【知の歩哨を立てる】
内田樹『街場の憂国論』晶文社
「リスクヘッジのためには、少人数でも『みんなが見張っていない方向』に歩哨に立てておく方がいい」。
時々思うのだが、ネットが発達した昨今だからこそ、意識的に本を読むようにしたほうがよいのではないか。誰もが車を運転する時代であっても、タクシーやバスの運転手がいなくなるわけではないのと同じで、情報の選別にもプロは必要である。ジャンクな情報からはジャンクな思考しか生まれない。
内田樹の発言は炭鉱のオウムに似た役割として耳を傾けるに値するものの一つである。国やナショナリズムのありようが誰にとっても重い意味を持つ現代においては時に異なる切り口の見解を思考回路にわざと入れておくことが大事だ。内田氏は自覚的にそのことを追求している。
ネットは多様性を確保しているように見えて、実は単色的な論調を助長しているように見えなくもない。それは地域の多様性を追求するほどに何もかもが大都市に集まってしまうのに似ている。他の国でもおおむね同じような現象が起こっている。
本書はブログをもとにしているだけあって、個人のアンソロジーとしてはぴりりと辛味の効いたものが多い。憂国は偉い専門家から、場末の居酒屋まで幅広く話題になっている。本書に出てくる話題はすべてが近隣諸国との領土紛争や安全保障に関するものばかりではない。だが、丹念に著者の問題意識の回路に思いをはせるならば、すべてにつながりがあることに気づくであろう。例えば、グローバル人材教育について次のように言う。
「大学に向かって『英語が話せて、タフな交渉ができて、一月三〇〇時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ』と言って『グローバル人材育成戦略』なるものを要求するのは『人材育成コストの外部化』である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押しつけて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである」
これはなかなか厳しい企業批判である。高度資本主義社会にあって、企業を批判するのは体制を批判するのと同じであるが、私はこの指摘を正しいと思う。その時々の短期の様子しか見ないと、根源に暗渠のごとく広がるもうひとつの見えざるロジックに気づきにくくなる。
おそらく著者の言うとおり、国民国家さえもが経済の道具になりつつあり、本来貨幣に置き換えられない教育や地域、文化などの公共的存在が経済的投機の手段になっている。
現在日本が置かれた位置を考えるのに、中心からでなく、一見迂遠なところから時間をかけて考え抜いていく姿勢は何よりなくてはならない。企業は潰れてもそれきりだが、地域や国家は潰れたら回復不能な痛手を被ることになるからだ。
そのことは情報の選別と摂取の姿勢とも関わりを持つ。最後に本書からの辛口な一節を――。
「『私が知っていること』は『誰でもが当然知らなければならないこと』であり、『私が知らないこと』は『知るに値しないこと』である。そういうふうに考える人がいれば、その人の情報リテラシーは低いと判断してよい」。