【書評】『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』

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【私たちが知らないもう一つの世界】

内田樹・中田考『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』集英社新書

 

近年イスラム関連の諸国を遠因とする事件が国際ニュースのトップを飾ることが多い。

最近ではドイツに向かう難民問題がそうだった。

しかも、すでに国際ニュースと国内ニュースを分かつ決定的な柵というものがなくなっている。何が自国に関係し、何が関係が薄いかなど当座分かるものではない。ある国で発表されたささやかな経済指標が回り回って自分の生活に跳ね返るのが何ら不思議でなくなっている。

まして、日本のような貿易や人材を中心に成り立っている国は、地球のどこかで起こった些事に見える事件が大きな影響を持つ可能性が高い。逆もまた真なりである。

だが、日本においては、大きな事件が頻々と報じられているにもかかわらず、さしたる関心や情報収集が行われていないのが、イスラムである。グローバル化がさまざまなところでかまびすしく言われるわりに、イスラムを影響力ある変数としてとらえる機縁に比較的乏しいのはなぜだろうか。

イスラムはグローバル化の対象外なのだろうか。そんなはずがない。人口としても経済的にも文化的にもイスラムほどの伸長勢力は存在しない。にもかかわらず、理解しなければならない相手をなぜか無意識に異質なものとして思考から切り離しているにさえ見える。ISが典型だ。

答えは簡単だ。本当は見たくないのだ。影響を知っているからこそ、理解したくないのだ。理解すると行動の責任が生ずる。

本書の興味深いのは、「なぜ私たちがイスラム関係にアンテナを立てずにいるのか」というメタ的心性からはじまって、イスラムをどことなく異質なものとしがちな歪んだマインドに快い一撃を食らわせてくれるところにある。

対談形式で進められるのが、本書の妙味を十分に引き出しているように思う。

切れ味鋭く、しかも奥行きある思考を持ち味とする内田樹氏、そして日本でも最高のイスラム学者の一人中田考氏の話が、おもしろくないはずがない。

読み進めているうちに、自分が置かれた環境の方がむしろ異質なのがわかってくる。良い本にはこのようなささやかな「コペルニクス的転回」を促すしかけがそっと埋め込まれているものである。

そもそもがイスラームとは何かにはじまって、シーア派とスンニ派の違い、ハラール、マッカ巡礼などの芳醇な文化的背景を踏まえたていねいな用語解説、さらに一神教と多神教などの宗教談義はスリリングな知的滑走を体験させてくれる。

「あれはこういう意味だったんだ」と過去に蓄積した知識や情報に新しい光が当たり、はっとさせられる。

現在グローバル化と呼ぶものの多くは、実に狭隘で、時にイデオロギッシュなものなのだということに気づかされる。

すくなくとも、イスラムについての理解と配慮なきグローバル思考は、世界の半分しかとらえられていない。

そんな当たり前の常識がたんたんと述べられているところに本書の魅力がある。そして真の専門家はどこまでもたんたんとしているものなのだ。