ホテル・カリフォルニア

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イーグルス『ホテル・カリフォルニア』視聴は上画像をクリック 

 

カリフォルニア州クレアモント市はロサンゼルス中心から東へ約50キロに位置する閑静な住宅街である。

  
クレアモント大学院大学という比較的新しい教育研究施設が立地しており、いくつかのカレッジが同心円状に集まっている。あたりの気候はかなり乾燥している。

住宅街には各軒にスプリンクラーが取り付けられており、自動的に撒水がなされる仕組みになっている。放っておくと砂漠化してしまうのだという。その日常的な努力のかいがあってか、あたりは目に痛いほどの緑が映えている。日本の少し陰のある緑ではない。何の含むところのない、あっけらかんとした緑である。

ドラッカーはアメリカに渡りしばらくの東部勤務を経て、70年代にこの地に移ってきた。かなり気に入っていたという。恐らく自らの終焉の地と見定めていたに違いない。

私がクレアモントの存在を知ったのは、ドラッカーを知ったのとほぼ同時期である。というより、クレアモントとは私にとってドラッカーと同義である。クレアモントといえばドラッカーであり、ドラッカーなきクレアモントは私にとって意味を持たない。

ゲーテにとってのワイマール、アダム・スミスにとってのグラスゴー--。私のドラッカーに対する印象は、こだわりなき乾いた当地の印象と常に地続きである。

これまで私は2回当地を訪れた。一度目は2005年の5月、二度目は2009年の5月である。

クレアモントは心にある閑雅なる絵はがきそのままだった。春先の緑萌え出づる季節、そして空気もしっかり乾いている。生命が躍動している。

町全体はさほど古くない。そのはずなのに、中世ヨーロッパの文化都市の一画をそのまま移築してきたようなしかつめらしい表情さえ時折見せる。奔放でありながら謹厳である。永遠に失われた何かを、必死に取り返そうとしているかのように。それがこの町の特徴である。

2度目の訪問の時に思った。確かにこの町が決定的に変わってしまった点が一つある。かの知の巨匠にして文明の観察者、ピーター・ドラッカーがすでにこの町にいないということである。この町にいないだけではない。アメリカ、そしてこの地上にもすでに彼はいない。

私は今なお、ドラッカーがすでに永遠にいなくなった事実に時折改めてぎくりとさせられる。

むろん町全体はそのようなことにもいたって恬淡としている。人々は見知らぬ人にも笑いかけ、そんな人々の顔に乾いた陽光がうっすらとしたセロファンのような陰影を落とす。世界はそんな偉い人たちばかりでできあがっているのじゃないだろうといわんばかりに。

確かにそのとおりである。むしろそれはドラッカー自身が願ったことだったのかもしれない。彼は詩人ウォルト・ホイットマンの国アメリカを自らの終焉の地に選んだのはそのためもあったろう。

彼がクレアモントに移り住んだのは1970年代だった。決して短いとはいえない生涯の中で、クレアモントの日々は前半生と比較だにできぬ安息を約束した。そのなかでも彼は驚くほどの知的生産性を示した。彼にとっては生を賭した極度のプレッシャーのなかでも、はたまた得難い安息の中でも、変わらぬ自己を維持し、なすべきことに自らをし向ける独特の才能があった。

自らの居所と動くべき時を本能的に知っていた。

 

「暇な時は何をしているのですか?」と記者は聞く。

「暇な時とはどんな時をいうのですか?」ドラッカーは聞き返す。

 

このやりとりほど彼の生活態度を象徴するものはない。当意即妙にして才気煥発、その何気ない言葉の一つひとつは深い思想的叡知と詩的情緒に彩られている。そう何よりも彼の発言には詩があった。

チェホフは『三人姉妹』の末娘に、「いかなる労働にも詩(ポエジー)がなければいけません」と言わせている。詩のない生活、それこそが煉獄であろう。詩のない労働は地獄であろう。詩のない経営学は人間のいない経営学であろう。

ホイットマンは歌う。「いつの時代のいかなる国民も、おそらくアメリカ人ほどに豊かな詩心をそなえた者はいない」「ぼくらが知っているこの宇宙は、願ってもないひとりの愛人を持っている。つまり最大の詩人だ」。

私が最初にクレアモントを訪れた時、その溢れる詩的情緒に大きく目を見開かれた。単に自然の美しさのみではない。人と人の間に宿る神秘の感情がそこかしこに息づいていた。

私はある歴史学の教授の話を聞いたのを憶えている。カリフォルニアといえば、西部開拓、ゴールドラッシュによってまったく無計画、懶惰な混沌、野放図のうちに人口ばかりが増加していったかのように思われる。

だが、それは違う。カリフォルニアには鉄道敷設者をはじめ、真の意味での実業家たちがいた。文明の推進者たちがいた。彼らは鉄道を利用し、小さなコミュニティを当地のあちこちに育てていった。その様相は、分権化の過程そのものであったという。それらコミュニティはあたかも土地にふとしたことで舞い降りたんぽぽの種だった。そこには自然と人為の絶妙な営みがあった。

いつしかたんぽぽは群生し、そこにしかない独自の生態を示すようになった。それは形態であるとともに、一つの精神でもあった。あえていえばそれはアメリカという名の詩人だった。

ドラッカーが流れ流れた末にこの地を選びとり、この地で死んでいったのがわずかばかりでも理解できた気がした。

 

気づけば二つのスピーカーからは甘くもの悲しい十二弦ギターのイントロが流れている。そのメロディはそうであったかもしれぬいくつもの過去をフィルムのように再現する。

いくつもの若い家族の姿、ヒッピーたちのはしゃぐ様子が次から次へと音に乗って流れていく。男は一様に薄く髭を生やしていて、女は髪に赤く細いリボンを付けている。みんな妙に日焼けしている。そんな映像が私の脳の奥にしまわれた恐らくゴルフボールほどの大きさの記憶装置を刺激する。

ドラッカー・インスティテュート主催の国際シンポジウムの会場は有名なルート66に面したダブル・トゥリーホテルで開催された。このホテルは最初に来た時はクレアモント・インという古ぼけた宿だった。

フロント前にはホテルができたばかりの頃の写真(それは西部劇に出てくる猥雑なモーテルによく似ている)が往時を偲ぶかのようにいくつか飾られていた。数年前に現在の会社に買収されて、見違えるような風貌を備えるようになった。

主催者の挨拶がはじまる。彼の話は私の耳をとらえない。その70年代の音楽はすでにひっそりとしたピークを迎えている。セピア色の音と記憶の陰影のみが、この場所を唯一美しく彩っている。それ以外には何らの価値も意味もないかのようだ。

学生時代、居酒屋で話に夢中になっていたら、ギターを持っている私にいきなり若い見知らぬアメリカ人が話しかけてきた。「そのギター、ちょっとだけ弾かせてくれないかな」彼の目は無邪気に笑っていた。一緒にいた彼女にいいところを見せたかったに違いない。

私はケースからギターを取り出し、彼に渡した。彼は無言で受け取るとギターを弾く者特有の表情をした。視線を落とし、瞳が深くなる。呼吸を整え、一瞬空気を止める。聞こえてきたのは「ホテル・カリフォルニア」のイントロだった。

この曲がリリースされたのは70年代、私と彼がようやく生まれたばかりの頃だ。むろんリアルタイムで聞いた記憶などない。それでもなお、その残響があまりにも深く脳裏を刺激してやまないのはなぜだろう。

あの当時にして60年代は化石だった。永遠に過ぎて戻らぬ自由の時間だった。イーグルスのこの曲はわずか昔の60年代を早々にして追悼した。それは「あの時代」へのささやかな鎮魂であり挽歌だった。

 

「当ホテルでは、1969年以来、酒は一切置かないことにしているのです」(『ホテル・カリフォルニア』)
  

こう言っている。「祭りは終わった。しらふで生きていけ。そのための勇気を持て。それが人生だ」。

2005年に当地に来た時、友人が車でホテル・カリフォルニアに私を連れて行ってくれた。正確にはやはりしばらく前に買収されてしまったということだが、建物はそのままだった。確かレコードのジャケットになっていたと思う。

ホテルの前玄関の堂々たる体躯を目にした時、私は不思議と日本橋三越の中央入り口を思い出した。そして「商業とは旗のようなものである」という萩原朔太郎の詩の一節をなぜか思い出した。

スピーカーから流れる曲は氷の上にほのめく青い炎のような、妖気に似た盛り上がりを見せ、再びイントロの十二弦ギターに戻る。そして謎めいた台詞を持ってひっそりと終幕する。

 

「You can checkout any time you like, but you can never leave」 (いつでもチェックアウトできるけど、決して去ることはできないのだよ)