自分が何をしたいかを知る

白隠の環
LINEで送る
Pocket

白隠の環

フィードバック分析は決して大げさなことではない。誰にでもできることだ。
 
ときに、人は慌ただしい毎日のなかで人生からの問いに耳を傾ける余裕を持てない。ヴィクトール・フランクルが言ったように、私たちが人生に何を求めるかという問いがあるのと同時に、人生のほうが私たちに何を求めるかという一次元高い問いがある。私たちは日々、人生から問いを発せられる存在でもあるのだ。
 
しかし、日々の雑事や思い煩い、ストレスなどで鈍麻した精神は、正しくチューニングできないラジオに似ている。いつも雑音ばかりでちょっと声が聞こえたかと思うとすぐに雑音に戻ってしまう。あまりにも慌ただしく、心を亡くした生活をしていると、人生とはそんな雑音の連続にすぎないのだと思い込みかねない。
 
そうではない。ドラッカーが言うように、どんな人にも、内面から響いてくる実存の声がある。私たちは、そこにチューニングを合わせ、しっかりと聞く姿勢を持つ。それだけでよい。
 
では、どうすれば正しく内面の声に耳を傾けられるのか。
 
ドラッカーによる究極の問いに「何をもって憶えられたいか」がある。自らの亡き後どのように記憶してほしいかを考えることで、今ここにある自分に有限の時間という垂直的な思考を導き入れてくれるインプレッシブな問いである。
 
死後を考えてみること、後世に何を残せるかを考えてみることは、そのまま人生全体のフィードバック分析としての意味を持つ。自分が人生を終えた後に、何を残すか。その思考回路をささやかなりとも今日一日のなかに種子として入れておく。真の実存に触れる問いたるゆえんである。
 
そのときも、やはり手を動かして書いてみることである。とくに遺書を書いてみることだ。遺書なんて考えたくもないと思われるかもしれない。誰もが人の死は冷静に受け止められても、自分の死となるととたんに思考を停止するのがふつうだからだ。
 
しかし、死の思考停止を乗り越えるとき、本当のフィードバックの成果に力強く近づくことができる。なぜなら、フィードバックとは、目を背けたい当のものにあえて向き合うときにその真価を発揮するからだ。
 
死は格好の材料である。しかも、ドラッカーの言う「実存」を考えるうえで絶好のアプローチでもある。彼は若いころに書いた実存主義哲学者キルケゴールについての論文で、「死を考える勇気を持つことが、生きる勇気を与える」と述べている。死は生の合わせ鏡だからだ。
 
まさしく、遺書は死に対する準備という以上に、今をどう生きるのかというきわめてアクチュアルな問いを投げ返してくれる。 

ちょっと考えてみてほしい。これまで生きてきた人生がどのようなものだったのか。残された人生をどのように過ごし、自らの可能性を最大限に生かすにはどうしたらよいか。
 
この世の生をまっとうしてから、家族、友人、知人たちからどんなふうに追憶してほしいか。そう考えていくと、「今」何をしなければならないかとの問いにダイナミックにバックしてくるようになる。まさにフィードバックの真骨頂ではないだろうか。なぜなら、遺書を書いているあなたは、今ここで生きて呼吸をしているあなただからである。

遺書は死という厳しい現実を意識させる代わりに、あなた自身が何者であるか、何のために生きるのかを教えてくれる優しく厳しい先生でもある。
 
禅における師、ユダヤ教のラビである。死を考えることを通して、人生の来し方を振り返り、未来の行動を考え抜く機会となる。

死への意識は人を深い内省に導く。そのとき、あなたの人生がどれほど幸せか、どれほどの試練を勇気をもってくぐり抜けてきたか、誰に助けてもらったか、育ててもらったか、経験の一つひとつがどれほど価値あるものだったか。

日常のちょっとしたことが、あなたの人生をどれほど彩ってくれたか、あなたはその意味と真価に気付くだろう。

あるいは、死を迎えるとき、どんな自分でありたいかにも思いが及ぶかもしれない。何をしておけばよかったか、深く望みながらも日常の些事にまぎれて手をつけずにきてしまったこと、大切な人に言いたかったのに言えずにいること、そんなことの一つひとつに言葉を与えていく。

では、どんなポイントで遺書を書くとよいのか。形式や文体などはあくまでも自分らしくさえあればよい。常に、「何をもって憶えられたいか」を念頭に置いて書いていけば、自ずと思考は深まっていくはずである。
 
まずはあなたの人生がどのようなものだったかを思い出してみるとよいだろう。

・あなたは何に真剣に取り組んできましたか。
・あなたは何をしているときにあなたらしく、自然体で心愉しむものでしたか。
・達成できたことは何だったでしょうか。
・あなたが愛した人たちはどんな人たちでしたか。
・あなたの心に残っている懐かしい風景はどのようなもので
すか。
 
大切な時間を意識し、生かすことが、人の可能性を最大のものにする。そのとき、人生が一つのストーリーとして立体的かつ彩り豊かに眼前に再構成されるはずだ。
 
次に、残された人々に対して何を伝えたいか、そのことを通して、自らがどうありたいか、あるべきかを考えてみてほしい。・自分は自分の人生のなかで、何を後世に残すことができたでしょうか。
・去る前にこの世に残したいと思うものは何でしょうか。
・墓碑銘に刻んでほしい言葉は何でしょうか。

ドラッカーは日本画を鑑賞する人だった。とくに好きだったのは山水画や禅画だった。主に、文人や僧侶など、深い思慮と自由な精神をもってふるわれた筆さばきに彼は惹かれてやまなかったという。
 
水墨画を見た人はわかると思う。高い霊性の波動がシンプルななかにもかすかに、それでいて世界全体に鳴り響いている。いわばはてしない無の世界のほうにリアリティを感じる世界観だ。そこでは生と死が向き合っているのではなく、生とは広大な無の世界のわずかな一点を占めるにすぎない。
 
ドラッカーは日本画を見ることで、自らの霊性を開発していたに違いないと最近思うようになった。そして、無の世界に自ら赴き、ともに揺らぎ、無の世界の住人やさまざまなものと出合い、考え、語り、そして生の世界に戻ってきていた。日本画のなかに、広大な無の世界を見ていた。
 
日本画の鑑賞は彼にとって、深いレベルの自己内対話でもあったとともに、生と死の出合いの場でもあった。ドラッカーは、日本画を通して、霊的覚醒とともに、自分が本来あるべき姿、なすべきことが何なのかを繊細にスキャンし、しかも無を意識しながら、自分の実存と向き合っていた。
 
そんなふうに日ごろからしっかりと自分自身と対話をし、自分が何者なのかを問い続けることである。何も真実を探しに遠い旅に出る必要なんてない。真実はあなた自身のなかにある。

あなたはただ内面の声に耳を澄ますだけでよい。