ドラッカーによる「悪」の考察

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人が悪の道具にされるとき

ナチスの大量殺人者アイヒマンについての本の中で、ドイツ系アメリカ人の哲学者、故ハンナ・アーレント女史は、「悪の平凡さ」について書いた。だが、これほどに不適切な言葉はない。悪が平凡なことはありえないのである。往々にして平凡なのは、悪を成す者のほうである。

アーレント女史は、悪を成す大悪人という幻想にとらわれている。しかし、現実にはマクベス夫人などほとんどいない。ほとんどの場合、悪を成すのは平凡な者である。悪がヘンシュやシェイファーを通じて行なわれるのは、悪が巨大であって、人間が小さな存在だからにすぎない。悪を「闇の帝王」とする一般の言い方のほうが正しい。

主の祈りが「試みに遭わせず、悪より救い給え」というのは、人が小さく弱いからである。いかなる条件においても人が悪と取引をしてはならないのは、悪が平凡だからではなく、人が平凡だからである。それらの条件は、常に悪の側からの条件であり、人の側からの条件ではないからである。

ヘンシュのように、自らの野心のために悪を利用しようとするとき、人は悪の道具とされる。そしてシェイファーのように、より大きな悪を防ぐために悪を利用しようとするとき、人は悪の道具とされる。

これまで長い間、私は、つまるところ、彼ら怪物と小羊の二人のうち、いずれが行なおうとしたことのほうがより大きな害を成したか、ヘンシュの権力への欲求とシェイファーの自己への過信の、いずれがより大きな罪だったかを考えてきた。

しかし、ようやく私は、おそらく最大の罪は、これら昔からの二つの悪ではなかったと考えるに至った。おそらく最大の罪は、二〇世紀に特有の無関心という名の罪、すなわち、殺しもしなかったし嘘もつかなかった代わりに、賛美歌にいう「彼らが主を十字架につけたとき」、現実を直視することを拒否したあの学識ある生化学者による罪のほうだったと考えるに至っている。

ピーター・ドラッカー/上田惇生訳『傍観者の時代』