私の好きな短編集ランキング ベスト10

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ときどき読み返す思い出の本。苦しいとき、悲しいとき、暇なとき、味方になってくれる本。

短編集を中心にランキングと寸評を書いてみました。

第10位 ボルヘス『伝奇集』岩波文庫
第9位 ポー『ポー短編集 ゴシック編』新潮文庫
第8位 村上春樹『東京奇譚集』新潮文庫
第7位 トーマス・マン『ドイツとドイツ人』岩波文庫
第6位 上原隆『雨にぬれても』幻冬舎アウトロー文庫
第5位 ラフカディオ・ハーン『怪談』岩波文庫
第4位 恒川光太郎『夜市』角川ホラー文庫
第3位 チェーホフ『カシタンカ・ねむい』岩波文庫
第2位 カフカ『カフカ短編集』岩波文庫/ディケンズ『ディケンズ短編集』岩波文庫
第1位 夏目漱石『硝子戸の中』新潮文庫

isaka

 
第10位 ボルヘス『伝奇集』岩波文庫

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ボルヘス? 誰?
最高にクールなアルゼンチンの大作家です。
擦り切れるくらい読みました。駄作は一つもない、ぜんぶ大傑作です。語り口がとにかくいい。切れ味がいい。言葉の選び方が絶妙なのです。くどいくらいに爽やかで、奇妙なことを当たり前の顔で語る変な人。短編「記憶の人フネス」は必見です。ボルヘスの世界は言葉のタピオカ、一度読むと癖になる。
この世界の果てしなさにふれたければ、黙ってボルヘスの文章に目を落としなさい。私に言えるのはそれだけです。

 

第9位 エドガー・アラン・ポー『ポー短編集 ゴシック編』新潮文庫

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ポーの作品は「憂鬱の百科全書」ともいえるでしょう。その爽やかな暗黒感覚にとりつかれ、小学生以来読み返しています。

私にとっては「シャーロック・ホームズ」の作者コナン・ドイルがお手本にした作家という感があり、作風は心理的、暗黒的でありながら、人生の冷徹な哲理がぎっしりと詰まった叡智のカタログでもあります。

代表作の「黒猫」は、今もしばしば最終場面が鮮やかに脳裏に浮かび、私を戦慄の深淵にたたき落としてくれます。その独特の深みは、透徹した人間観察に裏打ちされていて、「アッシャー家の崩壊」「赤死病の仮面」などは、まさにうっすらと感じていたこの世界の不条理を見事に説明してくれて痛快でさえあります。

憂鬱質という気質を持つ私にとっては、言い尽くせない慰安を供してくれる作品でもあります。時々、何かにストレスを感じた時など無性に読み返したくなり、そのたびにカタルシスを与えてくれます。ポーは心の機微を知り尽くした作家であり、厳しい現実にしかるべき勇気をもって立ち向かう覚悟を与えてくれる友人でもあるのです。

 

第8位 村上春樹『東京奇譚集』新潮文庫

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村上春樹の短編集はいろいろありますが、一つあげるとしたら、迷わず私は本書を選びます。なんと言っていいのか、いつも読後世界がゆがんで見えるような不思議な感覚にとらわれるのです。本短編集は村上春樹の作品でも最高傑作でない。それだけはおそらく確かです。けれども、村上さんのストーリーテラーの才能がもっとも遺憾なく発揮された作品なのは間違いありません。私に馴染みの東京。そこはいくつもの可能的リアリティの輻輳する異界であることを村上さんは教えてくれています。その意味で、本書は、フィクションの形式でたまたま語られてる事実の描写にほかなりません。よろしければ、手にとって体感してみてください。理解できるはずです。

 

第7位 トーマス・マン『ドイツとドイツ人』岩波文庫

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正確には短編集ではなく、講演録です。けれども、私にはナチス時代を対象にしたマンのアクチュアルな発言が、グリム童話の暗い森で語られる不吉なお話みたいに感じられるのです。

私はたいしたドイツ文学の愛好者ではありませんが、マンは好きでわりによく読みます。『トニオ・クレーゲル』そして『魔の山』を教養主義小説の大傑作として崇拝します。けれども、なぜかマンの短編集は面白いと思ったことがありません。理由はわからないのですが、たぶん、短距離ランナーではなかったのでしょう。そんなことを言うとファンから怒られますが。

その点、この講演録は血を吐くような凄まじい大迫力を伴う作品といっていいでしょう。ユダヤ人として、地位も名誉も、ついに博士号も奪われた彼が、渡米後放った言葉のスカッドミサイル。マンをクールな作家と思っていた私は、本書を手にして大きくイメージの修正を迫られました。

現代の日本および日本人が読むべきです。

 

第6位 上原隆『雨にぬれても』幻冬舎アウトロー文庫

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上原隆、あまり知られてませんね。それなら、これから上原隆の作品に触れることをお勧めします。いくらかの自信をもって。

人のふとした表情の影を描くのに、こんなに見事な書き手は稀です。登場するのは、みな名もなき人たち、つまり私やあなたのような人。それぞれのささやかな人生に、嗚呼、なんと深い悲しみが何の前触れもなく起こることか。

私は作中の人たち全員を愛さないわけにはいかない。そして、幸せを祈らないわけにはいかないのです。言葉がありありと立体感あふれる愛と悲しみを脳裏に創造する作家、上原隆。ぜひ名前を覚えていただけると私も救われます。

 

第5位 ラフカディオ・ハーン『怪談』岩波文庫

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子供のころから不思議な話が好きでした。昔どの家にもあった少年少女版では、『怪談』以外の作品からも採録していて、心を遠い世界に解き放つ最高の時間を過ごさせてくれました。

『怪談』は最高の短編集、いや、短編集の中の短編集といっていいかもしれません。怖い話ばかりかというとそうでもない。大半は怖くもなんともない話です。けれども、読後に何か奇妙な違和感が背筋に残るのです。首筋に透明の蛭が無数にまとわりついているかのような。どこからともなく、微風に乗って線香の香りがしてくるような。

上田秋成の『雨月物語』も似ています。こちらは江戸期の作品ですが、服を着たまま生温かい水に首まで浸かっているような、なんともいえないいやな感覚なのです。たぶん昔の日本にはそこら中にそんな時間があふれていたのでしょう。昔の日本人の意識に作品を通してチャネルが合ってしまうかもしれません。

『怪談』の大半は人から間接的に聞いた話をハーンがまとめたものです。いわば再話という形式をとっていて、これは19世紀の「グリム童話」と同様の手法です。有名な「むじな」「ろくろ首」「雪女」などは多くの日本人にとってなじみのものですが(ちなみに、「雪女」の舞台は現在の東京青梅のあたりだと言われています。昔は寒かったのでしょう)、たった一つだけ、ハーン自らの生活圏(東京牛込)で起こった実話があります。子供のころこの話だけは衝撃的に怖かった記憶があります。「力ばか」と言います。この作品を読むだけでも、手に入れておく価値はあるかもしれません。

あまり知られていないかもしれませんが、秀逸な短編は他の作品集にも採録されています。私が愛してやまないものに二編「茶碗の中」「人形の墓」があります。タイトルだけで、どこかぞわぞわしませんか。現在は上田和夫訳『小泉八雲集』新潮文庫で読むことができます。ともに、いつもポケットにしのばせていたい本です。

 

第4位 恒川光太郎『夜市』角川ホラー文庫

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恒川光太郎の名を初めて知った方。幸運をことほぎましょう。まだまだ世界は未知なるものに満ち溢れている。恒川は美しい紫のきらめく滑らかな文体で、内なる旅へと誘ってくれます。

その短編の精巧さ、解放感、優美さ。南国の竹で無限に編み上げられた笊のように、素朴でありながら高貴な逸品があなたの前に惜しげもなく差し出されます。

そのたびに思います。いい文章に包まれて、優れた物語に耳を傾けるほどの至福はないと。この愉悦はほかでは得られません。恒川さんの言葉に身を浸してみてください。いかに自分の心が痛み疲れていたかに気づくはずです。やわらかな温泉のように、なぜか懐かしい。やがて行間に響く言葉以上の言葉、自身の魂の発する石笛の音響を遠く耳にするかもしれません。

 

第3位 チェーホフ『カシタンカ・ねむい』岩波文庫

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何年か前にドストエフスキーのお墓詣りがしたくて、サンクトペテルブルクに旅行しました。ドストエフスキーは崇敬しますし、ロシア文学の巨頭であるのは疑いえません。それというのも、作品の壮大さ、テーマの深遠さ、構成や人物の複雑さに偉大さが表れるのですね。

一方でチェーホフは、ほぼ同時代のもう一つのロシア文学を代表する作家です。ドストエフスキーが大きな物語を語ったのに対して、チェーホフは小さな物語、ささやかな物語を意識的に語った人でした。舞台は庶民の日常であり、人物は女性や子供、時に犬でさえあります(ちなみに、カシタンカは犬の名です)。小さな一隅で流される一すじの涙をチェーホフは見逃しません。テーブルの下で握られるちいさなこぶしも、雨にたたられたときの細いため息も、優しい陰影とともに、正確に描写されています。

チェーホフは医者でした。作家として名をなしてからも、医者であり続けました。自身はわりに早く病死してしまうのですが、患者や周囲への温かな配慮溢れる目線は、作品にも十分に表れています。チェーホフの人となりに関心があれば、やや長めの作品「六号病棟」を読まれるといいかもしれません。

旅行の時など、車窓を流れる風景を眺めながら、チェーホフを手にしてみてください。のびやかな清潔感ある文章に目を落とし、この世界が苦しみに満ち溢れながらも、やはり美しい風の通う一隅なのを確認する。決して悪い気分のものではありません。チェーホフは、小さなものを通して、人の世の美しさを教えてくれる、ささやかさの表現で偉大さを体現する作家なのです。

 

第2位 カフカ『カフカ短編集』岩波文庫
同点2位 ディケンズ『ディケンズ短編集』岩波文庫

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2位は二作あります。ディケンズとカフカ。どことなくビートルズとストーンズみたいな対比関係を思わせます。あるいはヴェルディとワーグナー、ゴッホとルノワール、実力は互角ながら、陰陽に分かたれて、交わりそうで交わることのない黒白二本の大河を私は思い浮かべます。

ともに長編短編を自在に書き分け、そのいずれもが傑作と評価されています。私の気質からすれば、悪夢の中の沼のようなカフカに親しみを感じます。2年前プラハのブルタバ河畔のカフカの家を訪れました。カフカの小説に登場しそうな陰鬱な女性が管理していて、私を見て無料で中に招いてくれました。同胞と判断したのでしょう。その薄暗い展示物や内装がどれほど慰安をもたらしてくれたことか。思わずただいまと口にしそうになったほどです。忘れないうちにひとつだけ、「橋」という超短編は必見です。

ディケンズも陰鬱は陰鬱なのですが、カフカと違うのは、作家として、ストーリーテラーとしての高度なプロ意識の成果である点です。彼は読者の心のつぼのようなものを知悉しています。マーケティングが行き届いているのです。イギリス最高の国民作家にふさわしい語り手であり、言語のエンターテイナーです。「子守女の話」などは秀逸ですが、小さい頃こたつでおばあさんが話してくれる不思議な話を思わせる親密で温かな空気感が漂ってきます。

ちなみに、ディケンズの訳者石塚裕子氏の訳文は涙が出ます。短編集は共訳ながら、大長編ビルドゥングス・ロマンの『デーヴィッド・コパフィールド』は単独訳で石塚さんの大洋のごときのびやかで滋味深い訳文を堪能できます。

 

第1位 夏目漱石『硝子戸の中』新潮文庫

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硝子戸の中と書いて、がらすどの「うち」と読みます。短編集というよりは随筆です。読み返した回数では、かなりの部類になると思います。胃病が激化して亡くなる1年前、病身で外出困難な漱石が、自宅にいて聞こえる音や思い出すものどもを気の向くままに綴った書き物です。そのためか、全編死のにおいが漂っています。時々彼の空咳や衣擦れまで聞こえる気持ちになります。世の中では第一次大戦勃発の直後、世界が暗転していく東京の空気なども、漱石の心境と同時進行で語られる歴史的作品でもあります。

漱石の頭脳によみがえるのは、大半は愉快とはいいがたい思い出です。それらが、どことなく快い痛みとともに次々に映写機にかけられていきます。生きるのをあきらめようとした女性との出合い、健康を誇りながらあっけなく先に死んでいった友人たち、手紙で自分に絡んできた関西のある傲慢な人物など。これといった特徴も脈絡もない、名もなき人々であり、名もなき記憶です。それでも、漱石はやがてこの世を去るわが身を予期してか、愛しいわが子のようにひとつひとつを大切に取り出して見せてくれるのです。

晩年の思想があるわけでもなければ、新しい創造があるわけでもありません。あるのは、漱石という一人の生身の人間だけです。漱石は自分の弱さをひたすら書き記そうとします。共感を求めるのでも、理解を要求するのでもなく、あるいは人に何かを教えようとか、訴えようとかするのでもない。ただ内面で進行する心象を端然と描写していきます。その描写は--あえてありきたりの言葉を使えば--たとえようもなく美しく、またある種の特別な伝達力を伴っています。

『硝子戸の中』を手にしたとき、私は19歳で、大学に入ったばかりでした。確か新聞のコラムか何かで目にしたのがきっかけだったような気がしますが、はっきりとは覚えていません。漱石の随筆にはロンドン時代にもよいものがいくつかありますが、私の心にどどまり続けているのは、以来『硝子戸の中』です。

その一端は、漱石の死という個人的経験とかかわります。記述は死の床に伏す漱石の脳裏を何度も旋回した重たい想念とおおかた重なるに違いないのです。漱石が心にかけた死の観念、やがて現実になるそれはどのようなものだったのか。私は想像しないわけにはいきません。いずれ遠からず自分にも訪れるものにほかならないからです。

漱石のものした最後の随筆は、死のレッスンを促す血の文字で書かれています。あのソクラテスが自らが死んでいく様を『パイドン』で弟子たちに実況中継したように、『硝子戸の中』は漱石の死んでいく内面生活を実況中継した作品にほかなりません。死を予覚させるだけのリアリティを十分に提示する点で、漱石の真の「哲学」的著作として私は受け取ってきました。哲学とは死の練習以外のなにものでもないからです。

気づけば私も『硝子戸の中』を書いた彼の年齢とほぼ同じになりました。新しい気持ちで、近々読み返してみたいと思っています。