よい人間関係を持つこと
いつの時代も、どこの組織でも、人間関係で頭を悩ませない人はいない。平安中期に書かれた清少納言の『枕草子』にも、人間関係の難しさが人生の煩いの最たるものと書かれているのがいかに普遍的な課題かを表している。
ドラッカーは組織や社会などを人との関係性のうえに捉えた論者であるから、人間関係についてもむろん示唆的な発言を多く行っている。そのいくつかを拾ってみることにしたい。
まず人間関係という語彙についてである。日本の社会ではとかく人間関係が何か魔法の石のように考えられることが少なくない。特に営業職などにおいてその傾向が強いように見受けられる。結局は人と人との関係がよければ、それだけでたいていのものはしのいでいけるし、仕事自体もそれなりによい方向性に向かっていくとする考えである。そこでの人間関係とは、「人間」よりも「関係」が重視される。個人よりも集団的な価値観が重視される。場合によっては個が忘れ去られて、自他の区別がなくなる。
一つの典型が談合システムであって、重要な意思決定が人間関係の美名のもとにきわめて閉鎖的かつ独断的に決定される場合がある。大企業の人事などにもその傾向は見られる。個よりも社会関係の意思のほうが上位するがごとき封建的な価値システムが働いているようにも見える。
ドラッカーの人間関係の考え方に照らせば、個の意思が確立されることのない関係性など例外なくまやかしである。大事なのはまずもって「人間」のほうである。
近年、大学生の就職活動でも、コミュニケーション能力やリーダーシップなどといった、どちらかというと内容空疎な対人関係能力が喧伝される。あたかも人間関係について特別の能力分野があるかのような口ぶりだ。残念ながらそんな都合のよいものはない。
ドラッカーが言うのは、成果、そして貢献のみである。成果と貢献に寄与しうること、それ自体がよい人間関係のための基礎的条件を構成する。言い換えれば、それ以外のものが人間関係に入りこむことは虚妄ということになる。
考えてみれば当たり前である。単に愛想がよかったりなどはまだましなほうだが、人を恫喝したり狡知を弄するなど人間関係の美名のもとで能力領域を構成してしまったら、そこには倫理も道徳もないのと変わらない。そんなものは猿山のボス猿の権力、暴力団の舎弟関係と変わるところがない。むき出しで野蛮な暴力を認めるのと同じことになってしまう。
成果、そして貢献という個と社会の価値を実現する限りにおいて人間関係は、正しさを獲得するというのは、考えてみれば当たり前である。彼は言う。
「対人関係の能力を持つことによってよい人間関係が持てるわけではない。自らの仕事や他との関係において、貢献に焦点を重視することによってよい人間関係が持てる。そうして人間関係が生産的となる。生産的であることが、よい人間関係の唯一の定義である」――『経営者の条件』
単なる仲良しなどというものは、学校時代までは意味を持つかもしれないが、社会で責任ある役割を遂行するうえではそれではすまなくなる。
ドラッカーの一九四六年の著作に『企業とは何か』がある。巨大自動車メーカーのGMにコンサルタントとして入り、組織、人事、風土等を全体から分析した書物である。わけても特筆すべきものとして、CEOアルフレッド・スローンのリーダーシップがあった。
スローンは相手が誰であろうと一切の区別をしなかった。別部門の長であろうと清掃担当であろうと、敬称を略することはいっさいしなかった。自らの地位を理解していなかったからではない。あまりにも自らの地位の大きさを理解していたからだった。
社内に友人はいっさい持たなかった。情緒的な人間関係がいささかなりとも人事をはじめとする重要な意思決定に影響しないよう自らを厳しく律していた。生ぬるい温情主義や父権主義ほど彼から遠いものはなかった。彼の目線はどこまでいっても成果に向けられていたし、成果なくして組織における自らの意義はないことを知り抜いていた。ドラッカーが次のように言うとおりである。
「仕事上の関係において成果がなければ、温かな会話や感情も無意味である。貧しい関係のとりつくろいにすぎない。逆に、関係者全員に成果をもたらす関係であれば、失礼な言葉があっても人間関係を壊すことはない」――『経営者の条件』
日本の組織文化は微温的であるとしばしば言われる。しかし、組織が微温に傾きがちなのは、日本のみに特有の傾向ではない。その証拠に、贈収賄や情実などの腐敗は世界中に見られる普遍的な現象である。欧米にさえごく通常に見ることができる。
生産的な人間関係をよき人間関係の成立条件として難しく感じるのは、人がいかに容易に情や好悪に流される弱い存在であるかに思いを馳せればわかる。
だが、組織にあって責任を伴うマネジャークラスになるとそれでよしというわけにはいかない。組織は本来社会的存在であって、社会からの付託があってはじめて成立する。
言い換えれば組織は社会からの預かりものである。
しかも組織は現代社会にとってもっともパワフルな道具である。個人では決してできないことが組織を使えばできる。それを適切に使いこなす能力のない者にマネジメントの職位を与えてしまうのは、大量破壊兵器を無能で貪欲な愚者に委ねるくらい危険な行為である。
しかも組織は単に生産性に責任を持つのみではない。組織は人を育てる機関でもあると同時に、未来の人間を創造する機関でもある。その意味では基礎的な学校よりもはるかに社会において実権を持つ教育機関とさえ言える。
学校を出て企業や役所に就職した青年は、組織の門をくぐるや、誰かの部下になる。部下になるということは、言い換えれば上司を持つということである。上司は部下に対し何かを命令する。言動に大きな力を持つ。人格的影響さえ持つ。
当たり前に見えてまったく当たり前ではない。若い尊厳ある人に、一私人がなんの権限があって命令できるのだろうか。その根拠は「相手の成長に対して責任を持つため」の一点以外にありえない。仕事によって相手を成長させる、生産的たらしめる、それ以外にこの擬製された上下関係の根拠はない。
つまるところ、関係性のいかんに関わることなく、生産的であること、成長に責任を持ちうること、それ以外によい人間関係はありえない。それ以外のものはいかに美しく見えようが虚妄の正義にほかならない。
信頼関係はむろんなくてはならない。しかし、信頼関係が必要なのは、互いに利用し合うためではない。ともに社会的に生産的な関係を構築するためである。信頼構築のアプローチは多様である。居酒屋談義がその一つであっていけない理由はないが、そのための基本原則がないがしろになっては意味がない。
大切なことは、仲のよさではなく仕事ぶりのよさである。
人を育てる
企業が果たす役割は生産活動のみではない。とくに現代において企業は市民育成の学校の役割をも担っている。企業内の人材を育てるのみではない。本業を通して社会と人をも育てる。
企業が直接的に教育に責任があるわけではない。教育とはその原義からも、人の力を引き出すことにある。企業ができるのは、人が自らの能力開発を行ううえでの環境づくりまでである。だが、社会的責任を遂行する企業では、結果的に人を育てる。いや、そのような場所ではなぜか人が育ってしまう。
人が育つときの条件として、重要なものとして責任がある。責任が与えられるところにある。
岩崎夏海『もしドラ』でも、やる気のない野球部員が、あることをきっかけに「人が変わったように」真摯にかつ創造的になっていく。しかるべき責任を与えられたことが理由だった。
人は責任のなかでしか市民たりえないし、本当の意味での社会的役割を果たすこともできない。責任とは自由の異なる側面からの呼び名である。責任を持つ人が正しい意味における自由人である。
正しい責任の下で活動するとき、人は本当の意味で強みを発揮することができる。そのときに初めて貢献と成果を手にすることができる。人を育てる企業でふさわしい責任を与えることが、またとない成長の条件であることを知らないところはない。
現実に、優れた経営者をなぜか輩出する企業というものが存在する。なぜか人材が育ち、やがて社会のリーダーを生む組織がある。いずれも鍵は責任である。
とくにスポーツや芸術などでは明瞭に現れてしまう。わけても指導者の力量が顕著である。
野球でいえば監督、ブラスバンドなら指揮者である。『もしドラ』でも、マネジメントがうまく回り始めるととくに追加的努力なしに優秀な能力を持つ人々が周囲に集まり始める。ひいては優れた人材を越えて優れた風土を生む。
ポジティブなフィードバックを生む歯車が回り始める。『もしドラ』主人公のみなみが、次々と決定要因を見出し、そこに働きかけていく。顧客を発見し、強みを見出し、革新を行う。一度回り始めると誰にも止めることができない。ドラッカーは『現代の経営』で次のように言う。
「優れた人材に対する需要は、最高の経営管理者育成計画が人材を輩出させる能力を上回っている。そのようなことはすでにほとんどのマネジメントが知っている(もちろん、自社が他社の社長養成所となることになんら不都合のないことは、賢明な事業家ならばみな、昔から知っている。それどころか、優秀な人材を引きつけられるか否かは、優秀な人材を育てる能力についての評判に正比例する)。」
日本でもリクルートやコカコーラのように、多方面で活躍するリーダーを次々と輩出する組織がある。そのような組織では、若いうちから責任を基本に据えた人材開発を後押しし、可能な限り早期に外の世界に出られるように後押しさえしている。
ドラッカーは教えることの効用をことさら重視する。①教えること、②移ること、③現場に出ることが、とくに人の成長を後押しするという。
教えるとは一方的な行為ではない。その証拠に、一人では教えることができない。教えるためには教わる人、学ぶ人がぜひとも必要ということになる。
やはり『もしドラ』にも同様の場面が出てくる。教えることは、自らを省みることである。自らの知識や経験を棚卸しし、そのなかから精妙な部分を結晶化させる行為である。だから、教えるときほどに学べることはない。実際に教えたことのある人なら誰もが知るように、ときには何気なく話した自分の言葉からさえ教えられることがある。教えるという行為を具現化して初めて、自分からも学ぶことは可能になる。
人を開発するのに、この教えるという力強い方法を導入しない手はない。教える人が教わる人に知識を伝授するためではない。教える人は教える人本人の中に眠る自己開発のドライブを瞬時に最大化する魔法の方法だからだ。
何より、教えることほど責任を伴うものはない。教えることは、単に知識を伝達するのみではすまない。そこでの立ち居振る舞い姿勢などすべてが観察と影響の対象になってしまう。教えることは、ポジティブな緊張をもたらし、そこから自らの持つ本当に強いもののみに目を向けさせるかけがえのない機縁となる。ドラッカーは言う。
「人を教えざるをえなくなることほど、勉強になることはない。人の成長の助けとなろうとすることほど、自らの成長になることはない。じつに、人の成長のために働かないかぎり、自ら成長することはない。経営管理者が自らに対する要求の水準を高めることができるのも、人を成長させようとする努力を通じてである。」
おそらく、知識社会とは人から教わるとともに、人に教えることが生産性の質を担保する社会である。その証拠に、どんな人であっても、人に教える局面に事欠かない。知識とは人に伝達されて意味を持つ。水に似て、常に流れていなければ水としての機能が果たせないのに似ている。ためてしまっては腐ってしまう。
教える経験は相手の成長を徹底的に考え抜く機会を与えると同時に、自分の成長をも考え、促すための有効なシステムを提供してくれる。もし教え教わることがなかったならば、知識社会は成り立たない。逆に言えば、教え教わる環境に身をおけることは、それだけ自他の成長に適切な責任を持つかけがえのない場を手にしていることになる。
考えてみれば、今の自らがあるのは自らが駆け出しだったころ、親身になって誰かに育ててもらった結果であろう。そのときは煙たく思われた上司でも、しばらく経ち、やがて自分が煙たがられる年齢になると気持ちが不思議と理解できるようになる。
ドラッカーはマネジメントという知識は客観的に教えられるものの、深い次元での理解を考えるならば、経験を積んだあとのほうが学びやすいと述べている。実際に、経営や組織に関わる大半のものは、頭脳の中だけで完結しうるほど親切な知識ではない。思いがけないことが思いがけない形で、しかも多くは愉快ならざる形で起こる。人の成長も同じである。
二〇代で将来を嘱望された人が、四〇代で見る影もなく衰えていくこともあれば、まったくノーマークだった人が四〇代後半でめきめきと頭角を現すことがある。
人の能力がどこで開花するかなど事前には決してわからない。人に限らず生き物はそういうものだとしか言いようがない。しかし、人を育てるとは、そのように人間の「わからなさ」に真摯に向き合うことと同義である。ドラッカーは言う。
「あらゆる職業において、最高の仕事をする人たちとは、自らが訓練し育成した者たちを、あとに残すもっとも誇るべき記念碑と見る人たちである」。
こういう人たちがかつていてくれたから、今の自分自身がいる。そのことを思うとき、今自分が育てるべき順番にいることが切実に理解されるであろう。
リーダーとは誰か
経営学の一領域にリーダーシップ論がある。MBAの講座ではきわめて重視されているテーマの一つである。むろんドラッカーもリーダーシップについて語っている。だが、その語り口は通常の論者とはいささか趣きを異にしている。
まずドラッカーはリーダーというものをそれ自体独立した実体とは見ない。むしろ機能や働きと見る。リーダーがリーダーである理由は一つしかない。
フォロワーを持つことである。
リーダーシップはフォロワーシップがあって初めて成立する、対話的な行為とドラッカーはとらえる。対話には相手が必要である。いかに力強いリーダーシップを発揮しようと思っても、後ろに誰もついてこないのならば、リーダーシップの発揮どころか口げんかさえまともにできない。
ドラッカーは言う。
「リーダーとしての能力の第一が、人の言うことを聞く意欲、能力、姿勢である。聞くことはスキルではなく姿勢である。誰にもできる。しなければならないことは、自分の口を閉ざすことである」(『非営利組織の経営』)
一般に有能なリーダーというと、弁舌さわやか、理路整然と自説をまくしたて、常にエネルギッシュで疲れを知らぬ、そんな暑苦しい人間像を思い浮かべる。もちろんリーダーがそうであっていけない理由はないが、ドラッカーの観点からすれば、もっとも大切なのは相手の話を聞く能力ということになる。
そのための方法は「自分の口を閉ざす」ことだけである。だが、これが案外簡単ではない。時に確固たる自説のあるテーマにおいて何も言わずにいるほどの苦役はない。つい機会をとらえて容喙したくなる。ドラッカーはそれではだめだという。
聞き手に徹しなければならない。
というのも、リーダーは自らの考えをフォロワーに理解してもらう義務を持つ。一度話せば理解したと思うのはたいてい間違いである。理解などしていない。同じことを何度も言わなければならない。そして耳を傾けなければならない。忍耐については誰もが三歳児並みである。
ドラッカーによれば、リーダーに必須の資質というものはない。マネジャーや企業家に必須の資質がないとする彼の説と合致している。
しばしばカリスマ性をリーダーの資質に挙げる人がいる。最悪であって、カリスマ性はかえって組織を破壊し、社会を損なう。
彼は二〇世紀のリーダーとしてチャーチルを称揚した。チャーチルは自らの資質によってではなく、目的によってリーダーシップを発揮した。さらにチャーチルの強みは、どこまでも後進の政治家を育て後押ししたことにあった。それこそ、人の強みに脅かされることのない真のリーダーの証だった。
「なされるべきことをなす」、リーダーの仕事はそれだけであることをチャーチルは教えてくれる。
逆に最悪のリーダーは、ヒトラー、スターリン、毛沢東とし、いずれもがカリスマを基盤とする支配であったと断じている。
カリスマの悪いところは、パフォーマンスの低さにあるのではない。あてにならないところにある。カリスマとはどこまでいってもリーダー本人に体化した特性であって、学びとることも教えることもできない。
むしろ、リーダーにはある種の健全な無頓着というか、仕事を自らの上に置くこと、言い換えれば、自らは仕事の手段とする割り切りがなくてはならない。
「仕事の重要性に比べれば自分などとるに足りないことを認識することである。リーダーには客観性、一種の分離感が必要である。リーダーたる者は自らを仕事の下におかなければならない。仕事と自分を一体化してはならない。仕事はリーダーなどより重要であって、リーダーとは別個のものである」(『非営利組織の経営』)
重要な指摘である。しばしば熱心なリーダーほど仕事と自分の境目がなくなる。落とし穴である。仕事と自分を一体化などしてはいけない。そのような組織は早晩堕落する。
そもそも、組織そのものが手段である。かりに特定のリーダーの尽力なくして立ちゆかないのなら、はじめからその組織は立ちゆかない。四番バッターが抜けた途端に勝てなくなるチームははじめから弱いチームである。
アルフレッド・スローンをはじめとする力あるリーダーに共通するのは、自らの組織に友人を持たなかったことだった。そもそも会社は友人をつくる場所ではない。ドラッカーは言う。
「一流のチームをつくる者は、直接の同僚や部下とは親しくしないということである。好き嫌いではなく何をできるかで人を選ぶということは、調和ではなく成果を求めるということである。そのため彼らは、仕事上近い人間とは距離を置く」――『経営者の条件』
すなわち、リーダーシップもまた手段あるいは機能であってそれ以上のものではありえない。
ドラッカーが教えるのは、リーダーシップは一つの方法論であって、誰でも習得できるものでなければならないということである。かりにリーダーシップが特定の能力を持った人にしか遂行されない技能なのだとすれば、この世界はとっくにリーダーシップもマネジメントも存在しない世界になっているはずである。
だが幸いなことに、リーダーたるものの姿勢は学ぶことができる。しかもきわめて容易に学ぶことができる。まずはリーダーとしての姿勢を身に付けることである。リーダーは影響力を持つ。自らの何気ない一言や所作が思いもしないかたちで周囲に大きな影響力を持ってしまう。その影響力の根源がどこにあるのか、そのことをまず理解しなければならない。
しばしばリーダーは地位と誤解される。リーダーは地位ではない。権限ではない。まして特権ではない。それではカリスマや人気取りに過ぎなくなる。カリスマや人気取りで運営される組織は必ず潰し合いになる。結局組織として弱くなる。リーダーは機能である。人柄も気質も何も関係ない。
リーダーはフォロワーの強みを最大化することが仕事であって、社員一人ひとりの顔と名前を覚えたり、スピーチが爽やかであるために給料をもらっているわけではない。船長は船を正しく目的地に導くためにリーダーとしての地位を得ているのと同じである。
リーダーとは地位ではなく責任である。ドラッカーはこのフレーズを役員室に大書しておくべきと述べている。
そもそもが冒頭で述べたように、リーダーはフォロワーがいなければリーダーたりえない。
言い換えれば、彼をリーダーにしてくれているのはフォロワーである。要は、リーダーは組織に対して重い借りを負っている。もっと言えば、社会から借りを負っている。
リーダーに責任が生じるというのは、リーダーは人のおかげでその地位にある。とくに日本社会はコミュニティ優位の社会である。フォロワーはリーダーの能力の発揮に力を貸す。あるいはフォロワーは自らの能力の開発に力を貸してくれるという暗黙の約束があるからこそリーダーについていく。
つまりリーダーの側に借りがある。
リーダーの地位にあることを特権のように感じる時点で、その人はリーダーに向いていない。