[対話]上田・井坂--未知なるものの体系化を語る

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見えないものをどう見るか

――未知なるものの体系化

 2006年2月

 

企業とは何か

井坂 前回、ポストモダンについて伺った。これを企業経営の視点から考えていきたい。まず、相も変わらず「企業とは誰のものか」という問いが存在するが、これについてどう考えるか。

上田 企業とは株主のものとも言われるし、従業員や顧客といった利害関係者のものとも言われる。だが本当にそうなのか。

ドラッカーの社会的責任論を見るならば、問いの立て方自体に問題がある。企業とは誰のものかという問題以前に、人は何のために働くのかという問題があるのではないか。

これまでも、企業の持つ社会的意味に関わる不祥事がいくつも起こってきた。では、企業とは何なのか、何のために存在しているのか。私は世のため人のために存在しているとしか答えられない。人が働くのも世のため人のためである。

井坂 ドラッカーは次のように述べている。「経営管理者は現実的でなければならない。しかるに、冷笑家ほど現実的でない者はいない」(『現代の経営』)

世のため人のために企業は存在するなどというと、冷笑する人がいる。非現実的だという人がいる。だが、それを冷笑するほうが現実的でない。まして、利益のために企業経営を行うなど、非現実きわまりない発想である。

上田 ドラッカーは、そもそも利潤動機なるものが存在しないとする。経済活動のダイナミズムを説明できなかった古典派経済学がでっち上げたものだという。事実、心理学にはそのようなものはない。

実は、利益とは明日のためのコストであって、存続の条件となるものである。明日さらにすぐれた事業を行うための条件である。条件とは手段であって、それを目的と取り違えることこそ非現実きわまりない。ただし、条件としての利益は、通常目的としている利益よりもはるかに高率である。

われわれの事業は何か、さらには、社会に対していかなる貢献をなしうるか。素晴らしい世の中をつくるために何をなしうるか、このような企業の存在の本質に関わる問題について、週に5分でよいから役員室で議論するならば、社会的責任に関わる深刻な事態の多くは起こらずに済むはずである。

典型が、未公開株の譲渡に関わる問題である。良識ある有力者に未公開株を保有してもらうという考え自体は、パーフェクトである。素晴らしい株主を持つことができる。ところが譲渡先に本業に関係のある官僚がいると意図とは関わりなく事件になる。

通常、組織にはこの種の問題に敏感な者が存在する。企業の外部の視点からものを考える者が存在する。そのような者が、たとえもごもごとではあっても発言をし、それに耳を傾けることができれば、事件は起こらない。

しかし問題は、事件になるかならないかではない。実に今日、企業は、望まずして、社会における正義の実現に寄与すべきことを期待される存在になっているのである。60年前ドラッカーがこれを期待し、今日では社会がこれを期待している。

井坂 物事の本質を見る者は、理路整然と自説を展開できないことが多い。そもそも、本質を論理で的確に言葉で表現することが、至難の業である。それは、楽器の調律の歪みや、絵画の色彩感覚のまずさを論理で表現できないのに似ている。それは論理の世界ではなく、知覚の世界に属する。

 

反駁なき提案を警戒せよ

上田 調和的で美しい提案に対して、われわれは警戒しなければならない。地球環境のため、地域住民のため、貧困解決のため、などさまざまな非の打ちどころのない提案が世の中には多く存在する。しかし、反対できない提案にわれわれは警戒感を持たねばならない。それは、よい意思決定と全会一致は原理的に相反するためである。全会一致を強いる論理は異常であるためである。

人間の認識能力には限度がある。人間とは不完全かつ脆弱なものである。見えていない現実のほうが想像を絶するほどに大きい。したがって、反対意見が想定されるときに、ようやくよい提案といいうるものとなりうる。反駁の余地のない意見は、現実の世界では危険過ぎる。

「これはおかしい」「しっくりこない」といった感性が現実の世界では重要である。私自身、この経験がある。

かつて属していた組織のなかで、使途のあてのない管理職の積立金をある団体に寄附しようという提案があった。それ自体は、美しく、理路整然として非の打ちどころのない提案だった。出来過ぎの提案だった。反対できないことにしっくりこないものを感じた。だから、私は話がうますぎるとしてその場で決定することに反対した。

反対できない提案とは、フェアとはいえない。反論できないロジックを使うのはアンフェアであり、発展の可能性を著しく低下させる。いかなる提案も、反論される可能性を必要とする。反駁を許さない論理を警戒しなければならない。その独善性を意識しなければならない。

反対できない意見にしても、一時的に支配的な現実に過ぎない。悲劇はそれがしばしば正義や真理を僭称することから起こる。ドラッカーは、真理や正義というものを人間が直接手にできるものとは考えない。正義とは人間のものではない。正義や真理を手にしたと称する人間や政党が現れる時代は、社会にとって間違いなく危機である。

彼らには、自らの正義や真理を理解しない人間を、人民の敵、進歩の敵、非国民として、強制収容所に送り、断頭台にかけ、銃殺する責務が生ずるからである。そのような人々にとっては、反対意見など存在しない。理解する者と理解しない者が存在するだけである。フランス啓蒙主義が教育を過度に重んじ、真理は教えればわかるものであり、わからない人々への教化のみが重要と考えたのもそのためだった。だからその直後にギロチンの時代がきた。

80年代の終わりに、メセナやフィランソロピーが奨励された。現在でも企業の環境対応やCSR(企業の社会的責任)に引き継がれている。

むろん、企業が社会貢献や環境活動、ボランティア活動等について熱心であること自体は素晴らしい。しかし、しばしば社会的機関としての企業の本質が見失われることがある。われわれは、責任という言葉をもっと深刻に捉えなければならない。責任と権限とはコインの両面に過ぎない。どちらか一方が独立して存在することなどできない。法律の世界でも、国民の権利義務として、一対の概念として捉えられる。

ドラッカーは新たな責任の付与は新たな権限の付与につながるという。ボランティアを企業の新たな責任と認識することで、それに不熱心な社員に昇進や給与で差を付けることがあってはならない。価値観をステイクホルダーに押しつけることは企業に許されることではない。権限の濫用である。そういうことに胡散臭さを感じるという美意識が必要である。

 

言葉を持たないポストモダン

井坂 彼が正義の語を使うのは、機会の平等などきわめて限られた文脈においてのみである。少なくとも、それはア・プリオリに措定されるものではない。

上田 そもそも、世の中で「なぜ?」という疑問に一語で答えられるものなど例外である。原因は「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」である。あらゆるものがあらゆるものにつながっている。だが、このことがわかっている者ほど、議論では負ける。論理の明晰さと比較して見劣りがしてしまう。

世の中うまい話に注意せよという。「こんなにうまい話があるのだろうか」と感じる者はどこにもいるはずである。彼らの意見が黙殺されることが悲劇を招く。理論で完全に説明できることは、危険である。その他の感覚を排除してしまう。見られることのない現実が見られないままに終わる。理論は無限の現実のわずかを占めるに過ぎない。このことを忘れてはならない。

そこで重要なのは、conceive(分析)すること以上にperceive(知覚)することである。これが社会生態学の流儀でもある。だが、現実の世界では前者が後者に勝つ。ポストモダンの世界は見えざるものを知覚する世界である。ゆえに、言葉やスローガンがいまだ存在しない。言葉で十分に表現できない。

井坂 知覚の世界に関わる表現手法は、論理の世界以上に知覚としての文学や芸術の世界に近い。事実、これまでも重要な世界史的な出来事が文学の世界において先取りされたケースは少なくない。ロシア革命を先んじて描写したドストエフスキイの『悪霊』が代表例であろう。ゲーテの『ファウスト』にも貨幣鋳造の管理について、未来を活写する場面が出てくる。ナチス興隆の前にハイネの詩には「本を焼く体制は、やがて人間を焼くようになる」とあった。知覚による把握が正しいということは多い。

 

目標管理への誤解

上田 まったくそのとおりだ。ところで、このことはコミュニケーションの方法とも関係する。さらには目標管理にも関係する。

コミュニケーションは「われ」と「われ」という単独の主体の間に成立するものではない。「われわれ」がともに経験し、ともに把握することからそれは可能となる。それなくして情報は意味がない。ましてデータに意味はない。

ナレッジ・マネジメントがうまくいかないのは、ここに原因がある。従業員や顧客に関するデータをいかにトラック一杯分収集・整理したところで、ともに把握し思考されることがなければ、ただの巨大なごみに過ぎない。

ドラッカーの提唱した目標管理が、経営管理者が目標を与えて管理するという彼の思想と似ても似つかないものになったのも、この問題にまつわる誤解が関係している。目標とは経営管理者が独断で設定するものではない。経営管理者が勝手に決めたことを従業員にノルマとして課すなどということは、目標管理とは似ても似つかない手法である。

目標とは組織に働く者が協同で「われわれ」として設定するものである。ともに信頼に足る現実を選び取るものである。そのような試みにおいて、反対論の出ない不滅の真理なるものがありえようはずがない。ドラッカーは『現代の経営』で次のように述べている。

「今日、目標管理すなわち目標によるマネジメントについての議論のほとんどが、『唯一の正しい目標』を探求しようというものである。しかしそのような探求は、賢者の石の探求のように空しいだけではない。明らかに毒をなし、誤り導く。」

医学におけると同様、企業組織にあっても万能薬や賢者の石があると考えることは愚かである。本来一個の意見に過ぎないものを、あたかも唯一不滅の目標や解決策であるかのように提示することは大きな誤りである。日常の会議室でこのような言動がよく見られるが、警戒しなければならない。

 

未知なるものの体系化

井坂 世の中には知られていないことは無数にある。このことを踏まえて、ドラッカーは未知なるものの体系化といった。

上田 人間や社会にとって知られていないことは無数にある。喫緊の課題にもかかわらず知られていないこともたくさんある。存在も活用の方法も知られていない。しかし、その多くは学者の発明や体系化を待ってはいられない。

人間社会にとって、大事なものは目に見えない。現実は目に見えない大切なものによって支えられている。それらを見て、その意味を今あるものとの関係で明らかにしていく方法が、未知なるものの体系化である。それは、見えないものを明らかにするのみならず、今あるものの意味をも示す。ドラッカーのイノベーション論の根底にあるのも、この方法にほかならない。そして、ドラッカーによる最初にして最大のイノベーションが、マネジメントだった。

未知なるものの体系化には想像力を必要とする。五感を働かせ、対象を見定め、全体を観察する。変化を読む。ドラッカーの洞察の根源はこのものの見方にある。

井坂 ドラッカーはマネジメントの発明者として紹介されることがある。マネジメントと、未知なるものの体系化との間には、どのような関係があるのだろうか。

上田 正確には、ドラッカーはマネジメントを発明したのではなく、産業社会の将来像を見定め、すでに起こった未来の所在を探り当てたに過ぎない。それはすでに存在していた。にもかかわらず、認識されていなかった。知識社会にせよ、目標管理にせよ、彼がいいはじめたときには誰も認識していなかった概念が、20、30年後には世界の常識となっている。彼は誰もが見ているが誰も認識していないものに、名前とコンセプトを与え、生命を吹き込む。

ここにも彼の方法論が関係している。ドラッカーは造語の名手であり、コピーライターとしても超一流である。新たな言葉を通じて、見えざるものに名前を与える。たとえば、知識社会というシンプルな語の組合せは、今やすでにわれわれを取り巻く現実となって久しい。

未知なるものの体系化には、2つの方法がある。1つは現在欠けた必要なものを見ることである。もう1つは見えざる部分に言葉とコンセプトを与え、意味を与えることである。

ちなみに、彼のマネジメントに関する最初の著書は、『企業とは何か』(1946年)である。このとき、彼はマネジメント関連の既存の文献をすべて調べたという。しかし、その多くは人間の管理や統制に関わるものであり、彼の想定する生きた存在としてのマネジメント概念に関わるものではなかった。まして、彼の意にかなうものではなかった。

マネジメントの発明は喫緊の課題だった。彼はよく「それが何なのかはいずれわかる。しかし学者が解明するのを待ってはいられない」という。

 

犬はなぜ吠えなかったか

井坂  ドラッカーは体系化をどのような意味で使っているのか。

上田  かつてドラッカーは、私に日本版への序文として、「理論は体系化する。創造することはほとんどない」と書いてきたことがある。本来、体系化とは分析による整理・分類である。データを分類しても、それ自体は意味を持たない。意味を見出すための手段に過ぎない。未知なるものの体系化にしても、全体の目的論的意味を見抜くための手段である。

ドラッカーの場合は、新しいコンセプトの創造も行う。マネジメント、知識社会など、彼の造語とされるものの多くが自ら創造したものだった。

ゆえにドラッカーにあっては、体系化といっても捨象と抽象による論理にとどまるものではない。彼は雑然とした日常のなかで聞こえてくる微かな声に耳を傾ける。ドラッカーは『経営者の条件』において、「相応の経験をもつ大人として、ソクラテスが神霊と呼んだもの、すなわち『気をつけよ』とささやく内なる声に、耳を傾けなければならない」といった。現実の世界では、真に重要なことが誰にでもわかる大きな声で語られることはかえって稀である。小さなささやきを聞き落とさないよう注意が必要である。

また、こうも述べている。「10回に1回は、突然夜中に目が覚め、シャーロック・ホームズのように、重要なことはバスカヴィル家の犬が吠えなかったことだと気づく。」

なぜあるのかと問うこと以上に、なぜないのかと問うことが重要である。人はあるものには注意を向ける。ないものに注意を向けることはほとんど無い。

しかし世の本質が目に見えないものである以上、われわれは見えないもの、聞こえないものに注意し、そこに意味を見なければならない。目に見えるものは、目に見えない重要なものを基礎に成立していると考える必要がある。それは、理論や分析による以上に、知覚によって知りうるものである。

ドラッカーは明確な因果関係を提示しうるものに疑念を感じてきた。実際、明確な因果で結ばれるものなど、初等数学や初等物理の世界でしか成立しない。この世のものの多くは明示的な知識や情報よりも暗黙知に属する。

論理の連鎖での思考が西欧世界の特徴なのであれば、暗黙知を重視する点では、ドラッカーは東洋的な思考をも併せ持つのかもしれない。少なくとも、思想と現実が、ドラッカーにあっては分離していない。統合的にとらえている。未知なるものの体系化も、見えないものを見ると同時に、今存在するものを全体のなかで位置付け、意味付けようとする試みである。

 

マネジメントに通底する気高い精神

井坂 ドラッカーの最初の論文は1933年に発表したF. J. シュタールに関するものだ。シュタールは19世紀の半ばまで活躍した法理論家、政治家だった。プロシアの立憲制を支持した思想家で、ドラッカーによれば、ビルマルクのドイツ統一はシュタールの思想を具現化したものだった。

彼がなぜシュタールを評価したかという点も、今の問題に関わってくる。シュタールはプロテスタントの改宗ユダヤ人だった。彼は、「神の国」については一歩も譲らなかったが、形而上の世界と現実の世界を統合体としてとらえていた。つまり、現世にある不完全な人間社会や国家も、なにがしか理想的、理念的なものを体現しているのだという考えだった。

社会、国家、経済、これら不完全な人間による形成物も、真理を間接的に表象するものであり、その限りにおいて意味を持つとした。ドラッカーは、シュタールのこのような思考方法に共鳴した。事実ドラッカーの産業社会への視線も、理想と現実を一体のものとする思考法に貫かれている。

上田 実は、ドラッカーの根底にある問題意識は、企業のマネジメントではなかった。産業社会は正統な社会たりうるか、自由な人間社会として成立しうるか、にあった。ドラッカーにとってその答えが、成立しうる、だった。

しばしば、マネジメントは企業経営の手法であると理解される。最悪の場合、金儲けのための手法と誤解される。だが、マネジメントには、人間社会全般の成立に関わる問題意識が横たわっているという事実を忘れてはならない。

企業は、社会から、人間という尊厳あるかけがえのない存在を預かる。企業組織は、財・サービスを供給することで、人間社会の物的欲求に応える。のみならず、組織で働く人々に生き生きと成果を挙げさせ、成長の機会を与える点で、人間の幸福に関わる役割を持つ。

人は企業に雇用されるならば、職場でほぼすべての活動時間を拘束される。見ず知らずだった人から命令を受け、監視される。なぜ、神の子たる人間が企業において、拘束を受け、命令系統に組み込まれなければならないのか。なぜ自由で平等であるはずの人間が組織の束縛を受けるのか。むろん、生きていくためには仕方がないという見方もある。そこでは賃金と引き替えに人間の尊厳を譲り渡すものと考える。

しかし、それ以前に、企業に正統性はあるのかという問いを発しなければならない。ドラッカーを捉えた問題意識がこれだった。企業がそこで働く人々に対して、権限を持つならば、同時に、働く人々および社会に対して十分な見返りがなければならない。それは、社会に対し本業をもって貢献し、働く人々を仕事を通じて成長させることである。これなくして、企業は正統性を維持しえない。ドラッカーは、「企業の経営管理者は社会に対して借りがある」と述べる。彼らの権限は社会から許されてはじめて発揮しうるものである。これこそがマネジメントの責任である。

井坂 社会の是認なくして企業は一日たりとも存続しえない。このことを忘れてはならない。彼にとっては、新文明の中心的組織が偶々企業であったということに過ぎない。その意味においては、マネジメントはきわめて正統的かつ気高い問題意識を基礎に持つ。特に正統性保持の立場からの分析は西欧思想史のなかでも王道に属する。

 

ビジネスマンが文明を創造する

上田 産業社会が無前提に成立するものとはドラッカーは考えなかった。それは社会を構成する人間の意識的な営為によってなされるべきものだった。人間がつくっていくものだった。さらに、彼において、世の中心は、学者でも政治家でもなく、軍人でもなかった。企業におけるビジネスマンによる日々の活動こそが世界をつくる推進力だった。ここにドラッカーのマネジメント論の原点がある。

ドラッカーが産業社会における企業を見るときのキーワードが「正統性」である。彼は、伝統的な西欧思想である「権力の正統性こそが中心課題である」との認識から議論をはじめた。現実のものとして機能するためには、高次のビジョンと理念的な前提が必要であるとした。

企業における正統性は、第1に本業とする財・サービスの供給によって人間社会に貢献すること、第2に社会的な存在として、そこで働く人々に生き生きと成果を挙げさせ、自己実現させること、第3に社会に対する害を最小限のものにとどめ、かつ自らの得意とするものによって世の中の問題解決に貢献すること、によって成立する。これは、マネジメントの役割を別の角度からとらえたものにほかならない。

ドラッカーは、資本主義とは何かと問いかける。金が中心の社会とはご冗談でしょうという。市場経済とは何かとも問う。他のもの、官僚や学者が価格を決め分配を決めるという他の体制があまりに不首尾だったゆえに、偶々勝ち残っているに過ぎないという。

ドラッカーは、体制による問題解決を求めたカール・ポランニーには同意しなかった。しかし問題意識は是としていた。ドラッカーはマルクスの間違いを指弾したが、マルクス経済学者からは高く評価された。

ドラッカーの思想の中心にあるものは金ではない。人である。しかも生きて働く人である。