概説ドラッカー経営学(4)-フィードバック

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ドラッカーはフィードバックせよと言った①

ここでマネジメントをはじめドラッカーのものの見方に通底する大切なメッセージの一つを紹介したいと思う。死ぬまで学び続けよというものである。知識労働者は学び続けることなくして自らを維持できない。では、学ぶとはドラッカーにあってどのようにとらえられたのか。

彼は学びをきわめてシビアにとらえていた。学びに関するリズムやパターンは性別や利き腕に似ている。およそ変更不能であるというものだった。確かに学びの特性はかなりが生得的である。

自分の学び方を知るには、学校時代にどのような環境下で勉強がはかどったかを思い起こせば話は早い。机に向かう時にもっとも学ぶ人がいるかと思えば、図書館など人がいるところでしか学べない人がいる。聞く時に学ぶ人がおり、話しながら学ぶ人もいる。その複合型もいる。

自らの学び方を知り、伸ばしていくのに強力な方法が「フィードバック」である。フィードバックとは反復や反省のことである。ドラッカー流にいえば、繰り返す、そして必ず振り返るということだ。一つ言えるのは、学びのためにフィードバックするには、書くという行為がもっとも効果的ということである。書くことはそれ自体が反省的でフィードバック的だからだ。

それなくして人は多くの場合、同じところをぐるぐる回っているハツカネズミのようにしか情報に対することができない。ちょっと先に進むとすぐに忘れる。そしてまたぞろ同じことを始める。

それではせっかくの才能を細かくまき散らすだけである。学習能力をしっかり機能させるには書き、記録するほかないということをまずは心に銘ずることだとドラッカーは言う。

ドラッカーは学びとは反復によってしか獲得されえないと言う。この理解は大方にとっての経験的事実に合致するはずである。程度の差はあれ、今現在日常的な行動や思考のほぼすべてが反復によって培われたものであるはずだ。人は反復を通さずして何ものも学び得ないし、反復を伴わなければいかなる現実的成長もあり得ない。語学が典型である。反復せずして言語をマスターすることなどできない。

とするならば、反復こそが人間の本質であり、生命である。個としての人間活動にもっとも明瞭に具現化されたものが、習慣とか癖とかいったものである。しばしば習慣を「第二のDNA」などとするのも、その持てる人間の創生能力をよく表すものと言える。

癖や偏見についても同じである。それらに共通するものとは、表れ方のいかんはともかくとして、毎日行う日々の活動に現実的な力を持つがために意識されにくいことがある。

誰もがいちいち考えながら歯を磨いたり顔を洗ったりしない。その多くは体の一連の動きのなかで無意識化されている。車を運転する時も、自動改札を抜ける時も、いちいち考えながら行う人はいない。仕事のなかの動作についてもその多くは暗黙的なものであって、意識される機縁に乏しい。

ドラッカーはそのような暗黙的で無意識化された反復行動を意識せよと言う。そして体系的に行えと言う。ドラッカーのフィードバック流儀の核心部分がここにある。

優れたバッターでも自らがどうしてヒットを量産できるのか説明できないという。あるいは優れた経営者のなかでも、どうして自らが高いパフォーマンスが実現できるのかをうまく説明できないという人が少なからずいる。

イギリスの経営思想家チャールズ・ハンディの本にある話である。彼のゼミ生にさる著名企業のCEOが入ってきた。彼は長年事業でたぐい稀な成功を収めてきた。ハンディの科目は経営学である。なぜ今さらと思い、ハンディは入学の理由を聞いてみた。答えは、「なぜ自分が成功したのか知りたかったから」だったという。

私の知人でも似た人がいる。そのような逸話ほどにできる人だからといって反復を意識的に行っていないことの証左となるものはない。その経営者は意識的なフィードバックを求めていたのだ。

しばしば社会人になってから急に大学や大学院で勉強したくなる人が世に少なからずいるのも、無意識のうちに自らの活動をフィードバックで意識化したいという欲求が強く働くためだろう。

注意すべきことがある。世の中は意識レベルの泥棒に満ちあふれている。その代表格は広告である。ドラッカーはあまり広告をよくいったためしがない。おそらく嫌いだったと思う。

電車の中で目にする中吊り広告やトレインチャネルは人のちょっとした意識を細かく収奪するための道具である。もちろん広告それ自体が悪いというのではない。だが、問題はそれらが本人が許可せずとも勝手に意識に侵入するところにある。その間、少なくとも意識は自律的に働いてはいない。

ドイツの作家ミヒャエル・エンデは誰の心にもあるのに、意識されることのない資産として「時間」をとらえた。時間とは意識である。小説『モモ』には幸せに暮らしていた人々が、いつしか現れた時間泥棒たちによって知らずに意識を削り取られ、気づけば時間に縛られ生命の充足を喪失する世界が描かれる。

意識泥棒に絡め取られない方法を一つあげるとすれば、自らの意識上の定点をたった一つでいいから確保することがある。意識を覚醒させ、戻ってこられる場所である。そして沈思黙考を促す場所である。意識に関わるものであるから、実体的な場である必要はまったくない。

端的に言えば、ノートで考えをまとめるだけで十分に意識定点としての役割は果たされうる。常にノートを携えて、ふとした時に意識の状態を書きとどめたり、自分が何を考えてみるか箇条書きにしてみるだけでよい。

ドラッカーもまた書きとどめることで自分の意識を見つめ、外から思考を撹乱する要因の侵入に対抗した。彼の方法は三つあった。一つはフィードバック分析を行うこと。もう一つは本や論文を書くこと。三つ目は日本画を鑑賞することだった。いずれも意識定点を確認し、触発するための手段だった。

実際に、活躍する経営者や芸術家と言われる人たちは、驚くほどに共通した手法を持っている。ほぼ彼らは自らの思考を書き留める習慣を持つ。私の知る一一社の企業を経営する方などは朝起きた時に浮かぶアイデアを図にして紙に落とす習慣を持っている。その紙を一日懐に入れて、入ってきた情報をもとにそのアイデアを研磨するということをしている。

あるいはビル・ゲイツのような経営者が、習慣に「シンク・ウィーク」という沈思黙考のためのみの時間をとり、自らの構想を考え抜いたのは比較的よく知られる。

彼らは複雑な世界にすっきりと向き合う方法を自ら実践している。意識定点を見える化することで、そこを梃にして複雑で巨大な世界を自分なりに構造化している。大切なのは、変化とともに走りながらも、外部の侵入を許さず夾雑物を排した定点を手元に確保すべきということである。自分とだけ向き合うことのできる精神的な場を用意すべきということである。

ドラッカーはフィードバックせよと言った②

よく見回してみると、世の中はフィードバックの原理に満ち溢れている。自動車のエンジンもフィードバックなら電子制御もフィードバックである。動物ならば呼吸が典型的なフィードバックだし、植物においても同じである。世のあらゆる存在がフィードバックの原理によって機能している。そしてプロセス全体をコントロールする基本原理はすべからくフィードバックと同じ構造を持たざるをえない。

フィードバックなき機械はもはや廃棄物である。呼吸なき生物がもはや死体であるのと同じである。

その本質とは、プロセス自体によって処理できないものを外部に除去し、他方で外部から本来プロセスが持たないものを取り入れ、自分自身を調整しながら機能を維持するところにある。内部と外部の間のエネルギーのやりとりであって、反復行動である。反復を伴わないフィードバックは原理上ありえない。

フィードバックは見かけ上どんなに複雑であっても、原理はシンプルである。外部との入力と出力の反復である。

企業にあっても同じである。いかなる企業といえども社会的存在であって、社会なしには存在しえないのは生命体としてフィードバックを要するためである。企業にあっては、「利益」が重要なフィードバックのための要を提供する。適切な利益が上げられない企業は社会とのフィードバックを行うことができなくなる。企業倒産は社会全体から見た時、プロセスを初期値に戻すことによって社会の健全性を維持する意味で、大きなプロセスにおけるフィードバックの一環である。

フィードバックは自律的存在を貫く原理であるから、それにいくら権力ずくで命令してもうまくいかない。フィードバックにかなう意思決定でない限り、命令はほぼ実を結ばない。ドラッカーによればフィードバックを最も効率的に取り入れた最初の組織は軍だったという。軍が組織として機能してきたのは、「はるか昔から、命令なるものはほとんど実を結ばない運命にあるということを知っており、命令の実行を確認するためのフィードバックを組織化してきたからである」という。

命令とはそれ自体単なる言葉であり観念に過ぎない。きちんと実を結ぶかどうかは自分で現実のほうにアプローチし、自らの目で見て、知覚して確認しなければならないのを軍は昔から知っていた。その意味では、フィードバックの意味を知る者は、完全なるコミュニケーションが原理的に不可能であることをも同時に知っていたことになる。

彼らは部下からの報告を完全に信頼しないし、あらゆる意味で情報というものを信用しない。最終的には自分の目で見て確かめなければならないことを知り抜いている。現実の組織がトラック一トン分の報告書を手にしても、一ミリたりとも前に進めずにいるのは、本質的にそのようなフィードバックに伴う現実を正確に理解していないためである。そのことは今次の原発事故が日本人に教えた強烈な教訓の一つだ。

ドラッカーはフィードバック分析について七つの効能を明らかにしている。それを習慣化することでほぼ自動的に行うべきこと、行うべきでないことがわかるとする。その際ほぼ「自動的に」という点が大切である。習慣化を説くのは簡単だが、実際には習慣化するまでのプロセスは決して平坦なものではない。フィードバックのいいところは習慣化するうえでの努力がごく少量である点にある。少なくとも、週に二回スポーツジムに通ったり、毎朝三時に起床するのに比べたらとるに足りない努力である。

ドラッカーのいう七つの効能の第一は強みの発見である。反復の妙味である。繰り返しが必要なのは、まさしく何をなす時最もうまくできるかを見出すためである。強みは一度発

見できれば意識できるようになる。幸いなことに強みは衰えることがない。死ぬまで伸びていく。

第二が強みの培養である。伸ばすべき技能、そしてこれから身に付けるべき知識が何かがフィードバックの結果、自動的にわかるようになる。それもまた反復の妙味であって、反復によって人は自らや外部環境の変化を見出すことができる。

現在手にする技能や知識も場合によってはいったんゼロベースに戻さなければならないかもしれない。その適切なタイミングもフィードバックが教える。ポイントは、今手にする知識を伸ばすとともに、技能や知識の欠陥をも教えるところにある。自分の頭で考えるだけではまずそのような情報を手に入れるのは不可能である。

第三が、知的傲慢の矯正である。仕事のできる人ほど他分野の知識を軽視する傾向がある。多くの場合無知によるものである。大学の世界では研究者は事務職を馬鹿にし、医療の現場では医師が看護師を一段下に見る。だが、冷静に考えれば、専門知識は専門外の知識があってはじめて成立する。そもそも知識は複合的な成り立ちなくして機能しえない。その観念がなければどこかで仕事でつまずく。その失敗が知るべきことを知らなかったり、専門外を軽視したためであるのを教える。

第四が成果の阻害要因となる癖を知ることである。特定の問題が頻発するなら、構造的要因であることが多い。筆者自身の経験だが、最近二回立て続けに大事な資料を紛失している。私の机の上のフィードバックがおざなりだからである(残念ながら改めてはいない)。

悪癖は何らかのフィードバックの不全によるものと見てよい。

第五が人への対し方である。問題が起こるのは単に簡単な礼儀を知らないからかもしれない。とくに昨今メールで損をしている人はものすごく多い。「様」とすべきところを「さん」と書きはじめていないか。メールの最初に「お世話になります」の一文を付けるだけで、相手の対し方が変わることがある。敬語の使い方を知らないだけかもしれない。「お願い申し上げます」とすべきところを「お願いいたします」と書いているためかもしれない。とくにメールでのコミュニケーションは日本語の力の不足が意外に相手の不快感を誘う原因となることが多い。

第六が無駄なことを捨てられるところである。フィードバック分析を続けると本当に無駄なことがわかってくる。時間と労力の割にまったく成果が上がらない分野が浮かび上がってくる。強みによって成し遂げられることは能力というというよりも生物的な特質による。同じく弱みによってできないこともまた生物的な特質による。人がごく当然のように行うことで自分にはできないことなど山ほどあるのを知るべきであるし、逆も多くあることを知らなければならない。まずはそんな仕事を引き受けないことである。

「NO」と言うことが立派な仕事なのだ。

第七ができることに集中し、できないことを捨てられるようになる。いわばめりはりが付くようになる。無能はいくら努力しても、少々けなげな無能くらいにしかならない。ところが能力はちょっと努力すれば超人の域にいく。世にはあまりに徒労に終わる努力が多い。

だから、ドラッカーはフィードバックせよと言ったのだ。

ドラッカーはフィードバックせよと言った③

哲学者のイマニュエル・カントはドイツ・ケニヒスベルグの町から生涯ほぼ出なかったにもかかわらず、世界のあらゆる事象を知的射程に収めていたという。

カントについて知られるのはパンクチュアルな日課としての散歩である。毎朝同じ時間に起きて、同じところを同じペースで歩いたといわれ、町の人たちはカントの姿を見て自らの時計の時刻を合わせたというエピソードも残されている。

ものごとを知的に突き詰め、世界の成り立ちについていささかなりとも理解に努めようとするならば、毎日の反復が必要不可欠なのはカントの風儀を見ても分かる。フィードバックとは反復の意味であり、毎日「判でついたように」同じことを行うのと同義である。

だから、毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗り同じ時間に会社に着きパソコンを立ち上げ、会議に出る、フィードバックの基本だ。人によっては同じことを繰り返すのはあきあきと思われるだろう。だが、結論から言えば、間違いである。反復生活を甘く見てはいけない。

逆である。反復ほどにクリエイティブな生活はない。同じことを繰り返す人には変化が見える。変化は毎日同じことを行ってはじめて見えてくる。昨日まであったものが今日はなかったり、昨日なかったものが今日現れたりするのを感知するのに、反復にまさる優れた方法はない。

カントが限定された空間的条件のなかで無限の創造性を発揮できたのも、無数の現象の消滅と生成を的確にモニタリングする習慣を持ちえたことが大いに寄与しているはずである。

情報の限定化と同義であって、あえて自分が感得する情報を最小限にとどめる。それによってわずかな入力に対して機敏に反応できるようになる。

ドラッカーも似た生活習慣の持ち主だった。執筆に没頭する時はまったく外にも出なかった。主要な情報源は地元の新聞をはじめ数紙だった。パソコンもネットもやらなかったし、映画もテレビも見なかった。無用な情報には不用意に身をさらすことをしなかった。あえて情報をシャットダウンする生き方を選択した。

ドラッカー流の反復による観察をモニタリングという。イノベーションを行ううえでも致命的に重要なのがモニタリングである。

イノベーションは昨日までなかったものに新しいコンセプトを付与する行為である。あるいは昨日までも存続してきたのにいまだ名辞を持たぬコンセプトに名を与える行為である。

ドラッカーはイノベーションに成功する者とは本質的に保守的であると言う。考えてみれば当たり前である。繰り返し、反復し、そのなかでモニタリングしなければ、人は変化を感知できないからだ。

その意味で、イノベーションもまたルーティン・ワークの重要な一部である。イノベーションとルーティンというと対極のように思われるが、実は本質においては同じである。反復生活の副産物として手にしうるものである。

それともう一つ、モニタリングに欠かせないのが、書くことである。できれば、毎日書くことである。メモを書く習慣を持つ人は、脳をいくつか保有するに等しい。ドラッカーもまた四六時中ものを書く人だった。書くことでものを考えるタイプの人だった。

古今東西の一級の思想家や実践家に絶対になくてはならないものが一つだけあるとすれば、言語を運用する能力である。

書き留めていく習慣がもたらしてくれるものは数限りない。日記に習熟する人なら分かるだろう。読み返すと、しばらく前に書いた文章が親しい友人の発したような、自他の中間的な感覚が出てくる。

そうなればかなりのレベルである。書くことで自我の輪郭が現れ始める兆候である。人の個性というのは言語の前にあるものではない。言語によって書かれることで事後的に立ち現れてくるものである。

ドラッカーの言う強みも同じであって、何度も反復して書く、すなわちフィードバックすることで、明瞭なコンセプトとして事後的に現れてくる。内在する茫漠とした煙のようなものが、言語によってコンセプトに変わる。ドラッカーもまた言語の使い手だった。彼の場合、既存の言語で表現不能な対象を記述するのに、しばしば「造語癖」とも言うべき傾向を発揮した。目に映るものすべてがそれまで使用される

語彙で語りうるわけではない。そこでドラッカーが主として用いた造語法は三つある。一つは既存の語彙に新たな文脈を与え、記号としての意味を変えてしまうことである。

典型は「マネジメント」であろう。ドラッカーが組織的に成果を挙げる手法としてのマネジメントを言う以前、語彙は一般的な「管理」と同義だった。現在マネジメントと管理はまったく正反対の含意である。

もう一つは何の変哲もない二つの語彙を組み合わせる方法である。「知識」も「社会」も一般的な語彙である。それを組み合わせると「知識社会」となり、まったく響きと輝きの違う言葉になる。「社会」と「生態学」を組み合わせて「社会生態学」など多数の例がある。

三つ目は非日常語をあえて使用することで、語感の強さを引き出し、新たなコンセプトとして訴求する方法がある。典型が「断絶」とか、「ポストモダン」などである。いずれも日常会話で使用される語彙ではなく、本来の韻律からしても聞く者の耳朶を強烈に打つ語感を持つ。

フィードバックの要求する要因として、現物重視がある。現物とは現に生きて動いているもの、すなわち生物(なまもの)である。人間社会に関わるもので生物でないものはない。自然を研究する者で、実物を見ることなく特性を判別する人はいない。いかに僻遠の高地に咲く花であろうと必ず見にいき、五感で確認する。

五感で形象を確認する機能を知覚という。知覚による形態の理解はドラッカーが社会を理解する際の最も重要な手法の一つだった。

フィードバックにあって、組織的な情報収集や報告、数字もなくてはならない。しかし、現場に出向いていく、五感で現物を確認するプロセスを省くフィードバックに意味はない。現実に直接触れることはフィードバックの中心に置かれる必要があるとドラッカーは言う。

現物を相手としないフィードバックはそもそもフィードバックの定義に反する。フィードバックが必要なのは本来人間の判断力や理性に限界があるためである。頭脳の中のみでなされる入出力だけでは決定的に足りない。自己完結的な情報の入出力のみでは、誤った思い込みが避けられない。不毛の独断から逃れることはできず、成果をあげることもできない。

現実にあってまず誰もが知るのが、平均値や表向きの理屈にさほどの意味がない点である。頭の中で予想されたことが現実と符合するなどほとんどない。言い換えれば、現場で起こることは、頭の中で起こることと常に違う。大地震や原発事故のような事態にあっては「平均事故率」などという概念はむしろ意味がなくなる。現実を評価し、次の行動に生かすための最善の方法は、自分で出かけていって、現実からのフィードバックを得ること以外にない。