「ガンダム世代」こそドラッカーを読んでほしい(富野由悠季)

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富野由悠季「『機動戦士ガンダム』の作者の戦後 戦争を語る言葉がない時代を憂う」『中央公論』2010年9月より。

 

役人や軍人だけで、戦争はできない。そこには必ずその方針に従い、あるいは煽り立てる市民がいる。

戦争を知るために、ここ一年ほどで読破した書物の一つに、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』がある。ひとことで言えば、人々がなぜナチスなどの全体主義を支持するに至ったかの論考だが、彼女はその中で「人々」のことを「モッブ(mob)」と表現している。日本語にすれば「群衆」。「大衆」にもなれない、ただ蠢いているだけの存在といったニュアンスだ。

考えておく必要があるのは、基本的に、私たちはいつでもモッブになれる存在であるということだ。アーレントが指摘するように、個々人が独自の判断基準を持っているかどうかは、極めて怪しい。

人間は、基本的に「信じる」生き物である。自然と剥き出しで対峙しなければならなかった時代、宗教の誕生は必然だった。明日、洪水が襲ってこようが、日照りに見舞われようが、絶対に大丈夫だという精神的な支えなしに、人は生きられなかったであろう。今の時代の社会規範や制度のようなものも、ある種の「信心」によって成り立っていると言っていい。

問題は、ここぞという時には、そうしたもろもろの「信心」のたがをも外して、理性的なジャッジが下せるのかということだ。世の中のトレンドにつき従うべき局面なのか、それともそうすべきではないのか。そのランク分けのインテリジェンス、「知の自覚」を持っていなければいけないのに、人間はどうもそうではないらしい。

たとえば、日露戦争終結後の1905年、野党が民衆を扇動することで起こった日比谷焼討事件を考えてみてほしい。大衆がモッブに落ちた時の熱気、その怖さをまざまざと見せつけるものだった。走り出したら中途半端なインテリでは止められないのだ。

戦後、パラダイスのような資本主義をつくり上げてしまった結果、現代の日本はポピュリズムに覆われ尽くされた観がある。言葉を換えれば、民衆のモッブ化である。こうなると、本当に国のことを考える、ハードインテリジェンスを持ったインテリは、重要な部分から半ば自動的に排除されていく。誰も「難しいこと」など、聞きたがらないのだから。

代わりに幅を利かすのは、「マンガ好き」をアピールして票にしようと考えるような政治家である。だが、麻生太郎さんは、モッブが急に走る方向を変えた時、自分が真っ先に後ろから刺される怖さに、気がついていない。

公平を期していえば、菅さんだって、ポピュリズムに本気で警鐘を鳴らすような言葉を発信してはいない。むしろ逆である。

モッブが増殖し、居座れば、これを排除するのは難しい。それを基盤にした全体主義の恐ろしさを、もっと歴史から学ぶべきだろう。

 

たびたび他人を引き合いに出して恐縮だが、僕はピーター・ドラッカーの「人は、理想の社会ではなく現実の社会と政治を、自らの社会的行動、政治的行動の基盤としなければならない」という言葉は、まさに真実だと感じている。

たとえば「いつか恒久平和が実現する」と真顔で言う人が、今でもいる。冗談ではない。人間はそんなに賢くないことは、それこそ現実を見れば火を見るより明らかだ。そんなきれいごとを、特に子どもたちに吹き込んではいけない。それが、『ガンダム』を企図したモチベーションの一つでもあった。

大事なのは、バラ色の未来を夢想することではなく、現実に不都合な部分があったなら、たとえ高い壁に見えても、それを乗り越える“志”を持つことだと思う。

ドラッカーは、これ以外にもあまたの名言を残している。ただ、僕は彼の本を単なる経済書として読むべきではないと思っている。世の中のベースに経済があるから、そこにスポットを当てているのであって、実は社会全体を機能させるためのマネジメント論を語っているのだと思う。

特に、日本の経済、社会を担う立場になった「ガンダム世代」には、ドラッカーの一読をお勧めする。ただし、経済的に成り上がるための指南書のような読み方は、やめてもらいたい。彼の本質は、そこにはない。