【書評】葛藤なきメディアを信じてはいけない

無題
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無題

葛藤なきものを信じてはいけない

 

牧野洋『官報複合体――権力と一体化する新聞の大罪』講談社

「メディアはメッセージである」との卓抜な評言を残したのはマーシャル・マクルーハンであった。あえていえば、メディアはコンタクトレンズである。コンタクトを経由して外部の世界を知覚するとき、コンタクトはそれ自体前景化しない。見えるほどに、人は自分がコンタクトをしているのを意識しない。

マクルーハンの言にならえば、マスコミは社会のコンタクトレンズである。何をどう知覚し、理解し、論を形成するにあたって、コンタクトの性能や形状は致命的に作用する。その点で世論とは社会のコンタクトレンズの映す映像そのものである。

従来社会的不調が問題にされるとき、一般的に責任追及されるのは政治家、官僚あたりまでだった。政治権力をある程度具体的に考えるにあたって世人の想像力の及ぶ限界がそのあたりだったのだろう。しかしここ数年で、権力批判のなかにメディア、そして司法(検察)までもが含まれるようになった。今ネットなどの言論をみるとメディア批判が高度に花盛りなのを感じる。情報チャネル自体が批判対象となるところに一つの社会的成熟を見る。

この本はそのような新たに獲得された社会的認識を育て、発展させる意味を持つ。著者は日本経済新聞社で自らジャーナリストの道を歩み、経済界のキーパーソンと直接の交流を持つ一流記者として著名だった。しばらく前にフリーとなり、現在はアメリカで活動している。

特に光るのは、日本社会の構造に由来するメディア特性である。随時参照されるアメリカの事例とわれわれの固定観念との対比に目を見開かされる。

そこに見られる著者の魂の葛藤が言説に独自のリアリティを付与する。日本社会のまとうコンタクトが歪み、汚れ、そして本来の機能を全うしえないのに著者は長い職業人生の中で気づいていた。想像がつくように、業界の内部に身を置く者にとって自業界の屈折状況に意識を寄せるのは想像を絶するほど困難である。

他方で新聞を巡る状況が厳しい。それが機能不全の原因なのか結果なのかはここではふれない。しかし確実なのは、社会的意識の形成にあたって今なお新聞が権威の一角を占める事実である。新聞の不調が叫ばれながらも、今持ってテレビもネットも情報上のお墨付きを無意識に新聞に求めている。逆に言えば社会は新聞を核に強力にマインドコントロールされている。

不調を一つの発端として新たなスタイルのメディアの萌芽期に今あるのかもしれない。メディアとは本来機能であって職業ではない。本書の著者も、新たなカウンターパワーに期待を寄せてはいる。しかし、その背後には新聞自身の自己再生が祈念されているのを感じないわけにはいかない。それはプロの記者として絶えざる葛藤を歩んできた者としての一つのけじめのようにも見えなくはない。

繰り返しになるが、本書のような言説が堂々と日本社会に表れつつあるのは民度の一つの成熟を示すものと思う。コンタクトの屈折率に気づくのは、日常的精神活動の一段上を行く知性を必要とする。メディアとは社会を形成する動因ではない。社会そのものである。