『P・F・ドラッカー-マネジメント思想の源流と展望』

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井坂康志『P・F・ドラッカー-マネジメント思想の源流と展望』文眞堂

推薦の言葉

 

目  次

はしがき
序章 ドラッカー研究の現在
第1節 研究の意義
第2節 先行研究と課題
第3節 本書の構成

第Ⅰ部 時代観察と〈初期〉言論
第1章 ウィーンの時代
第1節 幼年期―家庭とサロン
第2節 デブリンガー・ギムナジウムの時代
第3節 昨日の世界ウィーン―アトランティスからの報告をめぐって
第2章 フランクフルトの時代観察
第1節 ジャーナリスト兼学究としての出発
第2節 ヴァイマール末期からナチス時代―ジャーナリストとして
第3節 視軸の形成―大衆の絶望をめぐって
第3章 躍動する保守主義としてのアメリカ産業社会
第1節 アメリカへの転出と『産業人の未来』
第2節 アメリカ革命の省察
第3節 産業社会の中心機関とGM

第Ⅱ部 基礎的視座の形成と展開
第4章 観察と応答の基本的枠組み
第1節 観察における基底的認識
第2節 社会生態における合理と秩序
第3節 社会生態学的アプローチ
第5章 自由にして機能する社会への試み
第1節 自由社会の課題
第2節 機能する社会の条件
第3節 自由と創造の場としての企業
第6章 知識社会の構想
第1節 知識観の諸相
第2節 知識における自由と責任
第3節 知識と生態的秩序

第Ⅲ部 内的対話と交流
第7章 F・J・シュタール―継続と変革
第1節 ヨーロッパ社会への視座
第2節 継続と変革によるアプローチ
第3節 産業社会における正統性
第8章 E・バーク―正統性と保守主義
第1節 時代状況と保守主義
第2節 危機への観察と応答
第3節 産業社会への視座―保守=変革の原理
第9章 W・ラーテナウ―挫折した産業人
第1節 ラーテナウとその時代
第2節 産業人の範型
第3節 第一次大戦と保守主義の挫折
第10章 M・マクルーハン―技術のメディア論的接近
第1節 メディア論的応答
第2節 メディア論的技術観
第3節 印刷技術の文明史的解釈
終章 ドラッカーの基本的視座
第1節 意図と構想
第2節 現代への含意
第3節 思想と展望
あとがき
謝  辞
参考文献
事項索引
人名索引

 

はしがき
近年,IoT やCSR,労働問題,教育・医療やNPO,宗教など,多種多様な人と組織をめぐるトピックでドラッカーを参考に語られることはなお多く,エッセイから講演・研修などでもドラッカーをテーマとするものは少なくないようである。ドラッカーをめぐる知的・実践的活動状況は,主題や関心のあまりの多様さによって特徴づけられる。発信主体も,ビジネスパーソン,コンサルタントから非営利組織,医療,教育,宗教関係者などあまりに多様である。

それにしても,広大なドラッカーの言説や観察を支持する思想的契機とは何か。さらに言えば,ドラッカーはそれらをもっていかなる未来を展望しようとしたのか。

ドラッカーをめぐる肩書きは,自称他称含め数多い。マネジメントの巨人あるいは発明者,現代社会最高の哲人,コンサルタント,社会生態学者,書き手,傍観者などが典型であろう。その正体をめぐるアプローチは種々可能であろうが,筆者は個々の主題や関心領域と直接に格闘するだけの能力も準備ももちあわせていない。それには筆者の知的非力もあずかって大いに余りあるが,同時に良くも悪くもドラッカーそのもののとらえがたさが果てしなく横たわっている。学界からの応答としても,「ドラッカーという存在を論じることは,そのまま『経営学とは何か。いかにあるべきか』を論じることに通じている」とする認識に重なる。

そもそもドラッカーをどの対象領域でとらえうるかからして,見定めるのは容易とは言えない。それはどこからつるはしを入れるべきか途方に暮れる,果てしない鉱山を思わせる。ドラッカーは,いわゆる学者としてドラッカー学派も残さなかったし,実務家としてドラッカー・コンサルティングも残さなかった。あえて言えば,残されたのは著作群のみであって,それらを除けば,自らの名を冠するいかなるものにも関心を示さなかったように見える。そのことが,誰しもドラッカーの弟子たることを妨げない一種の反転現象を生んだのも事実であろうが,むしろドラッカーは多くの場合,独創的な序文だけ公にして,あるいは刺戟的なファサードのみを手がけて,後の本体は意欲と才能ある別の誰かに任せてしまう種類の時代を挑発する論者であったように筆者には見える。

結果として,単一の肩書きを拒否し,知的であろうと実践的であろうと,多様な現実に関心を示し続ける生を彼は選びとることになった。そこから得た考察や応答,展望をもって,ビッグ・アイデアを提示し,読む者の頭脳を刺戟し,読み手自身の心に灯をともし,読み手自身さえ気づいていない生産的原点に働きかける種類の知のルート・ファインダーに徹し続けた。

取り上げられた多くのビッグ・アイデアは―マネジメントや知識社会の主題に直接関係するかにかかわりなく―非凡なしかたで,読み手の心の中に灯る燈明となり,時には旅人にとっての北極星たりえた。読み手はそれぞれの動機からドラッカーの著作を手にし,そこで発せられる啓発に富む問いかけから自らの武器庫に何が蔵されているか,どこを自らの戦場とすべきかを知る。すなわち,ドラッカーの語る内容,時にその語り口をも自らの視座にイン・テイクして世界を理解し,その中で自己を展開していくことが奨励されていると読者は感じるようになる。W・チャーチル(Winston Churchill)による『経済人の終わり』の書評の一文「彼には固有の意識活動があるばかりでなく,それを通して,他者の一連の思考活動を刺戟してくれる天分がある」(he not only has a mind of his own, but has the gift of starting other minds along a stimulating line of thought)が,いかに本質を看破していたか,今もって恐ろしいまでの切実さをもって迫ってくる。

だが,他方でドラッカーをめぐる課題も少なくはない。自ら体系的論者であろうとしたことがない点がその最たるものであり,著作のすべてを翻訳・編集し,研究に多大な貢献をなした上田惇生に宛てた書簡で彼は「理論は体系化するものの,創造することはほとんどない」と述べたのがその意図を規定する認識であろう。むしろ何らかの体系に準拠して論を展開したというよりも,体系そのものをも独創的に取り扱おうとした論者でさえあった。

その点について,上田はドラッカーの論の展開には2つの領野が拓けているとしている。その2つとは,マネジメントと社会生態学であるが,著作の性質と知的探索上のアプローチについて述べている。マネジメントと社会生態学の2領野を筆者なりのとらえ方で説明するならば,一本の大樹に類似した形状をとる。深く張られた根から,隆々たる幹が天に向けて伸び,巨大な2 つの枝へと分かれていく。第1 の大枝からは,現代の焦眉の課題としての企業や組織,NPO,病院,学校など,総じてマネジメントと呼ばれる関連の著作(『現代の経営』『創造する経営者』『経営者の条件』『マネジメント』『非営利組織の経営』等)の枝,葉,実などがいきいきと繁茂するイメージである。現代的課題に資する洞察や視点は現在も実務家による経営指針として引き出され,活用に供されている,比較的なじみの領域であろう。

第2 の大枝からは,文明社会への観察から引き出した課題や状況,意味などを総合的に闡明するアプローチが見られ,現代を理解するうえで無意識にもたれる視座の提示を主とする,いわゆる文明批評的著作(『明日への道標』『断絶の時代』『新しい現実』『ポスト資本主義社会』『ネクスト・ソサエティ』等)のイメージがある。知識社会,知識労働,技術,ポストモダンなどのコンセプトをもそこに看取しうる。

いずれの領野に目を向けるかは別にしても,世の関心は,あくまでも比較のうえでは前者の大枝をより高く評価する傾向があったのは否めない。そのことは,ドラッカーというと経営やマネジメントの領域で主として語られてきた事実ともかかわりをもっている。しかし,著作として世に出された観察や考察が,いずれも同じ幹や根から伸びている点からするならば,本人の意識の中で優劣などあろうはずもなく,どこまでも等しく関心を寄せられたと見るべきであろう。そして,マネジメントも社会生態学もともに,同種の知的エネルギーによって養われ,認識や体験,観察内容によって強く支持されているのは間違いない。
本書は,マネジメントと社会生態学の2 つの大枝が何によって養われるかに関心をもち,おびただしく繁茂する葉に幻惑されることなく,分岐点から少しでも根に近い―下へ―すなわち隆々たる幹や根に可能な限り焦点を合わせ,考察上の視座と方法を見出そうとしている。一方でドラッカーが自身の客観的行動について述べている一文,「私は書いている。行為としてみればそうなる」(I write. Technically this is correct)を導きの糸としうるならば,その自覚的主題に着目し,言論を支える志操の底流を闡明することで,いささかなりとも大樹によって具現される基本的認識枠組みの一端が導出されるのではないかとの期待がある。あるいは,主要著作の広い枠組みにおいて示された世界観形成の核,もしくはヴィジョンの中枢にある最も祖型的な思惑の一端に触れうるのではないかとの期待もある。

本書はこの15 年ほどのドラッカーにおける基本的視座の所在をめぐる諸論稿を基礎としている。先の上田惇生による知的領野に即して言うならば,第2の大枝,すなわち社会生態学を取り扱う色彩がことのほか強いのは否定しえない。もちろんその点は筆者自身の関心による自覚的追究でもあったのだが,しかし,第1の大枝の示す,具体的かつ実践的なマネジメントが必ずしも問題関心の埒外にあったわけではない。2つの大枝を包括的にとらえていこうとする問題意識は以下の章に強く反映されていると考えている。

本書の課題は,大樹の地下に張り巡らされた根の闡明,すなわち〈初期〉著作全般に内在する視軸と応答の再構成の試みを通して,ドラッカーにおける思想の探索とわれわれが置かれた現代の布置状況の展望にある。

2018年8月
井坂 康志