ドラッカーの保守主義

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ドラッカーの世界観と保守主義

  

井坂康志

 

ドラッカー的世界の再構築

ドラッカーとは、一言いえば二〇世紀に身を置きながら二一世紀を支配する思想家であった。この認識が今後のドラッカー研究における最も信頼に足る導きの糸となるはずである。  

そこでの問題意識は、必ずしも「マネジメント体系」を創案・構築した経営学者としてのドラッカーではない。ドラッカーがマネジメントの発明者であることはほぼ衆目の一致するところである。しかし、マネジメントが戦後一大体系としてあまりにも広く共有された知識となったために、この体系は知的インフラと化した。つまり、ドラッカーの「発明」というよりは、公共的かつ一般的な知識体系と認識されているように感じられる。  

むろん彼のマネジメント体系そのものを軽視するものではない。ドラッカーの思想体系を考察するにあたり、マネジメントはきわめて重要な批判・検討課題であることは論を待たない。しかし、それ以上に本研究で試みたいと考えるのは、彼が「いかにして」マネジメント体系を発案・構築するにいたったのか、の契機に深く関わる。すなわち、彼が思考の源流として持つ、一定の様式を主要な関心対象とするものである。  

ドラッカーの業績の特徴は、全体像の個々の部分の取り扱い以上に、全体を全体として意味ある統合体として把握すべきとする問題関心にある。ゆえに、彼の最も基礎的な包括的ヴィジョンとそれを形成した特定の文脈を理解することなしには、彼の業績の意義を適切に評価することはできない。このような理解は彼の業績に見られる価値概念とそれを現実的に実現する方法論のなかに見出されるというのが基本的立場である。  

一般的に、特定の社会科学領域の研究においては、事実上暗黙の方法論的全体が存在するため、その部分を改めて論じる必要性には乏しい。しかし、ドラッカーのような多面的かつ総合的な知的領域を持つ論者に関しては、必ずしもこのことはあてはまらない。  

彼の場合は、特有の思考の脈絡を全体的に捉え、各分野の業績の背後にある思考法や型を描出していく必要性に迫られる。この作業を通じて、彼の知的世界を再構成することがここでの最大の課題ということができる。

 

素朴な思考様式

彼は膨大な著作・論文等を通じて自らの思想を明らかにしたが、自らの学問的位置付けについてはほとんど関心を持たなかった。

しかし、彼は自らの思考枠組みを隠し続けてきたわけではない。それは発見し、解釈することのできるものである。筆者の解釈によれば、ドラッカーの学問体系は、脱・近代合理主義の社会科学の構想を計画し、実践したものである。  

その際、いかなる論者にも共通することであるが、時代の経過とともに、個々の領域においてドラッカーの知的業績が陳腐化し、人々の記憶から遠ざかることは避けられない。

特定領域の教科書のなかで受容される体系と、それを共有する学派を残さなかったドラッカーにおいて、時代のなかで今後継承されるものがあるとするならば、知識体系として最も素朴なレベルにおける思考様式のなかにおいてのみそれが見出されるのかもしれない。

とするならば、思考のスタイル、考え方の癖、習性、傾向といったものは、問題の設定や方法以前に存在するものであり、同時にそれは思考を行うドラッカーに内在するものである。

彼の体系においても、人間の持つ価値観やヴィジョンがきわめて重視されたものとなっており、自らもその重要性を強調する。同時に、体系の基礎となる主体の側に存する暗黙の思考法に注目した。

また、彼自身、自らの体験を踏まえて、人間の思考の型というべきものが生涯の活動にどれほど甚大な影響を及ぼしうるかに思いを寄せている。

しかし、ドラッカーの基礎的思考枠組みを採り上げようとするならば、単に彼のマネジメント体系や社会論を部分的に考察し、それらをつなぎ合わせるだけでは明らかに不十分である。それ以上に、彼の全生涯および全業績を包括的かつ統合的に照射する視線が常に不可欠となる。

現在、通説としてドラッカーに対して持たれる解釈に新たな光をあて、さらには現代という時代状況における一つの新しいパラダイムを提出するものとして再構築する作業が必要となる。

 

日本におけるドラッカー受容

では、日本で彼はどのように受容されてきたのだろうか。

『「経済人」の終わり』の日本語版が出たのは一九六〇年代の初頭であり、原著刊行から二〇年あまり経った頃であった。岩根忠氏という銀行に勤務する方が最初の紹介者ということになる。本書の編集担当者から聞いた話によれば、岩根氏はアメリカ帰りで、現地で出会った著作の一つが本書だったという。  

氏は本書に非常に感銘を受け、日本に戻ってから単独で地道な翻訳活動を始めた。当初出版を企図するものではなく、あくまでも自らの理解を確認する作業であったという。それが結果として東洋経済新報社から刊行されることとなり、本書は当時としてもかなり大きな成功を収めることとなった。  

当時、翻訳書としては異例だが、日経図書文化賞を受賞することとなったのも評価の現れと言えるだろう。その後の影響としては、全体主義論として、本書は必読文献の位置を得たことは間違いない。  

だが、この影響力は恐らく学界を中心としたものであったと推測される。まず、一般ビジネスマンが読むには質量ともに高度かつ専門的に傾き過ぎている。また、本書では副題ともなる「全体主義」の概念が、ナチズムのみならず、社会主義まで包含するものとなっている。  

当時、知識人の間でもマルクス主義の影響力と「ソ連神話」は相当程度に根強かったはずであり、一部の不評を招いたのではないかと想像されもする。その後、企業経営や文明批評に関する他の著作が紹介されるに連れ、本書が次第に読まれなくなっていくのも、不思議ではなかったと思う。 少なくとも、九〇年代終わりに上田惇生氏によって大方の著作の改訳がなされるまでこの状況が続いたことは確かである。

彼の初期の仕事は全体主義との対決が結果として目立つのだが、一方でマルクス主義との対決という性格をも併せ持つ。実際、『「経済人」の終わり』『産業人の未来』などはマルクス主義との訣別を前提とした議論を展開しており、そのテーマをモチーフとしているといってもよい。  

日本ではその是非は別にして、一部の「知識人」から一般的知的風土に目を転ずれば、反計画主義に対する知的親近感があったのかもしれない。しかし、だからといって、彼の政治社会観が十分に理解されたかというと、必ずしもそうとはいえない。やはり彼のいう政治的機関としてのマネジメントは異質なものであった。

そのなかで、かなり早い時期に彼の政治意識に注目したのは、三戸公氏であった。『ドラッカー』(未来社)を執筆されているが、そこでは彼の自由概念等に注目されるなど、思想家としてのドラッカーが分析対象とされた。恐らく、本書はその思想的特徴に注目した世界でも最初の研究であった。 日本での翻訳は、一九六〇年代から集中的になされている。野田一夫氏らが『現代の経営』『マネジメント』を訳し、相次いで『断絶の時代』『イノベーションと起業家精神』なども刊行された。  

野田一夫氏らの着目の背景には、企業経営手法としてのマネジメントの紹介と導入にあったと推察されるが、すでにこの頃には日本経済の成長は決定的なものとなり、企業の持つ社会経済的機能のあり方に関心が持たれたのも当然であった。  

このあたりから、マネジメントとドラッカーは一対かつ不可分のものとして理解・受容される条件が日本でも明確となりはじめた。さらに、この頃になると、経営学の内部でもいわゆる組織原理や戦略論への模索が高まってくる。  

その意味でも、彼の企業経営への積極的な発言が日本社会にもたらす影響が固まったといえる。彼自身も頻繁に訪日し、産業界指導者と直接的な交流を持つようになったことも、この傾向を後押しした。  

彼のマネジメントに影響を受けた本格的な研究の先駆けは、藻利重隆『ドラッカー経営学説の研究』(森山書店)ではないかと思う。八〇年代に入ると、麻生幸の『ドラッカーの経営学』、河野大機『ドラッカー経営論の体系』など、そのシステマティックな意味付けに注目が集まるようになる。  

とはいえ、知的世界一般について彼の名が浸透するのは、これらの書物を見る限りでは、バーナードをはじめとした組織論を経由してだったように思われる。こうして、七〇年代から八〇年代にかけて、ようやく彼の著作がある程度知的体系化の対象として認知される状況が生まれてきた。

だが、本格的なドラッカー研究が始まるのは、恐らくこれからであろう。これまでは彼の時論的発言があまりに現実との直接的接点が濃厚に過ぎ、思想研究の対象としては生々しかったのも事実である。  

またその帰結として、まだ同時代の論者として批判的な対話の対象として論じられるというよりも、単に彼の言説を祖述するものが多く、海外の研究書にあってもこの傾向は強かった(Flaherty, Peter F. Drucker: Shaping the Managerial Mindがその典型である)。  

さらには、彼の発言に対して、明確かつ客観的な批判が表出された例はきわめて少なく、このことは裏返せば、それらが伝統的な知的領域から距離を置いて眺められた事実の表れでもある。しかしすでにドラッカーに触発されて独創的な社会思想的研究をはじめる者も出はじめている。また若い研究者の間でも彼への関心は強いものがある。  

しかし、その道のりは決して平坦なものではないであろう。彼の大きな広がりを持つマネジメントという実践的思考総体のなかで、自由の価値追求の姿勢がいかなる性格を持つものであったのかを理解することは、決して容易な作業ではない。  

実際、筆者の見るところでは社会哲学者としてのドラッカー研究は十分な成果を収めてこなかったばかりか、専門研究の対象として定着したとはいいがたい。  

その研究の深化が困難な理由は、ドラッカーの思想的基盤に関する知的前提の乏しさからスタートせざるをえない事情もさることながら、それ以上に、いわゆる「社会科学」的手法が彼の思想を分析する際に必ずしも力を発揮しない事実にある。  

彼の議論には自由をはじめ複数の価値前提が存在するが、これらのみを追求した理想主義者というわけではなく、常に同時並行的に冷徹な合理主義とリアリズムによる思考がなされていた。  

彼の思想的営為の有機的で立体的な性格は、把握のためにきわめて注意深く視角を設定することを要求しているためである。

 

二一世紀への道標

彼の知的業績は、いかに贔屓目に見ても学術界から厚遇を得たとはいいがたい。経営学、社会学、経済学、政治学、思想史等彼の発言分野は実に多領域にわたる。しかし、いわゆる「知識人」の間での彼の影響はごく間接的な、限られたものであったことは確かといえる。  

さらに、彼の一連の発言を見ても、学問的な完成度、体系性、理論性から見ると、それは明らかに高度とはいえない。これまでの高度な体系性を重んじる学者・知識人のなかで、彼が「一流」であったかとなると、はなはだ心許ないものとなる。  

しかし、見逃してはならない点がある。彼の著作・論文が現実に多くの人々に読まれ支持され、活用される点である。それは何を意味するのだろうか。  

むろん、彼の説が常に具体的・実際的であって、特に企業経営者やコンサルタントにとって実地適用に容易な、プラクティカルな側面を備えていたことは事実であろう。  

だが、それのみで彼の魅力の全体像を説明できるとは思えない。私見では、彼が二〇世紀という時代に身を置きつつ、二一世紀を洞察しえた点、すなわちその先見ある発言がいわば二〇世紀を象徴、ないし代表しうる性質のものであったためではないだろうか。  

『フォーブズ』誌が、彼の横顔で表紙一面を飾り、「Still the youngest mind(いまだ最も若き知性)」と題する特集を組んだのが、一九九七年、ドラッカー八七歳の時だった。  

彼の活動範囲や方法を見ても、この形容はなかなかの含蓄に富んでいる。つまり、彼の業績が二〇世紀最高の知的業績であったかどうかはともかく、二一世紀を目前に控えた時点にあっても、彼の洞察力は衰えるどころかいっそう活力に満ちていた。  

同時にその独自性は、二〇世紀という時代の刻印をも濃厚に帯びたものであった。彼自身も言うように、二〇世紀が「変化そのものを秩序と見なさざるを得ない」、希有な時代状況に突入したとする認識にもあるように、彼の言説が持つ普遍性は二〇世紀という時代が持つ特殊性に起因しており、彼が格闘した諸問題それ自体が一定の象徴的かつ普遍的な意味を持つ。  

それというのも、彼自身と時代状況との関係性によるところがきわめて大きい。そしてその点において、二〇世紀における代表性を持っていたと言えるのではないかと考えるわけである。

 

魔物との闘争

彼は実人生においても、身を持って二〇世紀の十字架を背負って生きた。彼がマネジメントを発明した前半生そのものが、二〇世紀の陰影を色濃く帯びていた。一九三三年にはその稿を終えた『「経済人」の終わり』が彼の執筆活動の出発点となったのはその意味で必然であった。魔物との闘争をモチーフとした本書は彼自身の闘争活動の宣言であった。その意味でも二〇世紀の代表性を強く印象づけるものであった。  

だが、それは単なる二〇世紀の記念碑ではない。彼が取り組んだ問題設定とは、現実を起点として常に未来に向かっていた。その意味で、二一世紀をいかなる時代とするかという責任をわれわれに鋭く突きつける。そこにおいて彼の存在は一つの観測点をも提供する。変動を知るにはそれにふさわしい観測点や観測尺度が必要である。それらは彼の発言の随所に見出すことができる。  

変化を読み解く観測点や尺度を提供した著作の代表格は、一連の文明批評たる『断絶の時代』(一九六九年)から『ポスト資本主義社会』(一九九三年)として結実した。冷戦終了後誰の目にも明らかとなったイデオロギー対立の無意味化や経済社会を貫く原理の転換などの巨大変化を六〇年代に先んじて示された。むろんそれは彼の業績の一例に過ぎない。  

だが、彼の視線は氷山の見えざる部分に注がれていた。ソ連崩壊にまつわる卓抜な見解も、実はここ数十年の問題というよりも、二〇世紀初頭の思想的転回に起因する。彼は、それら大変化の伏流にあたる一九二〇年代、三〇年代の欧州の中心地で青年期を過ごしている。彼の思考経路を読み解くに際し、それは決定的である。  

第一次世界大戦で敗戦を余儀なくされたドイツにおいて、ドラッカーが生きた一九二〇年代の時代状況とはいかなる時代であったのだろうか。噴出するさまざまな思想的・文化的な傾向が、きわめてラディカルにはかない輝きを見せたのも、当時のヨーロッパの戦後状況にあるワイマール期の特徴であった。  

その背後には、すでに近代の終末に直面する西欧の姿があった。ドラッカーは当時のドイツに、ウィーン同様のすでに崩壊した伝統的諸価値の廃墟を見出していたに違いない。  

そのなかで方向性を見失い、のたうちまわる西欧の歴史になお自己確認を求めながら、同時に近代の崩壊に立つ時代への問いかけを繰り返す苦悩に満ちた思考である。その試みがさまざまな反抗と確信の動きを促し、領域を問わずきわめてアクチュアルな問題提起を行っていたものと考えられる。

いうまでもなく、ドラッカーの思想形成もこのような青年期の時代状況のなかで育まれたものである。近代合理主義の自己確信が堅持されなくなったところから生まれた、いわば反時代的思考が彼のなかに充溢していた。  

その意味では、先の自伝に記された同時代人たちも、同様にドイツという巨大国家のなかで西欧近代の終焉を見つめ、危機感が強烈に彼らを襲い、それによって後年のドラッカー体系を支える思考が育まれていったものと見てよい。  

いわば、差し迫る文明の終焉という現実のなかで、運動によって筋肉が鍛えられるように、実践的思考によって思想的な基盤が形成されたものと見られる。  

いずれにせよ、ドラッカーの思想体系が二〇世紀の転換期から二〇年代のウィーン、フランクフルトという中心地において築かれたことは決定的といえる。当時の時代状況と厳しく切り結び、そこから現実的な課題を受け取っていたことは疑いないといえるだろう。  

もし後年構想されるマネジメント体系の基本的な性格が、文明の終焉にともなう新たな文明の登場を特徴付ける存在であるとするならば、この思想体系をいち早く見抜いたドラッカーの思考様式自体が、強い時代性を持つものであったことは当然であった。

フランクフルト時代のドラッカーの思想的特質を理解しようとするとき、単にそれまで培われてきた知的基盤や習慣のみでなく、実際に社会人として活動することによって獲得された高度な実践性をも加味する必要がある。  

さらには、一九二〇年代のドイツという、ナチズム勃興期のきわめて強い時代性を持つコンテクストも総合的な考慮に入れる必要があるであろう。特にナチズムとの対抗関係において、彼の基礎的思考は後の活動をほぼ規定し尽くしたといっていいほどに明確なものとなっている。  

ここからも、当時のドイツにおける時代状況を意識せずに、彼の思想形成を理解することはほぼ不可能といえるであろう。このことは当時の思想的背景と時代的なコンテクストを問題にしていくにあたり、世界全体及びドラッカーの内面における危機の意識を根底に持つためにいっそうの重要性をはらむものとなる。

 

時代診断の立場

なぜなら、ナチズム勃興期から興隆期にいたるドラッカーの思考は政治そのものといってよく、彼の実質的な処女作The End of Economic Manにおいても、その時論性ゆえに彼の時代的思考が十分見事に昇華された感があるためである。  

ドラッカーのドイツにおける思考形成は、その点において、いずれも危機の時代における野心に満ちた思考実験であった。それは彼の出発点が単に理論的な争点に関する学問的な問題ではなく、実際的でかつむきだしの政治性をも含むことを示唆している。

ドラッカーの思考に特徴的に見られる実際性の背景とは、文明の崩壊により、真空状態が生起し、そこから導かれる実体的な暴力、断末魔の恐怖、大量殺人といったきわめて血生臭く、死の予兆に彩られた凄惨なものがある。いわば生きるか死ぬかという限界的な状況を扱うものであった。  

ゆえに、彼の思考様式からの観察結果を現代の状況に関連づけようとする指向性を有するのは当然ともいえることであった。同時に、このようなドラッカー理解は、まず「時代診断」の立場に力点を置いて解釈を試みようとするものであり、一つの有力な視点を提供するものと考えられる。  

事実、彼の著作群に通底する思考とは、時代の診断の結果捉えた文明の方向喪失の危機を、政治的な展望に望みをかけることによって克服しようとするものであり、その意味ではマネジメントとはあらゆる人間のエネルギーを調整し得るような媒介的な手法であったということ見方もできる。  

ドラッカーの知的作業とは、現実的な文脈における思考実験の繰り返しであり、彼の代表的な作品ともいえるマネジメント体系とはその集積を示すものと見ることが可能なのであって、その背後には決して首尾一貫した理論的な可能性を追求したものではないとするのがわれわれの立場である。

では、彼の思想的基盤がこのような危機の意識に立ち、自己の理論を受け入れていった哲学的、社会的基盤とはいかなるものであったのだろうか。  

われわれはそこに彼の文化観、イデオロギー観、解釈と歴史への認識、近代合理主義への批判、相対主義的世界観といったさまざまな土壌を観察することが可能である。そして、このような思想的基盤の問題に関わりあっていくとき、当時のドイツを支配したマルクス、ウェーバー、ジンメルといった理論と直接触れ合うことになるであろう。  

いうまでもなく、ドラッカーの思想体系は過去の知的伝統から受け取った知的遺産であるのみならず、オーストリア、ドイツの精神史と社会科学がきわめて論争的に関わりあってきた中心的な課題への回答でもあった。すなわち、まさにそうした時代の課題に正面から挑戦的に向かい合った一つの試みと見なして差し支えないと考えられる。  

その意味で、二〇世紀に内在する諸問題がきわめて象徴的な形態で表出したに過ぎない。事実、すでに一九二〇年代前後には、ヨーロッパの主要な思想や文学で、彼が後に格闘する諸問題には先鋭的な意識が持たれていた。  

彼は晩年の上田惇生氏への手紙で次のように述べるのがその表れである。

「私の場合は、社会への関心の原点が第一次世界大戦時、一九二九年代、三〇年代における西欧社会および西欧文明の崩壊にあったためだと思うが、企業とそのマネジメントを経済的な存在としてだけでなく、社会的な存在として、さらに進んで理念的な存在としてとらえてきた。」  

この意識は彼の思想及び行動様式を強く内面的に規定するものであった。ソ連崩壊への予告もそのことと無縁ではない。ソ連崩壊に六〇年近くも先だって、彼は社会主義が人間社会に希望と幸福を与えない事実を喝破した。  

すなわち、ソ連は幻想であり、砂上の楼閣に過ぎないとの主張は、『「経済人」の終わり』で重要な縦糸をなすのがそれである。

 

それは社会科学たりうるか

二〇〇五年一一月一一日の急逝から以来、彼への知的関心は内外を問わず以前にも増して高まりつつある。彼の発言は一九三三年、二四歳にまでその源流を遡ることができる。  

わけてももはや彼の代名詞とも言えるマネジメントに注目するならば、『会社という概念』(一九四六年)から『現代の経営』(一九五四年)にいたる一九四〇年代から五〇年代あたりがその最盛期としてのエポックと捉えられる。  

しかし、さらに六〇年代以降、凄まじい数の論文、書物が発表され、その潜在的読者層が幅広く開拓されていく。 彼の発言を待つ層は、もはや欧米のみならず、南米からアジア諸国にまで爆発的に拡大した。  

そのエネルギッシュな仕事ぶりは晩年にいたるまで衰えを見せず、読むほうが追いつかないほどであった。今なお新世代の読者層が出現しつつあり、若い人々の関心も増加している。  

この傾向はしばらく続くと言ってよいだろう。さらに、ここ数年の動きで注目すべきものの一つに、研究環境の整備が挙げられる。彼自身が没してようやくその知的業績が思想史ないし経営学説史の客観的考察対象として認識されつつある。  

それまでは、J. タラントやJ. ビーティに代表される伝記ないし評伝の色彩が強いもの、あるいはJ. フラハティの概説書のような祖述・整理の色彩の強いものが主流であった。  

恐らく、今後より客観性の高い本格的な研究が現れるだろうし、未公刊の論文や草稿が多く見出されることで彼の全体像はいっそう明らかなものとなることが期待される。

ある程度詳細に見ていくならば、彼の作品には二〇世紀思想によるさまざまな影響関係を認めることができる。同時に、二〇世紀における希望と絶望が彼のなかでプリズム状に反射する。  

彼が青年期に仮想敵に据えたのはファシズムのみではなく、社会主義も同等の批判対象とされた。事実戦後にいたるも、ソ連はマルクス主義者にとってさえ、虐殺と圧政の温床以外の何ものでもなくなっていた。冷戦構造のはるか前に、本質は見抜かれ、構造は分析し尽くされていた。つまりここ三〇年ほどの変化には、しかるべき経路と必然性があった。  

ソ連のみならず、全体主義、ひいては資本主義までも、二〇世紀の象徴的イデオロギーであった。これらに共通するのものとは、近代(モダン)である。近代という構造への懐疑は彼の三〇年代の著作に濃厚に息づくものがある。  

ただし、それらの対立軸への洞察は、彼ひとりに期すべきものではない。『傍観者の時代』にも克明に示される通り、当時の知識人全般に共有された、特有の退廃的雰囲気があったし、それにともなう思索や創作が存在した。

彼の全体像を探索するにあたり、その問題意識が時代状況に与えられた共通課題にいかにして反応したかについての考察が不可欠なものとなるであろう。

それらの作業のなかで、新たな像が再発見されうるし、より実像に迫ることが可能となるものと考えられる。

 

方法論における保守性

さらには二〇世紀前半、彼の思想形成における影響関係を空間的に捉えるとともに、彼に現れた二〇世紀の特性を時間軸的に捉える試みもなされるべきかもしれない。  

西洋思想の連綿たる流れを踏まえ、ゆえにいっそう二〇世紀思想の持つ特殊性、独自性が鮮やかに浮かび上がる。その一端を簡単に素描してみたい。  

社会科学、政治学の立場から見るならば、彼が全体主義論や産業社会論、経営学といった領域で大きな位置を占めることは言うまでもない。広義の社会に関する考察で、彼の知的業績の意味を無視しうるものはほぼ皆無といってよいであろう。  

しかし、その際に忘れてならないのは、彼の方法論における保守性である。 ここでいう保守性とは、簡単に言えば、特定の青写真に従って社会が統御・改良できるというモデルへの懐疑を重要な足場として持つ方法論を意味する。いわば、ハイエクに象徴的に見られる反構成主義、反計画主義である。  

二〇世紀の思想潮流において、このような思考枠組みは見過ごすことのできない重要性を持つ。というのも、真っ先に彼の批判の俎上に上ることとなった全体主義や社会主義のみならず、二〇世紀型国家社会の実に多くが、その程度に差はあれ、この種の計画主義的思考を併せ持つためだった。  

彼が八〇年代にいち早く「民営化」の必要性を説き、欧米政治に巨大な影響力を持ち得たのも、本来の知的ベースとしての保守性に起因するところが大きい。こうした管理主義的傾向への批判、またそれを支持する社会思想への批判は、事実上左右の思想対立という安易な軸で捉えうる単純なものではなかった。  

すでに彼の青年期、第二次世界大戦の前後にかけて、これらの問題は具体的な様相をまとって表出していた。こうした文脈で読み解くとき、はじめて彼のマルクス主義や全体主義等への批判の原点を読み解くことができる。  

さらに、彼の出発点としての政治学に立ち入ってみれば、彼には国民国家あるいは単一的原理による政治組織全般に対する深い懐疑・批判が思想的源流にあるように思う。  

恐らくそれは、第一次世界大戦以前の秩序原理としての政治的・宗教的権威の崩壊、あるいは「民族自決主義」によるその後の国民国家再編を間近に見た経験によるものなのかもしれない。  

さらには、その対抗理念としての、アメリカ合衆国建国原理としての連邦主義への高い評価もその流れを汲むものである(この概念はその後、彼のマネジメント体系における主要概念として実地適用されることとなる)。  

こうした側面も、彼の思想的基盤を読み解くに際し、重要な問題といえる。こうした意味で、彼の思想は二〇世紀の多様な諸問題との複雑な交流関係を捨象して考えることはできない。  

だが、彼自身が何か新しい解決法を具体的に提起し得たかというと、ことはそう簡単ではない。むしろ、彼の特徴は解答そのものよりは問題の所在を明示することのほうにあったように見える。

しかも、その示し方は時に挑発的なまでに強烈な示唆を含むものである。ここに彼の輝きの源泉がある。さらには、手法も奇をてらうものなど何一つない。反対である。きわめて保守的である。

本来保守主義という語は、一定の価値内容を持つ思考枠組みなのだが、その現れ方は差し迫った現実的危機に「対抗する」形によることがほとんどである。彼にあっても、この保守主義の「伝統」により、同様の現れ方をしており、思想史的にも興味深いものといえる。  

これもドラッカー思想の特徴の一つなのだが、保守主義特有の体系性のなさがある。したがって、矛盾のない高度な理論化を試みるものは、道半ばにして途方に暮れることとなる。『現代の経営』『マネジメント』などは、企業経営について一見体系的に語られる書物のように考えられがちである。  

しかし、実際に内容に触れれば、その形式、内容ともに、むしろその非体系性に驚かされる書物である。悪く言えば、かなり「雑なつくり」の書物であって、それは彼の著作全般に言えることではないだろうか。 彼の創作形式を観察する限りでは、必ずしも体系性を志向していたわけではない。むしろポレミークであり、エッセイ的な作風を特徴としている。  

そして、そのことは同時に、解答を示すのではなく、全体から直観的に問題の所在を正確に探り当てる熟練の職人という印象ともわかちがたく結びついている。

 

文明の観測点

私がドラッカーに関心を持ったきっかけは、二〇世紀文明や思想に対する象徴的発言に惹かれたためであり、その意味で、一つの大きな認識枠組みにおける観測点を彼が提供したためであった。

そのことを具体的に感じたのは、初期の著作『「経済人」の終わり』から『産業人の未来』を経て、『企業とは何か』にいたる時代状況及びそれに反応する思考様式の独自性にあった。そして、これらの著作のなかにあるシンクロした部分、言い換えれば共通的に見られる覚醒した意識の存在がはじめて彼の著作を手にしたときからうっすらと感じられたのも事実であった。  

その時までの私にとっての彼はやや俗っぽい印象にまみれていた。明らかにそれまで私なりに触れた社会科学者と異なる相貌を持っていた。だが、実際に彼の豊かな世界に触れてみて感じた魅力は大まかにいって二つあった。  

一つは『「経済人」の終わり』に見られる公共性への渇望感である。彼のナチズム体験とは、いわばその場に身を置く人々の経験的・日常的な自我が彼らを取り巻く世界、つまり公共空間から遊離して、目的としての自己を見失うというところから問題となり得たのではないかと思う。  

そういう遊離した、自分であって自分でないような感覚が、ナチスという野蛮だけれどもとにかく意味をもたらしてくれるシナリオないし物語を提供する主体に引き寄せられたのは当然といえば当然のことである。  

ここから、彼の主要な意識としてあったのは、このシナリオないし物語の価値内容は当然として、それらを創造する〈主体〉にあったのではないかと考えるのも一概に見当はずれとは言えないと思う。  

彼が次作『産業人の未来』で引き続きこの問題を取り上げて提示したのも、つまるところこのシナリオないし物語がきちんとした経験と伝統を踏まえ、かつ〈主体〉としての能動性を持ったものでなければならないとする意識がいかに強烈だったかを表している。  

これなくして、人間が自ら正気を維持し、覚醒した自我を継続させることは不可能だからだ。彼の思想の原点にあるのがナチズム体験であったというのはしばしば言われる。私もそれを否定するつもりはない。  

しかし、ナチズムという野蛮な全体主義が問題というのであれば、それに対抗する論理として自由主義、民主主義ではなかったのか。つまり、人権や代議制といったいわゆる人間の持つ私的な部分を強調しなかったのかということである。

 

反功利主義

彼の発言には、驚くほどに人間の私的権利や功利主義的な価値概念が登場しない。それどころか、スミス、マンデヴィル、ベンサムからミルにいたるまで、英国古典派における功利主義思想家たちはおしなべて冷淡な扱いしか受けていないように思われる。  

このことは裏返せば、人間社会は単にその発生から維持発展にいたるまで、政治的に公共性を本質とするものであり、さらにはそのようなものであらねばならないとする思想的基調の現れではないかとも思うのである。  

恐らくこのことは、彼が経済・経営学者としてでなく、政治学者としての強烈な自意識を持って活動を開始した事実とも符合するのだが、彼が自己の中心命題に据えたのは、人間存在が本来的に持つ政治性にあったのではないかと考えられる。  

例えば、他の論者で言えば、彼が自ら影響を受けたとする人々、バーク、シュタール、シュンペーター、コモンズ、ヴェブレンなども、こうした公共性への一定の射程を分析枠組みとして持っている。  

恐らく、戦後日本もそうだと思うが、全体主義の凶悪な悪魔を見た社会に共通するのは、過度に民衆を政治化させないことへの配慮である。特に一九五〇年代のアメリカではその流れが強かったし、そこから大衆社会論や高度消費社会といった多様な社会論が展開されるにいたった。  

つまり、それらが有効に機能し得たのは、消費という非政治領域による活動が、全体主義やマルクス主義への防波堤となり、政治や公共空間への意識を持たないことでかえって社会の安定がもたらされたという背景があった。  

彼が『産業人の未来』や『企業とは何か』で行った分析のポイントは、一言で言えば、人間の主体性および社会の公共性の復権にあったのだと思う。  

そのような議論では、「リベラル」は相当に手強い仮想敵として扱われているわけで、その背景としては、自由主義や民主主義が名実ともに公共空間の創成に寄与しないという認識があったのではないだろうか。  

彼が「アメリカが戦争に勝つ日は、馬を替える日に過ぎない」といっているのは象徴的だが、全体主義の悪魔に打ち勝ったところで、さらに大きな課題としての〈主体〉と公共性の復権を実現したことにはならないことが明らかだったのであろう。

彼のリベラルへの不信感は、彼が戦間期のワイマール体制を間近に見た経験にもよっているかもしれない。そのなかで常軌を逸するほどまでに国家社会が政治化され、リベラル・デモクラシーへの流れが加速される状況に特有の雰囲気があったのであろう。この雰囲気は、当時を生きた思想家たちがつとに指摘するところだが、シモーヌ・ヴェイユやハンナ・アレント、シュテファン・ツヴァイクなども、この時代に共通の憂鬱な気分を見出している。

そして、彼自身もそうだった。当時のウィーンは文明の中心地としての輝きをかろうじてとどめていた。第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国は六世紀に渡る歴史を終え、崩壊した。一九世紀の後半にはオーストリア・ハンガリー帝国の名の下に、最後の栄光の時代を築き上げていた。  

ドラッカーが生まれ育った首都ウィーンはヨーロッパの文化の中心地であった。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、ウィーンでは学問、芸術等の多様な領域において、きわめて稀有な才能持ち主たちがその独自の活動を行っていた。そのような高度に知的な文化風土を持つ一方で、ウィーンは「神経症的」な様相をも呈していた。  

後に彼が振り返るように、当時のウィーンは幼年期および少年期という多感な時代を過ごす彼にあって、必ずしも居心地のいい環境を提供しなかった。  

そして、戦後の大衆社会や組織優位の社会の原型はほぼこの第一次大戦後には出揃っていたのであり、これらの憂鬱で退屈な大衆信条を政治的に公共空間に収斂させるだけの方向づけが必要と彼は考えていたのかもしれない。  

ゆえに、彼の生きた時代背景からも、民心を政治的に生産的たらしめる方法論の存在が喫緊の課題となっていたのであり、さらには彼の議論の前提条件であったともいえる。マネジメントとは、その意味で、彼にとってきわめて命がけの対抗案であったはずなのである。  

それでは彼の社会における基本的理念とはどのようなものであったのか。そこで注目すべきなのが、社会の一般理論としていわれる「位置付け」と「役割」である。いずれも公共空間を維持発展させるための条件としてこの二つが指摘されている。  

これらは実存としての人間を媒介とした相互的な行為であり、さらにそうした行為が個人の特性、彼流に言えば強みを最大化させ、人生に意味を与えるというとらえ方がなされる。  

しかし、それが表出され機能するには、公的な空間がなければならず、またそのような空間に自律的な秩序をもたらすものでなければならない。そして、人間を媒介とした公的空間における相互行為は、個人の内面的規律によって秩序付けられるとともに、同時に公的な関心によって動機付けられなければならない。  

このような方向づけを通じて、私的な関心は公的関心に接続され、彼の言う「正統的」状態が現出することとなる。

 

社会哲学のキーワード

注意すべきなのは、彼の社会観の基底にある「公的」なものへの執念である。「キルケゴール論」においても、私的領域のみで真の実存は達成されないことが指摘されるように、私的領域とはそれ自体で社会に意味をもたらすものとはなりえない。  

換言すれば彼は、「最大多数の最大幸福」に代表されるいわゆる私的利益の最大化を価値基準とする行為観、すなわち功利主義的行為観によるアプローチを意図的に捨象する。  

上記は彼の保守主義とも関係しており、これが二つめの視点である。そもそも彼の思想に特徴的なのは、彼が左右の枠組みに容易に収まらない点にある。というのも、全体主義のみならずマルクス主義への激烈な批判、遡ればフランス革命のジャコバン主義への否定的評価、さらにはそれと好対照をなすアメリカ独立革命や明治維新への賛同は、かつての冷戦文脈では右翼的に見える。  

だが一方で、彼の経済政策や教育論を見る限りではきわめて急進的であり、事実ニューヨーク大学では左翼扱いを受けたこともあったという。  だが、特にアメリカ社会の文脈で見れば、彼は保守的といってよい議論を展開している。わけても社会を中心に据えた議論を行う点でこのことは際立っている。

彼自身が『産業人の未来』で「真の保守主義は真の革命主義に常に賛同する」と述べているように、「正気」の社会を維持発展させるという一点においては、驚くほどに急進的である。

そのなかで彼の思想の流れを子細に眺めてみると、政治的ないし公的次元で一本の縦糸の存在が看取される。それが彼自身によって「正統性」と表現される権威と秩序の観念であり、正統性こそが彼の社会哲学のキーワードとなる。

 

キェルケゴール

彼はハンブルグでの見習いのかたわら、多領域の文献をかたはしから読む習慣を身につけた。わけても、一九世紀の文学、歴史に関する書物を好んで読破したという。  

また、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語といった外国の文献も彼の関心の俎上に上った。この経験のなかから、彼はデンマークのキリスト教思想家であり、彼の人間観に消し去ることのできない影響を生涯及ぼしたゾーレン・キルケゴール(Soren Kierkegaard)の書物と出会うこととなった。  

その意味では、「キェルケゴール論」が、むしろ彼にとって重要な含意を持つものであることは明らかである。ここでより根本から彼の執筆動機というものを考えてみると、やや一般に考えられるものとは違う原風景が浮かび上がってくる。  

まず、彼はキェルケゴールによるキリスト教的実存哲学の影響を強く受けており、かなり忠実にその人間観を受け継いでいる。現実的な企業のマネジメントを語るに際しても、そのような人間観は強く彼の思考法を規定する節がある。彼自身、「キェルケゴール論」において、人間が真の実存たるための条件をきわめて現実的に捉えている。  そうしたなかで、彼は反形而上学的思考、言い換えれば、ノミナリズム、個物主義的なものの考え方を自らのものとしていた。ただし、それは彼のみならず、二〇世紀の思想運動はこのような流れを形成していた。そのように見るならば、彼の思考様式は高度に反哲学的ともいえる側面を持つ。

私的領域を公的領域に昇華させる領域として彼が強調するのは、共同体機能である。彼がしばしば「企業を共同体として機能させよ」とするのも、この政治的文脈から理解可能である。

この点を捉えれば、彼の政治観・社会観はきわめてコミュニタリアン的色彩をも併せ持つ。だが、ここでいうコミュニティも他方で定型的な規範によって規定された概念であるのかというとそうではない。

むしろ、彼にあってコミュニティでさえ、産業社会の動態的変化にともない、ある意味で偶然性をも包含する否定形的な概念として捉えられることが特色としてあると思う。  しかし、位置付け、役割、コミュニティが非定型性をはらむ概念として再解釈されたからといって、それがいかなる形でもいいのかというとそうでもない。  やはりここでも、それらに意味を付与する公共空間、つまり彼のいう正統的秩序の存在が前提であり、それを破壊するようなものはまずいということになる。

 

卓越志向

社会の基盤を支える機能的な概念である位置付け、役割といったものが、公共性とどう折り合いを付けるのかということが最も重要な課題となってくる。  

その意味では、彼の知的ベースとなる社会論およびその実践的適用手法としてのマネジメントは、私的な個人と公共的な共同性との微妙なバランスをいかにしてはかるかに一貫して関わるものといえるかもしれない。  

いわば、個人主義的、卓越志向的、言い換えれば個の実存にかかわる観念全般と、それを可能とする公共空間の維持、あるいはコミュニティ的判断力や共通感覚といった要素をいかにして可能にするかが、問題であった。この点はマネジメントを社会哲学的に解釈していく限り問題となる部分であろう。  

そしてここに彼の体系の解釈という問題を超えた、より大きな問題枠組みというものも同時に見出される。それが『ランドマークス・オブ・トゥモロウ』(一九五七年)で表出されたポスト・モダンに関わる先駆的な時代認識である。ここで彼は自らの確信を次のように述べている。

「われわれはいつの間にか、モダン(近代合理主義)と呼ばれる時代から、名もない新しい時代へと移行した。われわれの世界観は変わった。われわれは新たな知覚を獲得し、それによって新たな能力を得た。新たな機会が拡がり、それとともに新たな挑戦とリスクを目の前にした。われわれはわれわれ自身が拠り所とすべきものまで手に入れた。  

昨日までモダンと呼ばれ、最新のものとされてきた世界観、問題意識、拠り所が、いずれも意味をなさなくなった。今日にいたるも、モダンは政治から科学にいたる諸々のものに言葉を与え続けている。しかし、政治、理念、心情、理論にかかわるモダンのスローガンは、もはや対立の種とはなっても行動のための紐帯とはなりえない。  

われわれの行動自体すでにモダンではなく、ポスト・モダン(脱・近代合理主義)の現実によって評価されるにいたっている。にもかかわらず、われわれはこの新しい現実についての理論、コンセプト、スローガン、知識を持ち合わせていない。」

 

普遍は存在するか

ドラッカーの思想体系は、近代そのものの歴史的な意味を問うものである。二〇世紀は近代合理主義の繁栄によって特徴付けられる。しかし、同時にその繁栄の背後には近代への懐疑の意識が同時並行的に胚胎していた事実を見逃すことはできない。  

現代、われわれをとらえるポスト・モダンの観念自体が近代に対する否定的含意を持って語られ、またそこに通底する意識は、近代の限界や新たな社会変化への予兆に根ざしていた。  

しかし、こうした近代への懐疑と終末の意識は、西欧だけが経験してきたものではない。第二次世界大戦を経て、一九六〇年代のアメリカで、近代の終末に関わる社会思考を突き動かしていたのも、同様に近代の終末に対する意識だった。  

むろん、このような状況のなかでドラッカーの社会哲学を採り上げることは、ポスト・モダンという問題意識に立った解釈の可能性としてありうるものである。  

しかし、ドラッカーの原点であるファシズム体制下における経験や認識に見られる、激烈なイデオロギー対立に揺れる政治状況に抗いつつ、総合的な思考と知覚によって自由の行方に思いを馳せてきたドラッカーの立場を一義的に位置付けるものではない。  

少なくとも、彼が現代の診断に深くコミットし、かつ社会の再建に臨もうとしたとき、そこにはさらに積極的な意味合いを持つ時代認識があった。  

これは筆者なりに要約すれば、普遍概念というものが今持って成立しうるのかという人間意識全般に関わる問題である。これが全体主義をくぐり抜けた彼の実感でもあったのだろうと思う。 彼の思想の根底には、もはや近代合理主義の自己確信が維持しえないとの認識から出発した強烈な時代意識がある。  

そして、このような意識は彼のみならず、世紀の転換期からワイマール期にかけて登場する多くの社会思想を貫く時代認識でもあった。そのような歩みのうちに時代から受け取っていた彼の課題と問題意識を捉えていくとき、彼が歴史認識を足場に、対立的なイデオロギー状況に対してどのようにして展望を開いていったかが浮かび上がってくる。

 

社会思想のアポリア

われわれがこうしたドラッカーの思考の過程をたどっていくとき、どれが単にドラッカーの方法論の形成に関わる問題としてだけではなく、時代の争点にきわめてアクチュアルに関わった論争性を持つ主題であったことに気づかざるをえない。  

そしてこのことこそがドラッカーの思考の本質に関わる特質であると考えてよいだろう。 そこで、全体主義、計画主義は悪魔であるとの認識が持たれたのも事実だが、それを強力に洗練する議論を彼はあえて行わなかった。  

なぜなら、普遍化とは言い換えれば概念の一般化であり、それを行えば結果として批判対象に絡め取られることになる。概念化自体がモダンとの比較で危ういものとなる。  

こうした近代主義の文脈からすれば、体系化を本能的に拒否する彼の先見性が一種の弱点のような現れ方をしてしまうのも事実であろう。 

上記の問題は、一人ドラッカーのみならず、二〇世紀から現代にいたる社会思想のアポリアでもある。  

彼の議論を解釈するに際しても、個と全体、あるいは個と共同体、全体との関係で、彼がどのように認識していたかということが重要になる。そこでは、彼の中に、いくつかの価値尺度のようなものがある。 キェルケゴール的実存主義的モメント、テニエス的共同主義的モメント、バーク的保守主義的モメントである。

彼の議論にはきわめて個別具体的なものへの関心が底流をなすのは事実なのだが、それとは裏腹にやはり「普遍的な」共同性への希求が見え隠れもする。  

わけてもマネジメントの機能が十全に発揮されるためには、すべてが異質で私的なものの集まりでは望み得ないものとなる。ゆえに、この人間間に「共通する何か」への視線が重要となる。  

彼の政治観にもきわめて濃厚に表れるものである。彼の連邦制への評価などを考えあわせれば、歴史的・実定的な法律や制度のみに政治的関係性を閉じこめることを極度に嫌っていた節がある。  

政治とは国家や法律のみに特有の現象ではなく、いわば公共性を創出するあらゆる存在に共通する〈機能〉であるとするのが、マネジメント構築の背後にもあった。  

だが、その公共性への希求も一枚岩ではない。他方でアリストテレス的な、歴史的、社会的な特殊性に基礎を置くのもマネジメントの特徴である。アリストテレスは人間が本質的にポリス的動物であることを認めるとともに、国(ポリス)は一つになることがあまりに進み過ぎればもはや国でなくなり、それは国が本性上多数性を持つものとしている。  

彼のなかには経験による共通的な知覚をベースとした議論が実に多く出てくるし、『現代の経営』で引く事例もほぼすべてそのような含意を持つものと考えてよい。

 

公共空間の創造と破壊

この共通感覚には、原則論の応用という意味では普遍主義的な側面を持つ一方で、その普遍性は具体的な企業の意思決定や戦略策定といった場面で具現化される性質のものである。  

その意味では、単に普遍性が数量的に拡張されていくような無機的かつ平板なものとは捉えられてはおらず、一定の原則も個別具体的な共同体によってそれぞれに解釈適応されていくという面がある。これは言い換えれば「経験」という語に相当する知覚に基づく彼の洞察の源泉といえる。  

この普遍性と具体性という要素の確執がマネジメント体系のいたるところで噴出している。しかも、その上には政治集団内で起こるコンフリクトをどのように生産的たらしめるかという難問が待ち受けている。  

単にそれが普遍性を求めつつ個別具体的な問題や機会を探究するというだけでは、それが生産性に結びつくという保証はどこにもない。まして、正統的である保証などなおさらない。

この共通感覚には、原則論の応用という意味では普遍主義的な側面を持つ一方で、その普遍性は具体的な企業の意思決定や戦略策定といった場面で具現化される性質のものである。  

その意味では、単に普遍性が数量的に拡張されていくような無機的かつ平板なものとは捉えられてはおらず、一定の原則も個別具体的な共同体によってそれぞれに解釈適応されていくという面がある。  

言い換えれば「経験」という語に相当する知覚に基づく彼の洞察の源泉といえる。この普遍性と具体性という要素の確執がマネジメント体系のいたるところで噴出している。  

しかも、その上には政治集団内で起こるコンフリクトをどのように生産的たらしめるかという難問が待ち受けている。単にそれが普遍性を求めつつ個別具体的な問題や機会を探究するというだけでは、それが生産性に結びつくという保証はどこにもない。まして、正統的である保証などなおさらない。  

この点について、確実に言えるのは、彼はコンセンサス志向でないということだけである。集団内の意見が調整されるのみで問題を解決したとは彼は考えていない。むしろ、コンセンサス以上に、卓越性や成果志向である。そこに焦点を当ててみていくならば、そもそも卓越性や成果を判定する基準はどこにあるのかという問題に突き当たる。

実は、ドラッカーはこの点について、多くを述べていない。しかし、彼の一連の議論から、それが生産性と正統性の双方をあくまでも変化を前提とした上で達成すべきと考えていたことはほぼ間違いない。

一例として、イノベーション論がある。イノベーションは、マネジメント同様に、活動や経験を思弁より優位に置く一連の体系とも考えられる。すなわち、具体的な活動が卓越性を尺度として、日常的な規範を打ち破り、経済社会に活気をもたらすとそこでは考えられた。  

この場合、集団や組織を一定の公共的側面を持つ存在とするならば、その約束事やルールを破壊する動因を内部に持つことによって、進化が可能になるとされる。  

そうすると、ここから導かれるのは、いわゆる公共空間や政治的共同体は、自己保存を至上命題としつつも、その至上命題を破壊し続けること(革新による継続)によってのみ、当初の命題は成就されるというきわめて逆説的な様相を露呈することとなる。  

もちろん、彼が想定した公的空間というのは、所与の存在としての共同体ではなかった。甘美な郷愁に満ちた共同体観は、彼の少年期の不安定な政情の影響もあろうが、相当に早い時期から捨て去られていた感がある。  

むしろ彼が想定する共同体とは、契約による共同体であって、その意味では理念や原理の自覚的な共有による、いわば未来を共有する者同士の絆を前提とするものであった。そこでは個の多様性や複数性を前提として、それらによる自発的な活動の「場」が模索されていた。

 

企業が公共的機能を果たす

彼がマネジメントを「社会的機関」というとき想像していたのは、恐らくこのような自律性を持つ空間ないし、場だったのではないだろうか。  

いずれにせよ、未来を共有する契約の場がある。そして、その場は必ずしも公益のみに裏打ちされた場ではなく、私的利益の伸張をはかる場でもある。  

しかし、場を構成する個人は、拡張する公共的精神の一部でもあるため、私的利益を追求しつつもその公共的精神は内面化されており、そこにおいて過度な競争や貪欲は抑制されることとなる。具体的にはその代表が企業であった。  

同時にその存立の原理が普遍性に対しても開かれていなければならない。彼が連邦制を支持したのもこのような空間に関する観念があったためだと思う。  

すなわち、私的利益が公共空間に向かって相互に抑制均衡を図りつつ無限に広がっていく構図である。そして、そのための仕組みが創造されるならば、いわゆる「私的悪徳が公共の善につながる」といった論理は否定される。  

その場合にも、個としての具体性を持つ者と、自発的に構成される公共性との間に、常に調和がはかられるという保証はなく、その契機が問題とされねばならない。  

理念や信条を共有するといえども、それも集団である以上は、私的利益同士の対立は頻発するし、個と個が絶えざる敵対関係に陥る事実に変わりはない。だが、彼のマネジメント論の組み立て方を見ると、解釈の使用によっては私的徒党に過ぎない企業体が公共的機能を果たしうることに少なくとも気づいていたことを示している。

彼自身が民主主義や自由主義に信を置かなかった事実は、それについて適切な代替案を示し得たかどうかはともかくとして、彼が企業の持つ公共的機能、あるいは秩序の形成機能に気づいていたことは確実といってよい。  

さらに、契約による、理念や信条を共有した個々の集団が、普遍性に対して開かれているということは、それらを成立させる原理が単一であるならば無意味なだけでなく有害となる。

連邦制への賛意はそれらのぎりぎりの合間を縫う彼の信念の表明ともいえるし、彼がマネジメントを「現代社会の信念の具現」というのもその現れにほかならない。彼の主要な関心たる公共性は、単一的な原理や理性による支配というきわめて抜きがたい誘惑に駆られがちな、微妙なバランスのもとに成立する性質のものであった。

むろん、彼における組織の観念は、未来を共有するのみならず、現在と過去をも共有するものである。であるならば、過去、現在の共有という連続性への自己同一化も同時にはかられねばならない。

すなわち、それらは過去における何らかの意図を継承し、その重みを意識しつつ創造されるものでなければならない。これを言い換えれば保守主義ということになる。

 

正気の社会を選び取ること

それらの営み全般のなかで、どこまでが保存や継承に値し、どこからが新たな革新の変わりに廃棄されるかというは一義的であるはずがなく、ここに彼の苦闘があったのではないか。  

『産業人の未来』で議論されることの多くも、この選択に関わるものであり、就床に近い部分では、それを適切に成し遂げられるか否かが政治家を一流と二流に分けると断言する。しかし、これを安直に実体的な意味での民族や国民国家といったもので充足されるかという問いが出てくるはずである。少なくとも彼の考えは「NO」であったと思う。同時に、何らかの自然的で無色透明な組織がそれに代わるかと言えばそれも違う。  

伝統的な共同体と比較してみれば明らかとなる。民族や国民国家、あるいは地域社会といったものは、ある種の運命による契機付けを経ていた。これはある意味で組織された記憶を共有する者としての共同体だが、彼の場合、それらを踏まえつつ、その来歴を自ら選び取り、解釈し直すことで「正気」を取り戻すというプロセスが重視される。いわば覚醒のプロセスを経ることとなる。そして、覚醒し、自覚的な責任とともに選択された部分を未来に投射することになる。

彼は「自由」の語を定義して、「選択を伴う責任」という。いわば、それらは単に自然的に継承されたものを責任とともに選択し直すという意識的過程を経る点で、伝統主義との決別をはかる。さらには、それを行いうるものが真の実存に値する者という論理構造を持つ。  

換言すれば、実存と自由を併せ持つ人間存在が、意識的に選び取った過去・現在・未来の共有が、彼の言う共同体ということができる。そして、その際のアイデンティティの所在として組織信条にまで昇華された理念が、正統性である。  

ここでは、自然的な過去、所与としてのアイデンティティ、言い換えれば運命といいうる得体の知れない観念が、自覚的に排除され、無批判な受容を拒否する思考へと結びついている。  

そこでのキーワードは、自律性である。ゆえに所与としての共同性ではなく、多様な個が創造していく公共性としての組織が強調され、そこでは同時に、集団そのものの自律性が個を圧倒するようなことは断固として拒否される。  

そのような論理構造を持つ彼の公共性における個について付言しておこう。彼の場合、自律的判断と責任による「自由」な個が、公的な理念や信条を創造する基盤となると先に述べた。だが、そこでの個とは、自らが引き受けるべき責任や公共精神を白紙の状態から自由に選べたり、あるいは勝手に廃棄するものとして捉えられるわけではない。  

その点は彼のリベラル批判とも明確に連続する部分なのだが、彼はそもそも理性というものにさほどの信頼を置かない。そこでは過去や伝統の重さや、バークの言う風雪を経た知恵というものが、きわめて重要な決定要因として取り入れられている。  

だが、そこでは、伝統との自覚的断絶を意味する革新と、共通感覚を支える歴史への自覚的依存との間には、かなり微妙な曖昧さというものがあるのは事実であろう。

さらに、先の正気の社会構築における彼の思惟を確認してみたい。「正気の社会」とはE. フロムの同名の書物から拝借したもので、彼が直接使用した言葉ではない。  

だが、彼は『「経済人」の終わり』のキェルケゴールやドストエフスキイらの実存主義哲学との関連で、正気という語を使用している。この問題を捉えるには、彼の実存主義に関わる見解をより深く引証する必要がある。  

彼は、公的次元における人間像を、私的領域の日常性に埋没する人間、すなわち平均的な自己、あるいは経済的役割に没頭する自己が本来的な自己(実存)に向かって立ち上がり、覚醒のプロセスを経ることで可能となるものと考えていた。  

彼は人間類型や社会的理念像をきわめて重視するアプローチをとる。その際、あえて定性的な人間像の分析からはじめて、社会における主要な価値意識を描出することで、あるべき社会の模索を行った。とするならば、覚醒した個人なくして覚醒した社会はなく、正気の個人なくして正気の社会はありえないこととなる。  

では、個における覚醒への内的動因とはいかなるものであろうか。キェルケゴールの表現を借りれば、それは実存的な不安ということになるだろう。彼が生きた二〇世紀初頭はLost Generationと呼ばれ、その憂鬱で退屈な時代的雰囲気のようなものが思想や文学にも現れている。  

そこでは、退屈感と余計者の感覚のような一種の気風が漂っている。それはニーチェがどこかで述べていたように、「人生とは何かを成し遂げるには短すぎるし、何もしないには長過ぎる」というデカダンスの時代でもあり、ニーチェや実存主義の流行は当時の深い退嬰感と深く結びついていた。

 

アウトサイダー性

そのような時代状況を考えると、彼の思考にもこのようなものが影を落としている気がしなくもない。他方で彼は「覚醒」についてもう一つの契機を示している。  

H. アレントがしばしば好んで使う「パーリア」性、つまり社会からの疎外である。それはユダヤ人をめぐる彼にとって唯一の議論といってよい『「経済人」の終わり』でしばしば言及されている。  

彼はユダヤ人を当時のヨーロッパでごく日常的、平均的な存在として社会に埋没したものと描きつつ、それでもなぜ彼らが迫害を受けたのかについての説明として、彼らがブルジョア社会の陰影を色濃く帯びた存在であったことにその理由が求められた。  

これは言い換えれば、アレントの描いた、通常のユダヤ人迫害の理由として挙げられる、社会から隔離された存在としてのユダヤ人像とは異なる。  

しかし、彼らが特定の時代を象徴する価値信条を刻印として帯びた存在と捉える点で、やはり彼にとってもそのマージナリティを無視し得ない議論展開となっていることを無視すべきではないだろう。  

このことは、W. ラテナウに向けられる彼の敬意にも深く通じるところがある。彼が少年だった一九二二年、ドイツ最大の電機メーカーの社主であり、同時にラッパロ条約締結の代表でもあった政治家ラテナウ暗殺の報がウィーン中に知らされた。彼はこのとき、深い絶望感を抱いたという。  

ラテナウはユダヤ人であり、国家による殺戮の最初の被害者となった人物でもあった。詳しくは記していないが、彼にとってラテナウは、自らのスティグマを引き受けて自覚的なアウトサイダーとして生きた人々への敬意と共感を象徴的に示す者と言ってよい。そこでも、逆境の中で「覚醒」しえた人物への共感が濃厚に示されている。

 

二一世紀「魔物退治」の物語

しかし、注意すべきは、実存的不安を契機としてであれ、マージナリティを契機としてであれ、「覚醒」の背景には、社会が一方的に押しつけてくる不条理と、自らの自律的活動や思考とが対立のダイナミズムとして立ち現れる点にあり、むしろ、彼の思考の前提にあるのは、そのような「不条理」への感覚だったのではないかということである。  

そして、両者の葛藤や闘争の中で、「共同性」の創出と実存の論理とが結びつくことになる。そして、そのような場合、彼自身が当時命がけで行った一連の言論活動から考えても、後者が優位にあると考えてよい。  

その意味で、彼はキェルケゴールの実存概念に忠実であった。いわば、自己と他者という本質的に相容れない者同士の緊張関係において、真の実存はあり得るとした。  

しかし、そうであるだけにその魅力や意義は危うさを持つものとなる。彼にとって反ナチズムへの解答は、自由主義や民主主義といった私的な領域に沈潜する非政治性のなかにはなかった。  

むしろ、そのような静態的な政治観は彼の本質にはない。反対に、人を強く政治化する議論であり、そこにおいて、私的空間と公共的空間をバランスさせる装置としてのマネジメントが意味を持つこととなった。

同時に基本的な観点として、権力(正統性)を抑圧するための議論ではなく、権力(正統性)を創出するための機関がマネジメントであった。その意味では、彼にとって現代社会の困難は、主体としての組織や個人の強さにあったわけではない。むしろ、組織や個人の弱さや主体性の欠如にあった。  

そのような認識は、現代経営学のみならず社会科学全般から見て、正道とは言い難い。むしろ異端的であり、ここがやや胡散臭く見られがちな理由なのかもしれない。  

しかし、二〇世紀の人間、世界全体が持つ不安や絶望、閉塞感が生み出すデカダンな負のエネルギー、あるいはデモーニッシュで鬱積したパワーの危うさ、さらには集団的なアイデンティティ追求の持つ危うさを正面から受けとめたとき、それらに代わる正統性や制度を生み出さなければならない。それが民主主義や自由主義でないならば何なのか。  

そうだとすれば、世界が本質的に人間の理性をはるかに超越して複雑で、はるかに危険なものである以上、その現実に立脚した議論をしていかなければならない。そして、それらの負のエネルギーですら、生産的で納得可能な方向性に近づけていかなければならない。  

彼によるマネジメントの論理は、このような問題意識からスタートした。むろん誰もが彼の「処方箋」に納得はしないだろうけれども、このような背後にある論理構造を理解し得たとき、彼の戦後の営みが意味と命を持ちみずみずしくほとばしる奔流のように迫ってくる。