界観というところだろうと思う。そこがドラッカーと他の論者を決定的に分けているからだ。

ドラッカーがマネジメントを「発明」したとされるのには二つの意味があると思う。一つはそのフレームワーク、あるいは体系を確立したという意味での発明、もう一つはそのスキルを発展させたという意味での発明である。ここでもフレームとスキルの二つの側面が両輪として機能している。

実際、マネジメントに関するコンセプトやスキルとは8 割以上がドラッカー由来であり、多くの経営学者、マーケティング、戦略の専門家がそのことを事実として受け入れている。マーケティングの大家、セオドア・レヴィットが、ドラッカーの剽窃者をもって自ら任じていたのがその典型である。ドラッカーの弟子には何通りかあって、ドラッカーの体系を意識的に発展させた人、特に何も言わず自らのものとする人、ひいては自らの登録商標としてしまう人などさまざまである。

だが、そのようなことが出てくるのには原因がある。発展させる人々に共通するのは、マネジメントをスキルの問題とともにフレームワークの問題、すなわち世界観の問題と捉えている。言い換えると、マネジメントとはスキルでない無数のものを含んでいる。そこには必ず世界観、思想や哲学がある。何ごとも手段だけを発展させることはできない。

北海道に旅行に行くという目的は共通でも、そこにいたるのにはいくつもの方法がある。飛行機でも船でも行ける。夜行列車でも行けるし、新幹線を乗り継いでも行ける。はじめから鈍行でも行ける。ひいては自転車や徒歩でも時間さえかければ行くことができる。だが、確かなのは目的地に到達するための手段のなかに、その人の旅への考え方、あるいは人生観が確実に反映されている。

スキルもそのようなものだ。そして、その背後には、コントラバスの重奏のように常にフレームワーク、思想といったものが鳴り響いている。恐らく、マネジメントに関してそのような底流をなす体系を提示しえたのは今もってドラッカーだけであろう。たとえば、今多くの企業で取り入れられている、バランスト・スコアカードなどはスキルとしては充実しているものの、その80%は『現代の経営』で展開された考え方である。

要は何が言いたいかというと、フレームがすべてということである。それを理解すれば、スキルは付け足しに過ぎなくなる。底流をなす基本的なものの考え方さえ会得すれば、すべてのものが見えてくる。あえてたとえれば、空手や柔道における型のようなものだ。ドラッカーは柔道に関心を持っていた。イノベーションの方法論で柔道戦略などと名づけたものがある。それは相手を倒す技法という以前に、一つの道、姿勢を意味する。たぶんそんなところが彼を惹きつけたのだろう。

必然の進歩は幻想である

井坂 世界観とはそもそもどのようなものとして捉えればよいのだろうか。

上田 どのような風景を当たり前と感じるかに関わる。すでに現代を生きる人々は祖父母や父母の時代とは異なる風景を目にしている。そしてわれわれの子や孫の世代は、われわれとはまったく違う風景を目にすることになる。

典型的なものはイズムの消長だ。古くは中世において宗教的意味合いにおける「必然の堕落」というものがあった。堕落とは変化を意味した。つまり、変化こそが悪の張本人だった。変わることは明らかに悪だった。その当時存在した組織とはすべてが変化を阻止することをその本質に持っていた。

だが、17世紀以降、いわゆる近代にいたって、そのような風景は様変わりした。

まったく正反対の世界観が支配しはじめた。変化というものが世の中を覆いはじめた。同時に、それらの変化にはあるべき姿というものがあるという思想が一般化していった。その特徴を一言で表すならば、必然の進歩があるはずだに尽きよう。

彼の生育環境も多分に関係していると思うが、ドラッカーは早くから「必然の進歩」を信じてはいなかった。彼はオーストリアのウィーンやフランクフルトで20 年代から30 年代にかけて生起し猛威をふるうナチズムを目のあたりにしている。なぜ文明が最高潮を迎える20 世紀に、しかもゲーテやモーツァルトを生んだヨーロッパでそのような凄惨かつ非人道的な出来事が支配するのか。合理を信じるものにとって、かかる現実とは不条理以外の何ものでもない。現実を前に呆然自失するのみである。

「必然の進歩」などというものは存在しない。ここから思考のフレームを再編することである。それが現実観察の基本姿勢となる。変化のための指針となる。

井坂 そのこととマネジメントはどのような関係があるのだろうか。

上田 マネジメント誕生に関わる契機、あるいはそれに関する問題意識を考える際も世界観の視点がだいじである。何よりもいかなるイデオロギーも人や社会を幸福にできなかった。いやそのような言い方は正確ではない。社会主義、全体主義、資本主義、それらのイデオロギーはもっと積極的に人と社会にとって害をなしてきた。一貫して損ない続けてきた。

そのような時代状況を生きてきたせいとも思うが、ドラッカー自身はマネジメントによって社会が成立するとするならば、まずもってそれによる深甚なる副作用がないかということを考えている。社会主義、全体主義、資本主義が人と社会を不幸にしたように、マネジメントによる産業社会も人と社会を不幸にするのではないかと考えた。

重要なのは、それぞれの文化に適応した方法論である。確かに企業組織によって生産力は上がった。しかしそれぞれの企業があたかも国家内国家のように奴隷制を布いていたら、あるいは絶対階級が支配していたら、それは違う形で人と社会を損なうことになる。組織が社会に対して害をなすような存在になってしまったらどうなるだろうか。産業社会は成立しないことになるだろう。あるいはそれは新手の悪性イデオロギーということになるだろう。

結局、人というものは「こうすればうまくいく」という論法が好きで好きでたまらない存在である。つまるところ怠け者である。だから手を変え品を変え、新しい絶対的な理論や手法を編み出しては瞞されてきた。それはドラッカーが言うように、追い求めてはいけない「賢人の石」だった。そのような例はマネジメントの中にもある。たとえば、マネジメント・サイエンスなどは本来生産力向上に貢献すべき存在だったのに、結局は極端な定量化に特化した異形の学問になってしまった。

それまでの社会科学の歴史が証明するように、極端な定量化とはそれ自体一つの病理であり、一つの危険なイズムだ。経済学がその典型であろう。数学を利用して物理学が大成功したのを横目で見たこともあり、同じように数学を利用して経済学の地位は確かに向上した。各国には大臣クラスまで誕生した。さらにそのような世俗的成功を横目で見た人が自分にも儲けさせろということで、経営学者までそれを活用するようになった。だが、結局のところ、社会に関するものでの極度の定量化は意味あるものとはならない。 

イズムなしで成立する世界は可能か

井坂  イズムの生成を彼はどう見ていたのだろうか。

上田 18世紀後半にジェームズ・ワットが発明した蒸気機関が産業革命の導火線となったことはよく知られている。それというのも、17 世紀にフランスの幾何学者デカルトによる近代合理主義の具現化の過程だった。

ワットの発明の文明史的意味とは、テクネの技術化である。ワット以前に工具製作者たちが生まれていた。彼らの存在が産業革命の基盤となった。同じ技術を手にしても、それを意味あるものに転換できなければ社会的な力とはなりえない。

ワット自身も、テクノロジストとして店を開こうとしたものの、ギルドに阻まれたという経験を持つ。そこへあの経済学者アダム・スミスが自らの職場であるグラスゴー大学でワットに作業場を与えた。そこから1776 年、鉱山の排水用として蒸気機関が生まれ、それが繊維産業に応用され普及した。歴史上最大といってよい予期せぬ成功だった。

同年、スミスが『国富論』を発刊し、自由な経済活動を行うことで市場社会は機能することを説いた。思想と実践が見事に社会的な力として同時に爆発したのがその年だった。生産力は劇的に向上した。にもかかわらず、うまくいくはずの自由経済が必ずしもうまくいかなくなった。

そこで出てきたのが、生産手段を労働者大衆に手渡すならばうまくいくとする説だった。やがて世界を席巻した。しかしそれでもうまくいかなかった。あるのは殺戮と革命だった。そのような資本主義、社会主義いずれにも共通したものが経済を至上とする考えだった。いずれも経済をあらゆる価値の最上階に置く危険なイデオロギーだった。それならばということでの行き先が「脱経済至上主義」のファシズムだった。しかしこれら3つの考えに共通するものがイズムだった。

イズムとは、簡単に言ってしまえば、「こうすれば必ずうまくいくはず」とする原理主義である。その淵源は、頭の中でベストのものが見つかるはずという信念を世に提出し支持を得たデカルト流のものの考え方だった。そこには常に精緻な体系が組み立てられるのが普通で、その中心に何が置かれるかの違いしかない。19世紀型のイズムでは、こうすれば人は幸せになるはずだとして、とっかえひっかえ新しいものが現れた。でもいずれもうまくはいかなかった。そのような思想的構造を見たのが青年時代のドラッカーだった。彼は考える人ではなかった。見る人、あるいは聞く人だった。彼が生涯発言をやめなかったのは、一貫してこの反イズムの領域だった。その具現化こそがマネジメントだった。

というのも、大戦後もイズムとイズムの戦いは続いていた。資本主義陣営はファシズムを破り、そして社会主義をも破ったかに見えた。だが、彼の目に映る本質的な社会像とは、イズムなしで十分成立する世界だった。組織社会において組織がどのように運営されるか。マネジメントと生産力が結びついて豊かな社会を実現し人を幸福にすることはできるか。しかしそれはイズムとは無関係の世界だった。

あるのは人間と社会だけである。その発展のための道具として組織がある。そのことに目がいっていた人は少なかった。実は今なお少ない。

井坂  具体的な例を挙げてほしい。

上田 彼は未来に対して決して悲観的ではなかったし、前向きの期待を常に口にしていた。けれども、うまくいかなければどうなるかといった反対の側面も考慮に入れていた。

彼は日本の将来について大いなる期待を寄せていた。だが、しばしば彼の激励は脅迫めくときがある。そうならなければ、どうなるかわかりませんよというときがある。近年の日本社会におけるコミュニティの分断は、少なくともこれまで見慣れない異質なものだった。「派遣切り」とは単なるジャーナリスティックな用語にとどまらない。日本社会の変質を象徴する語彙と捉えなければならない。

不況が深刻化して人を切る。そのとき、従業員の中に「切られる人」と「切られない人」の二種類の人間が生まれる。そもそもそのような二種類の単純な層を生み出してしまう社会が健全であろうはずがない。そのような組織でなければ成立しない事業は、事業ではない。というよりも、それを理念的・道徳的存在としての組織社会と呼ぶことはできない。

たとえば未成年を低賃金で酷使しなければ利益が出ないということは事業として成立しないということと同じである。あるいは奴隷労働を必然としなければ成立しない社会はそもそも社会でさえない。もし派遣切りなるものが当然の前提として受け入れられるならば、組織はすでに道徳的存在としての根拠を失っている。そして組織によって成立する社会、すなわち組織社会は社会と呼べない別の何かに変質したと見てよい。

マネジメントの基本と原則を失った社会は、あっという間にイズムの社会、あるいはモダン以前の原理原則なき世界に逆戻りする危険性があることをわれわれは知らなければならない。

本来、そのような反社会的な事態に対しては、当の経済人が否と言えなければならない。だが、気がついた限りでは、残念ながらそのような声は一人からしか聞かれなかった。そこに問題の本質がある。繰り返すが、「馘首しなければ会社が潰れる」という訴えと「金儲けは悪いことですか」という屈託のない問い返しとは同根である。

共通するのは、絶望的なまでの想像力の欠如である。経済とは社会のための道具である。あるいは人のための道具である。目的を問う発想の欠如は教養の欠如と同義である。「何のために」という根本的な問いなくしては何ものも意味を持たない。

形を変えて同じ問いが繰り返し投げかけられている。社会的な地位とは、世の中からの預かりものである。世と人に貢献する代わりに一時的に借りているだけのものに過ぎない。そのような考えがなくなったのが問題だと思う。

「現実」を現実的に説明する力

井坂   では、ドラッカーによる世界観について少し詳しく説明してほしい。

上田 根源的な問題意識に通じるために、必ずしも容易な作業ではない。ドラッカーの主張のフレームワークは絵解きを必要とする。解釈を必要とする。

その点を明らかにしていくことが今後の世界の構築に大きく寄与する。同時に、その結果明らかになったことを常識としていくことが必要となる。彼の問いは常に現実と密に接しつつも、常に文明史的なものだった。「産業社会は社会として成立するか」「ヒトラーの出現は必然か」――。そのような種類の問いをいくつも発して、さまざまなアプローチを試みた。そもそもドラッカーとは政治学者だった。

そこから導き出された視座が、知識を生産的なものとしあらゆるものに成果を上げさせる作法、そしてそのための基盤となる組織社会の到来に関するものだった。彼の観察によれば、社会において、生産力とイズムが一緒になると必ず悪い方向に行く。いかに善良な動機に貫かれようとも、イズムには人間社会を救済する力はない。

現実に、社会主義、全体主義、そして資本主義さえもすべてうまくいかなかった。それは現実そのものを現実的に説明する力が、イデオロギーという合理主義の産物には絶望的に欠落していたからだ。

ドラッカーが組織社会というイズムにもイデオロギーにもよることのないきわめて現実的な社会上の特質に着目したのは当然といえば当然だった。組織とは手段であって、機能である。手段の卓越はその成果によって測られる。それは善悪の問題ではない。機能するかしないか、それだけの問題である。ドラッカーが生産力と組織社会を結びつけ、そのいかんに産業社会の未来を見たのは、深いレベルで企まれた彼の思考フレームを忠実に反映するものだった。

井坂 そのような理解は現実社会において、どのように意味を持つだろうか。

上田 むろんそのようなフレームワークはいま現在進行する問題を読み解くうえできわめて高い効果を発揮する。

ドラッカーのフレームワークでは、いかなるものであれ、何のためのものか、すなわち目的に関するコンセプトが問われる。建物やそこに生活する人々への思いや想像のないところに、のみやかんなの意味はない。目的の観念があってはじめて手段の意味が理解される。組織も技術もマネジメントも、すべてが世と人のための手段であることが強調されるのはそのためである。

フレームワークとはビジョン(視角)を固定する役割を持つ。ゆえにその重要性は誰しも認めざるをえないながらも、あまりに基本的過ぎるために気づかれることがない。これまでも、種々の学問領域において進歩に貢献してきた者に共通するのは、新たなフレームワークを見出したことにある。ニュートンもアインシュタインもマルクスもそうである。

つまり、フレームワークのほうがスキルより大切だということである。同じことはマネジメントについても言える。マネジメントとは実に多くの異なる領域からの方法知の濃縮物と見ることができる。そのなかで核となるのはマネジメントの中軸を貫くフレームワークである。マネジメントがなぜ体系化されるにいたったのか。それが必要だったからにほかならない。

実はマネジメント成立に関する問題意識は、脱モダンのたくらみと同根であった。近代合理主義では立ち行かぬ組織社会を生きるために編み出されたものだった。それをドラッカーの用語で言うと、「このポストモダンの世界」(1957年)ということになろう。

あるいはフレームとはゲシュタルトの世界でもある。形態に関する意味と解釈の世界である。それは道である。道とは形態である。形である。全体を全体として把握すること、欠けた陶器に永遠の美を見出すように、その形に精神が宿るとする考え方である。マネジメントでいえば、スキルが重要なのはそこに文明への精神が宿っているからである。形態の世界は因果関係を説明し尽くす必要がない。それは合理の世界ではない。知覚の世界である。うまくいっていることがわかれば、それを使えばいい。うまくいかないならば、使わなければいい。とするならば、形態の世界とは、型を手段として使用しつつも、型を絶対視はしていないということである。たぶん日本画も同じであろう。ドラッカーがあのような一風変わった芸術に惹かれたのも、そのなかにある形式や姿勢に共鳴したのだろうと思う。日本人には比較的なじみのものだ。

マネジメント上のドラッカーの記述でも、会議はなぜが一定の人数を超えるとうまくいかなくなる、といった記述が出てくる。それは形態であり型である。

なぜかはわからない。やがてわかるだろう。でもわかるようになるまで待ってはいられない。それがドラッカーの言うことだった。ただそういうものだとしか言いようのないものが世界には存在する。あえていえば常識としか言いようのない何かである。それを認めなければいけない。常識がない人間や社会はコミュニケーションがとれない。

そのゆえに、すべて合理の因果関係で明らかにしなければ気が済まない人々は、ものごとをうまく運びえないだけではない。危険な存在である。わからないことが無数にあるという前提を持てるほうがうまくいく。その生ぬるさが人と社会になくてはならない。人間がうまくやっていくのに、完全なものはありえない。だが、まがりなりにも機能するものは追求しなければならない。

井坂 先に出たポストモダンとはあまり耳慣れない語彙だ。少し説明してほしい。

上田 決して難しいものではない。まずもって、ドラッカーの言うポストモダンとは、先進的な思想でも革新的な思想でもない。そもそもそれは価値体系という意味での思想でさえない。それによらずして現実が処理できないゆえに必要とされる考え方である。

現実に、モダンの手法では何もさばけない。ポストモダン的手法が最も先鋭的な形で現れたのが、企業組織だった。近年にいたっては、市場が完全にグローバル化し、実質的に「地球市場」としか呼びようのないものとなった。住宅、家電製品、自動車から、百円ショップの小物、駄菓子まで、実質的に一つの市場で需要と供給のバランスがはかられている。近代合理主義思想のなかにはそのような想定はまったく存在しなかった。

では、脱モダンへの試みとはいかにしてなされうるのか。明確な答えは存在しない。だが、道筋は見えつつある。社会が展開していくためには、あらゆる存在が成果を生み出さなければならない。そうしなければいずれ文明自体がもたなくなる。

ならば、成果を上げるのに、最もうまくいく方法がないかを探してみる。探せば必ずある。それは例外かもしれない。しかし、うまくいっているのが事実ならば、方法次第で可能という証でもある。そのようなケースを緻密に描き切り、残していくことだ。あたかも優れた画家が、清明でありのままの自然を画布に再現するように、あるいは日本画の絵師が筆の一さばきで空間を再構成するようにである。

だから、すぐに体系化しようとしてはいけない。それはいずれ誰かがやってくれる。せいぜいのところ模倣の対象、お手本とするくらいでちょうどよい。

現実とは生き物なのだから、生き物のままに扱わなければならない。そんなケースがきっと今後重要になってくるはずだ。ケースとは標本であり、構造や自律性の小さな宇宙である。昆虫学者が一日中大好きな昆虫をあかず眺め観察するように、うまくいく組織や人を正確に観察し記述していく、それがわれわれが現在なすべきことだ。

われわれの場合で言えば、ドラッカーのマネジメントを現実に適用して成果を収める人や組織について、より精密な観察と記述を重ねていくことに意味があると思う。そして、そこから自ら自身や、自らの組織に対する新しい意味を読み取ることだ。実はその方法こそが、ドラッカーがGM の観察結果に引きつけて最初のマネジメントの書物として世に問うた『企業とは何か』だった。

ドラッカー・プレミアム(DP)の追求

井坂  未来に対し示唆的なものを感じる。もう少し詳しく教えてほしい。

上田 ドラッカーを経営に適用する事例はとにもかくにも無数にある。というよりも、マネジメントの概念そのものがドラッカーの創意になるものとすれば、理論上ドラッカーを使わずにマネジメントを行うことは不可能といってよいのかもしれない。違いはそのことを意識しているかしていないかだけである。あるいは誇らしげに認める人と、あえて何も言わない人がいるだけである。

そのような事例は、世の中には無数に転がっている。大事なことは規模の大小を問わず、そのような事実を聞き取り、記録することである。そして、それを紹介するのが次の仕事になる可能性がある。「なんでうまくいっているのですか?」「どうして今のような会社が作れたのですか?」素朴な疑問を率直に聞き連ねていけばよい。回答をただ淡々と記していく。

日々ささやかな領域で活動する方々のなかで、そういったドラッカー・プレミアム(DP)を追求し、公表していく。DP ケースブックである。想像を絶するほどのささやかな奇跡が日々進展しているのがわかるはずだ。その一つ一つが文明を確実に前に進めている。

それぞれがドラッカーを実践するケース集として成立していくと思う。経営者ならばその方の生い立ちから仕事に就いて現在に至るまでのことを丹念に観察し描写し記述していけばよい。それは意義あるプロジェクトになっていくに違いない。あるだけ観察し、あるだけ記述していく。あればあるほどによい。

ケースとは別の言い方をすれば酵母だ。それ自体生きた世界の凝縮であるとともに、望ましい明日の世界を培養するための胞子である。それを見ることで、その生物の持つ構造がわかる。うまくいくことの酵母をより多くの人々に広めていくことだ。繰り返すが、誰かができているということは、方法と作法さえ適切であるならば、自らの領域でもできるということの例証でもある。それこそがポストモダンにおけるマネジメントの教科書になりうるし、経営の百科全書になりうる。

それは新種、あるいは別種の普遍学だ。モダンにおける普遍学のアプローチをデカルトの『方法序説』が示したとすれば、社会生態学的アプローチとは脱モダンへの野心的試みを濃厚に反映したものだ。だが両者のアプローチは根本的に違う。後者は直接的に普遍的真理を追求するものではない。反対に目の前の具体物・個物を徹底的に観察し描写し、その形態的真理を把握することでいつしか普遍に至ると考える。一見迂遠なその方法が、普遍に至る道であるとする。

ドラッカーは西洋が神学を体系化していた中世に、日本では源氏物語が書かれていたと言った。日本へのお気に入りの評価だった。彼が日本の芸術にことさら関心を持たざるをえなかったのも、そこに広大無辺の無意識の世界が横たわっていたためだと思う。現実の世界では、意識されているものなどほんの針の先ほどに過ぎない。意識されているものなど例外中の例外で、ほとんどの物事は意識されていない。知られていない。すなわち、無意識の世界が現に存在していることを意識させてくれるのが日本の芸術だった。その証拠として、日本画は対象を描いていない。空間を描いている。

彼の手法には予期せぬ成功、すなわち理由はわからないながらもうまくできることを徹底的に追求せよといったものがよく出てくる。あるいは人に聞けとも言う。要は自分で意識していること、わかっていることなどたかが知れている。知られていないことのほうが無数にある。だが、それがきちんと説明されるのを待ってはいられない。そのためのアプローチがドラッカー流のものだった。大事なのは、世界をそのようなものとして見ているかどうか、それだけだった。

理論ではなく現象を丹念に描いていく。定義や原理は必要ない。現象は現象を刺激し新たな現象を呼ぶ。それだけで十分である。解釈は読み手がそれぞれにすればいい。得たい人が得たいものを得ればよい。高等教育への接続可能性

井坂 マネジメントと教育との接続も重要な課題と思う。そのことをどう考えるか。

上田 私の言いたいことは同じである。何よりもフレームワークが重要ということだ。スキルなどはそれに比較すれば取るに足りない。フレームワークの内容をどう充実させるか、そのための仕事が必要である。そして、その問題と最も深い関係性を持つのが、マネジメント教育である。最近そのことに気づく人が増えている。大学や研究機関でドラッカーに注目するところが増えている。単純に言ってしまえば、現在あるマネジメント教育には二種類しかない。

MBAの世界、そしてMBAでない世界である。前者については教えるところは世界中に無数にある。そのようなコースは多くの大学院で整備されている。

他方で、後者はそうではない。教える場所も少ない。主流ではない。何よりも教えるということについての知識や技能が体系化されていない。それでも、それを知ることができた人にとって最も役に立ち、感謝されるのが後者である。現実にMBAはマネジメントのフレームワークを教えることに一貫して失敗し続けてきた。基本や原則を教えることに成功したためしがなかった。同じことはマネジメント・サイエンスにおいても言える。共通するのは、「何のために」、すなわち目的に当たる部分が忘れ去られていたことだ。

逆に言うと、そのような状況は巨大なチャンスである。そして、フレームワークを学んでもらうテクネこそが、ほぼ完全にドラッカーの世界と同義になってくる。それは少なくともアカデミアの世界ではない。しかしアート&サイエンスの世界には巨大なニーズがある。ニーズがあるのに、誰も手をつけていない。

今後技術が教育を通じて文明を変える。その大転換の渦中にいる。恐らく今のような形での高等教育はあと少々もてばいいほうである。そのことがこれからの課題として重要である。メディアがメッセージの内容を規定するとすれば、教育というメディアが人の意識を規定する主因たらざるをえないのは当然である。それが文明の関係性を決める。

とするならば、今何を行うか、何に着手するかによって、数百年後には巨大な差異を生む可能性があるということだ。転換期ではほんのわずかな初期値の差が後々取り返し不能なほどの巨大な変化を生む。現在のマネジメント教育を重要と考えるのはその意味である。まだかなりの手間暇がかかると思うが、スキルとフレームワーク双方の充実に力点を置いていくべきだろう。E ラーニングなどがどのようにマネジメント教育に適応できるかが鍵となるはずだ。

理論は現実に従う

井坂 新時代のマネジメントの課題が最も先鋭的に表れているのはどのような領域と見るか。

上田 逆に言えば、グローバル市場および企業などはモダンの手法で処理しきれないものの代表格である。恐らく一般に想像されるよりもはるかに厄介な代物である。そのような根源的なギャップをはらむところにこそ、学ぶべき優良な事例が多く表れてくるだろう。

なぜなら、それらについての現実自体がわれわれにとってまだ存在しない。ならば、グローバル市場や企業についての理論もまだ存在しない。理論は現実に従う(Theories follow events。)(『マネジメント』)。グローバル企業はこれから苦労してそのありようを模索しなければならない。

しかしここでもドラッカーのフレームワークが生きてくる。それは目的としての存在である人間と社会に関するものである。ドラッカー的フレームワークにあっては、いかなる事象の変化であれ、その人間的・社会的帰趨を見なければ無意味ということになる。そして、かかる社会的存在としての人間が幸せであるためには、社会が社会として成立していなければならない。そこに組織とマネジメント出現の意味と必要性がある。企業というものの意味と必要性がある。マネジメントの世界はそうして可能となる。

そのような意味性と必要性があるために、他方で社会そのものの理解がぜひとも必要になってくる。政治経済、自然環境、高齢化、グローバル化等々人間社会に関わりを持つあらゆる現象とその複雑な絡まりに関心を持たざるを得なくなってくる。ドラッカーは物見の役として、そのような複雑きわまりない個々の領域にもスポットライトを当て、どのように考えたらよいかを教えた。

井坂 では、彼はグローバル企業をどう見ていたのだろうか。

上田 グローバル企業の本質は、企業のグローバル化にはない。市場のグローバル化がその出現の本質的変化である。すなわち、グローバル企業とは社会変化に応じて生まれた副産物に過ぎない。そのグローバル企業を表す言葉が存在しない40 年前、彼はグローバル企業そのものを論じていた。ドラッカーは次のように言う(『マネジメント』)。

「多国籍企業なる言葉は現実を説明するというよりも現実を曖昧なものにしている。今日では言葉として定着してしまったかもしれない。しかしたとえそうであっても、多国籍企業であることの機会と問題は、多国籍であること、すなわち多国における事業の展開にあるのではないことは忘れてはならない。すなわち、グローバル企業に関わる問題のすべては、需要、ビジョン、価値観において共通のものとなったグローバル市場の現実を受けて自らグローバルな存在になっていることにある。」

彼は言葉なきポストモダンの世界にあって、言葉を使って現実を語った。当時の用語法としての多国籍企業をあえて使用しつつ、その重要性は、多国籍企業が多国籍だからではなく、多国籍企業がグローバル市場に対応する存在であるからだとした。むろん現在多国籍企業という言葉はほぼ使われることがない。

その意味では完全に衰退してしまった。その代わり、グローバル企業と誰もが言う。現実に言葉が追いついた稀な例である。

さらに、そこで彼が言うことは、企業がグローバル化した事実の結果として、それは究極の効率性を求める存在たらざるをえないという事実である。あらゆるグローバル企業が経済の原理を徹底的に求める存在としてしか成立しえない。なぜならば、追求しなければ潰れるからだ。

往時の多国籍企業時代にあって、オーストリアのフィアット社とイタリアのフィアット社は同じ製品を製造していた。それは単に親会社と子会社の関係に過ぎなかった。両国が大戦によって敵対国になったとき、オーストリア・フィアットは取引銀行をオーストリア銀行に変えるだけでよかった。いわばそれらの企業は同一企業のクローン連合に過ぎなかった。今やクローン連合としてグローバル企業をマネジメントし切ることなど不可能である。そのようなものでは単一市場で戦略を練る他のグローバル企業に簡単にやられてしまう。グローバル企業にとって経済効率を徹底的に追求するのは必然ということである。他の企業と同じようにグローバル市場に対応した経営戦略を持たなければならない。全世界を一つのワールドショッピングセンターとして、タイヤは中国、ポンプはフィリピン、組み立ては台湾、市場はアフリカという具合に徹底した経済効率を求めざるをえなくなる。つまり彼は約40 年も前に「世界はフラットになる」と述べている。

明日の世界への懸け橋――それぞれの明治維新

井坂 そのような視座からすると、マネジメントとはどのような意味を持つのか。

上田 他方で、企業とは人間組織である。それぞれ文化的側面を持つ。そして、文化とは本質的に異質多元なものである。とすれば、究極の経済性の追求とともに、究極の多様性をも同時に追求しなければならない。同じ会社の支社であっても、アルゼンチン法人とアメリカ法人とは文化が違う。

ならばそれぞれの支社は異なる構造のトップマネジメントを持たなければならない。それぞれ異なる戦略を持たなければならない。異なるリーダーシップ、異なる意思決定構造を持たなければならない。つまるところ、それぞれの文化にのっとった企業経営が行われなければならない。企業戦略上、究極の経済性を追求しつつ、その実現の方法においては限りなく多様なローカルな文化にもとづいて人を組織し、動かさなければならない。ドラッカーは『マネジメント』において次のように述べている。

「マネジメントは、急激にグローバル化しつつある文明と、多様な伝統、価値、信条、遺産となって現れる文化の懸け橋である。それは、文化的な多様性が人類の目的の実現に資するうえでの道具となるべきものである」

これが文化と文明を架橋する存在としてのマネジメントの意味するところである。マネジメントには文明という普遍的存在と文化という多様な存在を架橋する役割がある。世界市場が拡大しつつあるという時代的要請とその多様性をこそ公益となし、強みとして文明に貢献させる方法をマネジメントと呼んでよいと思う。

井坂 そこでのマネジメント上の要諦をどのように考えるか。

上田 理論は現実に従う。だがその現実がまだ起こっていない。それを起こすのがグローバル企業だとドラッカーは言う。それが現在進行する変化の本質である。では、そこでは何がポイントとなるのだろうか。

あえて言えば、文明を担う存在としてのグローバル企業は、あらゆる国・地域において、明治維新を行わなければならないということである。ドラッカーに言わせれば、明治維新とは日本の西洋化ではなかった。西洋の日本化だった。日本が明治維新を行ったように、事業を多様のままに普遍化しなければならない。それぞれの国において、それぞれの「明治維新」が必要とされている。

日本人のマネジャーは日本人として扱わなければならない。韓国人の社長は韓国人として遇さなければならない。彼がニューヨーク支店にいったときに、彼にどのような待遇を与えるか。月給はニューヨークの地価や物価に合わせていくのか、日本の基本給等に手当を付けるだけなのか、戻ってきたときにどうするのか。いずれにしても、文化としての人間として扱わなければならない。

言うのは簡単だが、実行するのはとてつもなく難しい。文明と文化の橋渡しとは難しいとドラッカーも言っている。限られた存在としての世界が豊かになるためには、課題は無数にある。だが、それがよい社会になるか悪い社会になるかはわれわれ次第である。それは、明治維新の結果よい社会が出現するか悪い社会が出現するかがその社会の持つ力次第であったのと同じである。その社会が持つ力を民度という。

 


 

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ポストモダンの作法としてのマネジメント

 

2012年5月

 

ポストモダンとマネジメント

井坂 現在ドラッカーは学問やマネジメントの領域のみでなく、ジャーナリズ ムや文芸の世界でも広く注目を集める存在である。しばしば「20世紀に身を置きながら21世紀を支配する思想家」とも評されるように、その思想的展開が 21世紀における未完の可能性を示しており、それに刺激される人々が後を絶 たない。

そのように彼が未来に対して示した選択肢は、今なお未完の知的体系として、ある意味で予言的な将来の先取りとして捉えられ、先見性として高く 評価される傾向がある。

現在にあってグローバル化やIT化についての彼の晩年の発言がすでに一つの現実と化していることからも、今こそドラッカーに学ぶべきとの議論を目にすることが多くなっている。

だが、むろんドラッカーから学ぶとはその思想的来歴を重視するアプローチをとる場合、決して簡単なことではない。現代社会は彼の生きた時代と比較してスピードにおいても制度においても条件が異なるし、彼の発言を単にそのまま現状に当てはめたからと言って、必ずしも有効性は保証されない面がある。

彼の原点的世界観をどのように捉えているか。

上田 『はじめてのドラッカーブックガイド』という本をまとめるべく、現代経営研究会訳『変貌する産業社会』(Landmarks of Tomorrow,1957)を読んでいたところ、こういう文章を見つけた。

 

経営者訓練機関は増加しているが、訓練方法はいまだに初歩的なものである。われわれはいまなお経営学、つまり体系的な仕事や研究を通じて教え、学び、増やしてゆくことのできる知識体系が必要なのである。これこそ新しい、デカルト派以後の世界観に基礎をおく学問である。そしてその主題となるのは過程である。この過程がまず目的とすることは達成(アコン プリッシュメント)である。量的な把握もある程度可能であろうが、この学 問の基礎的な現象はすべて質的なものである。すなわち、変化、革新、危険、判断、成長、衰微、献身(デディケーション)、理念、報賞、動機、これらはすべて質的なものである。しかもわれわれがこの知識によって最終的に到達しようとしているものは、個人および社会の行動に影響を与える価値 の決定(ヴァリュー・デシジョン)である(現代経営研究会訳、111-112頁)。

 

あるいは次のようなものもある。

 

こうした国々では近代以後、デカルト以後の新しい世界観が必要である。非西洋的な伝統のうちの最良のものと、西洋の信仰、制度、知識、道具とを統合するにはどうしてもこの新しい世界観がなければならない。いかなる文明でも誰かが投げ捨てた着物を、そのまますっぽり着るようなことはできないのである(同、287頁)。

 

原文は―。

Yet while institutions for management training multiply, the discipline they are set up to teach remains              rudimentary. We still need a discipline of managing, that is, a systematic body of knowledge that can be taught, learned, increased         and improved by systematic work and study. This is a discipline of the new, post Cartesian world-view. Its subject matter is a process. It starts out with a purpose of accomplishment. No matter how much we can quantify, the basic phenomena are qualitative ones: change and innovation, risk and judgment, growth and             decay, dedication, vision, rewards  and motivation. And         the end              product  of the knowledge we are trying to gain is value decisions affecting individual and              society(pp.90-91).

Above all these countries need the              new, post-modern, post-Cartesian world-view. This alone can enable   them to  integrate the best of their own non-Western tradition with the beliefs, the institutions, the knowledge, the tools of the West. And no living civilization can clothe itself entirely in somebody else’s   cast-off garments(p.247).

 

他の文明が脱ぎ捨てた衣装―「知られざるもの」による文明

上田 この二つの文章を私が訳すとこうなる。

マネジメントのための教育機関は増えたものの、そこで教えるべきマネ ジメントの体系のほうは未熟なままの段階にある。

われわれは、教え、学び、充実し、改善していくことのできるマネジメ ントの体系を必要としている。それは、モダン(近代合理主義)を超えたものとしてのポストモダン(脱近代合理主義)の世界観による体系である。不可逆のプロセスとしての体系、目的律を内在する体系である。

そこで扱うものは、変化、イノベーション、リスク、判断、成長、陳腐化、献身、ビジョン、報償、動機など、たとえ定量化できたとしても、本質は定性的なものばかりである。しかも、われわれがそこから得るべき知識は、一人ひとりの人間と社会に直接の関わりをもつ意思決定のためのものである。

途上国の近代化に必要なポストモダンの世界観途上国はポストモダンの世界観を必要とする。自らのもつ西洋的ならざるもののうち最善のものと、西洋の信条、制度、知識、道具との融合を可能にするのは、ポストモダンの世界観だけである。いかなる文明といえども、 他の文明が脱ぎ捨てた衣装をそのまま身につけることはできない。

井坂 ポストモダンの世界観とは、マネジメントそのものである。あるいは社会生態学そのものである。1957年の時点の彼にあっては、学問のみでなく、知の可能性がある程度偏見にさらされてきたことに意識が及んでおり、同時に知というものが狭き堂宇に幽閉されてきたことの不公正さに思いがいたっていたのがよくわかる。「デカルト派以降」がキーワードだ。

上田 ドラッカーの著作においてマネジメントと世界観が一体として論じられるところは意外に少ない。しかし指摘した部分はそのことが誤解の余地なく明確に述べられていると思う。恐らくここで示された問題意識は、21世紀から24世紀あたりまでは有効なものとなる可能性があると思う。

井坂 どう理解すればよいだろうか。

上田 先の引用で明瞭に看取される意図とは、近代合理主義が切り捨ててきたあらゆる知覚による形態把握の復活である。実際のところ、既存の科学的方法 論にあっては、知の持つ最も深い部分に発する欲求は実現されることはおろか、認識可能なものともなっていない。そこでは、合理で認識できるもの以外は拒否され、「すでに知られたもの」だけを研究の対象とする。しかし、社会生態 学の擁護者は、学問的方法論を手段として活用しながらも、不条理として切り捨てられてきたものを主たる観察対象とする。

しかし、考えてみるならば、近代合理主義を足場とする思考様式はさほど根拠あるものではなく、ドラッカー流に論駁するならば、17世紀の個人的独断に発する「マインド・コントロール」のごときものに過ぎなかった。

しかも、先の引用に徴して考えるならば、合理主義の成立はその本質において研究対象に即してではなく、認識方法に即して考える必要がある。合理主義的に認識するときに、思考がいかなる成り立ちを示すのかに目を向けなければならない。分析的に把握されうるもののみを考察するのに慣れると、それのみが思考だと知らず考えてしまう。そして、その際観察対象を全体の統合とする知覚による把握を意識できなくなる。

そのような合理主義の自己規制から脱出し、研究対象を特定のフィルターの専一的処理対象とするのに反対したのが思想家としてのドラッカーだった。まさに先の引用にあるように、特定の認識上のフィルターを通さずして、新たな形態的認識を見出すことができるようにならなければならない。

 

ドラッカーのゲーテ主義

井坂 マネジメントはこれまでも他の知的方法と異なる仕方で別種の感興を呼び起こし続けてきた。現在ドラッカー的知に惹き付けられる人々は、それぞれの知的素養に応じた形で、より深い世界認識への憧憬に自然に引き寄せられるのを拒否できなかった人たちと考えられる。まさしく近代合理主義とそれ以降の思想史的パラダイム変化が、社会生態学に伴う条件付きの否定・肯定がないまぜとなった中間段階を創造してきた。

その中間段階の期間が彼の言う「断絶」とも重なって見えてくる。言い換えれば、そのなかに可能態としての知の未来が象徴的に映し込まれている。恐らく今後、ポストモダンの知としてのマネジメントがあらゆる知の媒介項になるだろう。

上田 現に大震災を明瞭な境としてそのような知的姿勢が強く求められている。デカルトからの脱却は知的虚無主義からの脱却でもある。ポストモダンは 知識を差別しない。知識社会とは言い換えればいかなる知識も差別しない社会である。知的に優れた特別の人々のみに閲覧を許可された知を問題とはしない。

むしろ世界の成り立ちについての知識をすでに定まったものとはせず、生成的なものと見なし、同時に新たに創造していこうとする。そのことはマネジメントが永遠に「未完の学」としての性質を持たざるをえない宿命を裏書きするようにも思える。

井坂 認識の仕方ほど認識されにくいものはない。ドラッカーの提唱する世界観にあるのは、ゲーテが自然現象のなかに見出した形態に伴う秘密を思わせるものがある。この世界を、そしてこの社会、人間を理性や合理のみで観察する

とき、そこには開示されぬものが残る。その残されたものが知覚的認識の対象となり、知的探求の対象となる。ドラッカーはそこに体系を与えた。

それのみではない。そこには「知られざるもの」「隠されたもの」などの通常の知的アプローチで獲得できぬ知の様態がすべて堆積し、凝縮されてきた感さえある。それは近代の歩みのなかで顧みられることのなかった扉であって、そこからそれぞれの「はてしない物語」が広がっている。

上田 私もドラッカーの底流に眠る思想的系譜にはゲーテが色濃く息づくもの と考えてきた。

井坂 私はそれをドラッカーの中のゲーテ主義と呼びたい。彼が青年時代在籍したフランクフルト大学の正式名称はヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学である。フランクフルトがゲーテの出生地であるのにちなんでいる。

 

未完の学として

上田 ゲーテは世界の本質を色彩と形態のなかに見出した。私はかつてドラッカーについて論じた時にこう述べたことがある。「社会生態学者は、社会を観察してこうあるべきとは言わない。あるがままに観察する」。合理と分析的思 考の明示しうるものを「学」と見なすならば、社会生態学は本来の意味での学とは呼べないであろう。むしろ社会生態学なる奇態な知的領域が「学」を自称することの傲慢とともに、そのなかに潜む意図に畏怖を感じて、反感を抱く者も少なからずいたかもしれない。

井坂 近年ドラッカー学、あるいは個別の知的領域としての社会生態学があえて「学」の語彙を用いる理由は、そこに本質がある。実は、それこそが自然科学者ゲーテの学問のスタイルだった。合理を一つの道具として活用しながらも、まさに自然生態学者が自然に対するのと同じ態度で、社会全体の研究を可能とする「作法」としての学である。今次、坂本和一氏が『ドラッカーの警鐘を超 えて』(東信堂)でなしたのはまさにそれである。この本は社会生態学の書物である。

社会生態学は、いわば経済学でも社会学でも政治学でもない、その研究様式や研究態度を一度高度な分析的視座と因果の連鎖から措いて、しかもその思想の本質を保存し、知覚的認識をもって対象の本質を語ろうとする。疑似自然科学的な社会科学の研究方法と思考様式とが、一元主義的な正当化のなかに立ち止まっている一方で、社会生態学はあえて別次元の多様な合理を語ろうとする。

それはあたかもゲーテが自然を感覚的な世界ととらえた通りの仕方として社会を語ろうとする。社会生態学は、自然生態学的の内部に宿る魂の律動を保ちながらこの世界の客観的成り立ちを関心対象に収める。企業や組織における社 会的意味は、決してそれ自体の知識獲得のみで汲み尽くすことはできない。つまるところ、企業も組織も、あるいはマネジメントそのものが、自律的機能でありながら、いやむしろ自律的機能であるがために、それ以外の分野との生態のなかに生きている。

そのようなマネジメント研究においては、その本質が環境との相互作用とともに、自己展開のプロセスのなかにいる。社会生態学者は、そのなかに身を浸し、自らを体験する。その体験を彼は観察と名付ける。観察とは見るのみではない。その全体としての認識活動において、生命に充ちた仕方で獲得する可能性への知識の修得である。

上田 社会生態学者は観察対象の自己発展を可能にするためのプロフェッショナルでもある。彼は対象の価値を見誤らない。その点では高度な合理主義以上に、観察対象の本質の理解に対して合理的である。むしろ自然科学者以上にその価値を認め、その分析的な厳密さ、理に偏した思考様式なくして、その可能 態の把握がなしえないことをよく理解している。 この厳しさを思考の本質において獲得したとき、はじめて知覚の力を通して、他の領域においても統覚的な対象認識が可能となる。むろん社会生態学には、ある種のいかがわしさも伴う。対象を観察するときの知覚の力は、純粋な内的衝動に促されて、観察対象の本質を確保できなければならない。そのような知覚の作用の重要性が冒頭の『変貌する産業社会』引用でも述べられている。

 

『企業とは何か』を今こそ読み直すべき

井坂 『変貌する産業社会』以前の著作ではそのような社会生態学的な視座はどのように見られるのだろうか。

上田 ドラッカーが1942年に『産業人の未来』を著した機縁とは、個と社会の 関係性を回復する秩序にあった。そこでは個が自立的になりつつも、社会での地位と機能が秩序創造的な形態で生み出せていない状況が問題とされた。では、いかにしてそれは回復されるのか。それが本書の根にある問題意識だった。言い換えるならば、個と社会という二律背反的な現象を産業の絶えざる顕著な発展による社会的秩序の変化を通して分析した点にそのねらいがあった。それを産業社会の自覚的な問題についてのドラッカー的問題提起として捉え、そこに 研究対象としての企業が置かれていったと見るならば、まさに本書は、「歴史に耐えうる洞察」たる主題としてよいであろう。 産業を社会的事実として捉え、企業を基軸として産業社会の本質を明らかにしようとした時、彼はそこでとられた方法とともに、新たな社会的問題に着手 することとなる。さらにはその4年後に刊行される『企業とは何か』が、しば しばドラッカーのマネジメントの形成にとって決定的な位置づけを持つものとされるのはそのようなところにある。その点で、半ばジャーナリスト的な感覚からGMという大企業への知見を深めるとともに、企業組織を中心とする産業社会に対して体系的基礎を与えようとする現実的な問題関心を具現化するものだった。

事実、『企業とは何か』に代表される一連の企業研究は、そうした社会的現実に対応する実践方策を示すのみならず、倫理体系への検討をも目指したものだった。その意味でこそ『企業とは何か』をもう一度われわれは覚醒した意識で読み 直す必要がある。本書の主題は「自由企業体制が成立するか」との問いに集約される。昨今の世界情勢を見る限り、この問いは原点に立ち帰って検討される価値がある。GM自身が本書を退けた地点からわれわれはまだ一歩も踏み出していないのではないかとの意識に立つ必要がある。もしかすると企業社会は成立しないのではないか、あるいは成立していないのではないかとの逆の観点から読み直すこともできる。

資本主義は絶対ではない。ドラッカーもその成立に留保条件を付けている。もう一度「企業とは何か」と問うべき地点にいる。社会の価値観と企業の価値観が合っているのだろうか。利害はどうか。自由企業体制の問題は効率ではない。その倫理性や責任が問題である。

井坂 ドラッカーがアメリカにあってヨーロッパ社会の再建を期すにあたり提起した産業社会の概念がポストモダンの作法としてのマネジメントの培養器的意味を持ったということだろう。ドラッカーの社会への思考は、基本となる人間観が中心に据えられるものとなる。そして何よりも人間観の変化が社会の思考と行動の変化をもたらすとの前提に立つ。その点、彼は人間観を時代との関係性で 決定されるものとする。

 

ポストモダンへの啓発

上田 そもそも産業社会は高度な組織を通じて実現される社会である点でポストモダンの社会である。そこでは個としても集団の行動様式も、組織の形態をとるものとならざるをえない。個が組織を通じて成果をあげることで社会の秩序が創造される。個は多元的に組織を使用し、組織を通じて自らの力を発揮して成果をあげる。

さらには個の位置付けと役割も組織を通じて創出される。個は組織を通じて社会における市民たりうる。コミュニティの創出さえ組織を通して可能となる。

井坂 そのような思考をたどっていく時、彼の個別具体的なものから抽象的なものを突きとめていく思考プロセスを認めることができる。その際、個々の社会的事象の精密な観察と記述にはじまり、同一の類に属するさまざまな見解の比較を経て、全体を代表しうる鍵となる位置の探索にいたる。

そこでは全体の運動形態と高度な類同性を持つとの想定から、全体を代表しうる概念が展開されることになる。そのような思考法は一般的、抽象的で定式化された作用原理に還元する作業を経ずして、むしろその細部と全体を一つの形態的把握によって探り当てる方法によっていた。まさにゲーテ流である。

そうした構想のなかで、彼は状況を一つのパターンとして捉え、個別的なもの、偶然的なもの、歴史的なものの正確な認識をもとに、社会を形態的に理解し、そのなかに鍵となる媒介原理を探求する方法論を確立している。それらが彼の二作で見られた「経済人」「産業人」といった人間像や社会観のなかに丁寧に織り込まれている。

しかし、産業社会における人間は、組織という手段を高度に駆使しつつ、多元社会の変化に対応する新たな思考様式を求められることになるが、そのような段階にはいまだ達していないとするのが当時のドラッカーの判断だった。社会がポストモダンになっているにもかかわらず、世界観がそのようなものに追いついていなかった。彼のマネジメントに関わる著作群は、見方によってはポストモダンのための啓発活動でもあった。

上田 本来『経済人の終わり』『産業人の未来』もともに、社会を社会そのものとして一つの生命体として把握することを第一義として執筆されたものだった。そこでは社会的に規定される事実をその全体性において討究し、その固有に持つ構造の概念を課題としたものにほかならなかった。むろんいかなる社会も単一の人間像や組織に支配されるものではなく、社会の媒介項は本来的に異質多元である。だが、相互に自律性を持ちつつ多元な人間像や組織も、具体的な作用の中に機能する限りにおいて一つの形態を生み出していく。

そして、その時々の現実探求の中で個別具体的な要因との重なり合いのなかで象徴的な媒介項が見出されることとなる。ドラッカーの場合、ウィーン時代 からの知的修養に加え、ハンブルグ、フランクフルト、ロンドンでの実務経験、さらには転地先でなされた理論知を研磨する試みが絶妙に絡まり合ってかかる思考様式を手にしえた。そのなかで、現実を起点として全体的な構造的連関を洞察するという方法論が編み出されていった。

そこで同時に見逃してはならないのは、彼にあって鍵となる位置の探索が重要なのは、全体の変化が媒介項の変化を促すとともに、媒介項の変化が全体の変化を促すためものでもあったことである。ともにそれらの変化が本質的に相 互依然的なものであって、そうである限り絶えず全体と細部を構造的連関のものとで捉える必要のあるものだった。

井坂 ドラッカーのポストモダンを考える際、そのような視点が欠くことのできないものと思う。実際に彼はそのような構想によって最終的に産業社会にふさわしい、しかるべき人間像を手にし、同時に個と社会の媒介項たる組織についての知識を得ることが最大の課題となることを繰り返し強調してきた。そこでは、社会再建のダイナミズムは、人間に関わる概念なしに働き始めることのできぬものだった。ドラッカーが人間観を説くにあたり、その分析を人間一般や抽象的原理から始めるべきではなく、あくまでも具体的な個々の社会的文脈において問題とすべきことを求めるのは、いずれも現実の社会的諸力と結びついた人間の精神的価値を社会変革の起点と考え、その展望を見出そうとしていた表れと見てよい。

そしてそのような新たな時代における新たな思考様式において、その理論形成と実践の上で重要な役を果たすと見られる方法が彼にあってのポストモダン的試みだったということだろう。

 

いまだ新しい人間像を創造していない

上田 ポストモダンは彼がE・バークやF・J・シュタールから継承した精神と 行動の指針だった。もちろんドラッカーはポストモダン的視座をただちに社会に適用したわけではなく、むしろそれを産業社会の実地考察にあたっての思考実験の産物としている。

井坂 にもかかわらずポストモダンを自らの方法論の礎に据えたのには、彼が過去の学問領域を超えて、それらから生み出された複数の分析上の道筋を相互に関連づけるところに自らの知が成り立つと見たためである。その基礎に立って具体的に進行する現実の社会を把握することで、はじめて自らの方法を確立しうるとした。

確かに、自ら『産業人の未来』で指摘するように、彼の初期構 想はそれ自体一つの政治評論の域を出るものではなかった。しかし彼の方法論が諸理論やアプローチの積極的な摂取と調合をはかることで、新たな社会診断 の構築に向いていった時、それがかつての合理主義的啓蒙から大きく踏み出した地点での試みだったのは疑いえない。

彼が全体の中から代表的な鍵の位置をなすマネジメントのコンセプトを取り上げ、そこに新たな社会構造の未来像を見ていったのも、恐らくそのような試みの一環として捉えることができる。そして、ドラッカーがそのように社会の解釈に向かっていったのには、「われわれはいまだ、経済を超えた行動と関心 の領域において、人間の本性と自由を提示できる新しい人間像を創造していない」との基本認識があった。その問いにわれわれは今なお明確な回答を手にしていない。

こうして彼はポストモダンを道具にさらに産業社会のためのプログラムを求めていくことになる。その思想的フレームが明確に示されたのが、『変貌する産業社会』だった。彼が提起したものは、決して純粋理論と呼びうるものではない。むしろ具体的な社会現象の観察から得た形象を捉えたものである。だが、そこには社会と個の媒介としての鍵となる位置を発見していく彼の志向性が十二分に現れている。

 

時代状況との応答

井坂 そして第一次大戦から世界恐慌、ナチズムの跳梁のうちに彼が時代から 受け取る課題と問題意識を捉えていく時、彼がポストモダンを足場にいかにして総合の観念のもとに当時の対立的な政治思想状況に展望を開いていったかが浮かび上がってくる。そこで彼が捉えたのは、企業という組織の持つ時代的な固有性の問題だった。企業は動的総合の立場から能動的に文明社会形成のプロモーター役を果たすものであって、ドラッカーの発言を借りれば「文明の中心機関」だった。そこがマネジメントの萌芽をなすものとなった。

こうしたドラッカーの思考過程をたどっていく時、それが単にマネジメントの方法論的な形成に関わる問題にとどまるものでないことに気づかざるをえない。E・H・カーのいうように、「事実とは歴史家が呼びかけた時だけ語る」ものとすれば、マネジメントの形成過程とはドラッカーと時代状況との応答プロセスそのものを示すものと考えてよい。

その証として、ドラッカーのマネジメント体系は、それ自体決して完成したものではない。現在にいたるもいくつかの不明確な論点を残しながら、むしろその不明確さゆえに新たな展開が試みられている。決して十分な構成を整えられたものではない。

上田 それもまたドラッカーの特性の重要な縦糸をなすものである。ドラッ カーの思想的営みには論理的に最後まで詰め切ることのできない問題がいくつも残る。そこで、あえて背景としての青年期ヨーロッパ時代を一つのスクリーンとして、そこにドラッカーの思考の過程を映し出しながら、その理論展開に見られる主題の意味を探る。そしてその主題が、時代診断から離れて企業の構造分析及び組織運営という方向に向けられていく時、ドラッカーの動機から取り上げていこうとするならば、大戦で荒廃した社会の再建に向けてマネジメント理論の構築がなされた事実に思いを馳せざるをえなくなる。

 

ささやかな世界の始まり

井坂 モダンによる合理がその極限において非合理性を生み出す逆説がドラッカーの見たヨーロッパの時代状況だったということだろう。それ自身ドラッカーによれば近代のたどる避けられえぬ過程であり、彼が向き合い、応用を余儀なくされた現実だった。その点では、彼が行った時代診断はナチズムの蛮行という破局的な状況にあって現実に示した新たな理論的応答だった。彼の思考にあって社会の構造分析とそこから導き出される診断と処方に照準する限り断絶は見あたらない。

それはドラッカーが自由の擁護と社会の再建を目指す者として、自らの使命の大半を時代への発言に向けた結果だった。それほどドラッカーがナチズムから受けた衝撃が大きく、また彼を転機に立たせたということもあるだろう。

彼はマネジメントに理性や合理性からの自由を保証する脱イデオロギーの新たな作法を見ていた。そうした近代の持つ普遍妥当な規範的根拠をマネジメントをもって打ち破ろうとする時、そこに近代からの訣別を見ていた。1970年代に入ってから広く人々の関心を集める「ポストモダン」の意識は、そのことと無縁ではない。

それはJ・F・リオタールのいう「大きな物語の終焉」という一節に象徴的に示されるものでもある。そこではもはや普遍的原理として近代を貫いてきた進歩の理念や理性はその有効性を失い、代わって高度に多元でささやかな物語が無数に散在しながら、多様な秩序を形成するものと見る。そこにドラッカーの知的定点が存在する。

上田 そのことは後の著作にも明瞭に引き継がれている。ドラッカーは自ら言う「断絶」という時代画期と新たな文明の幕開けに立ち会っているとの感覚を終生持ち続けた。そのような認識に立って、それに対する社会科学の対応が求められる時、そうした時代転換を示唆する複数の思想家が、ドラッカーの思想 形成に影響を持つことになる。

ドラッカーの理解によれば、古典的社会理論にあって、K・マルクスがまず社会秩序そのものの変革を志し、さらにナチズム全体主義が近代の否定に立って非正統的な秩序の再構成に向かったならば、ドラッカーはポストモダンの精神に立って産業社会を道徳的見地と制度的見地から両面的に再建を目指した点 で、問題意識の上でも方法論的展開の上でも、基本的な問題意識を近代西洋の 持つ思想系譜から忠実に受け継いでいる。

事実ドラッカーは、近代にアプローチするために、その最初の断絶たるフランス革命についてのE・バークの所説の理解からその本質を把握しようとしていった。言うまでもなくそこで彼はポストモダンをそれに先行する時代や社会から断ち切って捉えようとしたわけではなく、むしろ彼はそれによって近代の特質を引き出すとともに、それに並存しうる新たな時代の方法的視座を求めていった。そのことは裏を返せば、ドラッカーが近代の特質とその認識に強く結びつき、いかに近代社会の抱える問題性に強く呪縛されてきたかを示している。

そして彼の向けた眼も、そうした手続きを経てモダンの本質を尋ね、いかにそれを理解し、利用するかに置かれた。

もちろん、モダンをすでに終焉したものと見るか、あるいは今なお展開中のものと見るかは、近代そのものに対する多様な視座をそのまま反映するものとならざるをえない。また、近代を超克の対象と見るか、ポストモダンのうちに現代の時代特性を見ようとするのかも、問題設定によって異なるものとなる。

 

ポストモダンとポスト断絶

井坂 いかなる捉え方によろうとも、マネジメントの展開自体がドラッカー自らの言う「浪費された世紀」、あるいは「戦争と革命の世紀」(H・アレント)とされる20世紀の時代状況の中で、近代の抱える問題性と直接対決を強いられてきたことは間違いない。その意味では、マネジメントの前史的歩みを探ること自体が、近代の持つ問題性に対する問いかけの作業としてよく、それなしに ポストモダンの時代を見きわめることはできないのだろう。

上田 そこで彼は近代にアプローチしていくためのもう一つの作法として、「断絶」の諸相に目を向けることとなった。近代という時代と結び付いた非連 続性に着目することで、その変化の本質を把握しようとしていった。いうまでもなくそこで彼は近代をそれに先行する社会から断ち切って捉えようとしたわけではない。

彼が試みたのは、それによって近代の特質を引き出すと同時に、それまでの一元的な歴史観を捨て、必然の進歩の観念を脱構築していく物語の 形成にあった。彼が既存の合理主義的視座と絶縁していく手続きをあくまでも保守的に求めていったのはそのためである。彼の向けた眼は、そうした手続きを経てモダンの本質を尋ね、いかに近代を捉えるかにあった。 そして、2005年にカリフォルニアで没するまで、ポストモダンが現在進行形で形成されていくものと見て、その直前まで近代そのものの視座の据え方を模索し続けた。マネジメントの展開自体の中に近代の抱える問題性と彼がどう格闘してきたかが映し込まれているのは間違いない。

 


 

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観察法の観察

 

2012年10月

 

論じきれない原因

井坂 ドラッカーが生涯に刊行した書物は39冊、論文や記事にいたってはあまりの多さに正確な数さえ知られていない。その旺盛な活動の根源は何だろうか。何が知の巨人の活動に尽きせぬエネルギーを備給していたのか。

上田 あらゆることについて、瞬時に本質が見えてしまうからだろう。考えるほどにドラッカーはとらえどころのない論者だ。彼の著作をほとんど翻訳した今でも、謎は尽きない。

彼について書かれたものは決して少なくない。1950年代の初来日以来、ドラッカー論は一つの経営学上の潮流を形成してきた。そのなかで「マネジメントの父」「マネジメントの発明者」などといった称号を与 えられてきた。

しかし、マネジメントとドラッカーを一対のものとして扱うのに、その世界の広がりはあまりに無辺だ。たぶんその広がりの様態が、かえってマネジメン トというややもすれば安易な独房に彼を閉じこめるのに手を貸してきたと感じられなくもない。

井坂 実際に彼がマネジメントの自己規定に窮屈さを感じていたのは間違いない。1970年のニューヨーク大学時代に行われたインタビューで、「自分はマネ ジメントには少々飽きた」と述べていたのが表れだ。むしろ、マネジメントの枠組みを外したところに彼の実像があると考えてよいだろう。

上田 だが、これがなかなかに難しい。そこに何かあるのは確かながら、あたかも太陽を直視できないように、相貌をとらえることができないためだ。彼について語ることの難しさは、今なおきちんとしたドラッカー論がさほど見あたらない事実からも類推可能だ。少なくとも、既存の知的方法論、言い換えれば手持ちの道具を使って語ることはできそうもない。せいぜいのところ、社会生 態学といった未来の知的領域くらいしか彼を語るにふさわしい語彙は今なお存在しない。

ある程度知的に洗練された書物にあっても事情は変わらない。きちんとみごとに論じている先行例というのはさほどあるわけではない。多くはたとえよくできたものでも、ドラッカーの一部分に照射したものに過ぎない。

井坂 では、なぜ歴代の篤学者でさえ、彼を論じきれないのか。努力や能力の不足が原因ではないと思う。むしろこれまで多くの人たちがしかるべき熱意と真摯さをもってドラッカーの全貌をとらえようと努めてきた。にもかかわらず、その全体の把握に成功してこなかったのは、能力や熱意を超えたドラッカーに内在する本質に原因があるのではないだろうか。

それは次のような問いにも置き換えられる。「なぜ定型的な語彙でドラッカーを語ることができないのか。」これは今までなされてきたドラッカーは何者かとの問いの次数を一次元上げたものといってよい。実はまさに「定型的な説明を拒否する」、そこが彼の本質的な領域を構成するのではないか。事実、約100年近くもの長きにわたり活躍し、世界的に知られた人にもかかわらず、まとまった批評的言説が存在しない。これは驚くべきことと言わなければならない。

かりに標準的なドラッカー論がすでに存在するのであれば、人はそれを手がかりにすることができる。批判するにせよ、まるごと受け入れる にせよ、とりあえず手がかりがある。しかし、現在のところはそのようにはなっていない。定説と言えるものはいまだない。

上田 彼については「20世紀に身を置きながら21世紀を支配する思想家」という言い方がなされている。恐らく、その志を考える上では正確な論評のように思われる。というのも、人間はいかに多面的な活動に手を染めようとも、その目指すところは一つに違いない。どんなに複雑なプリズムにも光源が一つあるように、そこには明確な目標があったと思われる。

彼の目標は一つの手段では達成できないために、さまざまな方法を試すことで表現されたのだと思えてくる。その多面的な活動の核に一つの戦略目標があったに違いない。

そのようなことが可能だったのは、彼自身に、ものごとを分解せずに全体を 全体として理解し、かつ表現する能力があったためだ。

 

視覚を観察する

井坂 彼はあまりに多彩であった、異常な視野を持っていた、一つに収まりきれないほどの関心を持っていた、博学者であった、そのような評価はすでにいくたびも出ている。むしろ、彼を評する際の枕詞と化しているふしさえある。

しかし、私はそのような評言はあまり正確ではないと思う。たぶん彼自身が一つの領域の仕事だけでは、どうしても自分が行いたいことをうまくとらえきれなかった。だから、知的領域を少しずつ、時に大胆にずらしながら、結果として多様な領域を横断するような知的探索形態をとらざるをえなかった。ドラッカー自らが自分の表現活動を通して、「何を自分は見たいのか」を探っていたのではないかと思えてくる。その一つに彼が60歳の時のインタビューでの象徴的な発言がある。これからの人生をどうしたいかとの記者の質問に対し、「今もって大きくなったら何になりたいかがわからない」と答えている。これは決して冗談めかして言われたものではなく、彼の本音であったと思う。60歳にして明示化しえないほどに、 彼が目指したものはわかりやすいものではなかった。ひょっとすると本人さえ正確なところはわからなかったのかもしれない。結果として、95歳で亡くなるまで、「自分探しの旅」は続いたのだと思う。

そのように多分に「未完の可能性」を言論でもってその都度実現していく生き方を彼は選んだ。自分自身がわからなかった自分の正体を第三者が簡単にレッテル貼りできるはずがない。そこがドラッカーについての定型的説明が今なお現れない理由の一つだろう。

上田 しかし、一つキーワード、あるいは補助線がある。彼が観察者であった、そこにヒントが隠されていると思う。

確かに彼は特有の雄弁さをもってこの世界を描いた。では、その雄弁さをもって彼が描こうとしているのは、いったいどのようなものだったのか。それは一言でいうならば、観察者ドラッカーの眼によって切り取られていく世界そのものだ。それはきわめて正確にスキャンされた光景であり、綿密かつ正確でありながらも、ほぼプロセスを受けていない光景だった。 わけても特徴的なのは眼だ。その眼は精巧無比なカメラのレンズのように微妙な細部にいたるまで丹念に手が入れられており、およそ凡俗な類型にはまることがない。

それでいて、感覚と生命に躍動している。頭で考えられた人間や社会ではなく、眼で見取られた人間や社会を扱っている。

井坂 ドラッカーはイギリスの作家ディケンズを生前愛読したという。例えば、次のようなディケンズ評(「イギリスの目」)がそのままドラッカーを評するもののように思えてくる。 「ディケンズは視覚の天才であった。若いときのものでも、(なるべくは)壮年時代のものでもよい。その肖像は一種独特の目に支配されている。美しい虚妄を追う、あるいは哀調をおびてかげる詩人の目ではない。やさしさも甘さもなく、熱っぽい夢幻性もない。冷たく、灰色をして、鋼鉄のごとくきらめく、あくまでもイギリスの目だ。」(シュテファン・ツヴァイク/柴田翔・小川超・ 神品芳夫・渡辺健訳『三人の巨匠』みすず書房)

ディケンズにも似た視覚の作用は、彼が自らの来し方を描いた自伝的書物『傍観者の時代』にいかんなく表れている。そのなかでドラッカーは自らが目にした光景、出会った人々の多くについて、何らかの個人的反応を示すことになる。しかしそのような彼の反応や交流といったものは、本人の個人的な意識とは直結していないように見える。そこには一貫性があるものの、彼の個人的な視覚がほとんど時代が据え付けたカメラのように平明に読み手の心に迫ってくる。

上田 そのなかで彼がもたらしたものは、真にオリジナルな情報であり、大きな意味を持つニュースだった。そしてマネジメントの討究にいたっては、掛け値なしに新世界の発見にも等しいことであったと思う。しかも書き手としての卓越性が彼には備わっていた。マネジメントをはじめとする著作の雄弁性は、読み手の無意識な理解力を喚起する。

彼は彼にしか書くことのできない作品をマネジメントなどの領域で真摯な姿勢で書き続けることによって、文学を含む言語の世界全般に対して、鮮烈で広汎な影響を与えることになった。その影響力は『もしドラ』の成功からも明ら かなように、半世紀近くを経てもまったく弱まっていない。これは驚くべきことだ。

井坂 『傍観者の時代』のなかで、彼は一人称の語り手としての役割を果たす。彼は20世紀という物語の声となる。彼は周囲を深く観察する人間であり、生き生きと報告する人間である。彼は自らの身体を物理的に動かし、自らの視覚を刻々と移動させながら、時代の紡ぐ物語を逐次報告する。対象に密着し、あるいはまったく離れながら、時代とともに前に進んでいく。

彼の眼は世界の一片一片を切り取っていく。語られる細部の一つ一つが、等しく魅力的な触感を持っている。そして読み手は、そのカラフルな報告に耳を傾けながら、それが行きつくであろう新たな地点への思いを馳せる。

上田 今なお『傍観者の時代』に根強い愛好者が絶えない理由もそこにあるだろう。欧州からアメリカという20世紀文明の中心を突き抜けるようにさまざまな光景が車窓に現れ、さまざまな人が登場し、さまざまな出来事が持ち上がる。私たちは頁をめくりながら、ドラッカーの一対の眼を通して20世紀の展開を眺める。それはある面で陳腐な客観性などものともしない強い説得力を持つ。

そのようなことが可能になるのも、何より彼の筆力の確かさ、そして彼の視線の一貫性によることは間違いない。彼はビジネスにおいても、真摯さ(integrity)を重く見たが、真摯さとは言い換えれば、目指すべき理念と現実的所作の一貫性を意味する。東洋的に言えば知行合一だ。そのような視線の一貫性のなかに、逆説的な形で普遍性が立ち現れてくる。そこにドラッカーの思想の形態が存するように思われる。

井坂 確かに彼の視線を見ることによって、読む者はさまざまな事象についてのその所見の様態を知るようになる。そして、彼の生きる姿勢に対して、共感もする。ところが、そのような共感によって、彼の人間的本質をとらえきれるかというと、そんなことはない。私たちがそこで理解しうるのは、あくまでも、彼の視線を通して切り取られた世界に過ぎないためだ。

いずれも高度に具象的であり、触知可能であるものの、それによってドラッ カーがいかなる思想の持ち主で、どのような人間なのかについてはほぼ知りようがない。にもかかわらず、不思議なことに、その視覚は読む者の内側に潜む 何かを刺戟し、異なる風景を見させるようになる。恐らくドラッカーを知るには、間接的ながら、彼の視線を観察することが迂遠ながらも最も近道なのではないかと考える理由がそこにある。

 

断絶とゼロ体験

井坂 他方、ドラッカーもまた時代の子である。さまざまな時代環境や人的交 流の結果形成された存在だ。ドラッカーの言説には、互いに矛盾する要因が無数にある。互いに弾き合う性質が、多くの場合共存している。そのようなスタイルはもちろん彼一人の専売特許ではなかったし、彼が自力で打ち立てたルートでもない。その前には先達としてエドマンド・バークやウォルター・バジョットその他の保守主義系統の思想があった。

同時に、そのような視覚の動きがどのような環境の中で育まれたのか、どんな人から影響を受けたのか、などを引証しながら、その実像に迫っていくアプローチがある。

上田 それともう一つ、個人的な体験としての「断絶」があっただろう。彼がマネジメント、イノベーション、マーケティングとか知識社会、高度産業社会の記号を先取りしたせいで、私たちは何となく彼が同時代人だと思っている。

しかも、彼がマネジメントの書き手として活躍したのがアメリカだったというだけで、彼が生粋のアメリカ人のように感じてしまっている。しかし、そうではない。彼は本来ヨーロッパ人だ。しかも、1909年生まれである。時々彼は「僕は明治人だ」とユーモアを交えて語っていた。日本で言えば明治42年の生まれの人だ。これは盲点かもしれない。

言い換えると、第一次世界大戦(1914年)、世界恐慌(1929年)、第二次世界大戦(1944年)がほぼ前半生に重なってくる。マネジメントについての最初の書物を『現代の経営』(1954年)とすると、すでに刊行時に彼は44歳、立派な 中年の域に達した後の著作だ。こう考えると、その前半生たる戦争、恐慌、革命の海を泳ぎに泳いでマネジメントの島嶼に到達したことがわかる。

井坂 確かに指摘の点は深い意味を持つと思う。その一つの表れとして、特に初期の作品では、ナチズム体制とそれに無力な社会への怒りがほとばしる箇所が見られる。もちろん図式的なプロパガンダではなく、一方通行のステートメントでもない。そこには彼の眼によって切り取られた生きた世界観がある。しかしそのような種類の厚く鋭い視線は1950年代、『現代の経営』によるマネジメントへの傾斜以降、彼の言語世界から徐々に失われていくことになる。たぶんそれが彼自身のマネジメントへの倦怠の遠因ともなったと思う。

上田 事実、20世紀の激動は彼の人生そのものだった。特に少年時代はいまだ故郷のウィーンはハプスブルグ帝国の首都だ。これは他の世代に見ることのできない、きわだった特徴だろう。その世代は戦争の展開とともに成長してきた。物心ついたときからずっと世界は潜在的に戦争状態だった。「戦争をして いない欧州」を知らない。そのきなくささを日常的に呼吸し、迷走する世界を自己同一性の基本に据えていた。

特に第一次世界大戦だ。彼はどこかで書いている。新聞の戦死者欄で知る者の名を探すのが日課となっていたし、「大きくなったら」というのは、子供心にも兵士となって戦場に行くのと同義と考えられていた、そんな少年時代だった。

マルクス主義もキリスト教も戦争を止められなかった。そのなかで、イデオロギーが実は無内容な空語なのを市民の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。世界戦争には大義がないこと、いずれ瓦解するだろうことまで予測していた人たちも当時いた。中でも当時のウィーンの知的な人たち、例えば「言葉の狩人」の異名を持つ言語学者で若きドラッカーにとっての憧れだったカール・クラウスなどがそれにあたる。

井坂 彼も戦争、恐慌の嵐をともかく生き残って、荒廃した欧州でもう一度生活を再建しようと考えていたに違いない。そのような人たちにとって世界大戦はリアルな経験ながら、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎない。

そんな世代の人たちが懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当然だ。 しかし、それは単なる虚無的な懐疑主義とは趣を異にする。

ドラッカーは5歳まで一つの帝国のなかで育てられ、その世界しか知らなかった。そのような世界しか知らないのに、ある日突然、帝国が崩壊し、現実と思っていた世界は無効だと宣告された。いわばゼロ体験である。このゼロ体験は個の人生の中でとてつもない意味を持つと思う。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値として血肉化していた少年が、ある日それを捨てろと言われた。晩年になっても、彼はその時の精神的衝撃を折に触れて口にしていた。

そのような断絶経験を経てその知的・感性的深みは決定されたのではないか。その後も彼は驚くほど似たパターンをいくたびも実人生で行っている。一言で言えば、「成功体験の体系的廃棄」とも呼べるものだ。

上田 確かにそのような側面はある。1930年代ドイツで一定の成功を収めながらも、世相との価値観のずれを感知するや即座にイギリスに移住する。イギリスでも経済的にはそれなりの成果を手にしながらも、金に興味のない自分を翻然として悟り大不況の中仕事を辞めてしまう。ようやくたどり着いたニュー ヨークで超有名コンサルタントにして大学教授の地位と肩書を得るも、さほど名の知られていない西部の大学に移籍したりしている。プロセスを見れば、成功を捨てていく過程と同じだ。

井坂 しかし、少年時代に経験した断絶を考えれば、何か急激な変化が自分の身や社会に訪れたとしても、天蓋が崩れるような衝撃を感じることはなかった。

それは彼個人の断絶体験の追体験だったと見ることもできる。むしろある時点から以前の自分を切り離し、訣別して、今日から新しい自分が始まるといったアクロバティックな生き方を死ぬまで続けた。そこに喜びさえ見出した。

 

批評性の淵源

上田 冒頭の問題意識に戻る。彼の著作は、マネジメントに関わるかどうかに関係なく、いまだに胸を衝かれる鋭利な批評性がある。1930年代に書かれた『経済人の終わり』や1940年代の『産業人の未来』など初期著作に漂う圧倒的なまでのリアリティにわれわれはもっと驚いていい。

井坂 前著はチャーチルをはじめ、当時の知識人にいち早く認められたと言うが、当時の編集者や批評家たちの中には、低めに評価した者もいたと思う。それを一時の奇抜な論者として高をくくり、いずれ消えてしまうだろうと思っていた人は少なくなかっただろう。戦後の日本においても、やはり彼をただのビジネス書ライターとしてしか見ず、いずれ消えるだろうと思った人々が少なくなかったのに似ている。

だが、ドラッカーは消えなかった。他の多くの論者が消えても、本人がこの世を去った後さえ、消えなかった。なぜ消えなかったのか。それはリアルタイ ムでの読者たちが、見落としていたものがあったからではないか。

やはりそこでも少年時代の断絶を避けて通ることはできない。彼は第一次大戦前に己の半身を取り残している。少年期の経験も、心の動きも、全て帝国以 前の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、概念や審美観や価値は、自らに受肉してしまっている。それを捨てるならば自分が立ちゆかなくなる。それは彼の精神構造のみでなく、文明の構造そのものでもあったからだ。

第一次大戦後にもなお生き延びるに足るものは何か。人間社会が維持しうるぎりぎりのものは何か。それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。たぶんマネジメントというのは縫合のための最も有効なのりしろというか、より糸だったのではないか。彼が日本の明治維新に同 質のものを見出し、そこに自らの志操を仮託したのはそのためだろう。では他に誰かいないかと思っても、少なくともハプスブルグ帝国にどっぷり浸かっていた人のなかには見出しえなかったはずだ。その仕事の模範はヴァル ター・ラーテナウをはじめ、いくたりかしかいなかったと思う。国と社会は違えども、渋沢栄一はその重要な人物の一人だ。切断された社会の半身を奪還して別の原理を持つ社会に縫合してみせた成功事例を語れるものはほかになかった。

しかし残念ながら同時代人ラーテナウはドラッカーが少年時代に暗殺されてしまう。だから、彼は独力で、可能な知識をフル動員して方法を発見しなければならなかった。

上田 確かにそういうふうに考えたのが、あの文明の断絶を経た世代の特徴だ。

その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによって解釈可能だと思う。

それにマネジメント、文明批評、技術論あるいは美術など個別的な彼の仕事については、きちんとした批評の言葉が存在する。それらがきわめて質の高いものであり、それまでの常識を打ち破るものであるということは、繰り返し言及されている。しかし、その全てに通底する根本的な志向性、あえていえば「ド ラッカーはどこからきて、どこに向かおうとしていたのか」について問いかけた論者はあまりいない。

井坂 彼がめざしていたのは、途方もなく素朴なものだったと思う。それは社会のなかの高質な存在、あえていえば「美質」に対して敬意を払い、次の世代に継承することだった。彼は保守主義者である。日本に限らず世界のどの社会についても、父祖から受け継いできた伝承や技芸に対する配慮と敬意がある。

彼が日本美術や技術に関心を寄せたのはそれらが凝縮的に表現されていたため だろう。 そのために彼は多くの敵と闘った。青年期彼はナチスと闘った。彼は当時ふつうなら踏み込んではいけないところにさえ踏み込んだ。ゲッベルスをはじめナチス幹部にインタビューさえした。そこにまっすぐ踏み込む市民は、ふつうはいない。それだけのリスクを冒すことはしない。でも、彼はそれを恐れてはいけないと思っている。

社会を保守に値するまともなものにしようと思ったら、ふつうの市民が勇気を持つべきと考えていた。真摯さとはそのようなことだと思う。孤立無援のなかでも、なすべき仕事は果たさなければならない。彼にはその覚悟があった。侍や騎士のエトスに近いものが感じられる。

そのようなものを安易なあやうさや品性の下劣さ、卑しさに委ねない決意が 彼にはあった。この社会は自らのかけがえのない資産なのだから、引き継いで いかなければならない。そのような志が今にいたってことさら感じられる。