概説ドラッカー経営学(10)-人と組織の見方

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組織の成長とマネジメント

誰もが組織で働くことを目的にして生まれてきたわけではない。組織で不協和が絶え間なく起こるのは、いまだ人間の側が組織の利用に習熟し切れていないためである。

よく聞く話である。数名ではじめた企業が成長軌道に乗る。業容を拡大し、新規に人材の採用を行う。やがて組織が変質していく。はじめにあった和気あいあいとした雰囲気が堅くこわばったものとなり、温かかった空気が機能的で冷めたものになる。

マネジメントに当たっての試練の一つが成長に伴う壁である。小さな組織が成長していくと、数名のころとは異なるマネジメントが必要になる。言い換えれば、マネジメントの方法は、組織の規模によって違ってくる。

「子どもは小さな大人ではない」と言ったのはルソーだが、中小企業は規模の小さな大企業ではない。子どもと大人が生命のリズムを異にするように、零細企業、中小企業、大企業は異なる原則でマネジメントされなければならない。

確かに数名で運営されているうちは、大学のサークルのようにお互い顔を合わせて緩い感じでも組織は回っていく。だが、五〇名を超えるあたりからは大学のサークルでさえ設立当初と同じようには運営できなくなってくる。

一定の規模に達し、創業メンバーのコントロールが利く範囲を組織が超えたら、マネジメントチームを組織しなければならないとドラッカーは言う。トップマネジメントチームが組織に適切な方向づけを与えなければ、烏合の衆に堕するのは時間の問題に過ぎなくなる。

マネジメントチームをつくるにはしかるべき時間がかかる。短時間でつくることはできない。三年はかかる。しかも、組織には人と同じように固有の価値観や慣習、時には癖のようなものさえある。それらのものは組織が立ちあがった瞬間から形成されたものだけに、取り消してしまうことはできない。

一つの問題は、小規模組織に求められるマネジメント能力と中規模以上に求められるマネジメント能力は異なるということである。端的に言えば、町工場の社長に要求される経営能力と従業員数万人のグローバル企業に要求される経営能力はまったく異なる。

筆者はこれまでいくつかの成長した企業の経営者と接してきた経験を持つが、成長に伴うマネジメントの問題に悩んだ経験のない経営者に会ったことがない。誰もが創業当初理想を分かち合った親とも兄弟ともつかぬ戦友が、組織の成長とともにかえってマネジメントの障害になる場面を目にしてきている。

実はこの問題はどのような組織にも普遍的に見られるものであって、何らめずらしいものではない。

大企業においてさえ似た事例は頻発する。かつて花形商品を生み出し、売上の大半を稼いでいた部門が、時代状況や技術の変化で今ではかえって組織に負荷を与えているなどがそれである。

成長とは常に量的な側面と質的な側面を持つから、必然的に激しい摩擦熱が起こる。どうしたらよいのだろうか――。

ドラッカーが経営を見るときのポイントは人である。人を考えずして組織を考えるのは意味がない。彼は『創造する経営者』のなかで、ロスチャイルド家の逸話をあげている。一家の子どもたちはみな優秀だった。欧州の主たる拠点をそれぞれが大胆かつ速やかにつくっていった。

だが、カルマンという息子は残念ながら能力において著しく劣っていた。それでも、カルマンは忠実な仕事ぶりで人柄もよかった。彼をどう遇するかが組織における重要な判断となる。

ドラッカーは言う。

「ロスチャイルド家のカルマンのような人たち、すなわち、必要な能力は持たないが、忠実な仕事ぶりなどの理由から、面倒を見てやらなければならない人たちがいる。彼らには、閑職を与えるべきである。大きな機会を任せるよりも、はるかに安上がりである。閑職に置くならば、コストは給料だけである。

もし大きな機会を任せれば、新しい大きな事業から得られるはずの利益を失うことになるかもしれない」。

人材を切り捨てるのは間違いということである。確かにある局面で能力を発揮した同じ人物が、組織の成長とともに無能どころか障害になることはめずらしくない。

それでも三段ロケットさながら、推進力を得るためとはいえ、切り離し廃棄していくのは、他の人々に及ぼす影響を考えた場合、人のためにも組織のためにもならない。

彼らには閑職を与えるべきであるというのがドラッカーの意見である。少なくとも居場所を確保しなければならない。職務を遂行するだけの能力がないのは本人が一番よく知っている。

人に最大の生産性を上げてもらうのがマネジメントの役割であるわけだから、非生産的な時間を過ごさせるのはマネジメントの無能あるいは怠慢ということになる。

能力を超えた仕事を継続させることは本人のためにもならないし、組織のためにもならない。そのことを誠心誠意伝える。

かりにどうしても辞めてもらう必要が出た場合は、しかるべき花道を用意しなければならない。初期の貢献と評価、称讃をきちんと誰もが分かる形で示し、伝える必要がある。

感情的なしこりを残さないためだけではない。組織と人に対する健全な文化をつくっていくためである。

GEのジャック・ウェルチは名経営者として知られるが、一方で汚点も残している。しかも禍根は深かった。

ウェルチはある局面において極端なまでのリストラと人的整理を行って目の覚めるような業績を出したことがある。

だが、GEにとって計算外だったのは、辞めていった社員からの評価よりも、残った社員の反応だった。利益を上げたのはよかったかもしれない。しかし、大規模なリストラは、残った社員に対して「いつか自分の身に降りかかる可能性」としての深いメッセージ性を持った。

一般に退職した後も立ち寄りたい会社と、退職したら二度と近付きたくない会社とがある。GEは辞めた人にとっても残った人にとっても等しく後者となった。そちらのほうが組織にとっては深い禍根を残す。

いわば組織の価値観、風土といったものが、明瞭に人の問題に映し出される。だからこそ、マネジメントはいかに些事に見えることであっても、人の問題には何よりも敏感でなくてはならない。そもそもが、マネジメントの職位にある人の一挙手一投足が、本人が考えるよりはるかに周囲からの関心の対象になっている。

エレベーターの中で交わしたちょっとした会話、しゃれのつもりで言った軽口まですべてが見られ、聞かれ、判断されている。

成長に伴う人の扱いはそのなかでもきわめて分かりやすいものの一つである。象徴的に言えば、どのような人を経営層に昇進させるかほど組織の中で強烈なメッセージ性を持つものはない。

それだけに、マネジメントの問題は情実で対処してはいけない。初期にいかに貢献があったとしても、一定の規模以上になったら、必要な能力を持つ者以外をマネジメントチームに入れてはいけない。でなければ、それ以上の成長は不可能になる。

顧客は合理的である

一つの理解とは、言い換えれば無数の誤解の集積物に過ぎない。

人間は合理的なものととらえることもできるし、不合理なもととらえることもできる。要は「合理」をどう解釈するかだけの問題であり、すべては合理的なのではないか。

科学的に合理的であるのと、情緒的に合理的であるのは違う。科学の合理性は自然を相手にしているから、人間のコントロールを超えたところから与えられる合理性である。

月や太陽の運行や化学物質の反応について、人間がいくら懇願しても命令しても意味がない。自然とは本来そのようなものだからだ。

人間の内面については必ずしもそうではない。情緒は移り変わる。考えも変わる。簡単に言えば、起きているときの人と寝ているときの人は、同じ人でもまったく違う。

ドラッカーが考える合理的とは、どんなときも首尾一貫した自然の法則のようなものではない。ドラッカーが相手にするのは人と社会である。

そもそもどんなときも首尾一貫した自分でなければならない理由などない。よくアイデンティティと言われるが、変わっていくことこそが人間にとっての唯一のアイデンティティである。「君子豹変」とはつまるところ、認識次元の高い人ほどアイデンティティを自在に変化させうるという意味である。ドラッカーは言う。

「まったく異なる二つの役割において、同一の基準を使わないことこそ、合理的な人間にとっての唯一の合理的な態度である」(『創造する経営者』)。

あのときあのような行動をとったのだから、このときもあのような行動をとるだろうと考えるのは、尺度を単一に限定する人間の側の勝手な臆見である。偶然あるときにうさぎが切り株にぶつかってきてくれたから、いつも同じ僥倖が起こると即断するのと変わりない。

相手が一つの行動基準で行動すると考えるのは、非現実的であるばかりか愚かである。相手の知性を低く見積もっている。

有能な参謀は、敵国の知性や情報収集能力が自国より高いものと想定する。すぐれた棋士も同じである。相手が自分より愚かとはじめから想定するのは、自らが愚かなのだ。相手の知性は高めに想定しなければならない。

顧客が単一の尺度でしか動かないと考えるのもまったく非現実的である。尺度自体を自分が勝手にねつ造したにもかかわらず、それに基づいた行動をとらない相手を責めるのはまったく馬鹿げたことである。ドラッカーは言う。

「顧客は合理的である。顧客が不合理であると考えることは危険である。顧客の合理性がメーカーの合理性と同じであると考えたり、あるいは、同じでなければならないと考えたりするのと同じように、危険である」(『イノベーションと企業家精神』)。

顧客はときにまったくの謎である。どうしてそのような行動をとったのかは、本人にさえわからない。そのときに念頭に置いておくと便利な考え方がある。ドラッカーのものと同じ種類の思考用具なので紹介しておきたい。

コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズのシリーズの最初の作品『緋色の研究』からの一節である。

「奇異な事柄はつねに推理の妨げどころか手がかりになってくれる。(略)もっとも肝心なのは、逆向きに遡って推理する能力だ。これは大いに役立つうえ、すこぶる簡単に身につく術でもあるんだが、一般にはあまり活用されていない。日常の出来事は推理を前に向かって進めるほうがなにかと便利だから、後戻りすることはおろそかにされがちなんだ。割合にすると、総合的に推理できる者が五十人いるとすれば、分析的に推理できる者はたった一人しかいない」。

現在ある状況が未来にどうなるかというのは、誰にでもわかる。たとえば、商店街がさびれてシャッターを下ろすところが増えているのを見て、商店街のさらなる下火を予見するのは誰にでもできる。

しかし、現在にいたるまでのある過去の時点でどうしてここに商店街が形成されたのか、あるいは何がここに商店街を形成させたのかという問いにたどりつく人はきわめて少ない。これがホームズの言う分析的思考である。現在から過去に向かって後戻りしていく思考である。

このように逆引きに考えていくとき、「わからないこと」、「理解できないこと」自体が考えるためのヒントになってくれることが少なくない。ドラッカーは言う。

「顧客の、不合理に見える側面を尊重しなければならない。不合理に見えるものを合理的なものとしている顧客の現実を見ることこそ、事業を市場や顧客の観点から見るためのもっとも有効なアプローチである。これこそ、市場に焦点を合わせた行動をとるためのもっとも容易なアプローチである」(『創造する経営者』)。

ドラッカーが言うのは、シャーロック・ホームズの発言にあるように、ものごとの「わからなさ」は理解のための障害ではなく、反対に理解にいたる最短の道ということである。

なぜなら、不合理に見えるということは、行動のなかに「未知なるもの」があることを暗示している。未知なるものが、顧客の一見不合理な行動を基礎づけている。ならば、未知なる要因を探し出すしかない。

そのための方法は何だろうか。観察するしかないとドラッカーは言う。ホームズも現場を見るまではいっさいの仮説を立てなかった。自らの仮説に自分自身が取り込まれてしまい、結局遠回りしてしまうからである。

「現場を見よ」が顧客の「不合理性」に対するもっとも確実な行動である。さらには現場に出かけていき、顧客に聞くことだという。

今から六〇年も前、アメリカにしょうゆを売ったキッコーマンは、最初アメリカの販社と組み、アメリカの消費者の嗜好を把握した。その後に、幹部数名を現地に派遣して、スーパーなどでのテスト販売を繰り返し、しょうゆの実需を確認していったという。今ではキッコーマンはアメリカの会社と間違われるほどに北米の市場に深く根づいている。ドラッカーは言う。

「ここで原則は、顧客は皆合理的であるとすることである。ほとんど例外なく、彼らの行動は合理的である。したがって、答えを想像しようとしてはならない。必ず、直接答えを得なければならない」。

想像力は人間に与えられたかけがえのない資産ではあるが、大きなヴィジョンを描くのには役立つものの、足下の道案内役としてはいささか正確さと熱心さに欠ける。事前に考えられた想像はほとんど一〇〇%現実とは違う。考えられたとおりに現実は進まない。

ならば、直接答えを得るべく、現場に出かけ、人に会って、質問をして引き出すしか方法はない。そこでも相手は合理的であり、十分に賢く、善意であるとの想定に立たなければならない。そして実際そのとおりであることのほうが多い。相手の知性を高めに見積もっておくこと、そして自らの知らないことが無数にあることを勘定に入れておくことが、活発な知性と観察力の持ち主の一貫した特徴だからだ。

質的に見るということ

質的に見ることがマネジメントの原点である。ドラッカーは量に還元できない世界を見る。たとえば、真摯さが典型である。定義できない。定式化も定量化もできない。真摯さは不可視の世界に属する。真摯さが現実に姿を現すとき、色彩のように質的にわかる。間違えようがない。

ドラッカーにとって人、社会、組織は自然の生態系のように神聖に見えた。

デカルトなどの近代合理主義者は、量を問題にする。色彩もニュートン物理学的には波長の違いでしかない。しかし、質の体験を経るとゲーテが示すように色を質的経験の世界と考えないわけにはいかなくなる。人中心の見方も同じである。

前者は計算できる。マネジメントも数式で処理できるとする。デカルトが言うように、科学の厳密性は数量化の可能性と同義である。

科学では質的な世界は捉えられない。しかしうっかりすると科学にマネジメントの世界を近づけようとする。科学でマネジメントを説明する。数学で処理できるマネジメントにする。財務、会計、利益でマネジメントを囲い込もうとする。途端にマネジメントの持つ質的世界は見えなくなる。ドラッカーが言うように、質的にマネジメントを見ないと、人や社会との結びつきは生じない。生き生きとした血の通ったものとはならない。

ドラッカーは現実世界の質的意味を探りながら、世界を新たな仕方で解明した。知覚の学を打ち立てた。形態学や社会生態学などの知覚の体系が現代のマネジメントと科学を結びつける。

ドラッカーは考える。マネジメントの方法は何か。一人ひとりがマネジメントの方法を身につけうるか。マネジメントは一つの見方を持つ。ゲーテが「対象的思考」と名づける方法である。

対象的思考はマネジメントの基本となるマーケティングやイノベーションの原点ともなる。今ここにある現実を質的に見るならば、未来までも知覚として感じとれる。ドラッカーは対象的思考を訓練した。その体系を「すでに起こった未来」と呼ぶ。

「すでに起こった未来」こそが質的体験の精華である。

絶えず量ではなく質として考える。想像力を通して一つひとつの対象を質的に捉えていく。マネジメントは科学と知覚双方に対しても開かれる。

ドラッカーがマネジメントをしばしばオーケストラにたとえたのには意味があった。

社長が人をマネジメントするとき、対象的思考によるとどうなるか。働く人々一人ひとりを質的に体験していく。量によってではなく質的なものとして芸術的に見る。

徹底的に一人ひとりの社員を理解する。そこから出発する。一人ひとりが何を強みとして持つか、いかなる条件で強みが発動するか、価値観はどうかを徹底的に知る。そこからしか始まらない。

彼は目の前の社員をコストとしてでなく機会として資源として見る。それらに集中する。実践するうちに、強みが見えてくる。対話し、目標を立て、達成と成果を見る。一人ひとりが貢献に顔が向く。ときに、量に目を奪われると間違える。

この部はほかと比べて、いくら売上が足りないか、優秀な部下が何人いるかなど数量的に考えると、マネジメントできない。数字に照らしていきなり叱責などすれば、人の心は閉じてしまう。質的に見るかどうかである。マネジメントは部下の心的能力の開発にも責任を負う。

一つのプロジェクトチームで四人のメンバーが集まる。メンバーが互いに一人ひとりを質的に体験し弦楽四重奏曲を演奏するのに似ている。

どれくらいの仕事の知識を持つか、自分より偉そうな人が何人いるか、下の人が何人いるかと見はじめると、途端にプロジェクトチームは冷たく無機的になる。一枚一枚の作品を心を開いて見るように、一人ひとりの姿をかけがえのない作品とすると質的になる。優れたオーケストラと優れた指揮者の関係になる。互いに強みや価値観が見えると、新しい認識が育つ。心が開けてくる。

現在の普通の人間社会では、量的に考え、結果批判的になる。だが、批判能力などいくら研ぎ澄ましても破壊しか生まない。

ドラッカーが言うように、真摯さや強みは目に見えない。この世に真摯さが姿を現す最初はプロの成果である。

強みは個の自己実現の姿である。高次の力が現実に働きかける表現である。扉の取っ手である。取っ手のない扉は開かない。現実に働きかけなければ可能性にとどまる。

この強みはこの世に現れる精神の働きである。強みを体験するには、ありのままで世界に関わることである。よけいなことを考えなくとも、実感として育つのが強みである。

知識は強みや真摯さを自己実現へとつなぎ、世界を豊かにする。マネジメントは今ここから生まれる。質的思考がマネジメントのポテンシャルを開花させる。

人を質的に見る時点でマネジメントと科学の統一が実現され始める。量でしか見ないと、ドラッカーの言うマネジメントも始まらない。

ドラッカーはじつにシンプルなしかけを教えてくれる。自己目標管理である。ドラッカーは自らのコンセプトのなかで、マネジメントの哲学と言いうるのが自己目標管理だと言う。

自己目標管理は、ドラッカーが推奨するフィードバック分析の組織版である。人を質的に見ることの端的な表現である。ゲーテの対象的思考のすべてがそこにある。

自己目標管理によって互いに傷つけることはない。逆に自己目標管理によって真摯さと熱と、調和が生まれる。自己目標管理は、マネジメントの原点になる。

フィードバック分析は思考と実践という二つの異なる要因の緊張関係の中にある。フィードバックを経ない現実は現実と呼べない。現実はフィードバックでつくり出される。

経済学、政治学、社会学、法学などの学問がある。学問はすでにあるものを事後的に説明する。

ニュートンが万有引力を発見したと言う。しかし、万有引力の法則はすでにあった。

ニュートンが説明したにすぎない。アインシュタインの相対性原理も宇宙発生以来存あった。説明するだけである。

マネジメントはそうではない。マネジメントは説明のための知識ではない。行動と現実のための知識である。今ここからつくり出されなければならない。マネジメントがマネジメントであることを証明できなければならない。未来のいつかの時点ではない。今ここでマネジメントする自己目標管理を行うことで未来に向けて自らを創生しうる。

成果は頭の中でいくら理屈を考えてもたどりつけない。成果は実践の結果である。実践によって成果を実現する。現在、マネジメントはすでに与えられている。フィードバックを通して私たちは再発見し自らのものとすればよい。

自己目標管理も、自らの目標や成果、強みを明確にするだけではなく、組織のなかで人と人が向かい合う時点で、マーラーの交響楽に取り組むオーケストラのように、互いを質的に高め合う。

マネジメントの立場は、人と人が互いの強みを認め、生かし合う。

強みだけを見て組織的に高めていく考えで向かい合えば、調和のとれた、アートの世界ともなる。