[対話]上田・井坂--聞く行為のポリティクス

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社会生態学の方法論

――「聞く」行為のポリティクス

 2006年2月

上田 ドラッカーの発言領域は驚異的なほどに多岐に及ぶ。それは通常の経営学の領域を遥かに超越する。

戦略論、意思決定、マーケティング、イノベーション等、いずれにおいても一流の立論を展開する。しかし、いずれも彼の経営手法における方法論は、マネジメントという大河から流れ出す奔流であり、そのマネジメントも思想的には保守主義、そしてその方法論としての社会生態学という果てしない海に注ぐものである。

社会生態学者は保守主義者たらざるをえない。両者は表裏一体の関係にある。そして、その特徴は限りなく複雑で限りなく危険な世界に立ち向かう手法を持つ。その方法論として、「見る」行為と同様に、あるいはそれ以上に重要な「聞く」行為についてさらに展開していきたい。

 

なぜ「聞く」のか?

「聞く」とは、見ること同様に、自らの把握できない現実を知るための方法として最も重要な意味を持つ。

社会生態学者は、知識社会、組織社会についての現実を見る。これらは20世紀特有の現象であり、その意味で人類史上例のない事象である。観察対象について先駆者を持たない現象である。

だとするならば、まず対象を見なければならない。その構造と変化を丹念に観察しなければならない。そうでなければ、空理空論に陥る。本質を雑音ととり違え、雑音を本質ととり違える。あるいは、単なる思い込みを事実ととり違える。

井坂 ここにおいて、社会生態学者は保守主義者たらざるをえない。近代保守主義者E.バークのとった手法もこれだった。彼はフランス革命という人類史上例を見ない急進的変革を丹念に観察した末、それが偽物であることを見抜いた。これがドラッカーの方法論であり、楼上の人リュンケウスの役割である。

彼の方法論は見て聞く、そして行動するという一連の有機的体系を基礎として持つ。ゆえに現実を起点とせざるをえない。複雑で危険な世界と正対し、全体を把握対象とせざるをえない。未来について青写真を描かず、手持ちの道具を変革の手段とせざるをえない。

反対に理性主義者は社会生態学者たりえない。複雑で危険な世界に唯一の原理を措定するならば、見て聞く必要はない。あるのは命令と統制のみである。理性による抽象とはつまるところ、専制につながる。ドラッカーがルソーからヒトラーへの連続性を洞察しえたのも、上記の根本認識による。

上田 この複雑な世界にはあらゆるものにあらゆる側面がある。とするならば、その側面はとうてい一人の認識能力で把握することは望みえないものとなる。同一人物が異なる時空に身を置くことは不可能である以上、必然的に他者の持つ現実に耳を傾けざるをえなくなる。現実の把握には他者の意見を必要とする。

ドラッカーがコンサルタントとして生涯を送った背景にはこの「聞く」行為の持つ決定的な意味が潜んでいる。それは単に情報を収集するのみではない。他者の見る現実をわが現実として共有する手法として重要性を持つ。ゆえに、いかなる組織もアウトサイダーを必要とする。まして企業のような外部に維持発展の機会を持つ組織にいたってはなおさらである。

 

万能薬への誘惑

井坂 社会生態学的手法は当然にして実行されるものではない。反対に、理性への過信は現代社会に普遍的に見られる危険といってもよい。

上田 企業の場合で言えば、MBA修了者への偏重がこれにあたる。2000年以降、わけても海外MBA出身者がマネジメントに採用される傾向が強くなった。しかし、MBAに典型的に見られる傾向とは、その定量化、ツールへの過信である。現実にMBA取得者自身に失望感が見られるように、それらは複雑な現実を把握する道具として驚くほどに陳腐である。

特に頭脳明晰な若者には、ドラッカーも警告するように、注意が必要である。彼らはツールや定量化に熱心なあまり、真に変化を引き起こす要因を見落とし、同時に現実との接点の薄い要因を重視しがちである。過剰に理論に頼る者は、あえて現実を見たり、人に聞くことをしない。その必要性すら感じない。

同時に、理論体系に没入するとともに現場から疎遠なため失敗を知らず、その分経験と直観に弱い。

ドラッカーが指摘するように、「一度も間違いをしたことのない者、 それも大きな間違いをしたことのない者をトップレベルの地位に就かせてはならない。間違いをしたことのない者は凡庸である」(『現代の経営』)。

むしろマネジメントやエグゼクティブは頭脳明晰である必要はない。マネジメントとは実践である。科学ではない。それはいかに成果を挙げるかに関わるものの考え方であって、本来頭脳の明晰さとは関係のない手法である。

 

保守主義的アプローチとしての二本柱

井坂 企業は内部においてコストしか持たない。機会を探し求めるならば、それは外部にしか存在しない。そして、外部における顧客は、そこに存在するものではない。企業自らが創造するものである。

上田 企業は20世紀以降、社会の中心的機関としての地位を手にした。それは単に経済的機関であるのみならず、社会的機関、ひいては政治的機関である。

20世紀以前までの中心的機関、たとえば教会、軍、王権等は、人に聞くことをしなかった。というよりも、人に聞く必要などなかった。あるのは意思決定とその執行のみであった。それは、個々の組織が社会的な正統性を宗教や権力の面で担保されていた事実の現れである。そこには議論の余地というものがそもそも存在しなかった。

しかし、企業とは正統性が予め担保されていないという史上初めての組織である。ここに企業組織の持つ最大の強みがあるとともに最大の弱みがある。

企業とはその経済的機能を通じて、社会的、政治的正統性を獲得し、創造しなければならない。そして、その達成を意図する点において、「人に聞く」すなわち、他者の現実をわが現実と調和させる意識的取組みが致命的なまでに重要性を帯びる。それは社会的行為であるとともに政治的行為である。

ドラッカーが次のように言うとおりである。「経営者がその権威を権限として行使できるのは、あくまでも、社会の公益を基礎とするときだけである」「事業にとってよいことであるか、あるいは経済全体にとってよいことであるかさえ、関係のないことである」(『現代の経営』)。

この機能を言い換えたのがマーケティングである。マーケティングとは、単に顧客を創造し、企業の生産機能を向上させるための機能ではない。顧客の創造と生産機能の向上を「通じて」、企業組織を社会的、政治的に正統的たらしめる機能である。いわば、正統性獲得のための機能と捉える必要がある。

さらに、正統性とは獲得されるのみでは十分ではない。それは現実社会の変化に合わせて創造される必要性をも併せ持つ。この正統性の創造、企業組織における変革の原理が、イノベーションに相当する。

ドラッカーがマーケティングとイノベーションを企業活動の両輪にたとえるのも、彼の思想的基礎としての保守主義、さらにはその手法としての社会生態学に深く根差すものと考えられる。

 

「知らない」からの出発

井坂 人は地位や名声を手にするほどに、他者に聞くことをしなくなる。また、「知らない」とはいいづらくなる。「聞く」とは、複雑で危険な現実に立ち向かう姿勢の現れである。相手が来るのを待つのではなく、自ら立ち上がって出かけていくきわめて能動的な行為である。反対に言えば、現実から目を背ける最良の方法が「聞かない」こととなる。

上田 わけても、企業の経営管理者にはこの傾向が強い。周囲にイエスマンばかりを置き、甘言を呈するとりまきばかりになった企業組織は末期である。目をつむり、耳をふさいでも、眼前の現実が消え去るわけではない。そのような企業組織は堕落し、陳腐化し、いずれは淘汰される。

マーケティングの方法論について見るならば、8割は「聞く」ことから成り立っている。顧客に聞き、小売店に聞き、流通業者に聞き、従業員に聞く。これらすべてがマーケティングである。対象は顧客だけではない。人間社会全般である。複雑な現実に対峙し、その把握を試みるものは、どこまでも聞き続けなければならない。問い続けなければならない。

そもそも、一人の人間に知りうることなどたかがしれている。知らないことなど無数にある。まして、マネジメントの立場にいる者にとって、その外部世界の複雑さ、変化の速さから、把握可能な現実など巨大な海の一滴でしかない事実を肝に銘ずるべきである。

だとするならば、「知らない」ことを謙虚に人に聞く行為がさらに重要となる。知ったかぶりをする人は魅力がないだけではない。その責任が重ければ重いほどに危険な存在である。彼らの意思決定が企業組織の未来に決定的な影響を与える。

ゆえに、ドラッカーは特にマネジメントに対して、「周囲を観察し、耳を澄ませよ」「歩き回れ」と助言してきた。見て、聞くことをしつこいくらいに推奨してきた。

さらには、「外へ出よ」とまで言った。ひとかどのトップ・マネジメントに対して、「街角に立て」「店のカウンターに立って見よ」さらには、病院院長に、「自分の病院のベッドに3日間寝てみろ」とまで言った。そうすることで、見えない現実が見える。聞こえなかったものが聞こえる。さらには、見えるべきあるいは聞こえるべきものが何なのかまでわかる。

全宇宙で知られているものなど無に等しい。「見る、聞く」行為とは、全宇宙に対して全身で対峙せよとのメッセージでもある。

 

「聞く」方法

井坂 ドラッカーのコミュニケーション論に見るように、情報はそれ自体意味を持ちえない。意味と文脈を獲得しなければ、それは何の訴求力も持たない。情報に意味をもたらすのは、人間である。しかも、異なる現実を持つ者同士の協同的行為である。「大工と話すときは大工の言葉を使え」とはそのような状況下で意味を持つ。

上田 聞くにも方法がある。

一つは自分が相手の立場だったらどう考えるかに常に気を配ることだ。誰にでも先入観や偏見はある。それを捨象する必要はない。先入観や偏見はこの価値観とわかちがたく結びついており、強みの一部をなす。だから捨てることはできない。

むしろ、自らの感性をベースに人の話を聞く。そうすれば、最初まったく受け入れがたく見えた相手の意見にも一部の理があることも見えてくることが多い。いずれにしても、それまで見えなかった相手の現実が、耳を傾けることで見えてくることは間違いない。

今一つは未来に対して耳を澄ますことだ。つまり、相手の言うことだけでなく、言わないことの意味まで考えてみることである。

たとえば利潤目当ての企業買収を誰もが行うようになったらどうなるか。あるいは、他人の著作物の盗作を誰もが行うようになったらどうなるか。今は小さな兆候に過ぎなくとも、それを誰もが行うようになれば、市場の権威や知的所有権といった経済社会の根幹に影響を与えることになる。

そこでの重要な尺度は美意識である。何か小さな事柄を、誰もが行うようになったとき、その状況は美しいかと問わなければならない。

さらに、自己啓発の手法としても、聞くことは重要である。彼の推奨する方法は2つある。

一つはフィードバック・アプローチである。これは自らの活動目標を紙に書き留めておき、半年あたりを目安にその達成度合いを確認していく手法である。いわば、自らに問いを発する手法であり、自己内対話を促すことで、自らの強みを客観的に明らかとする手法といえる。

今一つは、人に聞くことである。

率直に人に自らの強みを聞いてみることである。他者は本人以上に彼の強みを知っていると考えて間違いはない。ともに、自らの持てる強みを認識するとともに、行動への指針を示す点において、マーケティングとイノベーションと同様の意味を人に対してもたらすものと考えられる。