【命が欲するもの】
加島祥造『求めない』小学館
一風変わった本の話をしよう――。
正方形をしたこの本が世の多くの人の手に渡ったのは、今からもう7年ほども前のことである。
劇的なドライブのかかったベストセラーというよりも、ゆっくりと大河が地を潤すような読まれ方だったように記憶している。当時、よく読まれているのは知っていたが、周囲で読んだという話はなぜか聞かなかった。
私自身も当時書店などで横目で見ていたものだが、なぜか手に取ろうという気にはならなかった。
どことなく宗教がかっている気がしたし、何よりも微妙に年寄り臭い気がしたからだった。それでも、「求めない」という深く精神に沈潜するような語感が、なぜか心に残っていた。
この年末年始で、軽い読み物を求めて、ようやくにして私はこの不思議な書物を手にしたわけだけれど、そのささやかながら、心の内奥に到達するメッセージの力を実感している。
「求めない――
すると
失望しない」
「求めない――
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく」
こんなシンプルな言葉が、ゆったりと流れる春先の小川のように、心を洗ってくれる。
それにしても、なぜかくも求めること、求め続けることがシステム化されてしまったのか。そしてあまりにどん欲に求め続けるあげくに、その都度根拠のないストレスをためてきたのはなぜだろうか。気づくとそんな風に自問する。
もちろん、生きている以上、求めないわけにはいかない。生き続けることは、言いかえれば、なにがしか求め続けることだ。
だが、あまりに雑多かつ旺盛に求め続けていると、次第に本当に求めているものと、形だけで求めているものとの区別がつかなくなる。
都市部で生活するならば、なおさらだ。都市は欲望を凝縮的に体系化したシステムだから、何かにつけ過剰が問題になる。情報からカロリーにいたるまで、過小よりもはるかに過剰が心身を損なう要因となる。
その欲求は本当に心身が発している欲求なのだろうか――。本当にそれがなければならないのだろうか。
この本が与えようとしている気づきはそこにあるように思える。おそらく先進国とされる場所なら、誰でも過剰がもたらす逆機能に気づいている。だからこそ、禅やヨガが国や地域にかかわりなく受け入れられるのだろう。
一日を終えて疲れを感じたとき、「求めない」とつぶやいてみる。何かのおまじない、あるいはマントラのように――。
それは奥深い井戸の底に湧くつめたく澄んだ水のように、ひやりとして快い感触をもたらすかもしれない。
子供は過剰に求めない。求めなかった頃のことを人はいつしか忘れてしまう。欲求不満の原因が求めすぎることにあるのは、古くから賢哲によって指摘されたところだ。
年のはじめに、ふと立ち止まってみるのもよいだろう。人は心身の状態にはしかるべき配慮を払うが、命の状態には鈍感になりがちだからだ。