【脳を刺激する名文を】
小林秀雄『人生について』中公文庫
大学時代だったか、小林秀雄は意識してわかりにくく文章を書く人だなどとしたり顔に言う先輩がいて、以来小林秀雄は難しいものだと決め込んでしまったのだが、しばらく前に何かの折りに読んでみて、こんなに頭脳と心にしみ通るごとき言葉のつむぎ手がかつて存在したことに驚きを覚えた。
「言葉を手足のように使う」とはおそらくこのような人のことを言うのだろう。何と言うか、現実であれ観念であれ、目の前に浮かんでくる映像を見せられているような文章なのだ。現代においてこのような文章の書き手は見つかるまい。
この文庫本は偶然書店の一角に平積みしてあったのを見つけ、何編か読んだことのないものがあるのを確認してから手に入れたものである。「私の人生観」をはじめ、多くは講演やちょっとした雑文をもとに編まれたアンソロジーであるが、短いものも長いものも、清冽な水のようなきらきらと輝いていて、時にはこんな高純度の水を喉に送り込んでおくことにちょっとした満足を感じる。
わけても「私の人生観」はぎっしり組まれた版面で60ページにも及ぶ、恐ろしく長くて高密度の講演録であるが、是非一読をお勧めする。
広い意味では随筆や随想、あるいは哲学断章のような文章が集められているわけなのだが、小林は多くの場合、思ってもみない角度から思考の槍を射し込んでくるところがある。
ちょっと古い時代に書かれたものだし、なじみのない芸術家や思想家の引用もあるけれど、純度の高い水というのはどんな心の隙間にでも静かにしみこんでくるものである。
評者は常々、ビジネスの現場に携わる人ほどに、自分と向き合えるような上質な文章や音楽にふれておく意味を実感する。ビジネスに対話がないからではない。反対に対話がありすぎるからである。
日々生きているなかで、あまりに饒舌な対話状態がビジネス社会のなかでは通常のものとなっている。次から次へとなすべきことが自分を追いかけてきて、自分と対話するだけの時間も精神的余裕もとりにくい。
小林の文章はある意味、若い頃から老成していて、ときに婉曲や警句を用いるところが難しくとらえられるのだろうが、言葉の一つ一つはひどく率直であり、鉱物のようにフィジカルな感覚がある。
わけても、「人生について」などという書生じみたテーマを大上段から語る、あるいは語れる論者が今どれくらいいるのだろうか。
たとえば、人生観の「観」という部分だけで、仏教の歴史から、仏典における世界観、それから西洋思想との本質的相違点から、フランスの哲学者ベルグソンの斬新さまで次から次へと浩瀚な書物をひもとくからのように、まさに生きた知識の洪水を体験させてくれる人は、なかなか得がたいと思う。
しかも、一般に考えられているのと違って、小林はきわめて実践的な思考の持ち主であり、学者的な知性を嫌い抜いた人でもあった。おそらく数ページ読むだけで、行間から漂う独特のにおいに誰もが気づくだろう。
「ポケットに名文を」--。お勧めしたい。