ぜんたいとしては人生を祝福しなさい
「あなたは自分の人生についてどんな風に考えているの?」と彼女は訊いた。彼女はビールに口をつけずに缶の上に開いた穴の中をじっと見つめていた。
「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」と私は訊いた。
「あるわ。ずっと昔に一度だけだけど」
「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」
私は二本めのビールを飲み干し、少し迷ってから三本めを開けた。
「アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ」と私は言った。「しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね」
「だから人生を限定するの?」
「かもしれない」と私は言った。「僕はきっと君の御主人にかわってバスの中で鉄の花瓶で殴り殺されるべきだったんだ。そういうのこそ僕の死に方にふさわしいような気がする。直接的で断片的でイメージが完結している。何かを考える暇もないしね」
私は芝生に寝転んだまま顔を上げて、さっき雲のあったあたりに目をやった。雲はもうなかった。くすの木の葉かげに隠れてしまったのだ。
「ねえ、私もあなたの限定されたヴィジョンの中に入りこむことはできるかしら?」
と彼女が訊いた。
「誰でも入れるし、誰でも出ていける」と私は言った。「そこが限定されたヴィジョンの優れた点なんだ。入るときには靴をよく拭いて、出ていくときにはドアを閉めていくだけでいいんだ。みんなそうしている」
村上春樹『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』