概説ドラッカー経営学(7)-知識社会とは何か

LINEで送る
Pocket

ネクスト・ソサエティ

『断絶の時代』(一九六九年)から三〇年後、ドラッカーのビジョンはさらに明確な形態をとるようになる。「ネクスト・ソサエティ」の出現である。ドラッカーによる最後の書物のタイトルでもある。巨大な転換期のなか、経済より社会の変化が大きな意味を持つようになった。どこに次の社会が映し込まれているかを意識した。

ドラッカーの見るところでは、ネクスト・ソサエティは、本格的な知識社会への決定的階 梯だった。三つの特徴が看取された。第一に境界のない社会であること、第二に上方への移動が自由な社会であること、第三に成功と失敗が併存する社会、すなわち高度に競争的な社会であることだった。ネクスト・ソサエティとは彼の思想的原点に徴するならば、イズムとは縁もゆかりもない社会である。

一九七〇年あたりを一つの境にして、彼は企業を社会の中心機関とするマネジメント観を大きく変えていった。正確に言うならば、企業は社会の中心機関の一つをなすにすぎないという前提をとるようになる。その理由は、企業以外に社会を支える要因すなわちコミュニティや市民性を創造する主体が力強く叢生したところにあった。

とくにコミュニティとしてのNPOがあった。かねてよりNPOは社会にとって望ましいことは了解されていた。しかし、コミュニティとしての地域社会が痛切に求められる時代になると、NPOが望ましいものから不可欠なものとして意識されるようになった。

知識社会が高度化していくと、グローバル化や情報化によって、社会が変化のインパクトをまともに受けるようになる。

衝撃を和らげ、同時に人と人との絆を保ち、市民としての自覚を涵養するには、企業のみで不十分なのは明らかとなった。

激動期に見えた二〇世紀も、三分の二はドラッカーの観点からすれば、継続の時代にほかならなかった。

『断絶の時代』で彼は、「第一次大戦勃発の一九一四年七月に、有能な経済学者が眠りにつき、その五〇年後に目覚め、直ちに経済統計に目を通したとする。そのとき彼は、経済が変わったことではなく、あまりに変わっていないことに驚くにちがいない。先進国においては、一九六〇年代半ばの経済は、一九一四年以前の数十年の延長線上にある」と言っていた。

その時代に立ち現れた経済社会の基本をなす要因は、すべてそれ以前の時代に創造されたものの結果にすぎなかった。

自動車も鉄道も電化製品も住宅も、すべて一九世紀の技術、言い換えれば「昨日の技術」である。

二〇世紀のほとんどはその余沢に預かったに時代にほかならなかった。何ら新たな創造がなされることはなかった。この継続の時代の後にやってきたものが、歴史の峠としての現在の転換期だった。

『断絶の時代』(一九六九年)から『新しい現実』(一九八九年)、『ポスト資本主義社会』(一九九三年)、『ネクスト・ソサエティ』(二〇〇二年)まで、ドラッカーは自ら感じとった変化を丹念にレポートしていった。しかしこれら文明観察の著作には先駆的な習作があったことは意外に知られていない。

一九五七年の『変貌する産業社会』である。原題をThe Landmarks of Tomorrowと言い、「明日への道しるべ」の意味である。次の記述が印象的である。

「生まれ育った世界から別の世界へ移り住んできたかのような感さえする。一七世紀の半ば以降三五〇年にわたって、西洋はモダン(近代合理主義)と呼ばれる時代を生きてきた。(略)だが今日、モダンはもはや現実ではない」。

『断絶の時代』の主題である知識社会は、この問題意識を具現化したものだった。

では、「モダンはもはや現実ではない」とはどのような意味か。「見る人」たるドラッカーは、地殻変動としての転換期の到来を知る前に、世界観の転換を見ていた。世界観とは、人々が目で見る世界の根底をなすビジョンやイメージである。空気に似て、感知するのが難しいものの一つである。

ちょうど外国の空港に降り立ったときに誰もが肌にぴりぴりと感じる空気の違いに似ている。外から来た人にはフィジカルな実感だが、そこに住む人には当たり前すぎて何の特別な感興も喚起しない。同じことは時代や文明についても言える。それが当たり前であればあるほど触知するのは並大抵でない。

彼自身は、イメージは実体に先行することを体感していた。世界が変化するならば、まずもって世界に対する物の見方の変化が先行するはずと考えていた。

「このポストモダンの世界観が世界の現実となった。今日では、このことはあまりに明らかである。方法論上、哲学上これを知らない者は、よほどの時代遅れである」(『変貌する産業社会』、一部は『テクノロジストの条件』に収録)。彼は、はっきりとポストモダンと言っている。ポストモダンとは原義からすれば、モダン以降である。

モダンの後に来る世界である。

ドラッカーのポストモダン論がきちんと考えられるようになったのは、比較的最近のことである。一般にポストモダンというと、建築や哲学、科学的認識などで多義的に使われている。モダン以降というおおざっぱな意味合いであるから、当然と言えば当然かもしれない。しかし、ドラッカーのポストモダンは明瞭な構造を持つ。  世界は広大で複雑である。しかも変化してやまない。人間の歴史はそんな果てしなく複雑な世界に構造と反復を与えることで成立してきた。

ドラッカーはその構造を「文明」と呼ぶ。文明にはそれを根源から支える秩序や目的が必要となる。近代文明の成立に思いを馳せるならば、世界が暗黒でしかなかったときに、いささかなりとも論理によって解明できると考えた哲学者の功績が見逃しえない意味を持つ。デカルトだった。デカルト由来のものの見方や考え方が近代合理主義としてのモダンの成り立ちを規定した。

デカルトのモダンは、意味あるものは因果関係と定量化にあるとした。科学とは因果についての知識であり、意味あるものは量であるとした。全体は部分の和であり、それどころか部分によって規定されるとした。このデカルトのモダンが、三五〇年間西洋を風靡し、世界を支配した考え方だった。

モダンを心底信じた哲学者はわずかだったが、モダンと呼ばれることになった時代の世界観はデカルトのものだった。その後の科学技術の進歩が開かれた。技能としてのテクネに体系を表す「ロジー」が加わってテクノロジーとなった。

イギリスに工具製作者が生まれ、実用蒸気機関と産業革命が可能となった。学問もまた、おしなべて因果関係と定量化を志向するようになった。理性ですべて理解できるとするイデオロギーが隆盛をきわめ、人間の精神活動や政治、経済にまで入り込んだ。

確かにデカルトは偉大だった。科学技術の進歩をもたらし、果ては経済社会の発展をもたらした。ところが一九五七年、ドラッカーは『変貌する産業社会』において、われわれはいつの間にか、このモダンと呼ばれる時代から、名もない新しい時代へと移行したと言ったのだった。

知識社会とは何か①

現在が大きな転換期にあることは誰もが肌で感じている。日本ではバブル崩壊後の失われた二〇年や、東日本大震災とそれに続く原発事故などさまざまな問題が噴出している。

しかし、社会が構造的に問題に直面しているのは、日本に限ることではない。日本特有の要因に基づくものでもない。先進国と言われる国では多かれ少なかれ似た問題にとらわれている。

変化をとらえる時、とかく経済にばかり目がいくのは、近代合理主義特有の偏見の一つである。

ドラッカーは経済単独の問題などないと見ていた。経済的に見える事象は、社会現象の経済的側面にすぎない。いかに経済的に見えようとも、社会の根本的な様態に着目すべきであるとしていた。

では、現下の問題は単なる社会問題なのか。

ドラッカーの観察によれば、さらに文明的な深部の断絶に発する変化が現象として噴出しているにすぎない。そこがドラッカーの世界観という巨大な歴史的パースペクティブと関わりを持つ。

彼は一九六九年に『断絶の時代』を世に問うた。The Age of Discontinyutyが原書である。Discontinuityとは不連続とか非連続という意味である。

しかし、「断絶」という語感は、彼の思惑を実によく表している。本人も、日本語のタイトルを気に入っていたという。

「地震の群発のように社会を激震が襲いはじめた。その原因は地殻変動としての断絶にある。この断絶の時代は企業家の時代、グローバル化の時代、多元化の時代、知識の時代である」。

彼は、現在は資本主義から新たな名を持たない時代に突入しつつあることをいち早く指摘した。本当の意味で、いまだ名を持たぬ「何か」としか言いようのない時代の到来である。

処女作『「経済人」の終わり』は文明の中心にイズムが置かれた時に、どれほど人間社会が損なわれるかを書いた。

そのイズムの担い手とは、資本主義、マルクス主義、そして全体主義だった。しかし、マルクス主義、ファシズムはともかく、なぜ資本主義までをも否定するのか。結論から言えば、いささか控えめに言っても、資本主義はよいものとは言い難い。資本主義もまた経済至上主義の結果生じたイズムであって、本質においてはマルクス主義と双子の関係にある、ドラッカーはそう看破した。

問題は、資本主義が経済至上主義というイズムなしには成立しない経済体制であるという一点に尽きる。

資本主義の中心には経済があり、貨幣がある。いかに経済が成長し社会が豊かになっても、金が主人である社会は歪んだ社会である。だから、ドラッカーは資本主義をも否定した。それに、現在資本主義もまた終わっている。

『断絶の時代』は、この資本主義を超えたところに何がありうるのかを世に先んじて示した。

本書が世に出て数年後、世界はオイルショックに見舞われ、先進国は成長に強力なブレーキをかけられることになった。まさにそのような物質文明の行き詰まりが頂点に達するのを予示するように、『断絶の時代』は発表された。

ドラッカーは脱資本主義化する世界の中心コンセプトとして、知識を挙げた。しかも、これから知識社会がやってくるのではない。実は世界はとっくに知識社会のなかにいるのだと強調する。ただ、人々が気づいていないだけである。

知識社会とはどのような社会を指すか。知識が社会の中心を占める社会である。そこには経済至上主義を批判し続けたドラッカーの思いが込められている。中心は金ではなく、知識である。

ドラッカーの言う知識とは何か。彼は知識を、成果を生むための手段と見る。頭の中で考えられるものではない。見て、感じ取り、現実に働きかけるものである。体系化された技能と同義である。

ドラッカーは、ソクラテス以来、ついこの間まで、行動のための知識、すなわち技能は、テクネとして低い地位しか与えられていなかったとする。しかも、それらは体系的に教えられるものでなく、ギルドに見られたように、徒弟制度のなかで会得すべきものだった。極端なまでに属人性の強い知識だった。

しかし、今日必要とされる知識とは、まさに行動のための知識、しかも客観的で伝達可能な体系化された専門知識でなければならない。

知識社会では生きた知識が教養として求められる。かつては、役に立たない知識、生きていない知識が教養とされた時代が長く続いた。ドラッカーはその典型としてラテン語教育をあげている。

歴史を見ると、ラテン語は、ヨーロッパでは、どの国でも公用の書き言葉として使われていた。物書きを職業とする官吏や書記にとっての必須の技能だったからこそ、書記養成のための高等教育機関で必修科目にされていた。論理性云々のラテン語擁護論が現れたのは、書き言葉が、ラテン語から各国それぞれの国語に変わった後のことである。せっかくのラテン語擁護論も、ラテン語教師の失業防止策ととられても仕方がない。現在の日本の大学も、程度の差はあれ似た状況にある。

ドラッカーはかつての知識観の違いは、人は「いかに」生きるかという問題と、人とは「何か」という問題のいずれを中心に置くかという問いの違いにあったと述べている。

人間にとって重要な問いだったが実用とは関係がなかった。しかも、それらの知識は絶対的な善だった。

ところが今や、知識は役に立つことが知られるようになった。世の中を変えるのは知識であり、これからはますますそうなることが明らかになった。

知識には、役に立つものと立たないものがあるということまで分かっている。つまり、知識とは相対的であることが明らかになった。その結果、よい知識とよくない知識があるのではないかとの疑念が生じた。

知識は善であるとずっと考えられてきた。知識の追求そのものが善であり目的だった。こうして、知識とは何かという問題が、装いを変えて再び出てきた。ゲーテ『ファウスト』の主人公は古今東西の知識に通暁し、しかも人生に倦怠する近代知識人の象徴だった。開けてはならないパンドラの箱もあるのではないか。あるいはあったのではないか。

今次の転換期の最大の項目が、この知識の意味の変化であることは間違いない。知識は高度化するほどに専門化し、専門化するほどに、単独では役に立たなくなる。いかに名医といえども、一人ではまったくの無能である。

ほかの知識と連携しなければ役立たない。逆に、知識はほかの知識と結合した時、爆発的な効力を発揮する。そこではもはや、一足す一は二どころではなく、幾何級数的な価値を持ちうる。

知識社会では、知識が組織によって活用されることで社会的な意味を獲得する。専門知識を有機的に連携させ、さらには結合させる場は組織以外にない。

知識社会とは何か②

組織とは知識の培養器である。

組織は、人が目標に向かってともに働く場とそれに伴うつながりの全体を指す。組織というよりネットワークとかチームと言ったほうがふさわしい場合もある。

現代のプロフェッショナルは緩やかにネットワークを組み替えながら、常に新しいプロジェクトで成果をあげていく。所属組織はばらばらであってかまわない。フリーランスで活動する人同士の組織も近年はめずらしくない。

むしろ硬直的閉鎖的な組織からはしだいに人が去っていく。これからは出入り自由の組織が当たり前になっていく。協力、連携、パートナーシップを含む多様なつながりとなっていく。

先進社会においてさえ、組織の側が人の遇し方を知らないことはごく通常である。同時に個人の側が組織を通して成果をあげる方法を知らないことも確かである。

なぜかといえば、組織というものが最近の発明だからである。知識社会にあって、組織と知識はともに立ち、ともに倒れる相補的関係にある。ならば、知識が中心となる社会は、必然的に組織社会たらざるをえない。脱大組織はあっても、脱組織はない。

一九六〇年代あたりまでは知識の専門化は部分的にしか進んでいなかった。戦前戦後の先進国の経済にあって、成長とは工業化を意味した。会社や工場で人々が従事する仕事の少なからざる部分が単純肉体労働だった。

同じことを継続的に行うことが何よりも重視された。大規模な生産システムを構築し、それを継続しさえすれば、工業を中心とする社会は半ば自動的に成長軌道に乗ることができた。

だが、工業化には自ずと限界がある。工業は投入する資源価格に影響を受ける。商品が社会の隅々にまで行き渡ると、やがて消費も飽和点を迎える。さらには一九七二年にローマクラブのレポート『成長の限界』が示したように、環境問題という制約が顕在化する。そしてやがては物質文明のピークに時代は逢着することになった。

しかし、知識を中心とするならば、そのような制約はむしろ乗り越えるべき絶好の機会を提供する。知識は無形であり、精神的能力である。人間のみが持ちうる資産である。新たな物質の投入も、消費の飽和も、環境制約も関係ない。

ドラッカーの妻のドリスさんは、知識は正しく用いられるならば、世界の飢餓問題は消滅するだろうとした晩年のドラッカーの発言を伝えている。現下の情報技術でやりとりされている知識の総量は膨大なものがある。ビジネスのみでなく医療や教育にも適用されつつある。

知識を中心とする社会に移行するにつれて、企業では継続ではなく変化が常態となった。知識とはそれ自体が力でありエネルギーである。したがって、瞬時に古くなってしまう。

一年前の新聞の株価欄が現在いかなる意味も持ちえないように、一年前の医療技術さえ今日とは異なるものになる。しかも、その適用対象は変転してやまぬ人間社会である。

では、そのような社会構造や認識の変化はいつから始まったのか。『断絶の時代』から二〇年後の一九八九年に刊行された『新しい現実』の冒頭部分が、パラダイム転換をみごとに表現している。

「歴史にも境界がある。目立つこともない。その時点ではとくに気づかれることもない。だが、ひとたび越えてしまえば、社会的、政治的な風景が変わり、気候が変わる。そして、言葉も変わる。新しい現実が始まる。一九六五年から一九七三年の間のどこかで、世界はこのような境界を越え、新しい次の時代に入った」。

さらに、その四年後の『ポスト資本主義社会』でドラッカーは、「歴史は数百年に一度、際立った転換をする。しかし、変わるのは瞬時にではない。社会は数十年をかけて、次の時代のための身繕いをする」として、この激動の時代が二〇二〇年から二〇三〇年あたりまで続くと予告した。

その後には、高度の知識社会が実現するとして、現在の転換期を脱資本主義化への助走期間と考えた。かくして現在の世界は脱資本主義への道程を着実に進んでいることになる。

しかしすべてが同時に変化するわけではない。すでに変わってしまったものもあれば、変化の途上にあるものもある。最初に変化したのは、やはり経済である。グローバル化や高齢化など、社会のもたらす変化に敏速に反応するのが経済の特徴である。

すでに肉体労働の位置付けなどは、情報化が進むにつれて、労働システムの中心ではなくなっている。

同時に、労働組合の存在意義を変えている。労組を支持基盤とした政治も併せて変化を余儀なくされている。かつては労働者と資本家という関係が明確にあって、管理する側とされる側は敵対関係にあるのが一般的だった。どの企業や自治体などでも、労働組合の意向を無視して事を進めるのは非現実的だった。しかし、今ではそこまで先鋭的な労働組合は例外である。

一方現実の変化としては、情報技術革命やグローバル化があった。かつてはコンピュータを導入しても、給与計算や名簿管理といった業務プロセスのルーティン化にとどまっていたが、ITそのものが現在は仕事や価値創造の様態を変えている。

今やITは知識の主たる乗り物である。ネットを通して世界がつながることで、距離を意識する必要がなくなった。対面で会ったことがない人や、長年会わずにいる人とも親しみあるコミュニティを形成することが少なくとも部分的には可能になっている。

経済的な価値というよりも、人間的社会的な価値の創造、あるいは世界観の変化を表している。

晩年のドラッカーは折に触れてITのインパクトを過去の技術変化になぞらえて説明していた。その一つが産業革命との対比だった。ドラッカーは現下の動きは産業革命の鉄道の発明に匹敵すると言う。人を時空の制約から解き放つことは、産業のみでなく社会や個の基本認識をも変えていく。

蒸気機関が産業革命を起こし、産業、経済、社会を変えた。だが、何も新しいものは生まなかった。あくまでもそれまで生産していたものを、高速かつ大量に生産するようになっただけである。

もちろん、それだけでも革命と呼ぶにふさわしい偉業に変わりない。実際に、綿花への需要を増大させ、綿摘み労働力への需要を増大させた。消滅しつつあったアメリカの奴隷制度を蘇らせ、やがて南北戦争まで引き起こした。しかし、蒸気機関は新しい産業を生み出すことはなかった。

産業革命が世界を一変させたのは、鉄道を生み出したときだった。鉄道が距離を縮め、史上初めて人に移動の自由を与えた。国家を統一し、全国マーケットなるものを生んだ。ヨーロッパという意識を生み、アメリカという意識を生み、日本という意識を生んだ。

ドラッカーは産業革命の主役は鉄道だったと断言する。

ITによる変化もこれと同じ経路をとりつつあるのは間違いない。

知識社会とは何か③

ドラッカーは知識社会の提唱者であるから、彼がことのほか技術を重視したのは驚くに当たらない。

ドラッカーは産業革命の主役は鉄道だったと断言するが、この比喩は現在進行中の変化をもみごとに説明する。

コンピュータの発展によって、データを高速処理できるようになった。それまで半年もかかっていた複雑な計算や設計が、瞬時に行われるようになった。建物の構造計算まで、高速処理できるようになった。しかし、新しいものは生み出さなかった。プロセスをルーティン化しただけだった。それだけでも革命だったが、新しい産業を生み出すにはいたらなかった。

産業革命の鉄道に相当するものがインターネットであり、ネットを活用したビジネスである。ネットで距離そのものが意味をなくした。その影響は、印刷革命や産業革命と同様、それ自身とはまったく関係のない領域を変えている。しかもその最大の影響は、コンピュータを中心とするIT産業そのものに対するものではない。

グーテンベルクに始まる印刷革命では、印刷職人が巨富を築き貴族にまで列せられたが、すぐに主役は文筆家や編集者、出版社にシフトした。IT革命でも、主役はハードからソフトへ、機器から中身すなわちコンテンツやサービスへとシフトする。ならば、まだまだ成果はこれからということになる。

さらに巨大なインパクトをはらむのが教育である。一般に、経済のように変化に俊敏に反応する領域とは反対に、教育が反応するのは緩慢であり、フィードバックのスパンは長期に及ぶ。教育改革が、実際に成果をあげるには早くて一〇年から二〇年はかかる。しかし、教育は直接人と社会の中心を占める要因だけに、技術の力を生かすならば、無限の可能性を秘める。

ドラッカーは、一五世紀の半ば、グーテンベルクによる活版印刷の発明に始まった印刷革命が、教本を可能とし教育を変えたことに着目する。この指摘は、ドラッカーの友人で、一時日本でも大変もてはやされたメディア学者として知られるマーシャル・マクルーハンが最初に言ったことだが、ドラッカーはこれを独自に敷衍して、ITが教育を変えると言った。

身に付けるべき知識には二つの種類がある。学んで身に付けるものと教わって身に付けるものである。英語のような反復学習が効果を持つものについては、すでに多様な手法が編み出されている。フィリピンのセブ島にある英語学校と日本にいる学生のPCを一対一のスカイプでつないだ英会話スクールが伸びている。時差がさほどないことや、為替レートの相違を上手に使った事業モデルである。

ドラッカーは言う。「IT技術のおかげで、教師は、型にはまった学習、矯正のための学習、反復的な学習にその時間の大部分を投入しなくてもすむようになる」(『ポスト資本主義社会』)。

ドラッカーはこのように技術の果たす役割を重く見た。ドラッカーの技術への眼は、マネジメント研究者の余技というにはあまりに深い暗示があった。

彼は著名な技術史家メルヴィン・クランツバーグとともに全米技術史学会を創設し、初代会長に就任するほどの技術の専門家としての一面も持つ。

彼の頭脳を捉えた技術は数多い。わけても破格の位置を持つのが、印刷技術とそれによって「発明」された印刷本だった。ドラッカーはモダンの社会を印刷技術発明の結果とさえ見た。

近代社会では、知覚の働きよりも、精緻な分析や緻密な論理構成のほうが優れたものとされる。あるいは、具体的な事物よりも認識の客観性、抽象的な理念や体系に価値ありとされる。それらの観念は文字文化の爆発的普及の結果として立ち現れた副産物だった。

印刷技術とドラッカーとの間には因縁とも言うべき関係がある。一つは「ドラッカー」という彼の名に由来する。

『傍観者の時代』ではドラッカーが若き日に交流した異能の持ち主たちがいきいきと描かれる。彼の作品のなかで本書を最高傑作とする人も少なくない。

しかもドラッカーに関わるあらゆる謎解きのヒントが詰まっている。そのなかで、自らの出自を仄めかした場面がある。

ある日、パールブームというオランダ人が家族でロンドンにやってくる。そこで、次のようなやりとりが交わされる。

「パールブームがかけた第一声が、『ドラッカーさんというお名前はオランダの名前ではないですか』だった。私はそうだと答えた。私は、祖先が一六世紀から一七世紀にかけて、オランダで宗教書の印刷業を営んでいたことは知っていた。パールブームは、そこで話を終わりにしなかった。私の家系を調べ上げただけでなく、私の祖先が印刷したものが、オランダの図書館にあることまで調べ上げた。おまけにいつどこで創業し、いつ廃業したか、アムステルダムのどこに店と印刷所を持っていたかまで調べ上げた」。

ドラッカー家の出自はオランダのアムステルダムであり、先祖はカルヴァン派の流れを汲む聖書印刷者だったとされる。

一五世紀に発明された活版印刷術が全欧に波及する一六世紀から一七世紀、印刷は現在の情報技術など比較にならないほどの最先端技術だった。ドラッカーは晩年の著作で次のように述べている。「印刷業では長い間何も変化がなかった。

一六世紀初め以降一九世紀にいたるまで、印刷業ではイノベーションといえるものは何もなかった」(『ネクスト・ソサエティ』)。

ドラッカー自身が述べるように、印刷技術のすさまじさは、四世紀以上にわたって、さしたるイノベーションもなしに発展してきたところに表れている。

一九九七年に行われた『タイム・ライフ』誌の調査では、西暦一〇〇〇年から二〇〇〇年までの一〇〇〇年間でもっとも影響力を持った人と技術として、グーテンベルクと印刷技術が第一位になっている。

先ほども述べたように、ドラッカーはマクルーハンとの交流を通じて、「活版印刷が知識とすべきものを規定した」事実を率直に受け入れ、自らの技術観の礎としただけでなく、その帰結として「印刷された本が教授法と表現法だけでなく教授内容まで変え、結果として近代大学を誕生させた」ことも有力な仮説として認めている。

『断絶の時代』には次のような表現がある。

「今日のグローバル経済は、映画、ラジオ、テレビという新しいメディアによってつくり出された一つのパーセプションである。(略)世界は、マーシャル・マクルーハンいうところの地球村となる」。

ここでドラッカーは人間拡張の諸相としての技術に着目しているばかりか、その延長線上にあるマクルーハンの概念「地球村」の到来さえ確かなものとして受け入れている。マクルーハンがドラッカーのメディア理解に持つインパクトには強烈なものがあったが、その一つひとつが、今、的確に現実になっている。たとえば、Facebookなどを「地球村」と呼ばずして何と言えばよいのか。