[対話]上田・井坂--観察法の観察

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観察法の観察

 

2012年10月

 

論じきれない原因

井坂 ドラッカーが生涯に刊行した書物は39冊、論文や記事にいたってはあまりの多さに正確な数さえ知られていない。その旺盛な活動の根源は何だろうか。何が知の巨人の活動に尽きせぬエネルギーを備給していたのか。

上田 あらゆることについて、瞬時に本質が見えてしまうからだろう。考えるほどにドラッカーはとらえどころのない論者だ。彼の著作をほとんど翻訳した今でも、謎は尽きない。

彼について書かれたものは決して少なくない。1950年代の初来日以来、ドラッカー論は一つの経営学上の潮流を形成してきた。そのなかで「マネジメントの父」「マネジメントの発明者」などといった称号を与 えられてきた。

しかし、マネジメントとドラッカーを一対のものとして扱うのに、その世界の広がりはあまりに無辺だ。たぶんその広がりの様態が、かえってマネジメン トというややもすれば安易な独房に彼を閉じこめるのに手を貸してきたと感じられなくもない。

井坂 実際に彼がマネジメントの自己規定に窮屈さを感じていたのは間違いない。1970年のニューヨーク大学時代に行われたインタビューで、「自分はマネ ジメントには少々飽きた」と述べていたのが表れだ。むしろ、マネジメントの枠組みを外したところに彼の実像があると考えてよいだろう。

上田 だが、これがなかなかに難しい。そこに何かあるのは確かながら、あたかも太陽を直視できないように、相貌をとらえることができないためだ。彼について語ることの難しさは、今なおきちんとしたドラッカー論がさほど見あたらない事実からも類推可能だ。少なくとも、既存の知的方法論、言い換えれば手持ちの道具を使って語ることはできそうもない。せいぜいのところ、社会生 態学といった未来の知的領域くらいしか彼を語るにふさわしい語彙は今なお存在しない。

ある程度知的に洗練された書物にあっても事情は変わらない。きちんとみごとに論じている先行例というのはさほどあるわけではない。多くはたとえよくできたものでも、ドラッカーの一部分に照射したものに過ぎない。

井坂 では、なぜ歴代の篤学者でさえ、彼を論じきれないのか。努力や能力の不足が原因ではないと思う。むしろこれまで多くの人たちがしかるべき熱意と真摯さをもってドラッカーの全貌をとらえようと努めてきた。にもかかわらず、その全体の把握に成功してこなかったのは、能力や熱意を超えたドラッカーに内在する本質に原因があるのではないだろうか。

それは次のような問いにも置き換えられる。「なぜ定型的な語彙でドラッカーを語ることができないのか。」これは今までなされてきたドラッカーは何者かとの問いの次数を一次元上げたものといってよい。実はまさに「定型的な説明を拒否する」、そこが彼の本質的な領域を構成するのではないか。事実、約100年近くもの長きにわたり活躍し、世界的に知られた人にもかかわらず、まとまった批評的言説が存在しない。これは驚くべきことと言わなければならない。

かりに標準的なドラッカー論がすでに存在するのであれば、人はそれを手がかりにすることができる。批判するにせよ、まるごと受け入れる にせよ、とりあえず手がかりがある。しかし、現在のところはそのようにはなっていない。定説と言えるものはいまだない。

上田 彼については「20世紀に身を置きながら21世紀を支配する思想家」という言い方がなされている。恐らく、その志を考える上では正確な論評のように思われる。というのも、人間はいかに多面的な活動に手を染めようとも、その目指すところは一つに違いない。どんなに複雑なプリズムにも光源が一つあるように、そこには明確な目標があったと思われる。

彼の目標は一つの手段では達成できないために、さまざまな方法を試すことで表現されたのだと思えてくる。その多面的な活動の核に一つの戦略目標があったに違いない。

そのようなことが可能だったのは、彼自身に、ものごとを分解せずに全体を 全体として理解し、かつ表現する能力があったためだ。

 

視覚を観察する

井坂 彼はあまりに多彩であった、異常な視野を持っていた、一つに収まりきれないほどの関心を持っていた、博学者であった、そのような評価はすでにいくたびも出ている。むしろ、彼を評する際の枕詞と化しているふしさえある。

しかし、私はそのような評言はあまり正確ではないと思う。たぶん彼自身が一つの領域の仕事だけでは、どうしても自分が行いたいことをうまくとらえきれなかった。だから、知的領域を少しずつ、時に大胆にずらしながら、結果として多様な領域を横断するような知的探索形態をとらざるをえなかった。ドラッカー自らが自分の表現活動を通して、「何を自分は見たいのか」を探っていたのではないかと思えてくる。その一つに彼が60歳の時のインタビューでの象徴的な発言がある。これからの人生をどうしたいかとの記者の質問に対し、「今もって大きくなったら何になりたいかがわからない」と答えている。これは決して冗談めかして言われたものではなく、彼の本音であったと思う。60歳にして明示化しえないほどに、 彼が目指したものはわかりやすいものではなかった。ひょっとすると本人さえ正確なところはわからなかったのかもしれない。結果として、95歳で亡くなるまで、「自分探しの旅」は続いたのだと思う。

そのように多分に「未完の可能性」を言論でもってその都度実現していく生き方を彼は選んだ。自分自身がわからなかった自分の正体を第三者が簡単にレッテル貼りできるはずがない。そこがドラッカーについての定型的説明が今なお現れない理由の一つだろう。

上田 しかし、一つキーワード、あるいは補助線がある。彼が観察者であった、そこにヒントが隠されていると思う。

確かに彼は特有の雄弁さをもってこの世界を描いた。では、その雄弁さをもって彼が描こうとしているのは、いったいどのようなものだったのか。それは一言でいうならば、観察者ドラッカーの眼によって切り取られていく世界そのものだ。それはきわめて正確にスキャンされた光景であり、綿密かつ正確でありながらも、ほぼプロセスを受けていない光景だった。 わけても特徴的なのは眼だ。その眼は精巧無比なカメラのレンズのように微妙な細部にいたるまで丹念に手が入れられており、およそ凡俗な類型にはまることがない。

それでいて、感覚と生命に躍動している。頭で考えられた人間や社会ではなく、眼で見取られた人間や社会を扱っている。

井坂 ドラッカーはイギリスの作家ディケンズを生前愛読したという。例えば、次のようなディケンズ評(「イギリスの目」)がそのままドラッカーを評するもののように思えてくる。 「ディケンズは視覚の天才であった。若いときのものでも、(なるべくは)壮年時代のものでもよい。その肖像は一種独特の目に支配されている。美しい虚妄を追う、あるいは哀調をおびてかげる詩人の目ではない。やさしさも甘さもなく、熱っぽい夢幻性もない。冷たく、灰色をして、鋼鉄のごとくきらめく、あくまでもイギリスの目だ。」(シュテファン・ツヴァイク/柴田翔・小川超・ 神品芳夫・渡辺健訳『三人の巨匠』みすず書房)

ディケンズにも似た視覚の作用は、彼が自らの来し方を描いた自伝的書物『傍観者の時代』にいかんなく表れている。そのなかでドラッカーは自らが目にした光景、出会った人々の多くについて、何らかの個人的反応を示すことになる。しかしそのような彼の反応や交流といったものは、本人の個人的な意識とは直結していないように見える。そこには一貫性があるものの、彼の個人的な視覚がほとんど時代が据え付けたカメラのように平明に読み手の心に迫ってくる。

上田 そのなかで彼がもたらしたものは、真にオリジナルな情報であり、大きな意味を持つニュースだった。そしてマネジメントの討究にいたっては、掛け値なしに新世界の発見にも等しいことであったと思う。しかも書き手としての卓越性が彼には備わっていた。マネジメントをはじめとする著作の雄弁性は、読み手の無意識な理解力を喚起する。

彼は彼にしか書くことのできない作品をマネジメントなどの領域で真摯な姿勢で書き続けることによって、文学を含む言語の世界全般に対して、鮮烈で広汎な影響を与えることになった。その影響力は『もしドラ』の成功からも明ら かなように、半世紀近くを経てもまったく弱まっていない。これは驚くべきことだ。

井坂 『傍観者の時代』のなかで、彼は一人称の語り手としての役割を果たす。彼は20世紀という物語の声となる。彼は周囲を深く観察する人間であり、生き生きと報告する人間である。彼は自らの身体を物理的に動かし、自らの視覚を刻々と移動させながら、時代の紡ぐ物語を逐次報告する。対象に密着し、あるいはまったく離れながら、時代とともに前に進んでいく。

彼の眼は世界の一片一片を切り取っていく。語られる細部の一つ一つが、等しく魅力的な触感を持っている。そして読み手は、そのカラフルな報告に耳を傾けながら、それが行きつくであろう新たな地点への思いを馳せる。

上田 今なお『傍観者の時代』に根強い愛好者が絶えない理由もそこにあるだろう。欧州からアメリカという20世紀文明の中心を突き抜けるようにさまざまな光景が車窓に現れ、さまざまな人が登場し、さまざまな出来事が持ち上がる。私たちは頁をめくりながら、ドラッカーの一対の眼を通して20世紀の展開を眺める。それはある面で陳腐な客観性などものともしない強い説得力を持つ。

そのようなことが可能になるのも、何より彼の筆力の確かさ、そして彼の視線の一貫性によることは間違いない。彼はビジネスにおいても、真摯さ(integrity)を重く見たが、真摯さとは言い換えれば、目指すべき理念と現実的所作の一貫性を意味する。東洋的に言えば知行合一だ。そのような視線の一貫性のなかに、逆説的な形で普遍性が立ち現れてくる。そこにドラッカーの思想の形態が存するように思われる。

井坂 確かに彼の視線を見ることによって、読む者はさまざまな事象についてのその所見の様態を知るようになる。そして、彼の生きる姿勢に対して、共感もする。ところが、そのような共感によって、彼の人間的本質をとらえきれるかというと、そんなことはない。私たちがそこで理解しうるのは、あくまでも、彼の視線を通して切り取られた世界に過ぎないためだ。

いずれも高度に具象的であり、触知可能であるものの、それによってドラッ カーがいかなる思想の持ち主で、どのような人間なのかについてはほぼ知りようがない。にもかかわらず、不思議なことに、その視覚は読む者の内側に潜む 何かを刺戟し、異なる風景を見させるようになる。恐らくドラッカーを知るには、間接的ながら、彼の視線を観察することが迂遠ながらも最も近道なのではないかと考える理由がそこにある。

 

断絶とゼロ体験

井坂 他方、ドラッカーもまた時代の子である。さまざまな時代環境や人的交 流の結果形成された存在だ。ドラッカーの言説には、互いに矛盾する要因が無数にある。互いに弾き合う性質が、多くの場合共存している。そのようなスタイルはもちろん彼一人の専売特許ではなかったし、彼が自力で打ち立てたルートでもない。その前には先達としてエドマンド・バークやウォルター・バジョットその他の保守主義系統の思想があった。

同時に、そのような視覚の動きがどのような環境の中で育まれたのか、どんな人から影響を受けたのか、などを引証しながら、その実像に迫っていくアプローチがある。

上田 それともう一つ、個人的な体験としての「断絶」があっただろう。彼がマネジメント、イノベーション、マーケティングとか知識社会、高度産業社会の記号を先取りしたせいで、私たちは何となく彼が同時代人だと思っている。

しかも、彼がマネジメントの書き手として活躍したのがアメリカだったというだけで、彼が生粋のアメリカ人のように感じてしまっている。しかし、そうではない。彼は本来ヨーロッパ人だ。しかも、1909年生まれである。時々彼は「僕は明治人だ」とユーモアを交えて語っていた。日本で言えば明治42年の生まれの人だ。これは盲点かもしれない。

言い換えると、第一次世界大戦(1914年)、世界恐慌(1929年)、第二次世界大戦(1944年)がほぼ前半生に重なってくる。マネジメントについての最初の書物を『現代の経営』(1954年)とすると、すでに刊行時に彼は44歳、立派な 中年の域に達した後の著作だ。こう考えると、その前半生たる戦争、恐慌、革命の海を泳ぎに泳いでマネジメントの島嶼に到達したことがわかる。

井坂 確かに指摘の点は深い意味を持つと思う。その一つの表れとして、特に初期の作品では、ナチズム体制とそれに無力な社会への怒りがほとばしる箇所が見られる。もちろん図式的なプロパガンダではなく、一方通行のステートメントでもない。そこには彼の眼によって切り取られた生きた世界観がある。しかしそのような種類の厚く鋭い視線は1950年代、『現代の経営』によるマネジメントへの傾斜以降、彼の言語世界から徐々に失われていくことになる。たぶんそれが彼自身のマネジメントへの倦怠の遠因ともなったと思う。

上田 事実、20世紀の激動は彼の人生そのものだった。特に少年時代はいまだ故郷のウィーンはハプスブルグ帝国の首都だ。これは他の世代に見ることのできない、きわだった特徴だろう。その世代は戦争の展開とともに成長してきた。物心ついたときからずっと世界は潜在的に戦争状態だった。「戦争をして いない欧州」を知らない。そのきなくささを日常的に呼吸し、迷走する世界を自己同一性の基本に据えていた。

特に第一次世界大戦だ。彼はどこかで書いている。新聞の戦死者欄で知る者の名を探すのが日課となっていたし、「大きくなったら」というのは、子供心にも兵士となって戦場に行くのと同義と考えられていた、そんな少年時代だった。

マルクス主義もキリスト教も戦争を止められなかった。そのなかで、イデオロギーが実は無内容な空語なのを市民の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。世界戦争には大義がないこと、いずれ瓦解するだろうことまで予測していた人たちも当時いた。中でも当時のウィーンの知的な人たち、例えば「言葉の狩人」の異名を持つ言語学者で若きドラッカーにとっての憧れだったカール・クラウスなどがそれにあたる。

井坂 彼も戦争、恐慌の嵐をともかく生き残って、荒廃した欧州でもう一度生活を再建しようと考えていたに違いない。そのような人たちにとって世界大戦はリアルな経験ながら、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎない。

そんな世代の人たちが懐疑的な精神の持ち主になるのは、歴史的事情からすれば当然だ。 しかし、それは単なる虚無的な懐疑主義とは趣を異にする。

ドラッカーは5歳まで一つの帝国のなかで育てられ、その世界しか知らなかった。そのような世界しか知らないのに、ある日突然、帝国が崩壊し、現実と思っていた世界は無効だと宣告された。いわばゼロ体験である。このゼロ体験は個の人生の中でとてつもない意味を持つと思う。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値として血肉化していた少年が、ある日それを捨てろと言われた。晩年になっても、彼はその時の精神的衝撃を折に触れて口にしていた。

そのような断絶経験を経てその知的・感性的深みは決定されたのではないか。その後も彼は驚くほど似たパターンをいくたびも実人生で行っている。一言で言えば、「成功体験の体系的廃棄」とも呼べるものだ。

上田 確かにそのような側面はある。1930年代ドイツで一定の成功を収めながらも、世相との価値観のずれを感知するや即座にイギリスに移住する。イギリスでも経済的にはそれなりの成果を手にしながらも、金に興味のない自分を翻然として悟り大不況の中仕事を辞めてしまう。ようやくたどり着いたニュー ヨークで超有名コンサルタントにして大学教授の地位と肩書を得るも、さほど名の知られていない西部の大学に移籍したりしている。プロセスを見れば、成功を捨てていく過程と同じだ。

井坂 しかし、少年時代に経験した断絶を考えれば、何か急激な変化が自分の身や社会に訪れたとしても、天蓋が崩れるような衝撃を感じることはなかった。

それは彼個人の断絶体験の追体験だったと見ることもできる。むしろある時点から以前の自分を切り離し、訣別して、今日から新しい自分が始まるといったアクロバティックな生き方を死ぬまで続けた。そこに喜びさえ見出した。

 

批評性の淵源

上田 冒頭の問題意識に戻る。彼の著作は、マネジメントに関わるかどうかに関係なく、いまだに胸を衝かれる鋭利な批評性がある。1930年代に書かれた『経済人の終わり』や1940年代の『産業人の未来』など初期著作に漂う圧倒的なまでのリアリティにわれわれはもっと驚いていい。

井坂 前著はチャーチルをはじめ、当時の知識人にいち早く認められたと言うが、当時の編集者や批評家たちの中には、低めに評価した者もいたと思う。それを一時の奇抜な論者として高をくくり、いずれ消えてしまうだろうと思っていた人は少なくなかっただろう。戦後の日本においても、やはり彼をただのビジネス書ライターとしてしか見ず、いずれ消えるだろうと思った人々が少なくなかったのに似ている。

だが、ドラッカーは消えなかった。他の多くの論者が消えても、本人がこの世を去った後さえ、消えなかった。なぜ消えなかったのか。それはリアルタイ ムでの読者たちが、見落としていたものがあったからではないか。

やはりそこでも少年時代の断絶を避けて通ることはできない。彼は第一次大戦前に己の半身を取り残している。少年期の経験も、心の動きも、全て帝国以 前の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、概念や審美観や価値は、自らに受肉してしまっている。それを捨てるならば自分が立ちゆかなくなる。それは彼の精神構造のみでなく、文明の構造そのものでもあったからだ。

第一次大戦後にもなお生き延びるに足るものは何か。人間社会が維持しうるぎりぎりのものは何か。それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。たぶんマネジメントというのは縫合のための最も有効なのりしろというか、より糸だったのではないか。彼が日本の明治維新に同 質のものを見出し、そこに自らの志操を仮託したのはそのためだろう。では他に誰かいないかと思っても、少なくともハプスブルグ帝国にどっぷり浸かっていた人のなかには見出しえなかったはずだ。その仕事の模範はヴァル ター・ラーテナウをはじめ、いくたりかしかいなかったと思う。国と社会は違えども、渋沢栄一はその重要な人物の一人だ。切断された社会の半身を奪還して別の原理を持つ社会に縫合してみせた成功事例を語れるものはほかになかった。

しかし残念ながら同時代人ラーテナウはドラッカーが少年時代に暗殺されてしまう。だから、彼は独力で、可能な知識をフル動員して方法を発見しなければならなかった。

上田 確かにそういうふうに考えたのが、あの文明の断絶を経た世代の特徴だ。

その使命感は、先行世代にも後続世代とも共有されていない。そして、彼のいささかわかりにくい特性の多くは、この世代的な条件づけによって解釈可能だと思う。

それにマネジメント、文明批評、技術論あるいは美術など個別的な彼の仕事については、きちんとした批評の言葉が存在する。それらがきわめて質の高いものであり、それまでの常識を打ち破るものであるということは、繰り返し言及されている。しかし、その全てに通底する根本的な志向性、あえていえば「ド ラッカーはどこからきて、どこに向かおうとしていたのか」について問いかけた論者はあまりいない。

井坂 彼がめざしていたのは、途方もなく素朴なものだったと思う。それは社会のなかの高質な存在、あえていえば「美質」に対して敬意を払い、次の世代に継承することだった。彼は保守主義者である。日本に限らず世界のどの社会についても、父祖から受け継いできた伝承や技芸に対する配慮と敬意がある。

彼が日本美術や技術に関心を寄せたのはそれらが凝縮的に表現されていたため だろう。 そのために彼は多くの敵と闘った。青年期彼はナチスと闘った。彼は当時ふつうなら踏み込んではいけないところにさえ踏み込んだ。ゲッベルスをはじめナチス幹部にインタビューさえした。そこにまっすぐ踏み込む市民は、ふつうはいない。それだけのリスクを冒すことはしない。でも、彼はそれを恐れてはいけないと思っている。

社会を保守に値するまともなものにしようと思ったら、ふつうの市民が勇気を持つべきと考えていた。真摯さとはそのようなことだと思う。孤立無援のなかでも、なすべき仕事は果たさなければならない。彼にはその覚悟があった。侍や騎士のエトスに近いものが感じられる。

そのようなものを安易なあやうさや品性の下劣さ、卑しさに委ねない決意が 彼にはあった。この社会は自らのかけがえのない資産なのだから、引き継いで いかなければならない。そのような志が今にいたってことさら感じられる。