【転換期に処する】
渋沢栄一『雨夜譚』(岩波文庫)
以前から不思議に思っていたのだが、日本資本主義の父ともされる渋沢栄一の書いたものがさほど読まれていないのはなぜだろうか。
理由の一つとして考えられるのが、理財に強かった彼が残した書き物が、一般人の求めるものと異なっていたことがあるだろう。
本書は渋沢の人間的側面、しかもかなり血気盛んな青年時代を生き生きと振り返った回想にふれるにあたって、右に出るものはないといえる。
近い時代を生きた人に福沢諭吉がいる。『福翁自伝』を昔読んだとき、あまりの型破りに痛快な驚きを覚えたものだが、渋沢によるこの自伝は、その印象にかなり近いものがある。
共通するのは、いわゆる「夜話」という形式をとっている点である。堅苦しく書き下ろされたものではなく、人々を前にゆったりと数夜にわたって語られた速記をもとにしている。
渋沢は江戸時代の人で、農民の出身だった。そんな彼がいつしか天下国家を論ずるようになり、やがて野心を抱き、京都で一橋家に取り立てられて理財で才能を発揮する。
それだけでも奇跡なのに、徳川昭武に随行して、パリの視察団にも参画し、さらには、明治政府にも入っていくというめくるめくスリリングな物語である。
読んでいて感じるのは、渋沢の自称「凡人ぶり」である。六〇〇に及ぶ金融機関や企業、組織の創設に着手した巨人という一般に持たれるイメージとは裏腹に、本人にはさしたる偉業を行った自覚がない。
折に触れて、「自分は農民の出身であるから」という前置きが出てくるのだが、おそらく衷心からのものであろう。
明治政府に取り立てられた者の多くは下級武士だったとされるが、渋沢は農民だった。
彼は若い頃のエピソードを紹介している。故郷の深谷で藍の売り買いをやっていた少年時代に、地元の代官に侮られたという。そのときに、こんな人がたんに身分というだけで威張っている社会はろくなものではないと実感したという。
江戸時代という封建的な体制から、大きく時代は変わり、有為な人材が稀少な時代になっていく中で、渋沢はめきめきと頭角を現していく。
本書はゆったりとした語り口もあるけれども、いわゆるサクセスストーリーのような生臭さがいっさい感じられない。謙虚であったと言うよりも、屈託がなかったのだと思う。
現代を見るとき、気づかないうちに、渋沢が生きたような、原理を異にする二つの時代のちょうど谷間にきているように感じられなくもない。
明治維新というのは外圧から日本が国を開くという過程であったわけだが、現代は人間の意識がいっせいにこじあけられて、気づけばイスラム世界の騒擾が自分の生活圏内とほぼ同等の重みを持つようになっている。
たぶんそのときに必要なのは、能力でも才能でもない。野心でも向上心でもない。積極性でさえない。
内省する力、そして勇気を持つことだ。
渋沢の自伝はそのことを今の私たちに教えてくれる。しかも、大仰でなく、おじいさんが昔話をしてくれるような、やさしく、心地よい口調で。