魂は実在するか?

11011761_945144575506032_7688072621175975870_n
LINEで送る
Pocket

 

無題

 

プラトンの『パイドン』(岩波文庫)を読んだ。感想を書くのだが、書評ではない。ただ感じたことのみである。

今までかくも著名な哲学者ながらも、まともに読んだことはなかった。しきいが高く感じていたし、あまりにも時代が遠すぎた(2300年以上も昔!)

思うのは、当時のものの見方とか考え方、感じ方は今と何ら変わらないということ。粗雑で牽強付会なものの見方をていねいに排除して、一言で言えば「常識」にもとづいた世界観が一貫して採用されているように感じられた。さらさらと流れる川にひんやりと足を浸したみたいに、何の違和感もなく、あるべき考えがあるべき道筋で説かれる爽快感に満たされるように思う(たぶん)。

タイトルになっているパイドンは人の名前である。かつては奴隷であったそうだが、ソクラテスに見出され、弟子としてかわいがられるようになった。本書のなかでも、ソクラテスがパイドンの美しい髪をなでる場面がでてくるのだが、美形の男子だったようである。相葉君あたりを想像すればよいであろう。

そもそもが、プラトン著作の少なからざるものは、対話という形式をとっている。しかも、ソクラテスが弟子たちと行った対話というかたちで話は前に進められていく。対話という川面をすべる小舟のように、哲学的主題は展開していく。

というのは、ソクラテスにとって哲学とは、書き記されるものではなかった。対話(ディアレクティケー)の形式をとって具現化されるものだった。生きて働くものだった。書かれると死んでしまう。ソクラテス本人に著作がないのはそのためで、弟子がソクラテスの口を借りているものばかりである。対話という形式以外では哲学できなかったのだ。

対話は最高にして最善の知的営みであり、娯楽でもあったわけなのだが、ソクラテスが耳を傾けたのは人だけではない。ダイモンという神霊といつも対話していたらしい。何をしていても、ダイモンが話しかけてくる。いわば内なる声として、何をなすべきで何をなさざるべきか、ダイモンが教えてくれる。

ソクラテスについてしばしば言われるのが、若者を思想的に悪しく導いたかどで、国家から死刑を命ぜられ、自ら毒杯を仰いでその命に服したというエピソードである。この話を知らない人はどちらかといえば少数派かもしれない。で、国家から死刑を命ぜられたとき、逃げる機会はいくらでもあった。なのに彼は逃げなかった。ソクラテス曰く「ダイモンが沈黙した」のだと。ダイモンが何も言わないのだから、それは安んじて死すべきなのであろうと彼は考えたのだ。

『パイドン』はまさに死の当日を描いている。時は紀元前399年、ソクラテスが毒杯を仰ぐ日の朝である。周囲には弟子たちが集まり、がやがやと話している。師と対話を行うのだ。ソクラテスも喜々として応じている。どれだけ対話が好きなんだろう。

しかもである。
その対話の主題たるや、「人は死んだらどこへ行くのか」。ほうっておいてもその日の夕刻には死が定められているソクラテスが、飄々として、「死後の世界」について弟子たちと当意即妙の議論を交わしている。ラディカルではないか。しかもその様子が感動的なまでにさわやかなのだ。

弟子たちもなかなかの切れ者ぞろいである。もちろん最終的にはソクラテスの主張内容に反対するものはいなくなるのだが、師の言わんとするところを簡潔に言えば、「魂は不滅であって、人が生まれる前から存在してきたし、死んだ後も存在する」というものである。

こんなふうに書くと、「あの岩波文庫に収められている、しかも有名なギリシア哲学の大物が、白昼堂々そんなスピリチュアルなことを言っているの?」と思われるかもしれない。

実際私はそう感じたのであるから、同じように感じる人がほかに少なからずいてもまったく驚かない。

現にこの本には魂とか霊魂とか、近代合理主義に洗脳された頭にはいささか奇異に感じられる言葉がしょっちゅう出てくる(副題にもでてくるくらいだ)。でも思うんだけど、あの小林秀雄が--『パイドン』とか『パイドロス』を座右の書としていたわけなのだけれど--、講演の後の質疑応答か何かで、誰かから「魂ってあると思いますか?」と聞かれて、即座に「魂? そんなのあるに決まっているじゃないか」って答えているのね。その気持ちがとてもよくわかる気がした。「魂なんてあるよ」って。この本には根本的に世界の見え方を変えてしまう何かがある。

一例だけど、結構気に入っている発言がある。ソクラテスは言うのだ。肉体は合成物であってゆえに滅びる。だけど魂は非合成物だから滅びない。滅びるものと滅びないものがこの世界では何かの都合で一つになっているんだけれど、もともと性質の違うものだから、いずれは別れ別れになってしまう。それを人はたまたま死と呼ぶのだと。

そして、哲学者、字義通りに言うと「叡智を愛する」人(フィロ=知恵、ソフィー=愛)は、肉体という滅びる乗り物を棚に上げて、魂だけで純粋にものを見たり感じたり考えたりできる人たちなのだと。つまり、彼らはこの世にいながらにして死んでるようなもので、だからこそ、哲学は「死の練習」なのだとソクラテスは言い切るのである。

さらには、肉体と魂が別れるとき、その「別れ方」も大切なのだと言う。肉体には肉体のつごうがあるから、飲んだり食べたり着たりいろんな欲求があり生活がある。そんなものは関係なく、なんのわだかまりもなく、さらりと執着なく別れていくのが、すぐれた哲学者の美学であり流儀なのだと。熟練の舞台俳優みたいに。

でも、人の業として、どうしても飲んだり食べたり着たりといろんなことに執着してしまうではないか。それはそれでありがちのことながら、執着したまま肉体と魂が離ればなれになるといささか不幸なことになるとソクラテスは言う。

「(弟子たちに)君たちは、墓場か何かで、死んだはずの人がうろうろしている幻を見たことはないか? あるだろう。あれはね、肉体に執着している魂が、奇妙な幻として見えるものなのだ。彼らは浄められた死に方ができなかった人たちなんだ」。

この箇所を読んで私はぞっとしたのだけれど、幽霊というものをこんなふうにギリシアの哲学者がとらえていたと知って、たぶん千人の霊能者から怪談を聞かされるより妙にリアルで説得力あるものを感じてしまったのである。

『パイドン』にはこんな話がいっぱい出てくる。最後に一つ、お気に入りのエピソード。

白鳥の歌というのがある。白鳥は神様の使いで、ふだんから美しい声で歌うのだけれど、死を悟るといつも以上に大きく美しい声で歌うのだという。人はそんな白鳥の歌を耳にして、「あれは死を予知してそれを悲しんで歌っているのだ」とささやくのだけれど、ソクラテスによれば、まったく逆なのだ。白鳥は、魂の世界に戻ることがうれしくてたまらず、随喜の情にあらがえずに歌っているのだという。なぜなら、魂には本来魂の世界があって、美しい魂の持ち主は美しい魂の持ち主たちの世界に帰って行くのだから。

つまり、死は正しく生きる者にとっては何ら恐怖すべきものではないばかりか、喜ぶべきもの、歓迎すべきものでさえあるとソクラテスは言う。

さて、弟子たちとの最後の対話を心ゆくまで堪能し、やがて半日ほどして、ソクラテスは毒杯を仰ぐ。とても快活に、元気に、さわやかに。ソクラテスは自らの遺骸を棺におさめる女官たちの手をわずらわせることにさえ気を配り、すべてを周到に整えてから、ゆったりと長いすに身を横たえるのである。有名な場面だ。

有名な場面なのだが、知っているはずなのだが、不思議である。何だか目の前で進行しているみたいにありありと鮮やかに見える。本当に見えたのだ。ソクラテスが毒の効きをよくするために、歩きまわるサンダルの音がぱたぱたと聞こえてくる。長椅子に横たわる縁のにぶい光や、木のきしむ音が聞こえる。思わず胸が熱くなる。

「ソクラテス先生」と私は心の中で一言小さく叫んでしまった。死なないでほしかった。2000年以上前のことなのに--。