【書評】『ライフワークの思想』(外山滋比古)

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【カクテルと地酒】

 

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外山滋比古『ライフワークの思想』(ちくま文庫)

いくらか年をとったせいか、単に馬齢を重ねたせいか、これまでのことと同時に、これからのことが頭に浮かぶ。

雑多に浮かんでやまぬ想念に対して、かりに一つの問いを与えるなら、たぶん「ライフワークって何だろう?」が適当ではないかと思える。

人は誰しも何かしらの活動に従事している。会社、経営、芸術、家事、勉学・・・。いずれも社会のなかで必要なものだ。

だが、ふと考えてみると、とくに四〇という人生の折り返し点を過ぎてから考えてみると、どうも日々のミクロな課題だけを見ているのでは満たされない何かが残るのは私だけではないだろう。

古来賢人は四〇にして惑わずと言ったけれども、たんに人生観がぶれないというよりも前に、天命に思いを馳せるスタート地点なのだと言いたかったのかもしれない。著者は言う。

「バーテンダーはさまざまな酒をまぜてシェーカーを振れば、カクテルをつくることができる。これ飲んだ人は酔っぱらうから、彼が酒をつくったような錯覚を抱くかもしれない。しかし、じつは一滴の酒もつくってはいないのである」。

考えてみればそうである(もっとも、バーテンダーの名誉のためにいえば、腕のいいバーテンダーだって得難いもので十分価値あるものだと思うが・・・)。

「酒でないものから酒をつくった時、初めて酒をつくったといえる。(略)かりにドブロクでもいい、地酒ができれば、それが本当の意味で人を酔わせる酒をつくったことになる」。

ここで著者が言いたいのは、単にオリジナルなものをつくれということではないと思う。

どんな人生であっても、(それが華麗であれ、さほど華麗とは言いがたいものであれ)たった一つのかけがえのない人生であって、時による熟成をへて、自分にしかない何かができるはずだということである。

できた酒は決しておしゃれな香味やなめらかな口当たりのものではないかもしれない。それでも、自分の中で蒸溜した酒をつくること、それがライフワークなのだという。

ライフワークというと、何かおおげさなものをつい想像してしまう。あるいは逆にものすごく陳腐なものも想像してしまう。

ところで現在という時代の最大の特徴は、寿命が延びたことである。そもそも四〇歳が人生の折り返し点など、つい最近のことである。ちょっと前などは四〇歳で長老という年齢だった。

「われわれは、地酒をつくることを忘れて、カクテル式勉強に熱中し、カクテル文化に身をやつして、歳をとってきた。そしていま、自分の努力によってではなく、思いもかけない周囲の事情によって、自由を持つことになった」。

味方にできるのは時間なのだと知る。きっと人はもっと過去を思い起こすべきなのだ。十代の頃、二十代はじめの頃、何を考えていたのだろうか。あたかも、洞窟で寝かされて、そのまま忘れ去れてしまった樽は心のどこかにないだろうか。

雑纂であって、気軽なエッセイである。決して、みけんに皺を寄せて読むような高尚で哲学的な本ではない。特に中高年に達したなら、ほんの少し立ち止って頭を休めながらも考えるべきトピックがいくつもある。たくさんの驚きがある。