技術史家として(メルヴィン・クランツバーグ)

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技術史家としてのドラッカー

メルヴィン・クランツバーグ

井坂康志訳

 

断絶―歴史家の禁避

新著『断絶の時代』を目にして、背筋に冷たいものが走った。というのも、「断絶」の語は歴史を研究する者にとって禁忌を意味した。何の前触れもなく歴史があらぬ方向に迷走するがごときニュアンスさえある。

そんななかで歴史家の役割は、まずは冷静沈着な思慮をもって、過去の出来事の整合性を説明し、因果を精密に腑分けするにあった。その使命は、まずもって何がいかにしていかなる原因で生起しえたかを見極めるにあった。その意味で、過去現在の断絶などは、とうてい手に余る代物だった。ドラッカーが生涯をかけて取り組んだものがそれだった。

『断絶の時代』はそんな私の予断を裏切らなかった。むしろ正確無比に断絶を描いて見せた。特定の構造を持つ流れが突如その均衡を破り形態を変える様を克明にとらえた。その尋常ならざる歴史への造詣の結果として、その変局を重く見た。変化を起点に根源をつかみとろうとした。他方、歴史家はといえば、そんな突発的な構造変化を後押しする諸力をおしなべて等閑に付した。

 

歴史と未来

むろん変化そのものが人間の予測能力を超越するものといえなくはない。だが歴史家の多くはそこに意識を向けることさえできなかった。考察対象としえなかった。一方で、ドラッカーはいかに多様な働きが突如変革を呼び起こしうるかに思いを寄せた。突然の破局が、実は虚心坦懐に見れば、過去からの必然と見た。

ドラッカーはいわゆる歴史家ではない。だがその敏捷な知性をもって、専門家さえ及びもつかぬ分析を世に問うてきた。挙げれば枚挙にいとまがない。歴史家はよほどのことがない限り過去の延長から事象を処理するのに慣れ過ぎている。変化への兆しはその手を容易にすり抜けてしまう。しかし、ドラッカーにあっては、とらわれなき目でありのままの現実を視野に収め、専門家が陥りがちなわなにはまることなく、かつ常識にとらわれず、変化の本質を手中に収める。そんなドラッカーが技術史に顕著な貢献をなしえたのもさして驚くべきではない。理由として第一にあげるべきは、技術というものの本質に関わるコンセプトを明らかに示したことがある。むろんそこには賛成しかねるとする技術史家もないではない。第二に、その歴史観は技術波及を底流に、組織、マネジメントを中心に考察された。技術を一つの作用として、視座を広げてくれた。第三に、技術変化と社会との相互作用、そしてそれにともなう諸相を整理した。第四に、現代の反技術的風潮に一石を投じた。技術とそれを受け入れる人間の側の価値観を同じ相のもとにとらえ直した。第五に、すぐれた歴史家がおしなべてそうであったように、過去を踏まえつつ卓抜な未来像を世に示した。予言者を彷彿とさせるものでさえあった。過去、現在、未来のつながりがそこにはあった。

 

技術とは何か

学術的語彙が未定義だった頃から、技術史についての明確な観念がドラッカーにはあった。頭角を現したのは『技術と文化』創刊号に寄せられた論文だった。同誌は国際学会として産声を上げた。ドラッカーによる技術の本質解明のプロセスは、今なお味読に値する。彼は言う。

「技術は物質以上のものである。人以外のあらゆる生物はその生存に全エネルギーを傾注する。人はその生物的限界を克服しつつ何物かを生み出す。この定義こそが、技術を物質世界に限定せざる新たなアプローチである。文化人類学などでも似た手法が使用された。技術は人を中心とする活動である。すなわち、技術とは仕事である。そのことはわけても技術史家にあって単なる語の定義を超える意味合いを持つ。技術進歩は仕事とのかかわりにおいて討究されてはじめて真の意味を獲得する。」

あらゆる技術史家がかみしめるべき文章と言うべきである。だがそれにしても、技術史家はそんな素朴かつ平明な真理を意識することなく、むしろ技術を単に道具や機械、技能、製品以上のものと見なす機縁に乏しかった。ドラッカーのように仕事との関係でとらえる技術観なくして、その人間社会における意味を理解することはできない。専門家たちが目を背けたのは、そんな基本的な事実だった。

 

技術と仕事

そのような技術観からは他にも見るべきところがある。道具と仕事を架橋する存在としての技術観である。技術とはつまるところ一つのシステムであり、そのようなものとして理解されなければならないとする。そのような技術観がゲシュタルト心理学の影響を受けているのは明らかである。人間の思想や行動は、パターンや形態によって理解可能なものとされる。システムやゲシュタルトを援用し、彼は人間活動や企業組織の理解に努めた。

道具と仕事の関係を狭く限定することはなかった。それらはシステムとしての技術の一部をなすものとして、全体として統覚されるべきものだった。技術はパターンと形態の観点から全体と部分をそれぞれ考究対象とせざるをえないものとした。そのような見方は次の一文からも明らかである。

「技術は自然のものではなく人のものである。道具についてのものではなく、人がいかに働くかについてのものである。」

従来はある種の技術決定論が抜きがたくあった。技術史家は社会や制度などにあって技術優位の決定論に与してきた。他方でドラッカーは経済学者と組むことはなかった。経済学にあっては、その古典的モデルが現実のあまりの複雑怪奇さへの併呑を拒否し、技術を動的なものとはせず、変わらざるものとした。ドラッカーは技術変化を虚心坦懐に受け入れ、それがかえって同時代人と異なる現実的な解釈を可能とした。

 

技術を具現化するもの

だが、彼は技術決定論に与することはなかった。社会が技術に働きかけつつ、技術もまた社会に働きかける、そのようなものと考えた。その相互作用に意味があった。その点が技術史へのもう一つの貢献と言える。ドラッカーによって書かれたものに技術は社会的イノベーションによらずして成立しえないとの見解が随処に見られる。技術というものを流通、組織、マネジメント等のシステムの一部をなすものとした。社会と技術の相互の関係性なくして成立しえぬものだった。その技術観が最も明瞭に現れるのは、仕事と組織である。彼は言う。「技術を変えたものとは、さほど知られたものではないながらも、その仕事と組織との関係だった。言い換えるならば、仕事と組織とは、人固有のものとして、意識的進化の主たる手段だった。組織が人にとって重要な手段だった。われわれが仕事上の組織に目を向けたのは、ここ数十年に過ぎない。しかし、すでにわれわれは、仕事、手段、組織の間に成立する切っても切れない関係を知っている。」

そのような見解は当然にも思われる。だが、ドラッカー自身明瞭に言うように、そのような事実というものは、技術史家の精神に深く根を下ろしたとはいいがたい。技術史家はあまりに機械や道具、技能といったものにとらわれ、それらの持つ意味を見過ごす。そのような要因も、つまるところ意識的かつ組織的な仕事に具現化されなければ意味を持ちえない。

組織の持つ意義はドラッカー著作の核をなす。経済的組織、そして技術にあってもその中心をなす。

 

技術の機能

ドラッカーは技術の体系的理解をかほどに重く見た。それも、欧米間のマネジメント上の断裂に端を発していた。アメリカが技術的リーダーシップを手にするがために莫大な研究開発投資を行うとの俗説に疑問を投げかけたのは間違っていなかった。実際のところ、投入資金は雇用維持を目途としたものが大半だったし、民生への影響も微々たるものというのが彼の指摘だった。

発明の多寡に発展の原因を求めるならば、欧州がアメリカと同程度の地位を占めるのは容易なはずだった。だが欧州没落の原因とはそのようなところにはなく、むしろ研究を製品に転化できず、ひいては新たな市場を創造できなかったためであるとした。

そのことはドラッカーが技術のイノベーションを軽視したことを意味するだろうか。むろん違う。反対に技術イノベーションの意義を高く評価した。そのための思索を惜しまなかった。

ドラッカーにとって、イノベーションは、製品にとどまらなかった。「イノベーションは技術を変え、新たな秩序への機会をもたらす。技術と直接関係のないイノベーションであってさえ、経済社会はそれによって新たな力を手にする」(『変貌する産業社会』)。

 

体系的活動としてのイノベーション

有史以来イノベーションは存在し続けてきた。だが今日にあってのイノベーションとはどのようなものか。ドラッカーはその技術・社会の観点から、イノベーションが体系化可能であることを指摘した。同時に、技術・社会それぞれの特性の相違への目配りをも怠らなかった。

技術のイノベーションとは、「自然の新たな側面を理解し、コントロールし、創造する新たな能力」によるものだった。他方、社会のイノベーションとは、社会の側に存するニーズや機会を見極め、それらを満たしうるコンセプトや制度を生み出すことにかかわる。

だがいずれにせよイノベーションが新たな能力の獲得を意味するのは変わらない。イノベーションは技術上の境界を消滅させる。現在人は物質文明の基礎たる資源を目的的に動員しうるようになった。技術のイノベーションを体系的に行えるようになった。それによって、既存の資源の束縛を脱し、反対に人間・社会側の目的から環境を形成しうるようになった。かつて人は天才のひらめきに頼ってきた。ひらめきは偶発的に生起し、革新をもたらした。そこから生まれた革新は、効果と効率をもたらした。大きなものにいたっては、不可能だったことを可能にさえした。一八世紀から一九世紀にかけての巨大な技術革新でもなお、体系的活動とはいいがたいものだった。現在、人はイノベーションを体系的な活動としつつある。人類史上でも初めてのことである。

 

現代技術の成り立ち

では、ノベーション活動の体系化はいかにして可能となったのか。二〇世紀にあって、技術の構造、方法、視野が変化したためだった。第一に、技術の成り立ちに変化が見られるようになった。仕事に関わる技術は高度に専門化し、同時に組織によって担われるようになった。第二に、イノベーションの観念に関わる方法論上の変化が見られるようになった。研究活動が体系的に行われるようになった。同時に、科学と技術の関係が変わった。第三に技術を一つのシステムとする考え方が適用されるようになった。それらのいずれもが、技術を一つの体系へと転換する強力な傾向性に裏打ちされていた。

二〇世紀に入り、イノベーションは技術に関わる仕事の中心を占めるようになった。イノベーションの出現によって、技術は経済、社会、教育、軍事に変化をもたらす動因となった。「技術の持つ力は格段に増大した。技術に関する仕事はもはや技術そのものによるよりも、経済、社会、軍事など技術と直接の関わりを持つことのない目的に供せられるようになった」(『断絶の時代』)。

イノベーションの本質とその力に目を向けるならば、新技術を科学的発見の単なる延長上に置くがごとき近年まことしやかに言われる考えをドラッカーは退けている。「イノベーションは新たな知識というよりも、新たな認識である。

既存のありふれたものの新たな組合わせである」(『断絶の時代』)。彼は今日の新知識が「かつてないほど急速に技術に置き換えられつつある」との考えにも与することはなかった。むしろ、逆だった。「知識と技術の間のリードタイムは、今日では三〇年から四〇年である。そのうえ、技術を採算のとれる製品や生産プロセスに発展させるために必要なリードタイムも長くなっている。短くなったものは、製品や生産プロセスの導入から普及までの時間である」(『断絶の時代』)。

 

新技術は新市場を必要とする

新たな技術の出現はその実地適用を保証するものではないというのがドラッカーの考えだった。広告業界の人なら、ねずみ取りが高品質だからといって常によく売れるわけでないことは誰でも知っている。世の中が先にそのねずみ取りに気づいてくれなければならない。

そこでもドラッカーは先を行っていた。ある意味では、マーケティングがねずみ取りを創造するのだとした。原因と結果を取り違えているように見えなくもない。「新技術は新市場を必要とする。しかしそれがいかなる市場となるかは、実際に需要が生まれるまでは見当もつかない」とドラッカーは述べた。新技術への見方は次の文章にもよく表れている。「可能性を顕在化させるものがマーケティングである。マーケティングによるイノベーションである。市場を理解することは、いかなる技術を開発すべきかを知るうえでも必要である。

顧客が新たな可能性、欲求、満足を得るために新たな何かを欲するようになるには、マーケティングのイノベーションがなされなければならない」(『断絶の時代』)。

このように技術と市場を相補的な組み合わせとしたところからも、ドラッカーがいかにゲシュタルト心理学の忠実な学徒であったかがわかる。いかなる部分もそれ自体では存在しえない。イノベーションが起こるときは、全体と部分をともに視野に入れなければならない。実際、ドラッカーはイノベーションへの視野を広げてくれた。

他方、彼はイノベーションの基礎となる発明にはさしたる関心を持たなかった。あるいは発明に伴う新たなアイデア、プロセスといったものほぼ一顧だにしなかった。同時にその技術的課題にあえてふれることがなかった。

 

知識経済と技術

ドラッカーは原案創造のごとき真の発明のプロセスに風変わりな解釈を施した。その新たな要因が知識経済である。第二次世界大戦までアメリカは物中心の経済だった。だが、現在にあって知識中心になったとするのがドラッカーの言ったことだった。

しかし現在でもなお、経済学では知識産業はサービス業の一領域である。ドラッカーは知識について次のように述べる。

「新産業は、知識が中心的な資源になったという新しい現実をそのまま反映する。新産業は、先進国の武器たる知識労働者を必要とする。知識労働者による知識産業である。今日の先進国では、知識が中心的なコストとなり、投資先となり、生産物となり、生計の資となった」(『断絶の時代』)。

ところで知識経済は技術とどのような関係を持つか。「いわゆる知識人にとっての知識は、知識経済や知識労働における知識と大きく異なる。彼らにとって知識とは、本に書かれていることである。しかし、本にあるだけでは、たんなるデータではないにしろ、情報にすぎない。情報は、何かを行うことのために使われてはじめて知識となる。知識とは、電気や通貨に似て、機能するときにはじめて存在するという、一種のエネルギーである」(『断絶の時代』)。

ドラッカーは技術進歩に欠かせぬ要因として組織労働の存在をあげた。知識経済は「道具の仕事への応用という形で技術史に位置づけられる」性質のものだった(『断絶の時代』)。知識がいつ生まれたかは無関係だった。大事なのは応用可能かだった。

ドラッカーは技術史の記述にあたり、知識労働への体系的応用とともに、源を一八世紀から一九世紀初頭イギリスの工具製作者や職人に見出している。ジョゼフ・ウィットワースなど機械労働の体系化や知識を手段として体系化した人々がその系譜に属する。端的に言えばそれらは一種の工学である。仕事における方法論上の体系化である。

 

汗より知識

「農業機械とマネジメントの手法を手に、史上かつて一度も存在したことのないもの、すなわち余剰農産物なるものまで生み出した。こうして農業の発展は、われわれが目を見張っているいかなる技術的なイノベーションをも越える変化を、人類の文化、社会、経済に与えた」(『断絶の時代』)。

一九世紀半ばに行われた米国大学への土地払い下げが知識経済の発展に新たな局面をもたらした。農業を行動から体系に変えた。さらに、重要なものとしてフレデリック・テイラーの科学的管理法があった。一九世紀最後の一〇年にもたらされた革新的体系だった。それまで人は経済的余剰を創出するのに、超過労働と勤勉以外に知ることがなかった。テイラーは肉体労働を体系的に分析し、一定の方法を用いる時、生産量を爆発的に増加させうることを見出した。汗より知識が主役となった。

ドラッカーの言う知識の技術への応用は、しばしば言われる技術の機器や過程、製品への単純な応用と必ずしも同じではない。実際、ドラッカーはそのような見解に与することはなかった。一七五〇年から一八五七年の間に農業技術、機器、医療は革命的転換を遂げた。しかしそのプロセスは「必ずしも当時の科学的知識に端を発するものではなかった。あらゆる技術にあって、相変わらず経験則に頼っており、その方法は科学とはとうていいいえぬものだった」。

ドラッカーは技術が科学に優位するとさえ言う。科学が技術に対し相補的関係にあったというよりも、技術が科学に対して相補的関係にあったとした。技術やがて体系に転換され、科学はその実地適用の新たな体系として再創造されることとなった。

 

担い手の変化

アメリカを企業社会とするのは歴史的にも常識の範疇に属する。そのような見解はアメリカの企業コンサルタントにも共有されている。だが、ドラッカーが企業社会への変化に見出したものとは、社会における重心の変化でもあった。企業が社会の表舞台に登場したのは一世紀も前の昔である。ドラッカーは言う。「現代の主たる機関が大学なのは明らかである。しかも技術との関係でそうなのも明らかである。知識とその適用が大学の主機能である。」現代社会にあって知識が中心を占めるようになったとするドラッカーの見解に異を唱える者はない。だが、他方で知識経済での大学の役割についてはややポイントを外してもいる。上記の引用には、大学が実質的な知識創造機関の代表格とする前提が垣間見られる。

しかし、産業上の研究機関などもまた科学技術の培養源として重要な機能を担う以上は、大学のみを知識機関とする想定は成立しえなくなっている。むしろ大学は研究を独占しうるものとはなりえなくなっている。近年基礎研究の予算は大幅に減額されつつあり、大学や公的研究機関は社会における唯一の教育研究を担う組織とはもはやいえない。

同時に企業や私立学校などでなされる教育研修の充実ぶりに目を転ずれば、公教育が社会の側に存する知的ニーズに十全に応え切れていないのはもはや明らかである。現代われわれが目撃するものとは、教育あるいは知識に伴う責任の公共から民間、さらにはその混合形態への移行である。

 

発明の虚像

むろんそのような変化があるからといって、ドラッカーの知識にまつわる言説の価値が減ずるわけではない。単に知識創造の担い手が、ドラッカーが比較的重視した大学という伝統的な機関から新たな組織に変化したといいうるのみである。とはいえ、ドラッカーは実践知主導の教育研究機関を判断するのには、やや見方を誤った可能性は否定できない。企業が大規模に展開する研究開発を仔細に観察した結果、従来と異次元で見逃すことのできないイノベーションが進行すると彼は述べた。そこで彼は巨大な発明というものにそれまで持たれがちだった、屋根裏部屋で実験器具をいじる変人のごとき戯画的観念を覆した。

そんな発明家像は神話だった。ねつ造されたものだった。それが一掃された。トランジスタやナイロンなど技術革新の影響力があまりにも巨大だったために、大研究機関は小規模のそれに比してイノベーティブでないと即断されてきた。現代の大企業は、研究開発機能拡充のために中小企業買収を活発化させる。特に関心が持たれるのは人である。買収にあたっては、創造的かつ革新的な企業風土の温存が事前に確約されるのがめずらしくはない。新たな何かを創造するのは、いまだ個の資質によると考えられている。

だがイノベーションの実態を組織的活動に求めたドラッカーの指摘は誤りではなかった。それはイノベーションそのもののプロセスに関するものというよりも、そこから生み出される価値についての説明として正しい。大研究機関の研究室でなされる開発は、確かに規模が革新や創造を窒息させる可能性はある。ドラッカーはそのようなものがイノベーションを促進させることはないとした。だが、イノベーションの最適条件に彼はさほどの関心は示さなかった。

 

機械化と知識労働

彼のいたらなかった点を多少なりとも勘案したところで、貢献はいささかも損なわれることにはならない。彼にあっては、産業分析にまさるとも劣らず農業の持つ意義にも意識が及んでいた。

今日の農業は技術的にも進んだ地位にある。ロシアを除く先進国では高度に産業化されている。ドラッカーはそこで農業生産物の持つ意義を強調する。知識及び技術の応用において顕著だったためである。ドラッカーは農業の持つ意義からさらにはオートメーションへも意識を向けた。第二次大戦時の著書『産業人の未来』で次のように述べている。「近代産業における最大のイノベーションは、物の見方、すなわち働く人間を自動化され標準化された機械として見たことにある。」

その一〇年後、オートメーションの発展に伴う、生産活動に携わる労働者の役割の変化をドラッカーは見て取った。機械化もまた同様だった。機械化はその労務的影響ゆえに初期ドラッカーにとっての懸念材料だった。「機械による人間労働の代替」とも見られる他方で「オートメーションは本質要因ではない」ともされていた。

オートメーションは、生産そのものよりも企業活動に力を持つものとドラッカーは考えていた。従来の生産システムでは、景気循環リスクは生産活動が吸収せざるをえなかった。不景気になれば企業は生産活動を減少させ、逆に好景気になれば活発化させた。しかしオートメーションは一定様式での長期継続的生産を不可避とする。そのために、予測可能な安定拡大市場の存在が不可欠だった。

オートメーションが機械による人間活動の代替機能を持つのは確かながら、それ以上の意味をドラッカーは見出していた。彼はオートメーションを広く解釈した。特に関心を寄せたのが、労働者の資質や役割の問題だった。そこで何よりも特筆されるべきは、知識産業の意味を適確に洞察した点である。

彼は言う。「オートメーションには実に多数の教育訓練された労働者を必要とする。何より必要なのはその質であって、高い教育を持つ者である。教育の最たるものはマネジメントである。」

ところで、ドラッカーはオートメーション生産に伴う知識条件については、後に考えを改めたようにも見られる。近著『断絶の時代』では、新たな労働に要求されるものとは技能ではなく、高度な教育を持つ者であるとしている。換言すれば、工場労働の教育プログラムさえ、技術より社会的に養われるものとなった。

他方でそのことはイノベーティブなエンジニアやマネジャーが手にすべき知識が増大し、そして生産プロセスの底辺層が少ない知識で済むことをも意味する。だが残念ながらというべきか、ドラッカーはそこまで踏み込まなかった。

オートメーション時代にあってあらゆる労働者はその持てる技能を新たなものとし続けなければならないとする論争的なテーマに対し、あえて異を唱えなかったのみである。

 

技術の評価

ドラッカーによる技術作用の解釈には若干の混乱がないではない。特に経済学についてその傾向が顕著である。技術変化と世界観の変化を述べた後、彼は次のような議論に逆戻りしてしまう。

「技術変化は、経済的な事象である。そもそもそれらの目的が経済である。技術変化は、経済資源の使い方の変化、配分の変化となってあらわれる。目的や意義は経済にある。技術変化は、土地、労働力、資金の生産性を規定する。経済学がこのように重要なことを対象外としてきたことは、あたかも数学が、数字を対象外としてきたに等しい」(『断絶の時代』)。

確かに経済学が技術変化を適切に扱いかねるとする見解は間違いではない。だが他方で、彼の語彙によれば、技術を単なる経済事象と見なし、その評価を目的と成果に沿う形でしか評価しないのはいただけない。もしそのようにしか技術が評価できないとすれば、ほとんどの高度な技術は失格ということになってしまう。技術がその所有者への便益のみで価値評価されるならばなおさらといえる。むしろ、そのような技術は社会的な価値尺度を用いることによって適切に評価されうるものである。

 

定量と定性

事実ドラッカーの所説を見ると、自ら力説した技術革新の経済的機能にあってさえ若干の混乱が見られる。「経済学の用語によって説明し、経済分析によって予測するという意味では、経済学は技術変化の理論を確立することはできないかもしれない。技術変化においては、観念的にも経験的にも、非経済的な要因が際立って重要な役割をはたすからである」(『断絶の時代』)。

むしろそのために技術を利害得失の観点からしか捉えない近年の風潮を多少は大目に見るべきなのである。ドラッカーの主眼は、技術革新の持つ力は経済の領域をはるかに超越するとするところにあった。ドラッカーが言いたかったのはそこだった。どうひいき目に見ても、定量データによってあらゆる社会現象が説明し尽くされることはない。反対に、産業上の技術革新は定量化されえない変化を持って人間社会を変えてしまうものである。

そこに気づきえたからこそ、彼は現代産業や社会における連続性と断絶性を鋭敏にキャッチしえた。経済学者や技術史家とも異なる観点を獲得することができた。

 

技術と社会の変化

現代の社会思想家で技術の持つ意味を知らない者はない。ドラッカーは言う。

「技術が今日にあっての人間の知覚と経験の中核を占める。」人間や世界全体に動態的に働きかけるのが技術である。社会制度を根底から再編する。女性の役割、仕事、教育、軍事、自然環境から人工物まで、いっさいの環境を変えてしまう。非西洋社会の制度文物までをも再構築する。

他の思想家と異なり、ドラッカーは自明の理を述べたのみではなかった。いかにして、なぜ、そのような状況が出来したのかにまで踏み込んだ。たとえば、都市環境の変化を観察した上で、今世紀初頭にあって、大半が農村に居住し、自然依存の生活形態をとったことをまず指摘する。当時にあって主たる脅威は自然災害だった。他方今日、少なからざる割合は都市部に居住し、技術依存も高まっている。今日の脅威は技術の破綻である。都市化とは経済社会における発展を測るうえでの指標ともなりうる。大都市は近代技術の創造物であると同時に近代技術の中核をなすものとドラッカーは見た。

 

技術、産業、都市

機械化の進展に伴い、大規模な集産が可能となった。資材や建築技術の向上によって、人口は急激に膨張し膨大な量の流通も可能となった。現代のコミュニケーション技術が都市を神経中枢の地位にまで押し上げた。社会そのものが技術の全面的な影響に晒され、労働が変化し、そのことがさらに都市の膨張に拍車をかけた。労働の変化に即応すべく、新たな知識領域をカバーしうるだけの専門家が必要とされるようになった。

都市の異常な稠密度合いの反面、技術によって人間能力は拡大した。ニュース、データ、情報は即時的に共有され、常時入手可能のものとなった。世界の隅々にいたるところまでが即座に現実として把握されるようになった。人間の知覚や他者との関係性において、それまでと異なる世界が現出した。近代産業技術は個を新たな生産上の役割に導く。人は産業のなかで位置を占めうることで個たりうる。「産業経済にあって、個とはおよそ生産、流通の企業組織に属する限りにおいて生産的たりうる。個は産業システムのなかで機能する。一人では何も生産できない。産業システムのみが組織的に成果を生み、人の生物的限界を超え、生産を可能とする」(『変貌する産業社会』)。

産業社会に身を置く者にとっても、社会的信条や制度はいまだ追いついてはいない。ドラッカーがその懸隔を指摘したのは三〇年も前のことだった。だが、今なお状況は変わらない。産業社会は技術状況にふさわしい制度を生み出すべきとドラッカーは述べた。それは技術よりも社会に関わる主張だった。彼は言う。「産業革命それ自体は技術と直接関係を持たない技術革新を伴わなければならない。」

 

灌漑技術

ドラッカーは技術の社会への影響に思いを寄せ続けた。しかし、さらにその裏側にあるものまでは関心が及ばなかった。社会的イノベーションとしての保険がよい例である。一七世紀後半にもたらされた発明であって、産業は保険によって可能となったといってよい。火災、洪水、難破や悪天候など自然災害から生ずる経済的リスクから人々を守るのが目的だった。そうしなければ経済上のリスクは誰にとっても避けえぬものとなる。

同様にドラッカーが目を向けたものに、農業生産を補完する保険の存在があった。「ある種のマーケティング技法を別格とすれば、ごく簡素な農業保険がいかなるものより農業生産に力を持った」(『変貌する産業社会』)。黒人農業従事者が南部から北部都市ゲットーへ移住するようになったのも、トラクターなど農業機材の充実によるもの以上に、農業金融や農作物保険の貢献が大だった。保険が技術への投資を可能とし、黒人を労働者に変えた。

そこでのドラッカーによる分析の要諦は、いかにして技術が社会を変貌させるかにあったのであり、その逆ではなかった。一九六五年、全米技術史学会で彼は「史上最初の技術革命及びその教訓」と題する会長講演を行っている。そこで彼は七〇〇〇年前に成立したとされる四大文明における灌漑とそれに由来する政治社会上の革新を驚くべき明敏さでもって指摘している。灌漑という技術革新の出現によって、文明は社会的経済的基礎を獲得したとされる。その影響は今日にまで及ぶ。

 

社会階級

最初に、高度かつ恒久的な統治機関が誕生した。灌漑都市によって人ははじめて市民となったわけである。それまで人は部族に属していた。そこから出自も血族も異なる人々が一つの共同体に統合することとなった。そこでは慣習と法の峻別が必要条件となった。そのために客観的かつ観念的な法体系の発展を見た。他方で、灌漑都市に常備軍が不可欠となった。灌漑都市は移動を前提としない。それは無防備で脆弱であることをも意味したためだった。

社会階級もまた灌漑都市から始まった。都市は農業従事者の力なくして成立しえないのみならず、軍や政府などの専門知識階層なくしては成り立たない。さらに聖職者階級をも必要とした。軍・政府・聖職にかかわる三つの地位は近代に至るもなお社会的秩序の要諦たり続けてきた。今なおそのような形態が維持される国・地域もある。そのような基本階層の出現によって、社会的余剰の発生をも見るようになった。灌漑文明で人ははじめて貿易が行えるようになった。ドラッカーは商業階層に意識を向けた。そこで育まれた貨幣、信用、商事法、さらに最終的には灌漑技術にさかのぼる国際法にまで目を配った。

 

灌漑の文明的帰結

灌漑文明は高度な工学的な労働配分によってしか維持発展しえない。その経済活動の範囲は時空的に爆発的な拡張を余儀なくされる。そのために、灌漑都市は成立の機縁からしても事実を書き記す行為と切っても切れない関係にある。

そこから暦が現れ、星辰の運行に関する関心が惹起された。天体の動きが人や世界にいかなる影響を持ちうるかに思いが寄せられ、まさしく科学的思考が涵養されるにいたった。簡単に言えば、灌漑都市とは知識そのものである。灌漑都市が知識の体系化と不可分の関係にあったのもそのためだった。ドラッカーは言う。灌漑都市が個を創造したと。伝統の部族社会にあって、個はさしたる意味を持ちえなかった。唯一意味ある存在が部族だった。しかし灌漑都市が部族に取って代わられるや個が社会の中心となった。

「そこから友愛のみでなく、公正の観念も出現した。さらにはそれに伴い、現在人口に膾炙した芸術と呼ばれる営み、詩作、宗教、哲学も表れた。」だが、これも考えようによっては形を変えた技術決定論に見えなくもない。ドラッカーはいわんとするところを過度に大仰に表現したきらいがある。国家や組織、階級、詩作、科学、個、その他諸々の人間活動のあらゆるものが灌漑技術に帰せられるのは少々乱暴だし、立証も不能である。しかしそれが正確と言えないとしても、初期文明の情報伝達と社会や政治、文化の展開を有機的に説明しうる論者がほぼ皆無だったのも事実である。

 

テクノロジストは移植できない

技術と社会への視座は、ひいては経済発展にまつわる独自の解釈へも広がっていく。そこで再び伝統的な知への挑戦状がたたきつけられる。その相手は、西洋技術の低開発国移植を文化的障害のゆえに絶望的とした見解である。そのような見解にドラッカーは真っ向から異を唱える。「事実低開発国の人々といえども、それが自らの役に立つと知る限り、貪欲に吸収しようとする。」

一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて世界を席巻したミシンを例に、いかに低開発国がそのような文化的に無縁な製品を熱心に使用したかを明らかにした。ただしなかには最新鋭の武器までもが含まれていた。低開発国が西洋技術の吸収にかくまでも血道をあげるならば、それとは反対の現実にいかにして申し開きができようか。ドラッカーの説明はシンプルだった。移植できないのは技術ではないとした。「移植できないのはテクノロジストである。テクノロジストは自ら原則を持ち仕事や道具へのものの見方をすでに所有していることに気づいていない。」

西洋の工学者はいまだにさらなる高速、高温、高圧、馬力といったあまりに一九世紀的進歩の観念の呪縛から自由ではない。技術を製鉄所や発電所との関係でしか考えられずにいる。

 

人間重視の技術観

しかし、ドラッカーにあって技術とは物質に関わるもののみではない。体系的な仕事の方法論に関わるものである。そのことを知るならば、人は日々使用する道具などを新たに考え直し修正するはずだという。そうすることで、日々の仕事はさらに効率的かつ生産的なものとなる。低開発国の経済発展の中心課題とは、旧来型の農業や手工業を再編し飛躍的な生産性を手にすることである。人というものは慣れたものを現実と見なす。

さらに、発展計画の中核には、仕事の体系化が置かれなければならない。それらは資質に富むテクノロジストによって担われるものでなければならない。仮に旧来型の仕事が近代化にあって蚊帳の外に置かれるならば、技術は完膚無きまでに文化を根絶やしにすることになる。「経済発展にあっては、それまで培われた文化が存続可能な形で、しかも既存の仕事をさらに充実する形で技術が導入されなければならない」(「仕事と文化」)。

だが、根底において、ドラッカーの人間観は際だっている。技術史や産業社会への視角にあって、最も焦点が当てられるのは技術そのものより人や社会である。

「大事なのは技術より人であることにわれわれは気づき始めている。技術が世界に楽園をもたらすなどという一九世紀的虚妄を信じるものはもはやいない。今われわれは問う。技術は人のために何をもたらすかと」。

そのような人間重視の技術観は、『経済人の終わり』にも見られる。本書で彼は経済人の概念を否定した。それは言い換えれば現代産業における個の自由がいかにして可能かを問うものでもあった。

 

権力の必然

企業とは天使にも悪魔にもなりうる存在だった。膨大な財を生産する責務と共に、個にとっては脅威でもあった。個の自由が可能かという視点は、経営権力の正統性を問う形で表出した。『産業人の未来』でドラッカーは言う。「企業の経営陣がもつ力はもはや株主の財産権を基盤としてはいない。財産権を基盤とせず、財産権の所有者たる株主によってコントロールされず、制限もされない。株主に対する責任まで失っている」(『産業人の未来』)。だが、経営権力をいかにしてコントロールすべきかについてはほぼ示されるものがなかった。三〇年ほど前、自治と分権によるとき、企業の自由が実現するものと彼は見た。

そのような考えはある面では無政府主義を彷彿とさせるもので、ぱっと見産業社会の自由を解決してくれそうもない。そのようなものが個たる労働者の自由を保証しうるだろうか。たとえばGMのように、事業部制を採用し、個々が意思決定の単位として機能する企業にあっても同様だろうか。

さらには今日われわれが直面する現実にあって意味ある解決をもたらしてくれるか。今日はっきりしているのは、ドラッカーは後の著作でもこの問題に回帰することはなかったということだけである。だが個の自由にとって何か適切な見取図を示す代わりに、個の形態をとって同様の問いに答えようとしたのは確かと言える。

権力が適切にコントロールされるべきなのは当然である。ルイス・マンフォード『機械の神話』書評において、ドラッカーは権力の現実を明快な筆致で書き記している。マンフォードはいかなる形であれ権力を悪とした。他方ドラッカーは違った。権力はいつでもどのような場所にでも入り込むことを知っていた。人は権力なしではいられない。だからこそ、人間の目的に適切な形で供されるべきものとして権力を考えた。

 

弱さの責任

そのような課題にあって技術はいかなる意味を持つのか。ドラッカーは技術の社会的帰結がいかに複雑な様相を帯びるかに思いを馳せた。彼は言う。「技術の影響とはつまるところ価値選択の問題である。短期と長期の利益、さまざまな集団による思惑、福祉などの間の価値をいかに調整するかの選択である。政治的選択とは常に複雑である。」

そのような観点からすれば、技術そのものは善でも悪でもない。ドラッカーによれば、「技術に悪者はいない」。続けて彼は言う。「技術とはそれを創造した者、人間と同じようにあてにならない。二律背反である。悪魔にも天使にもなりうる。」むろん技術そのものを否定するものではない。「技術による破壊の唯一肯定的な選択肢とは、技術を人のしもべとした場合のみである。人は技術の主人たらねばならない。手段それ自体が非難されるいわれはない。問題は手段を使用する側にある。」

われわれは自らの残虐さ、無知、貪欲、傲慢といった弱さの責任の一切を技術に押しつけてはならない。かつてと比して現在人は高度な手段を有するにいたっている。だが、ドラッカーは言う。「すぐれた道具は腕と思慮ある使い手を要とする。手段は人と社会に深甚な影響を持つ。そのために二〇世紀の技術は、巨大な挑戦課題に直面している。それは自らの問題である。」

 

技術と未来

技術革新とその体系化における構造、本質、方法を彼は明らかにした。技術と知識の意義を視野に収めつつ、知識産業への展開を構想した。技術と社会はどこへ行くのか。ドラッカーはそれに関して慎重だった。技術それ自体は予測不能である。いかなる影響があるか事前に知ることはできない。五〇年代になされたある専門家の予測を例にとる。専門筋の見立てでは一九七〇年までに全世界で売れるコンピュータは一〇〇台とされた。オートメーションの進展を加味すれば同時に六〇〇万から一〇〇〇万もの失業が発生するとされていた。

予測は科学的だった。精緻かつ定量的技法がフル活用された。誤りだったの言うまでもない。技術の影響が本質的に複層的なものであって、自律的に生起しながら、他分野の副産物を生むことが理解されていなかった。

他方でまったく無関係な三つの技術が人口爆発という一つの現象を生み出すと予測しえた者は一人としていなかった。DDTに代表される殺虫剤、あるいは抗生物質、熱帯地方での公衆衛生指標の急拡大が同時に起こった。それらが幼児死亡率を劇的に低下させ、結果人口爆発を生むに至った。

 

技術の動態的特性

ドラッカーの指摘にもある。技術革新のインパクトにあって副産物によるものが主産物を上回るのは決してはめずらしくない。ニューディール政策時の農業計画では、農業従事者が政府支払い保険より銀行のローンを利用できるようになったことはしばしば指摘される。農業従事者はそれを通して機械設備を購入できるようになった。最終的には黒人の小作人を必要としなくなった。彼らはみな北部ゲットーに追いやられた。起こったことは当初考えられたものと似ても似つかなかった。

もう一つ技術の行く末が読めない理由に、閾値にまつわるものがある。公害などの現象は、一定のポイントに達してはじめて害悪が顕在化する。皮肉なことに、閾値を越えてはじめて現象が知られるようになる。

ドラッカーは人間精神の可能性に信頼を置いた。技術変化を予測不能として、それに甘んじるものではなかった。給水機器や手動機械が一八世紀イギリスにもたらした転位現象を例に挙げる。人はそれでも技術進歩によってもたらされた社会問題に対処ができた。むろんそれがいつ起こるか前もって知ることはできない。だが、いかなる技術変化が起こる可能性があるのか、その主たる影響はいかなるものか、速度はどの程度のものなのか、といった問いにかなりの確度をもって推論できる。

技術の動態的特性を引証しつつ、ドラッカーは何がいかなる形で変化をもたらし、その本質がいかなるものかを見通すうえでの尺度を示した。具体像は示せずとも、いかにしてそれら変化と渡り合っていけるかを示した。わけても変化を常態と考えるべきことを説いた。民主主義社会にあって、効果的な意思決定手法を用いることで、変化を捉え、それを利用することができるとした。

 

非連続の断絶

ドラッカーは未来を悲観しなかった。未来は完全に暗黒のヴェールに覆われたものではなかった。未来への予兆をつかみ取っていた。しかるべき精神活動を伴うならば、人間社会は難破に陥ることなく、技術革新の恵沢に浴しうるものと考えた。

ドラッカーにとって、知識とは単なる高尚な装飾品ではなかった。行動のための手段だった。未来に何が起こるか、それよりも、望ましい明日のために今何をなすべきかを重視し、そのための方法を述べた。顕著なものが『断絶の時代』序文にある。

「本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測はしない。今日を見る。『明日はどうなるか』を問わない。『明日のために今日どう取り組むか』を問う」(『断絶の時代』)。

卓越した歴史観にもとづく実践家だった。未来への予兆を見るために歴史を渉猟した。全米技術史学会会長講演での発言ほどに明瞭なものはない。そこで最初の技術革新たる灌漑文明から、今日の産業革命後における人・社会・政治にあって何が学べるかとの問いを立てた。考察は次の三つから成り立っていた。

(一) 技術革命のおかげで、社会・政治のイノベーションにあっても目的が必要との認識がもたらされた。同時にそこではどのような組織が役割を終え、どのような組織が新たに必要とされるかの見極めが必要ともされた。(二) 社会的機関は、新たなニーズを満たす存在でなければならない。(三) 社会的機関が実現すべき価値は、人間社会に対する目的に沿うべきものであると同時に、人間社会によるコントロールを必要とする。「社会に

あって、あらゆるものはなされるべき仕事によって規定される。しかし社会の基本精神は人の手によって実現される。そこで大切なのは、いかにしてそれらを実現しうるかである」。

 

「絶望の時代ではない」

あえて要約すれば、ドラッカーは人間の自由に視野を開いた思想家の一人だったと言える。自由というものは人の選択によるものである。そこにあっては、柔軟な側面とともに、技術が現実を容赦なく規定する側面もある。彼が信を置いたのはそのなかの未来だった。ドラッカーは言う。

「今日、われわれは再び急速な技術変化のもたらす革命状況に直面している。灌漑文明のころと同じ状況である。いかなる社会的政治的領域でいかなる課題を手にすべきかを見極める重要な岐路にさしかかっている。新たなニーズに目を向け、そのための新たな機関を生み出さなければならない。新たな機関はわれわれの価値と信条を具現化しうるものでなければならない。同時にわれわれの頭脳を刺激し、人の自由と尊厳に奉仕しうるものでなければならない。現在は仕事と責任の時代である。絶望の時代ではない。」

ドラッカーはかかる筆致を持って、技術史を一つの題材として、人間が本来持つ力への信頼を表明したのだった。歴史への理解を通して現在の問題への洞察を得て、明日の問題と格闘するための勇気を示した。

最後に、技術史上のドラッカーの貢献は、既存の学術的枠組みに収まりきるものともいえず、だからといって技術史家を挑発し啓発するもののみともいえない。むしろ、著作に技術史に直接関係するものはない。かえって、著作それ自体が一つの歴史の構成要素だった。未来の歴史家は、二〇世紀半ばの歴史をドラッカーの覚醒した意識を通して研究することになるはずである。巨大な技術変化やその社会への影響度をいかに視野に収め、未来への洞察を手にしたかは彼の著作を通して知ることになる。