教師としてのドラッカー(フラハティ)

ボッケンハイム街
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ボッケンハイム街

 

教師としてのドラッカー

ジョン・E・フラハティ

井坂康志訳

 

 

ドラッカーに学ぶ人々

午後五時を回る頃にもなれば、ニューヨーク・マンハッタンの週日には同じ風景が繰り広げられる。エレベーターから何万もの人並みが吐き出され、ウォール街の人工峡谷に吸い込まれていく。誰もが地下鉄の階段を下り、漸次地下の住人となる。恐ろしく稠密だ。そんななか、ニューヨーク大学大学院のビジネススクールに向かう一群がある。手早く食事を済ませて、五三〇教室に向かう。そこで二〇年来かのピーター・ドラッカー教授が毎週月曜日の授業を持ち、企業人たちを出迎える。

多くはやり手の中間管理職である。年の頃二〇代半ばから三〇を少し出たくらいが中心である。企業での勤務経験を持ち、一家を養う柱である。まだ住宅ローンもある。ドラッカー教授はそれまで比較的のんびりしたベニントンやサラ・ローレンスなどで教鞭を執ってきた。それでも、この大都市ニューヨークの環境もまた、教授にとって悪くはないようだ。舞台は誰かの借り物とは最近よく聞く言い回しだ。だがもっと大切なのは、ドラッカー教授自身が、知的刺激をもたらしてくれる学生に心底惚れこんでくれることだ。実際、多くは大手企業勤務で、みなが教授の教室で繰り広げられるマネジメントの世界に並々ならぬ関心を寄せる。

ビジネスマンを中心とする一方で、教室には他にもさまざまな学生が姿を見せる。ニューヨーク教区の聖職者もいれば、医療機関職員や公務員がいる。実際に地方大学でマネジメントを講ずる先生もいるし、世界中の国々からの留学生もいる。さらには、世界的な企業のトップの姿さえある。そんな人たちはあの地下鉄の雑踏とは無縁で、表口にはちゃんと運転手付きのリムジンが控えている。

実に多様な学生たちがドラッカー教授にあこがれ抜いているのには一つ理由がある。みなが学びを欲しているということだ。新たな仕事に向けて刷新してくれる知的刺激を求めている。

 

教授法

ドラッカー教授のスタイルというものは人数やテーマによって変幻自在である。一〇〇名を超える講義でマネジメントを講ずるにあたっては、事例研究を用いることが多い。いずれも生物としての企業がなぜ・いかにして存在するのかに関わる。そこから財務、マーケティング、イノベーション、組織、計画、環境などの討究がなされる。他の大学ではだらだらといつ果てるとも知れぬ話が続くのがめずらしくない。だが、ドラッカー教授の場合、じつにきびきびと簡潔である。決してポイントをはずさない。事例はすべて教授自身が仕事として見聞きしたものである。コンサルティング活動の賜である。むろん固有名は丁寧に伏せられる。

第一印象からして、特にその手の事例研究を初めて聞く者などは、みな容易に実行可能のものと錯覚する。経験のある学生などはなまじ自信があるだけに、事例の大半がたいして興味を引かない場合もある。そうなると膨らんだ期待が一気にしぼんで、逆にいらいらするようになってくる。なかには「こんな事例は甘過ぎです。自分なら違う方法をとっていました」「ドラッカー教授が何をしたいのかよくわかりません」などと不満を言う学生もいる。血気盛んな学生にはありがちのことで、その後のディスカッションが待ちきれない。

だが、ドラッカー教授がいかにして考えるべきかを示してくれれば、時に議論は白熱しつつも、多くは事例の大事なポイントを見逃していたのを自ら認めざるをえなくなる。思い返せば、狭隘な自らの了見でもって楯突く人たちが後を絶たなかった。致命的なポイントをうっかり見落としていたり、本質とそうでないものを勘違いしているのに気づかされたりもした。結論をペーパーに落とし込みわれながら悪くないスタイルの論文を作成したまではいいが、それが実際の意思決定には何の役にも立たなかったりした。事例研究を実際に使ってみると、まず解決の切り札と思っていた自説が、まったく事実からかけ離れているのを知らされるはめとなった。正しい解があるはずと思っていた者は、むしろ大切なのは正しい問いと知らされた。

 

二つの中心テーマ

ドラッカー教授の手さばきは見事としか言いようがなかった。欠点らしきものさえ見あたらなかった。相手を批判することなく、問題解決と本質の描出という離れわざを同時にやってのけた。はじめ不安顔だった参加者は最後にはみなドラッカー教授の手並みの虜になるのだった。敵意に似たものを持っていた者さえ、しまいには自らのいたらなさにいやがおうでも気づかせられることになった。同時に感性と認識の不足を痛感させられることになった。教授は体系的に事例の精度を上げていき、次にさらに成果を上げられるように差配した。

ドラッカー教授の講義には二つの中心となるテーマがあった。一つは専門領域のたこつぼを克服すること、もう一つはマネジメントの観点から事例というものを徹底的に考え抜くことに置かれた。いずれに力点が置かれるかはそのときのテーマによる。受講者は博士課程の学生が多かった。講義は問いをもってはじめられるのが常だった。受講生からの意見がまずもって尊重された。時にちょっとした資料の提出が求められ、何より議論への参加が重んじられた。知的なものの交流への深い配慮が行き届いていた。そんななかで、ドラッカー教授は専門家の一代表として、しかるべき流儀で講義に方向性を与えた。スマートで洗練されたものだった。さりげない諧謔もあった。品のあるおかしみだった。他者がものごとをいかに見るか、それを理解するのに力点が置かれた。時になされるポイントのまとめはあまりに見事だった。そのようなスタイルは学問の世界では稀有のものである。

いきおいドラッカー教授への賛辞で始まり賛辞で終わるものとならざるをえない。それでさえ中途半端なものとしないためにそれなりに努力を要する。そこでドラッカー教授に足りなかったものにあえて目を向けてみたい。ドラッカーの「癖」第一に癖とも言うべきものがある。むろんきちんとした意味があるにはある。

だが、それなりの大教室での講義なのに、学生一人に二〇分も事例を発表させることがある。時にいつ終わるのかと思う。そんな下準備は通常ティーチング・アシスタントがてきぱきと行うべきところだ。第二に、発言しない学生には一切顧慮しない。時に眠気覚まし代わりにそんな学生を質問責めにしてくれたらとも思った。最終的には学生の問いを見事にさばいてくれるのだが、明らかな欠点もあったわけだ。

回答はいつも簡潔だった。だが、時にはジョイスの『フェネガンズ・ウェイク』を彷彿とさせるマシンガンのごとき口吻もあった。そんなものでさえ、人間が完全ではありえない表れである。教師ドラッカーが持つ強みに比すればとるに足りない。

 

教える意味

だが、なぜドラッカー教授は多忙なところをわざわざ教えるのに時間を割くのか。むろん収入のためではない。教え、書き、相談に乗る、それらいずれも金銭では購えぬ価値がある。ドラッカー教授に直接聞いたわけではないのだが、想像するに次のような理由があると思う。

まず、知識や経験を他者と共有する、そのことに徳義上の義務を感じていた。また、年若き友人との交流を大切にした。それは若者が明日のマネジメントの担い手というのみではない。彼らに独自の感性、価値観、ものの見方があり、それらが次世代の価値体系への刺激剤となるためだった。若者との接点を持つことで、変転激しき世界との対話を行っていたわけだ。

第三に後進の育成を意識的に行った。現代マネジメントにあって、教授法にも明るくなければならない。自ら教えてみせることで、マネジメントという仕事の持つ「人に伝える価値」を見事に体現していた。第四に、学生から教わった。それはドラッカー教授自身の口癖だった。確かにそのような面があった。意見交換の結果、自ら気づかなかった前提や見落としに気づく。新たな発見もある。自らの講義を通して、その手応えを得る。その意味で、教室とは次なる書物のための知的共鳴版の役を果たす。事実、万事に通暁する一流の書き手であると同時に、学生との交流を通して変転してやまぬ知的刺激を常に必要とする種類の教師でもあった。そのいずれもなくてはならないものだった。

 

教えることと学ぶこと

教えるのは彼個人にも意味をもたらした。むしろ自分からお金を払ってもいいくらいに思っていた。その熱意は教室のみのものではなかった。かつての教え子とはやがて豊かな友情が育まれた。彼らが何をしているのか、いかにして自らのキャリアを磨いているか、いつも気にかけていた。これまでもその助力を得て、実に多数の学生が高位の職を得ていた。

私の知る限りドラッカー教授が自らの教授法を語ることはなかったと思う。それに全体を貫く指針には恬淡としていた。教授法とは厳密な意味で伝授可能なものではない。それをなす者の人格や意欲、知識に体化される。ドラッカー教授にとっても、唯一といえる習得法はなかった。経験の教えるところでは、それはあまりに多様だった。成功例などそれこそいくらでもあげることができた。

それでもなお、ドラッカー教授は、学ぶことと教えることはまったく別の次元のものとした。ともに重要なのはいうまでもない。だが、同じものではない。それぞれ異なる考え方を要する。学ぶとは、習慣、記憶に育まれ、行動の礎をなす。少なくとも、教育過程を一方的に教えうるものとはドラッカー教授は考えなかった。わけても大学院レベルで一方的な教授に意味があるかはかなり疑問とした。学生自らがもっとも上首尾になしうるはずの専門領域にあっては、知的資本の浪費と考えられた。

他方、教えるとは、知的卓越や新たなコンセプトを得る上で異質のものだった。それはとらえがたく、神秘に包まれたものだった。プラトンの時代からいささかの進歩もなかった。むろんすぐれた教師には卓越した素養があるのは確かである。しかし教師はあくまでも学生の成長にあって触媒の役を果たすに過ぎない。そこでは、つまるところ真の教育とは自らの成長を促すものたらざるをえない。その点で同様の見解を表明したアリストテレスに与せざるをえなくなる。教師のコンセプトがつねにとらえがたいのも、つまるところ教えるという行為が正確に定義しがたいところからきている。他方、学ぶとはある程度測定可能であり、それにまつわる問題も少ない。いずれにしても、ドラッカー教授を一流の教師とする点で、ほぼ衆目は一致していた。それも他の教師と違い、教授法のみに安住するものではない。すぐれた教師というものは、難しいことをシンプルに語るものだ。目から鼻に抜ける感覚、そして思わず膝を打つ比喩で聞く者は我を忘れる。だが、それのみをドラッカー教授の強みとすることはできない。というのも、そのドイツ訛りもあって、はじめがややぎこちない。だが、それ以上に、教授法にあっては、熟練の教師のみが持つ味があるのを彼は知っている。だが、それらもせいぜいのところ学ぶための手段に過ぎない。学ぶことそれ自体ではない。実際、少なからず一般に講義というものは学生のノートに記されるだけで、心に残るものとはならないからだ。

 

五つの原則

ドラッカー教授のスタイルを長年観察して、次の五つの原則を見て取ることができる。継続、創造、体系性、オープンな知的感性、課題設定である。継続すべきものドラッカー教授の書いたものや講義をふれたことのある人なら、その広大無辺の学識に魅了される。学問の伝統にとらわれることなく、歴史というものが未来の序章たることを理解していた。ジョージ・サンタヤナの述べたごとく、歴史に目を閉じるものは同じ過ちを何度でも繰り返すことになる。ドラッカー教授の立ち振る舞いは学者によくあるもったいぶったところや重箱の隅をつつくところがまったくない。その分析視角は過去から現在、そして未来に向けられた。

現在とのつながりなき歴史はそもそも意味を持たない。空念仏に過ぎない。過去から現在を見通すということは、それがいかにして新たな事件をもたらしたかのみではない。むしろ現代の問題状況にあって、継続すべきものと変革すべきものの入り交じった状況の本質を見抜くことにある。事実が何かより、なぜそれが起こり、そこから何がもたらされたかにドラッカー教授は関心を寄せた。そこが過去と未来の間に身を置くマネジメントが肝に銘ずべきものだった。

 

創造

創造とは主観と客観の混成物であって、ドラッカー教授が苦心の末手にするにいたったものである。だが、おそらく創造性や独自性などという語彙に教授自身はやや違和感を持つだろう。教授にとっての創造とは、問題をあらゆる側面から検討し、それよってその輪郭をとらえ、本質とそうでないものを腑分けし、一つの新たな実像を見出す作業にほかならなかった。意思決定についての議論などを見ればよい。それについての緻密な分析が決して楽なものではなく、それでもきちんと分析されない意志決定は思いつきと選ぶところがないとした。

かかる視座の結果として、教授はいかなるときも当然と見なすべきものは存在せず、自らの知性のすべてをもって対象に深くコミットする姿勢を自家薬籠中のものとしていた。現代マネジメントの巨人たるヴェイル、スローン、ラーテナウ、テイラー、ファヨール、ウッドを論ずるにしても、教授は、「彼らの同時代の人々が見落とし、あるいは当然としたもので、見ることのできたものとは何か」という問いを発した。むろんそれへの答えとは容易なものではない。

しかし教授はいかなるときも、巨人たちの洞察や卓越性に注目した。さらにはよき経営者や理論家のすぐれた点に、最低限の幸運に加え自らの現場で発揮された洞察に帰した。そのように独自のものをとらえることが、ドラッカー教授の講義のポイントだった。自身は創造は教授しうるものではないとした。しかしその実践への応用は学びうるものとした。教室のなかの多くは自ら独自のものを見出すこと、そしてその仕事への応用を促された。

 

体系性

体系性はドラッカー教授の講義スタイルの姿勢をよく表している。実践のための理念に目を向けることが、教育の方法的支柱をなした。理論それのみでは不十分であって、実像をとらえきることなどできはしない。しかし他方で体系的実践こそが期待する成果を手にし、事業を架橋し、異なる人材を結び合わせうるものとした。経営管理者が認めうるかはともかく、思想と理論が意思決定の礎たらざるをえない。体系的知見なくして経営は不可能である。ドラッカー教授は豊富な経験からもマネジメント不在の企業がそのことをまず理解すべきと考えた。

『現代の経営』で展開されるマネジメント体系にあって、企業という存在は、サブシステムや全体を構成する一つひとつの仕事に生命を与える。教授自身は気骨ある論者ながらも、特定の原理への呪縛は拒否した。現実として、完全無欠のマネジメントは存在しないとした。なすべきは仕事だった。それでもなお、われわれはドラッカー教授の業績に企業活動の根本をなす原則が体系的に配されるのを見ずにはいられない。教授は唯一正しい理論なるものはないとした。

それが企業経営やマネジメントの仕事について一つの見識だった。企業組織についての体系的原則や目標管理の提起に加え、種々の領域にまたがるコンセプトも講義で示された。わけても歴史的英知、そしてすぐれた経営の事例から学び、縦横無尽に組み合わせ現代マネジメント上の課題に応用してみせた。それらの多くは『現代の経営』でも取り上げられており、ここで改めて詳細を論ずることはしない。とはいえ、教授の体系化がこれまで時の試練に耐え、一つの原理原則にまで昇華されたのは特筆に値する。

むしろ、本人は自らの創造したコンセプトが一つの仮説であって、誰もがそれぞれの領域でその可否を判定すべきものと考えていた。実際、少なからず実地適用によって妥当性は傍証されてきた。そのことが学生にも豊かな洞察の源となった。学生もまた、講義が空論でないことは即座に理解する。それは実践を促し、すべからく目の前の現実に直結するものであることを理解した。

 

オープンな知的感性

一定の自信とともに、学生が自らの講義で何を学ぶか心を配っていた。学生への口癖は「何を学んだかね」だった。その心は、学生が自らの意識を変えられたか、プロに成長しつつあるか、知的アンテナを研ぎ済ましえたかを知るためだった。学業というものはある種の青年期の延長措置であって、しかるべき学びを得る代わりに一定の勉学とその試験にパスしなければならない。同時に教室で展開できるものに自ずと限りがあるのを教授は知り抜いていた。自らの講義でも、かかる問題をきちんと受け止めていた。

従来の教育方法がおおむね成果を出せずにいる。そのことをよく知るからこそ、自身を高めうる方法の探索に余念がなかった。従来の学科に対して冷ややかなのもそのためだった。確かに姿形は立派である。レポートや論文には仰々しい文献リストがある。だが、そこに知的好奇心を刺激し自らの陶冶をはかるものはほぼ見出せない。そこで教授が目を向けたものとははからずもソクラテスが用いたものと同じだった。自ら学生のなかに直接コミットしていくことで、その知性の幅を広げた。

一度関心が惹起されれば、後はほぼ自動的にうまくいく。自らとの関わりで問題を捉えられれば、本来の能力で専門研究はきちんとできるようになる。研究が専門分化せざるをえないのはドラッカー教授はむろん理解していた。だがことマネジメントについていえば、そこは本質ではなかった。坐学がマネジメントにふさわしい知的姿勢と言えない場合も多々ある。あまりに専門化し過ぎると、階梯を上がるうえで壁が生ずる場合さえある。いかなる事業やマネジメントに関する問題といえども単一の原則で処理することなどできない。そこで、広く鋭敏な知的感性を持つほどに、多様な知識を効果的に実践に応用しうるようになる。最終的にはマネジメントに関しては、単一分野のみで習得は不可能である。

実際に講義にあっては、縦横無尽の知的領域を飛び回るのが常だった。知識の画布に描かれる像はあまりに多彩で豊かだった。民俗学、経済学、社会学、自然科学、哲学、論理学、歴史、文学、統計学、医学、数学、芸術、音楽などが気ままにその姿を現しては消える。死角などなきがごとしだった。事例や問題関心は変わらずとも、ただ一つとして同じ講義というものはなかった。そこには豊かな知の方法論が凝縮されていた。学生もまた古典的知見を新たな意識で習得することで自らを高めうることをドラッカー教授も自覚していた。あくことなき探求心の涵養をもって、学ぶ者は自ら読み、調べ、ひいては自らの成

長に責任を持ちうる者となる。そのことをドラッカー教授は望んだ。学ぶ者の意識を刺激しうることをもって優れた教師の条件とするならば、まさしくアリストテレスさながらドラッカー教授がその見事な範だった。学生の自己陶冶の力を引き出す種類の教師だった。

 

課題設定

ドラッカー教授は終生イノベーションに関心を寄せ続けた。変革を決定論や偶然とする見方に組みせず、意識的活動とした。現代のマネジメントにあってきわめて重要な挑戦課題の一つとして未来を見ることに置いた。経営管理者が意識的な変革に着手しないならば、マネジメントはおとぎ話の時代に逆戻りし空中分解する。そんな不毛かつ硬直的なものをマネジメントに取り入れるのを教授は断固として拒否している。むしろ企業トップの例をあまた引き合いに出し、いかに彼らが問題より機会に焦点を当てて明日を創造したかを力説する。彼らはそうして問題を成果に転換した。

昔ながらの英知も今日の実践も、共にうつろいやすいものであって、自らもそのなかを構成する一要因に過ぎないものとドラッカー教授は考えた。めざとい学生ほど、講義で述べられたことの矛盾に気づく。時折以前の発言と引き比べてここが違っているなどと指摘する。そんなとき教授は決まって答える。それを書いたのはもうかなり前のことだ。当時はしかるべき意味があったろうが、現在には通用しないと。

そのようなことで、かくも変転著しい世界にあって、これで安心といえる状態などまずはありえない。今日の常識が明日の常識である保証はない。だからこそ、学ぶ者は拙速を避け、真に大切なものに意識を合わせなければならない。問題より機会に焦点を合わせなければならない。過去より未来に焦点を合わせなければならない。

 

知識労働者の責任

明日の挑戦課題と格闘せよ。教授はそう断じた。それというのも、教育のみでなく、知識というものが本質的に責任を伴う姿勢を要求するがゆえだった。はじめのうち学生はドラッカー教授が示した知識労働者の新たな役割が何を意味するのかうまく呑み込めずにいた。仮に昇進したとしても、そのような考えがどう役に立つのかわかりかねるという反応が相次いだ。組織上の制約に加え、優越意識が相まって、マネジャーは機敏に変化に対応できずにいるなかで、どんな意味を持つのかと。そんな不平を聞くや、答える。そんな者が役員にでもなったら、まず無能のレッテルを貼られるだろうと。結局彼らが義務とすべきことは自らの上司がその力を遺憾なく発揮できるようにすることである。加えて、知識に伴う責任、そして意思決定過程で情報を持つことからも、職位以上の権限が実質的には与えられている。その際、さかしらに抽象的で観念的な思考の遊戯であらゆる問題が解決できると錯覚すること、それが致命的な落とし穴となる。それを避けることもマネジメントの課題なのだとする。自らと組織にとって卓越した限られた分野に集中すべきとした。

実際にドラッカー教授が述べたことで、当時もてはやされたことがある。それは学生は自らのなすべきことをなせということである。目的へのしかるべき集中、そして責任ある姿勢、それらをもっていかなる学生も明日の挑戦課題に向き合い、成果を上げるべきとした。現状に手をこまねいてはいけないとした。

現状に満足しない教授自身の信条は次の発言にも現れている。「現在私は六〇歳になった。まだ大きくなったら何になるか自分でもわからない」。

 

結語

ある種の学生に対し、自ら関係の主体となるソクラテス式を持って、教授は学び手にとっての意味に目を向けさせようとする。貢献に焦点を合わせるよう勧める。そこで示されるものとは、継続、創造、体系化、知的感性、課題設定だった。いずれもが教授のスタイルに欠かせぬ構成要素だった。だが加えて温順な人柄やユーモアセンスもその個性を彩るものだった。学生に心からの敬意を持って接し、同時に鋭い分析的知性をも併せ持った。教えることにまつわるすべてがドラッカー教授にとって愛してやまぬ仕事だったのである。