[対話]上田・井坂--ポストフォーディズム

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マネジメントの新潮流

――ポスト・フォーディズムの企業のかたち

 

2006年2月

井坂 近年のマネジメントの文脈から「未知なるものの体系化」はどのように理解すべきか。

上田 すでに、ドラッカーは『断絶の時代』(1969年)で、このことを見据えている。彼はその前年1968年に何か大きな変化が起きたと感じていた。

ここでも、未来の全体像を描くために、欠けたパズルのピースを探し求めた。メンデレーエフの周期律もそうだが、今はないもののあるはずのものがわかった時点で、今あるものの意味も見えてくる。全体像が見えてくる。これはイノベーションの方法論そのものである。

ただし、彼の場合は、あるはずのものだけでなく、あるべきものまで自ら作り出した。その最初がマネジメントの「発明」であった。自ら言葉を生み、コンセプトを創造し、生命を与えることで、新文明の行く末を見据えた。

『断絶の時代』における最大のメッセージは知識労働者が世の中の主役になるという点にあった。土地や資本といった既成の生産手段に縛られない新たな労働者像が示された。ここにおいて、ビジネスマンこそが社会や文明の担い手とする従来の彼の主張がいっそう重要な意味を持つこととなった。

井坂 『断絶の時代』刊行の前年1968年は各所で根本的変化が生まれた年として記憶されている。欧米ではこの年に関する書物だけで相当な数に上ると聞いたことがある。なかでも、先進諸国では学生たちを中心とした反乱が頻発していた。パリ5月革命の年でもある。アメリカではピッピーたちによる反体制運動がうねりを上げた。日本でも全共闘と呼ばれる大衆運動があった。これらに共通するものは、反大組織であった。巨大政府、巨大企業など、人間の尊厳を傷つけ、搾取する強権を槍玉に上げた。同時に、大量生産・大量消費という戦後文明を象徴付ける産業システムに対しても、反発が高まっていく。

大量生産・大量消費の世界をフォーディズムと呼ぶことがある。自動車会社フォードの大量生産工場にちなんで付けられた名称である。20世紀初頭、第2次産業革命の影響で、生産性は飛躍的に向上していく。だが、生産性の向上ばかりでは経済全体は発展しない。消費が生産に付いていく必要がある。それまでは一部の富裕層の商品だった自動車をはじめとした奢侈財が一般大衆に普及しはじめたのはこのときだった。

消費者とは裏返せば、大量生産工場で働く労働者たちである。彼らが商品を購入できるようにするためには、賃金の向上が必要となる。そして、賃金が安定的に上昇する仕組みが必要となる。だが、一方で経済社会が高度化していくにつれ、深刻な事態が問題ともなった。その最たるものは恐慌である。市場の自己調整的機能が現実に付いていかなくなる状態が起こるようになった。そのたびに労働者が解雇さるならば、経済システムの安定性にとって大きなマイナスである。それは消費者にたいする負の側面のみならず、生産者、ひいてはシステム全体の危機を意味した。

このような状況から生起したのが、労働組合だった。労働組合の出現により、労働者の賃金は下がりづらくなった。解雇も容易には行えなくなった。さらに、ケインズに代表される福祉国家政策が実行されるようになり、景気循環による悪弊は次第に低下していく。同時に、安定的なシステムのもとに、企業は生産活動に励み、大規模化が進行していった。いわばフォーディズムの世界とは、政府、企業、労働組合の三者が巨大化していくプロセスを指す。

一方、戦後を特徴付けるこのようなシステムも、60年代後半から70年代初頭にかけて、衰退の兆しを帯びていく。いわば、市場の自己調整機能を超える出来事が頻発する。石油ショックや通貨の問題はその一例に過ぎない。ここから、ポスト・フォーディズムの世界への以降がはじまったとの見解をとる論者もいる。ポスト・フォーディズムとは単に大組織の有効性が低下したというのみではなかった。ドラッカーの語彙で言えば、社会による救済の終焉をも意味した。

 

大きな物語の終焉

上田 彼は当初より、企業の正統性はあらかじめ定められたものではなく、時代状況に合わせて創造されていくものと考えた。そもそも正統性とは、大衆の信条や価値観に応じて決まるものであり、唯一不滅の正統性がありうるという立場をとらなかった。わけても、企業においては、19世紀の王権や軍、教権などと異なり、経済、政治、社会それぞれの側面において、同時に正統性を確保しなければ、真に正統的存在たりえないと考えた。

井坂 1968年の転換は、この文脈から理解したときに、はじめてその意味がわかる。大企業、大政府、巨大労働組合、いずれをとっても、正統性維持の機関としては、不完全なものにとどまっていた。60年代の大衆運動が一貫して反大組織をスローガンに掲げた事実からもこのことは明らかといえる。

彼が80年代に入ってからNPOの議論を開始したこともこのことと無縁ではない。彼は言論活動の開始とともに、社会部門の非営利組織をきわめて重視していたし、自らその活動に携わってもいた。だが、60年代、大組織の根本的矛盾が明らかになった後、その補完的機能としてのNPOに改めて鋭い関心が向けられることとなった。

ここでもいくつかの未知なるものの体系化の手法が遺憾なく発揮された。そもそも69年の『断絶の時代』には副題にもあるように、来るべき知識社会への構想が大胆に宣言された。誰も見たことのない社会が始まった。

上田 知識社会は、生産手段としての知識を持つ多数の労働者からなる社会である。プロフェッショナルな個人による創意が発揮され、社会への貢献がなされる社会である。そのような社会にあって、大組織は十全な機能を発揮しえない。巨大政府による救済も意味をなさなくなる。

井坂 今や専門家同士の知識は国境を越える。かつて労働力だけは移動しないとの事実が国際経済学の前提であった。しかし、情報化の進む現在にあっては、アメリカの大企業のシステムをインド在住のエンジニアが請け負うことなどめずらしくない。すでに、頭脳は国境を縦横無尽に駆け回っている。そのような時代にあって、国家が専権的に徴税権を行使することは事実上不可能となる。事実、トヨタ自動車はすでに決済をほぼドル建てで行う。17世紀以来の国民国家ですら、消滅の危機に瀕している。労働組合にいたっては、それまでの賃金や雇用の維持といったレゾン・デートルの喪失を意味する。

60年代の変化を契機に、巨大組織の神話は徐々に希薄化していく。この時期に、日本でベンチャー企業なる造語が生まれたことも偶然ではない。個人による責任、個人による成果が重視される社会に変わったのはほかならぬこの年であった。優秀人材にとって、大組織のみが選択肢たりうる時代は終わりを迎えた。緩やかな専門家同士のネットワークが意味を持ちはじめたのもこのときからだった。

フランスの思想家リオタールは、『ポストモダンの条件』において、60年代の変化を「大きな物語の終焉」と表現する。いわば、大きな物語から、小さな世界(共同体)への転換がなされた。

すでに、明確なミッションと有能な現場さえあれば、階層型の大組織は不要となりつつある。むしろ、異質な専門分野を持つもの同士のネットワークが新たな企業の形態として行われる。大学の研究室と企業とのアライアンスによる製品開発は現在ではめずらしいものではない。むしろシリコンバレー・モデルとして歓迎されつつある。自前では設備を持たない企業が、複数の中小企業の強みをネットワークして成果を挙げる例も見られる。国際NGOが電機メーカーと組んで、環境にやさしいノンフロン冷蔵庫を開発した例もある。このような事例は枚挙に暇がない。

同じことが60年あたりに行われていたら、大問題となっていたはずである。今では大組織による強権など完全にリアリティを失っている。重要なのは協同で成果を挙げられるかの一点にしかない。

 

マネジメントの発展と変化

上田 ドラッカーに68年以降の変化が見えたことも、見えざるものの体系化という手法によるものだ。それは、全体を全体として把握する思考と密接に関係している。換言すれば対象を一つの生命体として観察するということである。このことはひいては、現実に存在するものには意味があり、宇宙の秩序のなかで位置付けられることを意味する。

目的論的視点を持つならば、全体を見なければ意味がなくなる。現時点で欠けているものの存在も、全体の秩序や意味から見つめ直すことで見えてくる。物事を点ではなく、意味ある立体として見る必要が生ずる。

井坂 ドラッカーのマネジメントの発明もこの思考でなされた。1930年代のドラッカーにとって、正統性を維持するための機関の発見が急務であった。この観点からすれば、彼の初期著作に一貫して流れる根本関心が理解される。

第1作『「経済人」の終わり』(1939年)は、正統性を喪失した社会の悲劇と、そこにつけ込み偽りの正統性を付与することで一時的な支持を得たナチズム全体主義の起源が探られる。第2作『産業人の未来』(1942年)では、大戦以降の新文明たる産業社会に適合可能な諸条件の探索と、その文脈における大企業の意味が見出された。そして、第3作『企業とは何か』(1946年)では、GMの分権制の観察をもとに、大企業こそが産業社会の中心的機関であることが見出された。

上田 生産手段の大規模化にともない、単独の人間では仕事が行えなくなった。そこから組織が生まれた。組織社会における人間の幸福は、それぞれの組織がいかによい成果を挙げうるかにかかっている。ここでマネジメントが必要となってくる。社会的存在としての一人ひとりの人間の幸福のためには、マネジメントがきちんと行われなければならない。マネジメントの歴史はこのようにして幕を開けた。

マネジメント発明の経緯からもわかるように、彼のいう正統保守主義の正統な嫡子として生まれたものである。ドラッカーの経営学自体も、社会についての一般理論を組織者会に適用するところからはじまっている。いずれも、問題関心は企業そのものではなく、正統性確保の方法にあった。誤解を恐れずいうならば、マネジメントが企業からはじまったのは偶然であった。当時の時代状況において、他にふさわしい機関が存在しなかったためだった。

井坂 ドラッカー自身がやや謙遜気味にいうように、彼が発見しなければ、誰か別の人がマネジメントを発見していたとするのは、あながち的外れとはいえない。それほどまでに、機能する社会、正統な社会は人間にとって不可欠な存在であった。マネジメントの発明以降、瞬時にこの概念は社会的機能として認知され、世界の常識になった。社会主義諸国でさえ、マネジメントを無視することはできなくなった。さらには、大学の独立した学部としても認知された。マネジメント・スクールもできた。これが現在のマネジメントと呼ばれるもののルーツであり、発展過程である。

上田 だが、一方で、GMを代表とする大規模生産組織を正統性の根拠とする思考も、時代の産物であり、大衆の信条や価値観に合致する範囲において正統たるものであった。ドラッカーは、マネジメントとは、社会に意味と絆帯を与える社会的機関であるとする。その意味で、マネジメントとは機能する社会にとっての手段である。資本主義や市場主義ですら手段である。便宜的な存在に過ぎない。大事なのは目的としての人間社会である。生命体としての人間社会である。彼が企業をはじめとした組織に注目したのは、その限りにおいてである。人間社会に位置付けと役割、そして正統性を付与する手段としての組織であった。ここに手段としてのマネジメントが意味を持つ。

 

組織の再定義

井坂 組織という語の印象を学生に聞くと、十中八九「冷酷」「非情」「非人間的」という答えが返ってくる。いずれにも暗く陰惨なイメージである。このような印象はゆえなきこととはいえない。従来、組織の原型とは、軍隊、官僚くらいしかなかった。ゆえに、組織という語にそれらの陰影が付きまとってきた。これは日本特有の現象ではない。欧米でもorganization manとは非情で機械のような人間像を指す。

現在にいたっても、われわれは組織という存在を扱いかねている。ドラッカーは「そもそも組織というものが最近の発明であるために、人はまだ、それらのことに優れるに至っていない」という。事実、組織は現実的意味を帯びはじめてまだ100年程度しか経っていない。

しかし、組織の概念が過去の経緯からあらぬ誤解を受けていることも確かである。これは企業に今だ汚らわしいイメージが消えないことと似ている。組織という語を見るならば、「組まれ、織られる」ものである。人体の部位を組織ともいう。英語のorganizationのorganも本来は有機体の意である。組織とは、人間同士の有機的協同を指すもの、あるいは生命体を指すものだったが、現実には、それとは似ても似つかない観念が固定化している。

1969年の『断絶の時代』による知識社会の提唱により、ようやく組織という語の本来の意味が生命を帯びはじめた。人間が組織という最近の発明に習熟する第一歩ともいえる。それによって、軍隊や官僚組織を範とする階層型組織、一元的な命令系統による組織が新たな視角によって問われはじめている。

当然といえば当然の変化である。

上田 知識社会とは、知識が生産手段となる社会である。今日知識とは、成果を生むための高度に専門化された知識のことだ。専門家同志が自らの強みを生かして協同的に成果を挙げる社会が知識社会である。ドラッカーは、ソクラテス以来、つい最近まで、行動のための知識は、テクネ(技能)として低い地位しか与えられなかったことを指摘する。それらは体系的に教えられるものではなく、中世のギルドに見られるように徒弟制度のなかで会得すべきものだった。しかし、今日われわれに必要とされる知識とは、まさにこの行動のための知識、しかも客観的で伝達可能な知識である。

そこでは、大規模生産工場のように、構成員全員が同じ時間に同じ場所で活動することに意味がなくなる。本来人はそれぞれ強みと弱みがあるのと同様に、それぞれのリズムやパターンがある。専門性を発揮し、成果を挙げる方法は人それぞれ異なる。このようなことを可能にするのが知識社会の特徴といえる。ドラッカーにおける組織とは、専門知識を有機的に連携させ、さらには結合できる場である。階層的か水平的か、指示命令系統が明確かプロジェクト型かはいっさい関係はない。組織とは、企業、政府機関、NPOなど、人が目標に向かってともに働く場すべてを指す。したがって、知識が中心となる社会は、必然的に組織の社会となる。脱大組織はあっても、脱組織はない。

もちろんここにいう組織とは、硬直的、閉鎖的なものではない。特にこれからは出入り自由のものとなる。雇用関係、資本関係の有無さえ問わない。協力、連携、パートナーシップを含む多様なつながりとなる。人類にとって、このような社会ははじめての経験である。

むろん専門家は単独で成果を挙げることはできない。知識は高度化するほどに専門化し、専門化するほどに単独では役に立たなくなる。他の知識と連携して役に立つ。得意な知識で一流になると同時に、他の知識を知り、取り込み、組み合わせることで大きなパフォーマンスを挙げられる。

 

いかに社会に貢献するか

井坂 成果を挙げるには組織を必要とする。一流の脳外科医は脳腫瘍の摘出には最高度の技術を発揮するが、足の親指の付け根の疼痛を治療できる保証はない。それぞれの分野にはそれぞれの専門家がおり、全体として連携することではじめて医療は成立する。同様に、いかなる専門家といえども単独では機能しえず、必ず他者との協同によって成果を挙げざるをえない。これが知識社会の特徴の一つである。

だが、大企業のみが有能な労働者にとっての唯一の選択肢である時代はすでに終わっている。知識社会における組織とは、必ずしも大企業のみではありえない。他者との協同によって専門性を成果につなげうる集団全般である。規模はもはや成果とは関係がない。

実際に、大企業のみを他の組織と区別して論ずる必然性は存在しない。中小企業、協同組合、NPO、大学等さまざまな大小の組織が連携によって成果を挙げつつある。現在にいたっては、90年代半ば以降の情報技術革命がこの動きをいっそう高度なものとしている。

1968年以降の大量生産・大量消費を特徴とするポスト・フォーディズムの世界にあっては、マネジメントの方法も異なるものとなる。ドラッカーが『企業とは何か』以来、大量生産を可能としたテイラーの科学的管理法を評価しつつも、その実態については、個々のリズムを無視した人間工学上劣悪なシステムと批判してきた。ポスト・フォーディズム以降の緩やかな連携による組織形態こそが、ドラッカーが当初より構想したマネジメント体系の適用対象として高度の現実性を帯びるものとなったことは間違いない。

上田 マネジメントとは、高度に専門的な知識を他との協働で有効なものとするための方法である。こうすることで、機能する社会は可能となる。これがドラッカーのマネジメント論の基本である。したがってマネジメントもまた、日々進化していく。マネジメントのパラダイムは転換してやまない。マネジメントとは企業のためのものとする前提がすでにポスト・フォーディズム以降の社会にあって崩れている。それは、あらゆる種類の組織のためのものとなっている。さらには、一人ひとりの人間の責任に関わるものとなっている。今や、自らをいかにマネジメントするかが重要な意味を持つ。いかに働き、いかに社会に貢献するかということは、人間の実存や幸福に関わる大問題である。いかに生きるかという根本的な問いへと直結するためである。

井坂 ドラッカーが『明日を支配するもの』(1999年)や、『ネクスト・ソサエティ』(2002年)で展開したマネジメントのパラダイム転換は体系としてのマネジメントの本質と、その現在の状況を確認するものだった。そして同時に、未知なるものの体系化と総合的意味付けを行うものだった。

上田 アメリカでは、NPOが自己実現と絆の場となってかなりの時間が経過している。自らの能力をフルに発揮し、社会に貢献し、他者との絆を確認する場所がNPOである。1968年以降、政府をはじめとした大規模組織が社会的な問題の解決にほとんど無能であることが明らかになった。現在にあって、アメリカだけが解決の糸口をつかんでいるかに見える。つまり2つの問題を同時に解決する糸口をつかんでいる。それがNPOの興隆である。NPOは助けられるものにとっての救いだけではない。助けるもの、ボランティアにとっての救いでもある。それは今、もっとも求められている、一人ひとりの人間の市民性を回復させる足がかりとして機能している。

これからは一人ひとりの人間にとって不可欠のコミュニティなるものが大きく変わる。機能する社会を創造する正統な組織にとって、その形態を問わず、コミュニティたることは第一の前提条件である。もう村や隣近所ではない。それはどこに見出せばよいのか。われわれは都市にこそコミュニティを見出さねばならない。アメリカではボランティアとして働くNPOがその役割を担っている。日本では、新しく自由で柔軟な組織に転換した後の企業をはじめとする場がその役割を果たすかもしれない。あるいはそれぞれの責任ある個人の、それぞれの専門領域の世界かもしれない。

他方、社会の力、中央政府の力によって社会を救おうという時代が完全に終わった。政府に対し社会を救えと要求はしても、本気でそう思っている人はきわめて少数派である。そのような意味での社会主義は通用しない。すでにリアリティも喪失している。ケネディのような進歩主義も通用しないし、ジョンソンの掲げたプログラムも役に立たない。

政府が自らの手で社会を救うことができないことは、今や誰もが知っている。その意味で、イギリス保守党に民営化のアイディアを与えたのがドラッカーの『断絶の時代』(1969年)だったのは、偶然ではなかった。

だが、このような見解は決して真新しいものではない。すでに明治期の実業家、渋沢栄一にあって、現在進行中の試みはすべて実行に移されていた。渋沢は500の企業を立ち上げ、600の社会福祉機関を支援し、成功させた。しかも、渋沢にあって、それらは目的としても手段としてもいっさい区別すべきものとされなかった。ドラッカーが最も高く評価する日本人の一人が渋沢だった。

 

人のほうが組織よりも長生きする

井坂 現在から振り返るならば、68年の持つ意味がいっそうよく理解される。それは社会による救済という戦前の亡霊が消えた年であった。巨大組織信仰の背後にあったのも、しぶとく戦後まで生き残ったこの観念の賜物であった。政府、企業、労働組合いずれも、巨大化により生活空間の構造化を行う試みであった。構造化によって市民生活のリスクを最小化する試みであった。このような強固な社会システムが居座り続けた日本においてさえ、90年代以降政府によるセーフティネットの代替案が模索され、構造改革が志向されていった。

ドラッカーの組織概念は、むしろ現在でネットワークないしネットワーク組織に近いと思う。ネットワーク分析は現在興隆を極めている。この語の持つ意味はまだ確定されたものではない。しかし、自律的な個の緩やかな連携による創発性を志向する場を指す語としては定着している。

ネットワーク分析とは、主体そのもの以上に、主体と主体とのつながりに着目するアプローチである。ドラッカーが観察対象とした現実も、つまるところこのつながりと言い換えてよいかもしれない。単独の音符が音階によって長調にも短調にもなりうるように、人間や組織も与えられたコンテクストによって異なる響きを発する。現在必要とされるのは、ネットワークにおいて人間社会を意味あるものとするためのマネジメントである。

そこでは個の自律性と責任が前提となる。

上田 すでに、会社のほうが人間よりも長生きする保証はない。会社のほうが人間よりもしっかりしており、会社に寄りかかっていれば大丈夫という時代ではない。それ以上に、人間のほうが会社よりも長生きし、しっかり自立しているほうが、会社にとってもはるかにありがたい存在となっている。

井坂 情報技術の成果を活用し、経済社会が高度化するにつれて、社会全体を人為的制御の下に置くことはもはや期待できない。社会による救済の終わりとはそのようなことだ。60年代以降、ケインズ型福祉国家政策の有効性に疑問符が付けられてから、この流れは強まりこそすれ弱まっていくことはない。

上田 大規模組織が有効性を持たなくなった後、社会で位置付け、役割、正統性を付与するものとは何か。これが現在のマネジメントの重要課題である。同時に、知識労働者の生産性をいかにして高めるかという課題とも直結する。まだ具体像は見えていないが、ある程度の予測は可能である。少なくとも大規模組織の復権はありえない。

技術や経済は変化しても、人間や社会の本質は変わらない。いかなる時代にあっても機能する社会を必要とする。真空のなかを浮遊する分子状態に耐えることができない。ドラッカーは、新たな企業の形態を異業種によるコンソーシアムを例としてヒントを与えてくれている。それは19世紀ヨーロッパの協同組合である。相互の対等なパートナーシップが鍵となる。しかも、われわれの多くは高度に都市化された空間で生活している。都市にコミュニティをつくること、小さな共同体をつくることも喫緊の課題となる。