【事理を教えてくれる本】
内田樹『街場のメディア論』光文社新書
職業柄かふだんからメディアの問題には関心を持っているというか持たざるをえないのだが、久し振りにメディアの不調について納得できる理説を示してくれる本に出会ったので紹介させていただきたい。
ほぼ現代人の知の成分表示はテレビとかネットといったいくつかのメディアから選択的に形成されているのは間違いなく、その意味でメディアの不調は現代人の知の不調にもつながるなかなかに重い問題である。
本来は大学の授業でなされたメディアと知に関する発言をもとに、学生や編集者などの広範なフィードバックを経てつくられたとはしがきにある。確かに一人の人間の頭の中で専一的に培養された考えというよりは、メディアや知を社会的システムとしてとらえようとする縦横無尽な頭の使い方が光る。
そこでは現代にあってドミナントなメディア批判が豊かな教養知とともに展開される。まずもって納得させられるのがテレビと新聞、そして出版である(なぜかラジオに対して向けられる視線は温かい)。
いやしくもメディアの末席を汚す私がこんなことを言っていいのかわからないが、よく考えてみればここ何年かきちんとテレビを見た記憶がない。そればかりか、熱心に新聞を読んだ記憶もない。ではそれで大勢に劣後するような恥ずかしい経験があったか。まったくない。一度も困ったことがない。
著者はそれらの主要なメディアで横溢する情報の「定型性」を批判する。そこではいかなる責任もとられることがなく、誰のものでもない言葉が氾濫する。確かにそのようなものが人の心に届くはずもない。だが、実態が失われ虚像と化しても、生活の中で育まれた慣習は残る。
恐らく二〇世紀、特に戦時にあって新聞やテレビが巨大な影響力を持ちえたその遺骸に対して頭脳と言うよりは体が反復的に対応しているだけのようにも思われる。では、よく言われるテレビや新聞に未来があるのかとの問いに対し、著者の回答は明快である。「ありません」。恐らくラジオを除くマスを対象とするメディアなら、その不調の責任から逃れられないだろうと著者は言う。
なるほど――。
ならばネットがそれに代替するのか。そのような半ば紋切り的な発想に対しても著者は鋭い刃を向けてくる。そんなはずはないと。むしろメディアに本来求められるコミュニケーション機能がきちんと果たされていない。不調はそこに人々が気づいて合理的に行動しているだけとする。
そもそもメディアとは社会のなかで情報のフィードバックを促し、社会を構成する人々に適切な判断材料を与えるのがその主たる任務であって、「ビジネスとして成立するかどうか」などは事後的な問題に過ぎないし、社会の側のあずかり知るところではないのだと筆者は喝破する。
確かに、この言葉は重い。一般に言って消費者は靴屋を儲けさせるために靴を買うのではない。理屈は同じである。ビジネスとして成立するかどうかも、一定の社会関係におけるコミュニケーションの成立に関わる問題である。この忠告を真に受けられるかどうかが次なるメディアの状況を決するように思う。