あの頃の大学ではまだ知の流路が目視できていた。というよりも、学部にいる教授たちが知そのもののように見えたものだった。折しも週刊誌などで大学がレジャーランドになったとおもしろおかしくはやし立てる論評が見られていた。しかし、レジャーランド化したのは、バブル時代の都市全体だった。べつに大学だけではない。けれども、私の入った92年にはまだ知は手触り感のあるものとして、しかるべき人たち--多くは戦争体験を程度の差はあれもつ人たち--によってぎりぎりのところ保持されていたと思う。
多少の私見を述べさせてもらえば、大学は社会の中でもっと穏やかな存在であってよいように思う。人体の比喩でいえば、腸とか膵臓のように、全体を長期的に支え、ゆったりとした存在であってほしいと感じる。大学だけではない。図書館、美術館、病院なども同様である。それらは共同体や都市の中で、地下水道や暗渠のように、無意識を司る機関として本来意味をもつもののように感じられるからだ。あるいはオーケストラの比喩でいえば、コントラバスとかテューバのように、華美さはないかもしれないけれど、社会全体の調和を基底で支えるパートである。コントラバスとかテューバに、小刻みで華々しい演奏を求められても曲芸にしかならない。今起こっていることはそのようなことだ。かなしいまでに滑稽である。
原子朗先生の話をしよう。教養課程の文学の先生だ。私を含む受験生が原先生の名をどのように受け止めたかには、今と著しく異なる時代的背景もあることだから、いささかの説明を要するであろう。いわゆる団塊ジュニアとされる世代、一学年ゆうに200万人以上いる世代が大学受験を迎えたのは、1990年~93年のあたりである。団塊ジュニアは山麓でふった大雨がそのまま河川を洪水ぎりぎりまで溢れさせたまま海に到達する濁流の航路を定められていた。さらに不幸なことに、私もまたその愉快とは言えない世代の一部に含まれていた。
したがって、大学受験は熾烈であり、現役で合格できない人々、いわゆる浪人生が多く生まれた世代でもあり、私もまたその一粒を確実に占めることとなった。当時聞いた話で、浪人しても大学に合格できず、やむなく専門学校に行った人がいたという。あるいは、本当かどうかわからないが、ある大学の入試に合格した人が、名門予備校の入試に落第したとも言われた。一言で言えば異常な時代だったわけである。
あれほどまでの競争をくぐり抜けてきて、今現在何かの恩恵にこうむっているかというと、実感はない。ただし、私が幸運だったのは、何とか一浪の末に早稲田大学政治経済学部に入学できたことである。こればかりは今もって僥倖としかいいようがない。あえて言えば、明治大学や、同じ早稲田でも商学部に入ることになってさえ、私の人生行路は現在とはいくぶん違ったものになったであろうことは確実だからである。いわば、政治経済学部は特別として、世の中から大事にしてもらえる存在だったからだ。
翻って考えれば、それまで私は田舎の共同体のなかで誰かに特別に大事にされた経験などした覚えがなかった。むしろ変わり者として迫害されていたというのが――もちろんいくらかヒロイックな妄想も含まないわけにはいかなかったが――実感だった。
入学してわかったことだが、二浪以上もめずらしくはなかった。今にして思えば、大学の権威ががけっぷちぎりぎりのところでもちこたえていた時代だったのかもしれない。まだ大学教授に権威に似たものが残っていた時代であったように思う。大学教授は一介の学生が簡単に近寄れるような存在ではなかった。彼らはいくぶん偏屈ではあるとしても、知を一次的に生産する人々であって、知の水源の番人にほかならなかったから。というのも、大学教授とは一言で言えば「本を書く人たち」だったからだ。本を書く――。知への崇敬を保持することを願うものにとって、これほどの偉業はない。それに出版するとはそれがどのような内容であれそれに伴う威信は今では想像もできないくらい高かった。今私は出版する側の仕事をしているわけだけれど、残念ながら現在本を書く人は書くべき人からたんに書きたい人に変わってしまったように感じる。あるいは、書きたい人ばかり多くいて、読みたい人などさほどいない時代になったとさえ言える。あの頃はそうではなかった。本を書くこと自体が、学者にとってさえ、生涯に数度、知識人としての実績を決算的にまとめる作業に該当していたと思う。
早稲田大学政治経済学部で四年間を過ごしての印象から先に話しておきたいのだが、専門課程に上がる前に、教養課程を履修する。政経学部の場合、かなり言いにくいことであるけれども、教養課程のレベルが圧倒的に高かった。私の場合経済学の専門課程は数名を除けばさしたる印象ももたなかった。何より退屈だった。いやあるいは経済学そのものが退屈だったのに違いない。
学生時代にふと目にした本にリースマンの法則について書いたものがあった。あのデヴィッド・リースマンである。確か、人が自らの専門を選択するにあたって、自身の適性から最も遠いものを選択する傾向があるといった指摘だったように思う。そのとき、まさしく私自身がリースマンの法則に導かれて経済学などというやくざな学問を選択してしまったことに愕然とした。べつに経済学に特段の恨みがあるわけではない。経済学から所期の恵沢を引き出せなかったから逆恨みしているわけでもない。ただ単に存在理由を疑っているだけである。もっと言えば、積極的に世を損なっているように見えなくもない。
もしかりにもう一度どこかの大学に入学し直す機会が与えられたとしたら、経済学を選択する可能性はゼロであろう。今だったら、話者の比較的少ない言語を選択して、たとえばポーランド語とかチェコ語とかセネガル語とか、そのあたりを選んで、現地の文学などの翻訳や研究をしてみたいと考えるかもしれない。いずれにしても経済学は選ばれない。
詳細はあえて省くけれども、教養課程で最初にとった若手助教授の経済学の一回目の授業が今でも強烈な違和感として心に残っている。余談になる。その先生は将来を嘱望された若手研究者の一人であり、私が出版社にはいってから世界的な経済学者の翻訳チームにも入っておられて、仕事でもおつきあいをもつことになったのだが、私が見ても精神が不安定なのは見てとれた。それから数年後に若くして亡くなったと聞いた。
ただある風景をふと思い出した。出版社に入って二年目、その学者と早稲田のリーガロイヤルの喫茶室で打合せをしたときのことだった。話を終えて表に出るとき、レジのところにちんまりとしたテディベアのぬいぐるみが置かれていた。それが売り物であることを確かめると、彼は財布を取りだして二つ買った。子どもがいて、何か買うときは必ず一人一つずつあげないとけんかになるのでねと笑った。そのときの笑顔が妙に記憶に残っていた。子供のような笑顔だった。彼も子供を前にすれば、経済学者ではなくなるのだろう。そもそも愛する者を前にして経済学的であり続けることなど可能なのだろうか。
ともかく、はじめて経済学に触れたときの強烈な違和感、それは空中楼閣を精密に計測し、それに基づいて生活を整備しようとする絶望的な取り組みに私には見えた。あろうことか私は卒業後も経済書を主たる業務とする出版社を選択し、仕事としても経済学とかかわりを続けることになる。リースマンの法則というよりも、リースマンの呪いといったほうが正確かもしれない。
知識人は誰もが左寄りだった。左翼だったといってもいい。政権に有利な発言をしたり、政府の審議会に喜んで駆けつけるような学者は軽蔑された。政経学部やその関係者にはその種の人々がいなかったわけではない。私は卒業後出版社に入社して、ずいぶんと肌合いの違う学者も目にしてきた気がする。むしろかなり近しい関係にあった学者でも、政府どころか日銀の幹部までをも兼務する人が出ている。ただそれはここで述べるべきことではないし、語れるほどの知識も思い入れもない。そんなこんなで、大学一年の頃は、慣れない教養科目であくせくしていたのか、何も記憶していない。けれども、彼らがいかに時代を代表するインテリとしての自負を持っていたかは、何より立ち姿や顔つきに現れていた。そんな学者に安易に近づくのはなかなかに至難であったのは当然であったといえるかもしれない。
原先生の講義を受講したのは大学二年だったと記憶する。そこには懇意にしていた先輩の多田治さん(現在一橋大学教授)とのやりとりが関係している。多田さんは政治学科で、科目の傾向には多少の差異はあったけれども、教養科目はまったく違いがなかったと思う。私は人文系の科目に関心があったので、多田さんに意見を求めたところ、「はらこ」という名前を耳にすることになった。「はらこ」とは原(子)と書く。すなわち、政経の教養にはもう一人フランス現代思想の原章二という教授がいて(この人は別の意味でとんでもなくユニークだった)、原(章)と区別して、原(子)と表記されていたのをそのまま読んだのが「はらこ」だった。まず私ははらこの語感のもつ穏和な印象に好感を持った。
ただし、多田さんは原先生の講義が控えめに見ても楽なものでないことは指摘していた。どう楽でないかというと、一回の授業ごとに指定された作品を一読してくることが義務づけられているためだった。しかも出て見てわかったのだが、必ずしも薄くて読みやすい作品ばかりではなかった。
といっても本を読むことは得意な方だったと思っていたし、かえって集中的に文学作品に親しむいい機会だと思った。実際にそのような意味をもつ講義になった。全部で15回程度の講義があったとすれば、15冊程度読んだことになると思う。もちろんすべて記憶してはいない。覚えているのは第一回の作品が二葉亭四迷の『浮雲』だったことである。二葉亭四迷の名は日本史などで知ってはいたが、手にして目を通すのはまったくの初めてだった。名前からして擬古文調の高踏的な作品を想像したけれど、それは私の勝手な思い込みにすぎないのはすぐにわかった。印象に残っているのは、冒頭の文体が固くぎこちないのに、次第にこなれて夏風のように存在感を伴う明朗なものに変化していったことだった。遠いと感じていた明治時代の作家にいくらかの親近感さえ覚えた。
原先生は、今もって日本の文学は二葉亭から先には到達していないと話していた。確かに近代の純文学は、個の内面的実存と社会的規範との葛藤を描くのを常とする。その観点からすれば『浮雲』は文化遺産的にパーフェクトな出来なのだろうと想像した。実際に物語を進めるうちに、自身の心の中にある覚えのある感情との類縁を感じさせられるところはいくつもあった。とはいえ、それ以来読み返していないから何とも言えないのだけれど、二葉亭の言葉遣いには、どことなく読み本というか、講談師の語りの筆記に似た、ユニークな抑揚があって、「あやし」という語が所々出ていて、今もって日常生活で何らかの異常なものに出合うと二葉亭の好んだ「あやし」が脳内に分泌されるように表われることがある。いくらかなりとも感染したのに違いない。
他に記憶しているものをいくつか。尾崎紅葉の『金色夜叉』があった。私はもともと栃木の学校に通っていたし、今は反対に熱海が身近なので、この作品はわりにすんなりはいってきた。愛の断念の代わりに金と権力の権化となるというストーリーはとてもわかりやすかったし、ある意味身につまされるというか、自分の中にある感情とも触れ合うものがあったように思う。原先生は一つの作品を吟味するにあたり、いくぶんランダムではあったけれど細心の慎重さをもって作品の背景を説明するのを常としていた。
尾崎紅葉は当時成立したばかりの職業的物書きであって、いわばそのはしりであった。そのことを説明するのに、いわゆる新聞というメディアの成立が、新聞小説という欄を生み、連載小説というジャンルを生んだなどが一つの話として、先生の口吻も含めて記憶に甦ってくる。当時の編集者は作家のもとに日参し(確か東五軒町のあたり、早稲田からそう遠くない場所に紅葉は家を構えていたと思う)、原稿を集めるのに主な時間と労力を傾注していた。にもかかわらず、原稿用紙を睨みながらも一文字も浮かばない日も少なくはなく、丸一日待って徒手のまま帰社することもあったのだと原先生は説明した。様子がありありと鮮やかに目に浮かんだ。というのも、私が大学の授業を受けていたのは、いまだデジタル機器やネットが普及する前であって、基本は手書きであったし、人とのコミュニケーションは対面かせいぜいのところ電話が主であったためだ。今ならいくらかの想像力を呼び覚まさなければ、創作者と編集者の苦しみをフィジカルに理解するのはむずかしくなっているかもしれない。
ほかにもいろいろな話があったけれど、一つとりわけ印象的な話がある。原先生が若い頃――たぶん戦争が終わって10年も経っていない頃だろう――高村光太郎のアトリエを訪ねた話である。原先生がどのような立ち位置で訪れたのかは定かではない。けれども、とにかく原先生は福島県にある高村のアトリエを訪れたのだという。あえて付け加えると、原先生は講義中でも国家の悪辣さやそれへの軽薄な臣従の愚かさについて言及すると、とまらなくなるくらいに痛罵を極めることがあった。先生は大正生まれの人だ。長崎の人でもある。国家政策による辛酸をまともに受け止めてきた世代の人なのを今にして痛感させられる。原先生の理解によれば、国家とは悪だったのだ。国家は成り立ちからして泥棒であり、人殺しだった。少なくともそのように語っているように私の耳には聞こえた。
批判の矛先は国家の悪の製造責任者である政治家や軍人、党幹部、新聞記者にとどまらなかった。そのお先棒をかつぎ、多くの若者を戦地に送った者として、文学者をも例外とはしなかった。そして戦時中、いかに多くの文学者たちが、「天皇危うし」(この語を原先生は頻繁に口の端に乗せたものだった)の一語のもとに、精神を国粋的に糾合し、積極的に国家社会を損なってきたかを痛烈に批判した。その有力な一人が、高村光太郎だった。
私の印象を言わせてもらえば、私は高村の詩作品が嫌いではない。いや、むしろ好ましいものに感じさえしている。高村の言葉には、どことなく巧まざる素朴な美しさがあると感じてきた。野原の足元を流れる小川の水をそのまますくいあげて喉に流し込まれたような率直な純粋さと驚きがある。もちろん原先生も文学者として、あるいは芸術家としての高村を評価していたのだろうと思う。だから、戦後間もないある時期、高村のアトリエをぜひとも訪ねてみたいと思ったにちがいない。そして――十分に予想のつくことながら――原先生は高村の口から納得しうる言葉の組み合わせをついに聞くことができなかった。その講義の最後に、原先生は自分に言い聞かせるような小さな声で、「やはり僕は高村光太郎を認めない。それが結論です」と語った。原先生を思い出すとき、午後の15号館の半地下教室で、中途半端な茜に半分照らされながら、自らの思いに潔癖であり続けた原先生の一人の人間の姿を見た気がする。
ところで、原先生の教室はおおむね満員だった。当時にしてみるとそんな授業は少なかった。とくに専門科目などは、巨大教室にごくまばらにしか学生がいないのは日常の風景であったように思う。大半の専門科目は私にとってはさほど興味を惹くものではなかったし、とりわけ理論系の科目にそのことはいえた。中には交通経済学とか経済地理学みたいないくぶん面白そうな科目もあったが、出て見るとやはり学生はまばらだった。その背景からしてみれば、原先生が日常的に学生を集めていたのは、先生の人間的魅力に加えて、空疎な学生の日常にとって何らかのエネルギー源たりうる何かがあったためのように思われる。
一つに、原先生がしばしば昔の話をしたことがあるかもしれない。現在では世代の推移もあってほぼ見られなくなったが、90年代初めにはまだ切実な戦争体験をもつばかりか、そのあまりの峻烈さゆえに咀嚼できず、たんに訥々と体験を語るタイプの人、いわば戦争の語り部がいたものだった。同様の人々は、高校時代や中学時代の教師、場合によっては親類の中にも見ることができた。原先生は「昔を語る人」だった。そして、昔を語ることによって、現実の世の中がどこからどのように立ち現れたのかを見せてくれる映写機の役を果たしてくれた人でもあった。
原先生は生き証人としての役割を半ば自覚的に行っていたようだった。長崎に生まれ、ずっと自分は戦争で死ぬと思っていたと語っていた。あの戦争を生き延びたことが、今もって信じられずにいるような口振りだった。そのような実存の危機を経過して、一時はキリスト教に入信し、ローマ教皇にも一度会いにいったことがあると語っていたが、キリスト教に深く帰依することはなく、「しばしば思うところあって聖書を開くことがあるが、やはり思うところがあって聖書を閉じてしまう」と述べていたように思う。私は原先生のそんな人間的屈託を包み隠すことなく、ありのままに示してくれるところに強い関心を抱くようになった。どんなことでもいいから、一度言葉を交わしたいと考えるようになった。
私は基本的にはどちらかといえば控えめなほうだと考えているけれども、目的がはっきりすると大胆な行動もわりに自然にとれる特性があるように思う。まずは授業が終わった後、当日が黒板と白墨で板書が行われていたので、それを消すところからはじめた。原先生はいつもご自分で自ら書いたものを黒板消しで消されていたのだ。たいていは、力強くて大きな字で、「人間」とか「春と修羅」とか、口にされたキーワードが単発で書かれていた。私は黒板消しの手伝いをした。先生は少し小柄でもあったので、私が手伝うと、紫のはいった眼鏡の奥の目を優しくゆるませた。毎回私は黒板消しを行うようになった。
あるとき、私は先生が詩集を刊行されたことを授業で知った。その頃、明治時代から昭和初期の詩人の作品を比較的好んで読んでいて、原先生という現代の詩人の作品も読んでみたいと思った。いや、正確には原先生の魂に蓄えられた感情が、どのような詩的言語として表現されているのかに関心があったのだ。講義が終わり、黒板を消した後、私はぜひ詩集を一冊譲ってくださいと先生に依頼してみた。やはりそのときも先生は率直に嬉しいという顔をした。「研究室に行こう」と先生は言われた。
春先だったと思う。私は大学三年生で、それはどちらかというとうららかで平穏な時代だった。生まれた土地、家、高校などとりとめもなく厄介な、何も視界に入らない急勾配を休む間もなく駆け上がり、ようやく一定の眺望を供するポイントに出た感覚だった。明転したという印象があった。自分のごときものが、原先生と直接話ができるのを喜びつつ不思議に思った。
原先生の研究室は、三号館から空中に渡された回廊を経た別棟にあった。ふだんまず立ち寄らない建物だった。原先生は研究室に私を招じ入れ、座るように促した。どんな話をしたのかよく覚えていない。ただ原先生は書棚から新刊の詩集『空の砂漠』を一冊引き抜くと、テーブルの上に置き、やがてかたわらの硯に少しばかりの水を入れてすりはじめた。十分な墨が蒸溜された酒のように勾配の下部にたまる。原先生は筆先を少し湿して、書物の見返し部分にご自分の名前、そして私の名前を確認して揮毫してくださった。その字はいくぶん女性的な優雅さを含む、生き生きとしたものだった。私はお礼を言って研究室を辞去した。確か代金はその場でお支払いしたと思う。1994年の春のことだった。
原先生は心優しい方だった。何か別の機会で、花巻の宮沢賢治記念館の話をしたことがあった。私は大学二年の時、ちょっとした旅行を企て、夏休みに実行したのだ。上野を夜行で出て、朝方平泉、花巻の宮沢賢治記念館(当時花巻はまだ商店街も健在で元気だったように思う。小さな書店で啄木の歌集を買ったのを覚えている)、盛岡、小岩井農場、田沢湖、新潟、佐渡といったところを一週間ほどかけて回ったのだ。当時原先生は宮沢賢治記念館の館長も兼務されていたので、もし滞在日程が合えば次にいくときは声をかけてほしいと言われた。確かに私が記念館に行ったとき、原先生のインタビュー記事がどこかに展示されていたのをかすかに覚えている。
原先生は文学の無力さもよく知っていた。けれども、無力さの中に宿る希望はなおさらよく知っていた。あるとき、原先生は言われた。君たちの多くは後数年で親父になるのだと。最初何のことを言われているのかわからなかった。まだ二十歳くらいだった。あの頃の私たちにとって30歳はおろか、25歳だって宇宙の果てを想像するのと変わらないくらい、恐ろしく遠い先のことだった。永遠に二十歳なのだと信じていたといってもいいくらいである。けれども、原先生は君たちはもうじき親父になる。つまりあっという間に結婚して子供ができると言ったのだ。そして原先生の言は痛いくらいに正しかった。私は26歳で結婚して、翌年はじめに子供ができた。瞬時と言えばあまりに瞬時だった。
原先生は重ねて言った。君たちは生活の苦労を実感するだろうと。政経学部出身者なら、企業や役所その他で出世するものも出るだろうし、金や権力を手にするものも出るに違いない。けれども覚えておいてほしい。これは誇張ではなく、君たちの先輩たちが私に現に何人も伝えている実感なのだ。私が授業で語ったことを、君たちはすぐに忘れるかもしれない。けれども、大学を卒業し、社会の荒波に揉まれ、生活上の苦労を重ねるなかで、私の言葉は再び君たちの胸に蘇るはずだ。そのときがきたら思い出してほしい。文学そのものがもつ力がそれだ。金でもなければ権力でもない。およそ実用とは縁のないものに違いない。けれども、だからといって無力なわけではない。反対だ。つまるところ言葉というものは、君たちの心の深い部分に入り、君たちを動かす力なのだから。確かにそれは木漏れ日を透かす陽光のように、仰々しくもなければきらびやかでもない。しかし、それは確かに生きて作用している何かなのだと。
私は原先生が語ったことをしばしば思い出す。現実に私はもはや二十歳を倍する以上の人生を重ねた。山村暮鳥の評言を借りるなら、十年を一昔として、「昔の昔のさらに昔」にまで遠くなった。あえて言うまでもないことだが、生活やそれに伴う苦労を山ほどした。汚泥にまみれたとしても言いすぎではない。確かなのは、原先生の言ったとおりであったことだ。原先生が語った言葉、あるいは原先生を通して語られた言葉が、秋の木漏れ日のように、雑然とした日常のなかをまだらにたゆたうのを私は見た。それは力だった。淡くかそけきものながら、確かに実在し作用する何かだった。
原先生が亡くなったと知ったのは、ごく最近のことである。しばしば原先生は銀座の画廊で書を展示しておられたのは知っていた。大学を辞してからも、多くの門人とともに活発に日々を送っておられるのは側聞していた。どこかで伺いたいと思いながらも、かなわずにいた。結局、大学四年時に伺った原先生の修辞学についての最終講義が謦咳に接した最後となった。私には原先生の名を忘れないくらいのことしかできない。ほんの束の間ながら、学ぶためだけの希有の時間、しかし、樹木にたとえれば、細々とした幹に、惜しげもなく水と養分を提供してくださった方の一人と感じる。広い世の中ではどうひいき目に見ても些事に属するであろう。けれども、私にとっては翼を与えてくれたかけがえのない恩人だった。あの後一言もお礼を言えなかったから、この場をお借りして原先生に感謝申し上げたい。