ドラッカーのメディア論

マクルーハン (2)
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マクルーハン (2)

『傍観者の時代』

ドラッカーには『傍観者の時代』と題する教養小説(ビルドゥングス・ロマン)があります。 そこでは彼が若き日に交流したさまざまな異能の持ち主たちの生態がいきいきと描かれています。 ドラッカーの作品のなかで、本書を最高傑作とする人も少なくはありません。

確かにユニークな本であることは間違いないのですが、それ以上に、本書にはドラッカーに関するあらゆる「謎解き」のヒントが詰まっています。  

本書に次のような描写があります。 彼がロンドンにいた頃、ヘンリーおじさんと呼ばれる変種の天才の経営するマーチャント・バンク、フリードバーグ商会での記憶です。  ある日、パールブーム氏というオランダ人が家族でロンドンにやってきます。そこで、次のようなやりとりが交わされます。  

 

「パールブームが家を探しに行った日、ホテルを訪ねた私に彼がかけた第一声が、『ドラッカーさんというお名前はオランダの名前ではないですか』だった。  

私はそうだと答えた。私は、祖先が一六世紀から一七世紀にかけて、オランダで宗教書の印刷業を営んでいたことは知っていた。パールブームは、そこで話を終わりにしなかった。私の家系を調べ上げただけでなく、私の祖先が印刷したものが、オランダの図書館にあることまで調べ上げた。おまけにいつどこで創業し、いつ廃業したか、アムステルダムのどこに店と印刷所を持っていたかまで調べ上げた。[中略]私の祖先がオランダを離れたのは一八世紀のことであって、オランダには親戚は一人もいない旨を指摘しても、こう言うのだった。『謙遜しないでください。やくざな連中のようにアメリカには行かなかったんですから。今でも立派なオランダ人です』。そして、ずっと私のことを、オランダ流に『ドリュッカーさん』と呼ぶのだった。 」  

 

ドラッカー家の出自がオランダのアムステルダムとするならば、彼の先祖はカルヴァン派の流れを汲む聖書印刷者であったと比定してさしつかえないでしょう。  

考えてみると、そこには興味深い暗合がいくつか存在することがわかります。

 

オランダの印刷業者

今でこそ印刷業者というと埃とインクにまみれたローテクな世界が想像されます。 しかし、15世紀に発明された活版印刷術が全欧に波及する16世紀から17世紀にあって、印刷は現在の情報技術など比較にならないくらいの最先端技術でありました。

わけても、その先端を行くのはいうまでもなく印刷業者たちでした。聖書印刷者はそのなかでも花形中の花形であったはずです。 さしずめGoogleのようなIT企業、未来への旗手を想像すればよいと思います。  

その影響力たるや、「紙」が「神」を創造したといわれるほどでした。実際に、聖書印刷者たちの仕事によって、一般民衆はカトリック教会の手によらず、自らの意思と目で聖書を読めるようになる。 そこからさまざまなややこしい出来事も起こってくるのですが、それこそが近代史の展開そのもの、そしてその奥深さと言ってよいかと思います。  

ピーター・バークの『知識の社会史』(新曜社)によれば、15世紀から18世紀にいたる時代、すなわちグーテンベルグの活版印刷技術が全欧に波及するまさにその過程で、聖職者や大学、出版業者たちの間では「書物の共和国の市民」と称する独自の公共圏が成立していったといいます。  

書物共和国の市民の核となるのはいうまでもなく聖職者階級でした。彼らは、当時にあって考えられないくらいの特権階級です。知識の独占的所有集団であり、超弩級のインテリ階級でした。  

当時はまさに聖職者階級を中心に、大学、教会、出版社が知的協働の拠点としての地歩が固められるさなかにありました。わけても注目すべきは、カルヴァン派聖職者の供給が牧師および伝道師の需要を上回ると、彼ら聖職者のなかからも出版・印刷業者に転ずる者が多く出ていった事実です。  

いわば細胞分裂するように、知識の生産に関わる者と流通に関わる者とが分かれていく。そして、出版業者の多くは定期刊行雑誌の出版に携わり、知の流動性向上に大きく貢献します。  

言い換えれば、本来聖職者であった人々のなかから知の流通業ともいうべき人々が現れ、彼らが史上最初の職業的「ジャーナリスト」になるわけです。  

同時に大学の研究者も知識伝道者として聖職者から分裂し、独自の自律的な世界を作っていきます。そのような比較的現在でもその原型をとどめる知識や情報の伝達システムが、ここに一定の完成を見ることになります。  

そのような先祖の職業的来歴が関係しているのか定かではありませんが、技術史家としてのドラッカーにとって、テクノロジーを語るうえで活版印刷ほどに重要なものはなかったようです。  

彼はマーシャル・マクルーハンとの個人的交流を通じて、「活版印刷が知識とすべきものを規定した」事実を率直に受け入れ、自らの技術観の礎としています。さらに一歩進んで、その帰結として「印刷された本が教授法と表現法だけでなく教授内容まで変え、結果として近代大学を誕生させた」ことをも事実として認めています。  

もう一つ同様にマクルーハンの言説を基礎として、「モダンの世界観をもたらしたのは、コペルニクスやコロンブスではなく、活版印刷だった」とさえ言明しています。

 

メディア論的汎用技術

ドラッカーの先祖が印刷業に携わっていた16世紀から18世紀、印刷技術はいわゆる汎用技術(General Purpose Technology)として、世界変革の最先端メディアの地位にありました。  

ドラッカー自身が述べるように、印刷技術の凄さは、4世紀以上にわたって、さしたるイノベーションもなしに維持・発展してきたところにも表れています。  

「これまで仕事に使う技能は、ほとんど変化してこなかった。私の名前のドラッカーはオランダ語で印刷屋を意味する。先祖は1510年ころから1750年ころまで、アムステルダムで印刷業をやっていた。印刷業では長い間何も変化がなかった。16世紀初め以降19世紀にいたるまで、印刷業ではイノベーションといえるものは何もなかった。」(『ネクスト・ソサエティ』)  

実は、そのような汎用技術が最たる隆盛を極めたのがオランダのアムステルダムでした。  

当時、市内で刊行された『アムステルダム案内』なる観光パンフレットは刊行間もなく八版を印刷する大ベストセラーとなったといいます。それほどまでに人口交流の中心地であったことになります。  というのも、17世紀になると、オランダはヴェネチアに代わって、宗教的多様性における安全地帯となり、深甚な宗教戦争の避難地としての役割を高めていきます。  

同時に、集積する多様な人口を背景として、知識や情報の中心地にして市場、欧州の「総合倉庫」としての地歩を確かなものとしていきます。さらにその中心地こそがアムステルダム市街でした。  

アムステルダムは、17世紀の後半までに、欧州における書籍出版のメッカと称してさしつかえない質量を誇っていました。270を超える書籍商、印刷業者が、1675年から1699年までの25年間にアムステルダムで活躍していたといいます。今で言えば、最先端産業の巨大集積地、シリコンバレーです。  

さらには、アムステルダムの印刷業者の特徴には、さまざまな言語での印刷を何よりも得意としていた事実があります。彼らは英語の聖書をアムステルダムで印刷し、イギリスに輸出さえしていたといいます。むろんイギリス製よりもはるかに安価でした。  

17世紀末までには、「イギリスの船乗りは、海図や航海指南書を、オランダの出版社に頼っていて、自国イギリスの海岸の地図さえオランダ製である」と言われるまでになっていました。  

いわば当時にして、オランダの印刷業者とは情報技術状況のパイオニアであり、イノベーターであったことがわかります。彼らの目線は世界全体を掌握する司令塔でありました。その一端は、当時極東の名もなき国・江戸時代の日本とも交易を持っていた事実を一つとってみても容易に理解されるでしょう。

 

「メディア=道具」の誤解

あのめったに人をほめないドラッカーが、『傍観者の時代』のなかで、マーシャル・マクルーハンを「テクノロジーの予言者」としています。  

マクルーハンが活躍した1960年代、そして70年代のはじめを彼は次のように記しています。 「あの10年は、外観だけが反テクノロジーだったにすぎなかった。実際には、テクノロジーはあの10年に発見されたのだった。」  

「テクノロジーの発見」――。一体どういうことでしょうか。  

これはドラッカーの得意とする表現法です。彼にあっての「発明・発見」とは、それまで知られていたものに、意味とコンセプト、そして体系を与える行為を指すものと考えてよいでしょう 。  

一端は、マクルーハンの集大成とも言える『メディア論』にも現れています。  

そこでは、メディア(テクノロジー)にとって重大なのはそれによって運ばれる内容ではなく、メディアそれ自体であるといった主張がなされています。それをマクルーハンは「メディアはメッセージである」という有名な一節を用いて道破しました。  

そこではメディアとは人間自身の外化した環境そのものととらえられます。すなわち、メディアとは人間自身である。人間の意識が拡張されたものと考えられたわけです。  

たとえば、眼鏡。  

眼鏡とは目の外化されたもので、そのありようが視覚・視角そのものを規定します。同時に、その人間の外貌、すなわち顔のありようまでも変えてしまいます。その意味で、「眼鏡は顔の一部」という有名な宣伝文句はメディア論的にも100%正しい。  

すなわち、テクノロジーとは単なる道具ではありません。その存在が自覚された時点で、すでに人や社会の一部となっている性質のものです。  

ちょうど眼鏡をかけながらうっかり眼鏡を探してしまうようなものです。あるいは眼鏡をかけたまま顔を洗ってしまうようなものです。その存在自体が大変に自覚されにくい。ここがメディア理解の急所といってよいと思います。  

マクルーハンの言う「活版印刷は知識とすべきものを規定した」という言葉はそのような文脈で理解されなければなりません。  

メディア(テクノロジー)とは中性的な道具であって、その価値は使用者によってもたらされるとするのは完全な間違いです。真実はその反対です。人間は自覚することなく自身の生み出したメディア(テクノロジー)によって変えられてしまう、というのが正しい見方です。  

そして、その影響力をコントロールし切ることは人間には不可能です。さしあたり可能な、唯一の対処策は、その展開・伸張のありようを観察し理解に努める以外にはありません。

 

 本の発明とその衝撃

マクルーハンのメディア理解で特にユニークなのは、彼がメディアを人間そのものの拡張ととらえた点にあります。 そのことは『メディア論』の副題が、「人間の拡張の諸相」とされていることからも明らかです。  

先の眼鏡の例でいえば、眼鏡のレンズとは眼球の拡張であり、いわば眼球そのものが外化されたものということになります。カメラもビデオも同じです。デジタル・メディアの時代にあっては、携帯電話やPCがすでに外化された自己となっているのではないでしょうか。  ただし、マクルーハン、そしてドラッカーによるメディア(テクノロジー)の理解を見ていると、確かに人間意識の外化をともなうテクノロジーは歴史上多くあれど、印刷技術およびそれによって「発明」された印刷本だけはなぜか別格のようなのです。それはなぜだろうか。本とその他のメディアを分けてきたものとは一体何なのだろうか。  

たとえば、マクルーハンは次のように述べています。

「たぶん、印刷のもつ最高の性格は気づかれていないであろう。あまりにもありふれて、明々白々の存在となっているからだ。その性格が、正確かつ無限に反復可能な視覚的陳述である、ということである。」  

考えてみればそのとおりなのです。印刷物と他のメディアを区別する決定的な相違とは、その伝達内容にではなく、その形式にあります。 というのも、印刷物とはコンテンツとプレーヤー、あるいはソフトとハード、もっと言えば知識と物質がどうあっても分離できないメディアだからです。  

本を読むときの状態を思い出してみてください。眼球はインクの部分「だけ」をとらえることはできません。インクで印字された部分を判読するには、その背後にある紙をも同時に視野に収めなくてはなりません。インクと紙を分離したら、それはまず印刷物ではありません。 さらには、印字された情報を追うには「物理的に」頁をめくらなければなりませんが、紙が綴じられた状態、つまり「製本」されていないものを本と呼ぶことはできなくなります。  

つまり、印刷本とは「知識」と「物質」が分離不能という形式的条件を持つ稀有なメディアということになります。 それが正確かつ無限な知識・情報の反復を許す条件ということでもあるのです。  

「無人島に行くとして、一冊だけ本を持ってけるとしたら、それは何?」という質問が意味を持つのも、プレーヤーなしで無限に反復可能な性質なくして考えられないでしょう。実はこのような条件を満たすメディアとは、今なお限りなく稀少です。  

蛇足ながら。

知識と物質が分離不能というメディアに人間の精神が外化されるならば、単純に言い換えれば、印刷本とは人間自身、人間そのものということにもなる。 そう考えると、「文は人なり」である以上に「本は人なり」なのです。  

つまり、書物はその執筆者の精神・人格そのものであり、聖書は神そのものということになります。 書物はいかなる社会でも神聖なものと見なされてきた。  

いわゆる著作権とは経済的権利である以上に著者の人格権の一部という解釈がなされています。そのような考え方も印刷本の持つ技術的特性によるところが大きい。  

同時に、焚書(本を焼くこと)がどの国や地域でも生理的に嫌悪されてきたのも、そのような要因が関係していると思われます。  

詩人ハイネは、「本を焼く体制は、いずれ人を焼くようになる」といった趣旨のことを述べたと言われています。  

ナチズムの残酷な所業を予言する言葉とも解釈されますが、「本=人間」とする構図はメディア論的に完全に正しい解釈と考えざるをえません。  

逆に言うと、「本=人間」ならば、「人間=本」とも考えられます。まさに人間もまた、精神と肉体(物質)の分離が不可能なもう一つの本とも考えられます。詩人ステファヌ・マラルメは「世界は一冊の本に尽きる」と述べたそうですが、そのように考えると、人生や世界が一冊の本にたとえられるのも、ゆえなきことではないのでしょう。

 

印刷本と国民国家

印刷本の発明を生んだ印刷術とは、恐らくその当時、核爆弾に匹敵する画期的技術であったはずです。 ふつういわれるメディアとは比較にならない変化が人間世界に持ち込まれることになったからです。  

それまでは多数の修道士が何カ月もかけて筆写した古典を瞬時に量産するわけですから、知の巨大な普及をもたらすと同時に、知識の大インフレと画一化をもたらし、それにまつわる権力構造を崩壊させる一大センターの役割をも果たしたであろうと想像できます。 わけてもそれら変化で最も巨大なものとは、政治的なシステムの創造にほかなりませんでした。  

マクルーハンは言います。

「印刷されたページの画一性と反復性には、もう一つ重要な局面があった。それが正しい綴り字、文法、発音というものに向けて圧力をかけ始めたということだ。」  

じつはここに印刷革命の急所があります。  

印刷本の最大の特徴は、視角による反復にあります。書き言葉、さらに正確に言えば、当初は聖書の翻訳に使用された言葉が、やがて統一的言語、宗教を形成し、そして国家、資本主義を生んでいきます。 すなわち、生命・宗教的自由・財産の保護という近代システムの要となる制度設計がここに開始を見る。  

わけても最も影響力のあった変化が、国民国家の出現であったとマクルーハンは述べています。 「予測していなかった活字印刷の影響が多くあるなかで、たぶん、国家主義の出現がもっともよく知られたものであろう。方言および言語の集団によって人間を政治的に統一するというのは、個々の方言が印刷によって広大なマス・メディアに変ずる以前には考えられないことであった。」  

ところで、印刷本の文明史的意義をかほどまでに重視し強調したドラッカーの視角に学ぶべきはここからです。そこでのドラッカーとマクルーハンによる「メディア波及」のプロセス理解には質的に共通したものが多く見られます。  

整理の意味で、『ポスト資本主義社会』を手がかりに、1455年のグーテンベルグによる植字印刷及び印刷本の発明以来彼がとらえた一連の主たる出来事を見てみましょう。  

まず彼は、印刷術が体系化を見る1455年からルターによる宗教改革までの1517年、その60年を大地殻変動の時代ととらえます。では次々に起こる出来事およびその連続と断絶の諸相とはいかなるものであったか。  

ヨーロッパ人によるアメリカの発見があり、ローマ軍団以降初の常備軍としてのスペイン歩兵軍団の創設があった。  

解剖学をはじめとする科学的探究の再発見があった。そして、西洋におけるアラビア数字の普及があった。  

次の転換期は1776年、すなわちアメリカの独立があり、ジェームズ・ワットが蒸気機関を完成し、アダム・スミスが『国富論』を書いた年にはじまった。その転換期は、40年後のワーテルローの戦いで終わり、この間に近代のすべての「主義」が生まれた。  

この40年間に、資本主義と共産主義が現れ、産業革命が起こった。  

1809年には、はじめての近代的大学(ベルリン大学)がつくられるとともに、普通教育がはじまった。ユダヤ人の解放があり、一八一五年にはロスチャイルド家が王侯の影を薄くするほどの大きな力をもつ存在となった。  

結果として最初の約60年(1455~1517年)は、欧米を中心に新たな文明を生み出したことになります。 まさにマクルーハンのテーゼ「人間は自覚することなく自身の生み出したメディア(テクノロジー)によって変えられてしまう」の歴史的展開そのものと見てよいでしょう。  

ドラッカーは大転換の後にやってくる状態を、「祖父母の生きた世界や父母が生まれた世界は、想像することもできないものとなっていた」と表現しています。  

いわば、メディア(テクノロジー)が、価値観や基本的なものの見方の転換を促す点に彼は力点を置いているのがわかります。 そのような価値観や基本的なものの見方を支える精神的・物質的制度基盤を彼は「文明」(civilization)と呼びました。  

おおざっぱに言って、テクノロジーを変化のエンジンとするならば、知識(行動のための情報)とはそのための主燃料という位置付けといってよい。そして、そのエンジンの駆動する車体に相当するものこそが、彼の言う「文明」ということになります。