弱みを克服すべきか

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「弱みを克服せよ」と言う。ひどい場合には、「弱みを克服して、強みにせよ」とさえ言う。

ドラッカーの考えからすれば、精神論としてはともかく、現実的な有効性はゼロどころかマイナスということになるだろう。

確かに、ものによっては、弱みの克服が避けて通れないように「見える」場合がある。個人としての活動、たとえばゴルフにフィードバックを適用するとき、どうしても自分の中の弱いところが見えて来る。そのときには、弱み克服も避けて通れないのかと思う。

だが、個人スポーツは少し異なる次元の話である。なぜなら、そもそもドラッカーが想定した強みは、組織という人類史上最高の道具を活用することが前提となっている。組織というのは、個人を煮るための鍋である。多様な材料の詰まった鍋に煮つめられてこそ強みが結果的に現れてくる。

自然の生態系も同じである。鳥には鳥の、魚には魚の、猫には猫の・・・共生したり争ったりする中で、多様な強みというものが「結果的に」表れるのである。

人間社会も同じで、経理要因として一流の人がいる。人との交渉で一流の人がおり、参謀として一流の人がいる。あえていえば、他者との摩擦熱の中で強みは強みとしての証を得るのだろう。

一方で、個として見れば、強みは気質とも密接な関係がある。ドラッカーはどこかで気質は土地における気候と同じで、変えることはできないと言っている。この「変えることのできない性質」を、祝福し、利用せよというのがドラッカー強み論の原点であろう。

繰り返しになるが、個の「強み」は多様な具材とともに熱い鍋の中で煮詰められて表れることが多い。ドラッカー流に言えば、「私的な強みが公益になる」。これが大前提である。建築物で言えば、土台であり、基礎である。つまり、強みという基礎が、建物全体の構造を決定する。逆ではない。建物の構造があって、基礎が決定されるわけではない。いずれも、チームや組織について言えることである。

ともすれば、「弱み克服」の誘引に人は吸い寄せられる。現実社会には弱みなど無数にある。というか弱みを見ようとすれば、この世界には弱みしか目に入らない。そういうふうにできている。

ならば、やはり、ドラッカーの言うことにも限界があるのではないか。弱みについて彼は「それは何もできない」としか言わなかったではないか。どうしてくれるんだ--。

だが、弱みが意識に上った時点で、間違った鍋で煮られている可能性を疑うべきである。あるいは弱みを克服しなければならないと意識された時点で、その建物は強みの基礎の上に成り立っていない。責められるべきは「強み」ではない。弱みを意識させる組織のほう、つまりマネジメントの無能である。

弱みを持つ人がいるのではない。強みを生かせない無能なマネジャーがいるだけである。まずい食材があるのではない。腕の悪い調理人がいるだけである。できない子供がいるわけではない。無理解で馬鹿な教師がいるだけである。

私はドラッカーの強み論において、「弱みには何もできない」を修正すべきではないし、必要を感じない。何ごとかをなしとげるのはどこまでも強みである。それ以外にない。弱みに意識が行くと言うことは、自らが目指す構造物自体の妥当性を疑うほうが早道だろう。

ドラッカーは、そのために「五つの質問」の最初に--そう、最初に--、「ミッション」を置いたのだろう。かりにミッションに強みが適用されれば、うまくいかないと思うことはあっても、「弱みを強みに変えよう」などという非現実的な発想は浮かばないはずである。弱みに意識が及ぶようならば、それはミッションではなく架空の目標だったのだ。

再度強調したい。弱みは生理的に嫌悪すべきものであって、目に入るべきものでさえない。まして強みに転ずるなどありえない。ドラッカーにおける強み論の基本である。