友人が見た若き日のドラッカー

カッセル
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ドラッカー思想の起源

ベルトホルト・フライベルク

三浦一郎訳

 

もっとも古い友人

私が多年にわたり経営してきた会社、ノルトゼー・フィッシェライは、ヨーロッパ最大の水産会社である。当社とその経営者である私は、ドラッカーの仕事から長い間利益を得てきた。この点私の会社も私も例外的ではない。私たちは、ドラッカーの仕事が毎日の仕事の中で自分たちの課題解決に役立つことを知っている多数の企業と企業経営者たちの中の一員である。

しかしながら、私は、他の人たちとは違うと主張することが出来る。私は多分ドラッカーのもっとも古い友人である。彼に最初に会ったのは四〇年以上も前のことである。その時、ドラッカーはまだ一八歳にもならず生まれ育ったオーストリアで高校を終えたばかりで、ハンブルグの小さい輸出会社の見習い事務員だった。私はほんの二、三年年長で、同じ会社で見習い期間を終えたところだった。私たちはすぐに友達になり、それ以来ずっと友達である。そしてドラッカーは輸出事業にもハンブルグにも長くとどまることはなかったが――彼は一五カ月後に去った――、私たちは多年にわたり対話を持続させてきた。要するに、私は彼の初期の思想の形成と発展に内々かかわっていたのである。今日のたいていの読者にとって、ドラッカーはマネジメントの研究者であり、現代社会の分析家である。言い換えると、『企業とは何か』や『変貌する産業社会』の著者ドラッカーである。しかし私にとってのドラッカーは、一見それと非常に異なった研究分野で非常に異なったトピックに取り組み始めた、すぐ近い将来の思想家であり著述家である。とりわけ私がよく知っているのは、彼のまさに初期の仕事であり、それ自身の分野ではそれはなお重要であるとしても、彼の現在の読者たちがかつてほとんど聞いたことのないことである。したがって私はおそらく、ピーター・ドラッカーの他のどの読者よりも、ほとんど四〇年にわたる彼の思考の発展と持続について判断することができる。

フリードリッヒ・ユリウス・シュタール

ドラッカーのドクター論文は国際法についてのものだった。それが扱ったのは「疑似政府」―― 領土の一部に対する有効な支配を確立した反乱、亡命政府、独立に代わろうとする植民地、そして、国際礼譲内で完全な主権をまだ認められていないが国際関係において従って国際法においてもはや無視することのできなくなった、そのほかの団体――の法的位置であった。一九三一年に書かれたこの論文は、のちに来る事件によって示されるように、来るべき時代においてますます重要となるはずのトピックを扱っていた。その点、ドラッカーは、この初期の時代においてさえ、未来の新しい緊急事と挑戦に対する鋭い認識を示していた。この論文は、明らかに国際公法における変化の先触れとも言うべき重要な仕事であり、若い著者を当時の法学部における彼の選ばれたキャリアにしっかりと任命するように見えた。

だがドラッカーによる真に重要な研究、彼の来るべき全展開の前触れとなった研究は、全然別のものであった。それは、ほぼ同時期に書かれて、ヒトラーの支配がドイツにおける自由な研究と独立の学問を殺してしまう直前の一九三三年始めに出版された。そのタイトルは「フリードリッヒ・ユリウス・シュタール― 保守主義哲学と歴史的継続」であった。著者は当時まだ二四歳にもならず、もちろんまったく無名だった。しかし無名の若者によるこの小冊子は、当時ドイツで出版されていた法学・政治学の研究論文のもっとも格の高いシリーズである、「歴史と現在における法と国家」( J. C. モーア社(チュービンゲン)刊)の第一〇〇号として出版されるという名誉の報せと評価を受けていた。これが重要な出版であったのはなぜかというと、そのことが即、思慮に富んだ人たちによって認められたことを意味したからである。

そして今日までこの三二ページの長さの小冊子は、シュタール― ドイツ政治思想の全史のなかで最も物議をかもす問題人物の一人である―の仕事と思想についてのよく引用される文献となっている。

ちょっと見ると、一人の若者が最初に手がける大きい仕事としてシュタールを選ぶことは、まったく奇妙に見えるに違いない。それは確かにきわめて時流から外れた研究課題だった。シュタールは、保守的かリベラルかを問わずドイツの歴史家たちのお気に入りの人物ではないし、まして一九三〇年代初めには到底人気があるとは言えなかった。彼は実際扱うのが難しい人物である。ユダヤ人として生まれ、一九世紀はじめプロテスタント正統派の最高のスポークスマンとなり、実際彼はドイツ・プロテスタンティズムがかつて生んだおそらく唯一の政治哲学者であった。バヴァリアで生まれ、プロシア王権のスポークスマンとなった。頑強な保守主義者であった彼は、絶対主義(専制主義)に反対し、立憲君主制の法的基礎を創造した。全体として国民主権に反対し君主政体を主張したが、彼自身はドイツ史におけるもっとも輝かしい国会議員となった。ドイツの政治的伝統における伝統的保守主義者たちも伝統的リベラルたちも、かつてこの特異な人物を理解することが出来なかった、彼の人格においても仕事においても、ドイツの政治的慣習の中では両立しないとまで言わなくとも融和しがたいと認められている諸要素を統合した人物であったからである。

 

『経済人の終わり』

ドラッカーがその最初の政治的分析のためにこの注目すべき、ほとんど理解されない人物を選んだ一つの理由は、言うまでもなくまさに、一九世紀ドイツにおけるこの偉大な保守主義のスポークスマンがユダヤ人の血を引いていたからである。当時このような研究テーマを選ぶこと自体が、一つの宣言でありナチのプロパガンダに対する勇気ある(そしてきわめてはやらない)攻撃であった。

この論文はすぐにナチズムに対する完全な拒絶と理解され、その出版後二、三週たちナチスが最初に権力を確立したとき発禁された。これは実際、ドラッカー自身予想し、おそらく望んだとおりのことだった。というのはそれより一年前にドラッカーは私に本音を語ってくれていたのである。彼はナチ体制の下では決して働くことはないだろうし、彼の良心は彼が全体主義の基本的教義に不本意ながら黙って従うことさえ認めないだろうということだった。実際には、その数カ月の間に、ドラッカーはすでにナチズムと全体主義の分析に取りかかっていた。それは六年後一九三九年に『経済人の終わり』というタイトルで世に出て、ドラッカーの、英語世界での重要な思想家および著述家としての名声を確立した。

しかし、シュタール論は、その研究動機が当時の政治に根ざしていたとしても、政治的領域をはるかに超えるものであった。知られざる、読まれざる、理解されざるシュタールがドラッカーを引き付けたのは、まさに、シュタールの基本テーマが、今日ドラッカーが「非連続(断絶)」と呼ぶものであったからである。シュタールは、フランス革命の子であるにもかかわらず、伝統的宗教と伝統的君主制のはなはだしく保守的な堅い信者であり、そしてドイツ観念論哲学の継承者で議会政治の達人であった。権威を信じたが同時に専制と独裁に対する妥協しない敵であった。彼は、自分の使命(ミッション)が、フランス革命が大陸ヨーロッパの政治的・社会的生活の背後に置き去りにしてきた、大きな非連続に架橋することであると悟った。シュタールが理解した自分の使命は、新しい政治的・社会的構造の建設であった、それは、新時代の要求、現実、機会にふさわしい、だが過去から継承された基本的な価値と信条に基づくものである。彼が悟った自分の使命は、結局、現存する制度―プロテスタント教会、プロシア君主制、ドイツの大学といった―の制定において、それら自身の基本的品性や価値を維持することによって、新しいニーズに役立ち新しい挑戦に応ずることであった。

 

「両極性」の概念

マルクス同様、シュタールはヘーゲルの子であった。しかしマルクスとシュタールがヘーゲル哲学を手本に作り出したものは、大いに異なっている。シュタールは国家を道徳的イデーの具体化とする観念論的見解をとった。これは後に、一九四四年七月二〇日のヒトラー暗殺未遂のあと処刑された人たちの一人であったアダム・フォン・トロットによって再度採用された考えである。善悪の対立、へーゲルが弁証法的に総合に向けて解決した正と反(措定と反措定)は、シュタールにより、創造的両極性として保持されることになった。一九三〇年ごろ、「両極性」という考えがかなり広まっていた。ドラッカーはそのシュタール論の中で意識的にこの言葉を使った。宗教、社会学、他のどの領域においても、融和しにくい緊張を示すために、それ以上適切な用語はかつて見出されたことはない。精神的な反対物を弁証法によってひそかに隠してしまうことはできない。それらは生産的にされなくてはならない。すなわち、われわれはそれらの真の目的を知り、総合を探さねばならない。この意味で、権力と責任との間の大昔からの関係―王たちの神聖な権利というひどく誤解されてきた観念の真の本質― が、再びシュタールによって生き返ったのである。ドラッカーを感動させたのは、権力は責任に従わなくてはならないという、シュタールの信念だった。これは合理的なプロセスではない。権力を、責任によって支配されているものとして受け入れることは、われわれの精神的実存の根幹に、すなわちわれわれの信念にかかわる。

 

「経済を倫理化する」

しかしこの原則を実際生活の全分野に適用することについて非合理なものは何もない。この原則はわれわれの全行動と密接にかかわりあう自由についての姿勢のなかに表れる、それは、経済学に適用されるなら、ヴァルター・ラーテナウが呼んだように「経済を倫理化する」に違いない。

このinvolvement(かかわり合い)の意識は、ドラッカーにとり、基本であり、彼の著作の、権力の行使にかかわるところで、その跡をたどることが出来る。彼が純粋に事業や管理の問題を語っているように見えるところでも、彼は常に同様に社会的側面にも関係しているのである。コミュニティ内における社会秩序と個人の席は、常に決定的に重要な問題である。

ドラッカーがあの四〇年前の論文―それは思い出すが、一九三一年の夏、ドラッカーが大学での法学研究を終え学位を取得する丸一年前に、書かれた――で指摘したように、シュタールは失敗者、悲劇的な失敗者であった。事実、ビスマルクのドイツ(シュタールの死の一〇年後一八七〇年に樹立された、あの見たところは勝利を得た体制)は、シュタールを完全にかつ意識的に拒絶した。とりわけ、伝統的価値と信条の基礎の上に非連続を征服する試みは、拒絶された。シュタールの試みた自由と責任の総合、係わり合いの総合でさえ、拒絶された。だが、まさにこの非連続を征服する試み― まさにこの自由と責任の総合―こそ、若きドラッカーを魅惑したものである。そしてこれらのテーマがドラッカーの主要なテーマとなったこと、そしてドラッカーがそれらのテーマを当時の彼の思想からするとはるかに遠い領域にまで投影してきたことは、まったく明らかなことである。

 

初期著作の論理的必然

振り返ってみると明らかだが、非連続を征服し自由と責任を総合すること――このことにより彼は導かれ、彼の生涯の仕事が行われるところまで至った。シュタールの分析が論理上必然的に導くことになったのが、ナチの全体主義、あの巨大な恐ろしい非連続の分析である。『経済人の終わり』は、最初、ヒトラーとナチ突撃隊員たちがドイツをのっとった一九三三年初めのあの恐ろしい数カ月の間に執筆され、一九三九年に出版されたが、社会が責任の失敗に対してどのように反応するかの分析であった。彼の次の著作『産業人の未来』では、ドラッカーが彼の本来のテーマに戻るのが見える。それは、いろいろな意味で、シュタールが一九世紀初めにやろうとしたことを、ドラッカーがわれわれの時代のために行おうとした試みである。同書の副題が、保守的アプローチである。

完全に未来の鋳造を論じる書物が、ドラッカーがそのシュタール研究の中で確立した意味で「保守的」という語を使う。すなわち、「保守的」とは。最良の伝統的価値と信条の基礎の上に明日を鋳造する責任ある試みのことである。そしてこの本が論理必然的に導いたのは、革新しながら継続することの出来る総合を乗せていく制度の探求であった。一九世紀初めのシュタールにとって、その制度は伝統的社会の、君主制、立憲制度であった、あるいはそう見えた。二〇世紀の中葉で書くドラッカーにとって、事業会社は制定権のある組織、決定権のある特色ある制度として現れた。事業会社は、イノベーションを行うことを課せられているが、その上また地位(ステイタス)と機能を生み出さねばならず、新しいがなお長く続く社会秩序を創造しなくてはならないのである。振り返ってみると、シュタール論の政治哲学者ドラッカーを『企業とは何か』のドラッカー(すなわちマネジメントの研究者、分析家、そしてメンター)へと導いた小道は、まっすぐでほとんど必然的なものであった。ドラッカーによる責任の重視は、ドラッカーを企業の責任としての利益の再発見に至らしめた(したがって彼は無意識に再びヴァルター・ラーテナウ――ずっと以前、第一次世界大戦の終結の日々にその著書『来るべきことについて』のなかで、「利益」という語のかわりに「責任」という語を用いるよう提案した――の言葉を鸚鵡返しに繰り返している)。かくも多くのドラッカー批評家たちを悩ませたこと――ドラッカーがある本で事業について書き、もう一つの本では社会について書くということ――は、それゆえ、彼の人間、著述家、思想家としての、彼の本質による。そして彼の最近の本のタイトル『断絶の時代』が、まさに彼の思考のなかに最初から暗に含まれており中心的であったことを明らかにしていることについては、そのとおりだと言うしかない。