暖炉の上の老人

ドラッカーへのインタビュー
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大学時代に読んだトルストイの民話を時々思い出す。

ほんのささいな、確か鶏が盗まれたといったことから、それまで仲良く暮らしてきた隣の家同士が争うようになる。次第に喧嘩はエスカレートし、訴訟の応酬にいたる。もはや当人同士でさえ、激しい憎悪の炎を消し去ることはできなくなる。しかも、次第に自分たちが何のために争っているのかさえわからなくなる。

一方の家に、老人がいる。老いのために、歩くこともできず、一日暖炉の上で横になっている。老人が逆上する息子に諭す。

「私は老いて、このとおり一日暖炉の上で寝ているだけだ。お前たちはこんな私を笑うかもしれない。でも、俺はお前たち以上に現実の世界を見ているつもりだ。お前たちのしていることは良くない。小さな火でも、粗末に扱うと消せなくなる。火が燃え盛ると、その原因となった当人たちでさえ、どうしようもできなくなるのだ。まだ手に負えるうちに和解するんだ」

今になって、私はこの老人とドラッカーを重ね合わせて考えてしまう。彼は当事者ではない。自らも吐露するごとく、bystanderであるという。

世の中には無数の当事者がいて、彼らはそれぞれの思惑を持って日々の生活を営む。みな生きているがゆえに、それぞれの論理を持つ。人間同士の争いのみならず、あらゆる営みが、一定の運動を獲得するともはや彼らの意思ではどうしようもできない磁力を持つにいたる。

そんなとき、ことの本質をよく見る者は渦中にある当人たちではない。もっとも状況をよく観察し、的確な方向性を示せるのは、歩くこともままならない暖炉の上の老人である。

いかなる人にもそれがどんなものであれ、傍からいかに陳腐なものに見えようとも、知恵がある。むろん自然的な時間は必ずしも洞察の深さを保証はしない。老人がすべて賢明であるとは思わない。しかし、世界には経験を持ってしか学び取れない知恵が多く存するのも他方で事実である。

私にとってドラッカーとは、そのような誰の心にも必ず一つは宿るともし火のような知恵を、そっと教える老いたる賢者である。連綿と存在し、これからも存在し続ける知恵を体系化し、言葉で示してくれる。