概説ドラッカー経営学(8)-成果を上げる人の条件

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実践躬行の精神

「自分のコンサルティングによって、今日何が変わったかが成果の尺度だ」とドラッカーはしばしば周囲に述べていたという。

こういう言い方はドラッカーのよくするところである。一見大胆不敵で思いがけないような言い方だが、趣旨を端的に言えば今日主義ということであろう。

理想はいつかくる、皆がそれを期待することができる、しかし、いつから始まるかということについては分からない、というのでは単なる空想にすぎなくなってしまう。

もし理想が本当に理想であれば、いかにささやかであっても、今日からその理想が始まるのでなければならない。だからマネジメントによる変革の成果が必要であるとすると、来年、再来年、あるいは十年先ということではなくて、今日すでに始まっているのでなくてはならない。

いかに大胆不敵に見えようとも、そう考えることができるかできないかによって、その実践の精神が本当に生きるようになるかどうかが決まってしまう。いわば武道で言うところの「実践躬行」の精神に通じるものがある。

マネジメントをこの点から考えてみると、この考え方の正しさがはっきりしてくる。

たとえば、自分は英語が話せるという人は多い。ならば、今ここで英語を話してくださいと言われたら、すぐに英語を話せるだけの心構えと技能とがその前提にあるはずだ。自分は英語が話せるといっても、あと一年勉強しなければ英語でスピーチができない、ということであれば、それでは学生であって英語が話せることにはならない。

マネジメントも全く同じである。あと十年経てばマネジメントのプロとして実践ができるというのでは、その空想的態度において、まだ学生にすぎなくなってしまう。やはり、理想は今日実現できるものだということを前提にしていなければ、実践家として成立しないことになる。

そういう意味からいって、ドラッカーの言わんとしていることは、「今」始まるということ、それから、今それを始めることのできる心構えができているということ、この二つがある。

この二つを自分にも人にも同時に求めていた。もう一つの実践性は言葉にかかわる。

ドラッカーがいつも考えていたように、マネジメントは生きている。生きた問題として、そのつどそのつど、成長を続けていく。そうすると同じマネジメント上の課題といっても、ドラッカーがマネジメントを発見した一九四〇年代と、二〇一〇年代の現代では違って当然である。

常に、時代時代に対応できるあり方をマネジメントは求められている。そうすると、二〇一〇年代にふさわしいマネジメントを模索することが必要になる。

そういうものとしていつも心の準備をしていかなければ事業はできない、ということになる。

そう考えるならば今マネジメントに必要なのは、第一に世界に共通な、世界のどこでも通用しうる言葉を用意しておくことだ。現在、グローバル化がものすごい勢いで進展している。かりに今日ヒンドゥー教を信じるビジネスマンが訪ねてきて、そしてあなたの考えるマネジメントは今の時代に、世界の要求にどう応えようとしているのか、と聞かれた時、そのヒンドゥー教の人にも理解できるような言葉やコンセプトで、こういうことを考えている、と言えなければならない。

つまり、全く文化背景の異なる人々との間でも分かるような言葉を用意しなければいけないことになる。

言葉というのは、ドラッカーが常々言っていたように、シンボルでも概念でもなく、一つの「現実」である。大きな力を持った、いわば知識社会の武器でもある。

マネジメントにあって必要なのは言葉の力である。そしてその言葉を使って、時代に見合った表現ができなければならない。

ドラッカーの言葉の働きを見ると、いつでもその時代の人々に必要な言葉を使っていたことが分かる。その点で、私たちは、ドラッカーのいない現代という新しい世界のなかで、新しい現代のマネジメントに伴う言葉をつくっていく仕事をしなければいけないことになる。そのような言葉を用意しながら、自分たちの大事な理想を通して、世界の人たちを互いに結びつけるために働くという態度が基本になければならないと思う。

マネジメントとは本来的に社会的な機能である。同時に、社会が多様で多義的であるのを反映して、マネジメントも多様で多義的なものとならざるをない。

「マネジメントと社会」というと、「と」という小さな言葉で結びつけられて、二つの重要な言葉がそこに並んでいる。その「と」を取ってしまって「マネジメント社会」といった場合に、どういうことが考えられるか。

これはまさにドラッカーの言う知識社会そのものを指した言葉になる。つまり知識社会にとっては、「マネジメントと社会」以上に、「マネジメント社会」が問題なのだということだ。

知識社会の基本には、この世にあるすべてを社会的に受けとることができる、という考え方がある。たとえば教育の場合には教育の知識社会、農業には農業の知識社会、工業やサービス業にはそれぞれの知識社会がある。

それぞれの社会を「知識」を媒介に、全体的な社会のために高めていけるという考え方が、ドラッカーの知識社会の基底にある。その考え方は今なお新しい、そして今特に必要になってきている。

あらゆる知識を社会的に受け取るのが大切である理由として、従来は、社会にではなく、科学におきかえて考える考え方が強かったことがある。一例として、マネジメント科学、教育科学、政治科学などあらゆる社会的な行為を科学に結びつけて考える考え方のほうが一般だった。

ところがドラッカーは、マネジメントは科学ではないと断言している。マネジメントを語ることで、必ず社会というものには合理と知覚の側面が背後に働いていることを強調した。言いかえると、ただすべてを社会的に把握するということではなくて、さらにもっと奥深く、マネジメントを社会と科学とを統一する可能性、そのような文化をつくろうとする意図も、その背後にはっきりと感じとることができる。

そしてドラッカーの偉大なところは、その三つの統一する場所を未来のいつかに設定して、それまではお題目を唱えたり、旗印を掲げたりしようとするのではなく、どんなにささやかであっても、「今日」からそれを始めようとした。

今まで知識社会の内部で実践されてきたものは、その時その時の時点ですでに実現され始めている。それらは現在進行中である。それを現在の時点で、新しい世界的な結びつきのなかで行う場合、改めて今にふさわしいマネジメントのあり方を考えていかなければならない。そのような現代とは、世界中誰もがマネジメントや知識社会についてさまざまな角度から考え始めるようになった時期である、ということができる。

成果をあげる人の条件

ドラッカーの著作で今なおもっとも読まれるものの一つが一九六七年刊行の『経営者の条件』である。原題を和訳するならば、「できるエグゼクティブ」といった意味である。エグゼクティブとは、意思決定する人を指す。別に社長でなくともかまわない。新入社員でも、アルバイトでも、派遣社員でも、自ら意思決定する者は一人の例外もなくエグゼクティブである。

したがって、邦題で言う「経営者」とは、直接企業経営をする者というよりも、「自分自身」を経営する者という意味合いが強い。

本書の一貫した関心は、「成果を上げる方法」にある。どちらかというとページ数では薄いほうに属するが、万巻の書に比すべき知恵が一行一行に込められた名著である。

彼は最初にひどく興味深い問いかけを行っている。

「成果を上げる人に共通した特徴、気質、行動といったものがあるか」というものである。彼自身はじつにさまざまな成果を上げる人々と出会い、その一人ひとりをつぶさに観察してきた。ほがらかな人もいれば、むっつりしている人もいた。社交的な人もいれば、孤独な人もいた。控えめな人、攻撃的な人、さまざまだった。

結果、彼は成果を上げる人に特徴的なタイプというものは、「ない」ということに思い当たった。成果を上げる人に共通するのは、ただ一つ、「成果を上げる能力」のみだった。

こう言いたくなるかもしれない。「ちょっと待ってほしい。確かに成果を上げる特別な特徴はないのかもしれない。でも、私はもっと自分に能力があれば、思ったとおりの成果を上げることができたのに、と歯噛みしたことが何度もある。そのなかで、『成果を上げる能力』などという都合のいい能力が存在するのか。そんなものがあれば誰も苦労しないはずだ」と。

確かにそのとおりである。成果を上げる能力そのものを獲得するのは簡単ではない。だが、能力には、手段や方法を伴う。いわばスキルである。このスキルは誰でも学び、身に付けることができる。このスキルこそが、『経営者の条件』の主題である。

では、本書が示すスキルとはどのようなものか。

ドラッカーは、「私の観察によれば、成果を上げる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする」と述べている。

『経営者の条件』が最初に焦点を与える条件が、「時間」である。だから、成果を上げる人に特徴的なのは、「時間から考える」ことと彼は言うのだ。簡単に言えば、できる人は、ある仕事を見て、まず「これはどんな仕事か」とか「どうすれば前に進められるか」を考えない。「この仕事は何時間で終えられるか」を考える。「時間」から入るのである。

ドラッカーは時間という資源がいかに顧みられることがないかをここで再三強調する。時間は不思議な資源である。主観的に見るならば、時間は人によって伸び縮みする。瞬時に過ぎることもあれば、いつまでたっても過ぎないこともある。時間の持つ意味や価値は人によってまったく異なる。大人の時間と子どもの時間は意味がまったく違う。

ドラッカーは次のように言う。

「おそらく、時間に対する愛情ある配慮ほど、成果を上げている人を際立たせるものはない」。

時間が大切なのは、自分ひとりではない。組織社会の現代にあって、自らの時間と他者の時間に同時に目を向けるのは、誰にとっても避けることはできない。

「時間から入る」。このことは、誰であっても知り、実行することができる。簡単である。時間が大事なのは自分だけではない。ともに働く人々にとっても時間はかけがえのない資源である。だからこそ、時間を管理しマネジメントすることが成果を上げるうえで避けて通れない行動となる。

ドラッカーは、肉体労働のための時間研究を知識労働のための時間研究につなげた。そこでは、もちろん他人の時間も無駄にすることは許されない。組織内の全員の時間を浪費させている経営システム、人員配置、組織構造、情報システムを不断に点検し、モニタリングしていくことが求められる。

時間管理とは自らの時間が何にとられているかを知り、体系的に時間を管理することである。やる気の起こらない仕事や、成果を生まない仕事で時間をとられない。人に任せられる仕事はアウトソーシングする。

まずこれらのことだけでも時間管理の価値がある。

そのためには、第一に時間を記録する。記憶するのではなく、実際に記録する。記録してもらってもよい。思っていたものとのあまりの隔たりに驚くはずと言う。第二に時間を管理する。不要なものを棄て、しなくてもよいことはしない。人に任せられるものは任せる。第三にこうして自由になった時間をまとめる。これではじめて成果を上げるための準備が整ったことになる。

時間を記録する、不要なものを棄てる、まとめるという時間管理のステップそのものが、成果を上げる能力の第一である。

毎日行う活動でも、よくよく考えてみればやらなくてもまったく困らないものがある。朝読む新聞、つい見てしまうメールやSNS、あてのないネット・サーフィン、とくに目的もなく出ている会議、寝るまで消さないテレビ、などなど一つひとつ一日何回、どれくらいの時間を使っているか意識しなければならない。すべてをやめてしまっても、何も困ったことは起こらないはずである。

不安なら、三日だけやめてみるといい。支障が出れば再開すればいいだけのことである。ポイントは廃棄するのみでなく、「体系的」に廃棄するところにある。

行わなくてもいい仕事は行わない。誰も聴いていない会議は開かない。誰も読まない報告書は書かせない。それだけで生産性は向上する。これは、知識があまりにも適用範囲が広く、同時に希少な資源であって、かつその成り立ちが繊細であるために、無駄遣いを省くところからはじめるべきとしたドラッカーの親切な助言である。

多くの企業では会議を開くとき、無関係な部署の管理職まで召集している。当日の議題と無関係な者も一堂に会し、多くの場合社長の独演会か、せいぜいのところ役員一人ひとりの報告会に終始している。

本来会議とは組織の不完全さに処する便宜にすぎないはずである。しかし、便宜が容易に目的化するのは、組織に属する者にとって会議の回数がいかに多いかを見れば分かる。昨今では企業のみでなく、一昔前は時間的に余裕ある職業の代表格と見られた大学教授でさえ、日に三、四回の会議に出ざるをえないのがめずらしくない。

ドラッカーがここで提案するのは、次のような方法である。「何月何日何時から次の趣旨の会議を開く。関係のある方、関心のある方は参加してほしい。決まったことは後日書面で報告する」、これを回覧すればすむというのである。そうすれば本当に関係のある者のみが会議に出席して、ほかの人たちは本来の業務を継続できるため、自然に生産性も高まる。

成果をあげる人の条件――体系的廃棄

『経営者の条件』にはささやかだけれど効果の高いしかけをいくつも見ることができる。そのひとつが体系的廃棄である。

ドラッカーはコンサルティング先の経営者に対して、しばしば「ここ半年であえてやめたことはありますか」と質問したという。これは見かけ以上に意味深長な問いである。というのは、ものごとを始めるよりも、やめるほうがはるかにエネルギーを要する。一つの逸話がある。

GEのジャック・ウェルチがCEOになったとき、彼が考えていたことは二つあった。一つはビジネスのグローバル化、もう一つはドラッカーに会うことだった。

さっそくウェルチは連絡を取り、ドラッカーに会うことができた。そのとき、ドラッカーはウェルチに次のように述べたという。

「あなたの会社は小さな電化製品から原発までじつに多様な商品群を擁している。だが、もしかりに今からすべてを一から始められるとしたら、現在の事業をすべて行うだろうか」と。

もちろんウェルチの返答は「否」だった。必ずしもすべての商品をやりたくてやっているわけではない。それぞれがやむにやまれぬ経緯があってやめられずにいるだけだ。ドラッカーは続ける。

「あなたはグローバル展開を考えているという。ならば、世界で一位か二位になれる見込みのないものはすべてやめてしまったらどうだろうか」。

有名な一位二位戦略のはじまりとされている。このストーリーのポイントは、必ずしも世界で一位と二位への特化を促した、いわゆる「選択と集中」にのみあるのではない。「何を捨てるか」への意識をウェルチに促したところにある。

GEのような巨大企業のみに限ることはない。どのような企業も、組織も、あるいは個人でさえも、単に過去から継続してきたというそれだけの理由で今日もそれを行うという惰性を選択するのは決してめずらしいことではない。役所に限らず、前例は未来の行動にとって大きな力を持つ。

もちろん、いずれもが日々の積み重ねのなかの必然であるから、すべてが無意味化しているわけではない。反対に毎日行っていることのなかには、ほぼ何らかの必然性があるとみて間違いない。

しかしドラッカーが述べるのは、それらをしっかりと「意識して」見直すことを体系的に行っているかに思いを寄せることである。

組織とは生命体である。生命体である以上は、外部環境というエコシステムから新たなエネルギーを得ながら、同時に老廃物を外部に排出しなければならない。言い換えれば、自らの絶えざる刷新という生命システムがなければ、組織は生き続けることができない。

まして、昨今のごとき、変化のめまぐるしい時代状況においては、新たなプロジェクトに着手したり、新事業を起こしたりするなかでは、その一方で、有効性を失ったプロジェクトや事業を意識的に廃棄する努力が不可欠のものとなる。

同じことは個人にもいえる。果たして日々行っている活動のうち、やめてしまって支障の出るものはどれくらいあるのだろうか。ウェルチの顰みに倣って考えるならば、「もし今からすべてやり直すとしたら、今行っていることをすべて行う」のだろうか。おそらくウェルチならずとも、答えは「否」であろう。

日々使うパソコンなどでも、使ううちに容量がいっぱいになり、動きが重くなっていくことがある。そんな状態を続けてしまうと、しだいに動きが鈍くなり、ある日突然動かなくなったりする。そんな経験を持つ方も少なくないだろう。

新しいアプリケーションをダウンロードして使うことばかりを考えていると、パソコン本体にかかる負担につい思いが及ばなくなる。そんなときには、不要なソフトやアプリケーションを体系的に初期化(アンインストール)していかなければシステム全体がもたなくなる。

要は「入れること」と「抜いていくこと」が生命の健全な存続に当たっての基本条件なのであって、この二つは生命体の働きを異なる側面から言うものに過ぎない。

イノベーティブな活動には必ず、過去の保守と、過去の廃棄の両方の活動が伴う。

体系的廃棄の考え方は、どんなにある時期うまくいっていたものでも、別の時期や環境においては機能しなくなるという現実を反映している。ある時期の花形製品はいずれ社の足を引っ張るだけのお荷物になる。ある時期もてはやされた才能ある人が、後の時代の愚鈍の象徴になる。こればかりは変化を常態とするこの世界で避けることのできない必然である。

どんなに一時期社会に貢献したものであろうと、成果を上げられないものを残しておくことは社会に対する無責任になる。

このときも、ドラッカーがよく述べるように、尺度は「成果」である。成果を上げられたかどうかは、過去の目標と現在を照らし合わせる、いわゆるフィードバック的行動によらなければわからない。このフィードバック的行動が「体系的廃棄」の礎である。

以前ほどの精彩を帯びなくなった活動もある一方で、並外れた成果を上げている活動もあるはずである。成果が出にくい活動に投ずるエネルギーと時間は、卓越した成果を上げる活動に振り向けられなければならない。そのためにこそ、老廃物を適切に輩出し、生命体としての俊敏さと柔軟性を確保しておく必要があるのだ。

世の成功企業は例外なくこのような企業家的活動を日々の業務に取り入れている。

IBMはかつてコンピュータの王者のごとき企業であったが、もはやハードの製造が競争力を持たないことを悟ると一気にハード部門を切り離して、ソフトウェアとコンサル事業に特化してしまった。

どんなに過去の成功を支えてくれた事業であっても、時代状況のなかで成果を上げられなくなったり、自社以上の強みを持つ他社が現れたならば大胆に廃棄する。これがもっともイノベーティブな活動である。

イノベーションというと、何かと新しい活動が連呼される傾向がある。しかし、イノベーションを見えざる根幹から支えているのは、この廃棄への意識にほかならない。

過去の成功は華々しく見える。容易に神格化される。だが、現実を見る限り、過去の成功事業が現在の成長の桎梏となるケースは決して少なくはない。

どこの部門から幹部人材が出るかはその企業の価値観を表している。今もって、過去の成功事業からしか社長が出ないという企業は決して少なくない。それは、過去の成功が未来の機会にとって制約条件になるということである。

もちろんすべて廃棄するのは間違いである。ものごとには一見役に立たないように見えて、全体から見ると重要な役割を持つ仕事がたくさんある。日本でも、景気後退期にしかるべき選別を経ることなく一律にリストラをして業容がおかしくなるケースが相次いだのは「廃棄」がいかに難しい仕事であるかをよく示している。

大切なのは、日頃から廃棄すべきものがあるのではないかという意識を持つこと、そしてそのためのフィードバック的行動を習慣化することにある。

成果の上がる職場が退屈な理由

強い武道家同士の対決は凡戦になることが多い。理由はそれぞれの持つ技が非凡だからだ。そして、相手の非凡さを前提に戦略を組み立てるとき、手はごく平凡なものにならざるをえなくなる。見かけの凡庸さとは、それらを基礎づける無数の非凡さから成り立つ。凡庸さは非凡な努力の現れであって、結果なのだ。

電車が時刻表どおり正確に動いているのは一見すると日常的でごく平凡な出来事である。しかし電車を秒刻みで正確に動かす生身の人間による涙ぐましいまでの努力がなければ実現されることはない。人はうっかりすると、表面の凡庸さだけにとらわれる。そして往々にして背後にある非凡さを見逃す。

経営や仕事にあっても同じである。「平凡に見えれば見えるほどに」、見えざる舞台裏で想像を絶する難行苦行が日々行われている。

凡庸な仕事というものはない。いかなる仕事であれ、いかにささやかなものであれ、いやささやかであるほどに非凡な営みなのだ。ドラッカーは言う。

「コンサルタントの仕事を始めたばかりのころ、私は製造についての知識がなく、マネジメントされた工場とそうでない工場を見分けられなかった。だがすぐに、マネジメントが行き届いた工場は静かであることに気づいた。

逆に、産業の叙事詩ともいうべき騒然とした工場は、マネジメントされていないことを知った。よい工場は、見た目には退屈だった」(『経営者の条件』)

実際に働いたことのある方には彼の言わんとするところが身にしみて理解されると思う。それは現実そのものだからだ。

逆に言うと、しばしばぎょっとするようなトラブルが起こったり、劇的で華麗な解決法が編み出されたりといった、ドラマにしか出てこない場面など、成果を上げる職場ではほとんどあるいはまったくお目にかかれない。毎日がドラマのようにスリリングな仕事があるとしたら、そのような場は一言で言えば、「マネジメントされていない」偽りの職場と言わなければならない。

野球を考えてみるとよい。劇的なファインプレーが連発されるようなゲームなど、プロの試合ではありえない。プロの試合はほぼ先方の力量や出方が正確に読まれている。打者の特性に合わせてシフトが組まれる。いかにして勝つかとともに、いかにして負けないかに考えが巡らされている。

かえって、尋常ならざるファインプレーの連発などは分別のなさと準備の怠慢、あるいは欺瞞しか意味しない。ファインプレーとは、あえて言いかえれば個人的力量による一時的混乱の収束である。そもそもマネジメントの行き届いた組織では、混乱が習慣的に最小化されているから、ファイプレーを必要とはしない。

必要なのは、堅実な仕事である。継続的な成果は地道な滞りない習慣的な業務からしか生まれない。ドラッカーは言う。

「混乱は予測され、対処の方法はルーティン化されている。そのため、劇的なことは何も起こらない」――『経営者の条件』

付言するならば、組織内部の「サプライズ」は現場では撲滅の対象である。決して美しいものでもよいものでもない。よいサプライズであれ、悪いサプライズであれ、マネジメントされていない証左にしかならない。まして、いかなる出来事に対しても、「想定外」などとうそぶいて責任逃れをするのは論外である。

このことを「不意打ち」という。上司、同僚、部下いずれにしても、組織の構成員を不意打ちに遭わせてはいけない。よい不意打ちも悪い不意打ちも、ともにマネジメントの不在、あるいは救いがたい無能しか意味しない。

とりわけそのことが言えるのは、上司との関係である。一般にマネジメントというと部下や組織全般について言われる。だが、マネジメントの対象は組織の成員全員にあまねく及ぶとするのがドラッカーの所論である。すなわち、部下もまた、上司をマネジメントしなければならない。

基本中の基本が、上司を驚かせてはいけない、不意打ちに遭わせてはいけないというものだ。驚かせないにはどうすればいいか。日頃から、自らの持つ情報をていねいに知らせておくことである。そして上司の持つ情報をしっかりと自らのものにしておくことである。日本風に言えば、「根回し」を怠らないことである。

比喩としてあげられのがオーケストラである。バイオリン奏者がコンサートマスターに知らせることなく期待されぬ音を奏でるなど許しがい暴挙である。オーケストラの成り立ちへの冒涜である。同じことは他のパートについても言える。何より指揮者の意に反して行動するのは、そもそもがオーケストラの意義に反する。いやなら、はじめから一人でアコーディオンでも弾いていればよい。

一人でできない音楽を実現するためのオーケストラなのだ。

マネジメントされた組織ほど静かであるとするのはごく身近な活動にも言える。典型が会議である。

会議は本来人間同士の不完全なコミュニケーションを補うための工夫である。だが、それにしても世の中の大半が会議に追いまくられうんざりさせられるのはなぜか。会議のせいで自分本来の業務にさえ支障を来しているのは誰もが身に覚えがあるに違いない。

コミュニケーションの十全な組織ほどに会議は少ない。すでに情報共有が日常的に行われているからだ。そしてもっとも理想的な組織は、会議が全く開かれない組織である。逆にコミュニケーションに構造的な問題を抱える組織の会議は一般的に言って果てしなく長い。長い会議は人の意欲をそぐばかりでなく、限りある資源である時間を致命的なまでに浪費する。

しかも、課題設定なしに会議が行われ、単なる放談会に終始するなら、本気で注意が必要である。会議だけが機能していないのではない。組織全体が機能していない予兆だからだ。ドラッカーは言う。

「方向づけのない会議は、迷惑なだけにとどまらない。危険である」――『経営者の条件』

目的の定義されない会議はやめなければならない。会議は組織にとって手段に過ぎない。ならば、方向づけがなければならない。おしゃべりを許してはいけない。

だが、誰もが知るように、会議にあっては目的と何の関係もない漫談をはじめる人がいる。独演会をはじめる者までいる。無内容な知識を披瀝するだけの人が現れる。必ず出てくる。

撲滅は簡単である。ルールを明確化すればよい。目的に関係のない発言を禁じることである。事前にアジェンダをきっちりと文書化しておくことだ。

それともう一つ。発言する意思ある人には、事前に関係資料の回覧を義務づけることだ。それを徹底するだけで、その場限りのおしゃべりにうんざりさせられることもなくなるし、何よりも本来の意味での情報共有が促進される。もちろん会議時間が激減され、個々の本来の業務時間にその分労力を振り向けられるようになる。

そんな会議は何より静かである。侃々諤々、口角泡を飛ばし合うような会議など、会議が会議として機能していない証拠だ。どこまでいっても茶番に過ぎない。

現実はどこまでいってもドラマではないし、ドラマはどこまでいっても現実ではない。

相手にすべきは現実である。