ドラッカーの話法③--あるがままに見る

運河
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ドラッカー話法の基本型は、「すべてをありのままに見る」ことに尽きる。ここでふと思われるかもしれない。

「ありのままで見る? どう見ればいいのだろう」

そう、ありのままで見るというのは、決して簡単なことではない。

「ありのままに見る」とは何か。「質的」に見る。そして、目的として見るということだ。言い換えれば、相手を量として、あるいは手段として見てはいけないということである。 

科学や論理の世界で問題となるのは量である。あるいは数字である。それで説明がすんでしまう。

ところが、人間を取り巻く現実の世界――このような世界をドラッカーは知覚の世界と呼ぶ――たとえば、色や音などを本当に知りたいと思うならば、質の体験をしなければならない。

そして、質として知覚するときには、相手が何かに仕える手段でなく、存在自体が目的なのだという前提で見なければ何も知ったことにはならないという。

たとえば、ドラッカーが嫌ったナチスの考え方は、人を国家社会のための手段としてとらえていた。だからこそ、国家社会の進歩にとって敵と見なせば、もはや目的として見る必要がない。強制収容所で灰にしてしまってなんら問題ないのだというクリアな結論に一直線にいけた。

ベートーベンの交響楽の豊かさを知るのは、繊細に耳を傾けることによってしかできない。

音波の量だけでベートーベンの音楽の価値を測るのだと誰かが言ったら、誰もが愚かだと考えるに違いない。

ドラッカーが愛した日本画の美しさも色の波長の違いだけでは測れない。ドラッカー話法にとって特別に大切なのは、生命に関するものは一つの例外もなく質で考えなければ意味がないということである。もちろん会社も経営も経済も同じである。

すべて質的な存在ということだ。

ドラッカーはすべてを質的に考えるという視点で首尾一貫している。質で考えるとは、言い換えれば分割すれば意味をなくしてしまうということでもある。石ころは分割しても石ころのままだが、赤ん坊は分割したらそもそも生命体でいられなくなる。

私たちはうっかりするとそのことを忘れる。すべてを科学的に合理的に説明できる楽さにとらわれてしまう。そして、あろうことか、ロジカルな世界、量的把握の容易な世界のほうに、ビジネスや人生を近づけようとしてしまう。論理のほうに実生活を引っ張り込んでしまうのである。

イデオロギーがまさにそれである。イデオロギーは頭の中だけでしか成立しない知的体系だ。そうすると、数字で説明可能なものだけを残して、ほかの世界は見えなくなってしまう。特に人間のもつ現実が見えなくなってしまう。

頭の中で捏造された論理に現実の世界をゆだねてしまうと現実からどんどん離れていく。生きていない論理に合わせて人間社会が機能するほうがどうかしている。

ドラッカーは、質的体験のなかで、マネジメントや社会、人間の問題を質や目的の問題としてとらえようとした。彼はすべてマネジメントは例外なく人間的問題に戻ると断言している。 

質的体験のなかで世界を見ないかぎり、本当の意味でのドラッカーの話法を紡ぎだすことはできない。彼はどこまでもこの世界の質的な意味を探りながら、マネジメントを打ち立てたからである。
では、質として見るとはどのようなことなのか。

一言で言えば、形態で見ることである。かたちに着目することである。

ドラッカーが尊敬してやまなかったストーリーテラーの巨人ゲーテは形や色彩の研究者でもあった。形は質的体験を基本とするもので、芸術的なアプローチによって深められる。形こそが内面世界と質的体験を結び付けてくれる決め手なのだ。

ゲーテは質的に体験していく考え方を対象的思考と呼んだ。対象的思考を一人ひとりが自分のものにしていくと、あらゆるものを質的に見ることができるようになる。

そして、この対象的な思考をさらに深めていくと、今あるものの目に見えない可能性まで予感として感じ取ることができるようになる。ドラッカーはそれを「すでに起こった未来」と呼んだ。

ドラッカーはゲーテに学び、対象的思考を訓練した。何によってか。芸術である。日本画や、文学によってだった。

ドラッカーの書斎には、ビジネス書はまったくなかった。ほとんどが芸術書、歴史書、そして小説だった。ドラッカーがリベラル・アーツを重視した理由もここから理解できる。

彼は若い学生に、マネジメントを身に付けたいなら、短い小説を書いてみるように指導していたことがある。芸術的感性はあらゆる対象的思考を育むうえでの格好の資源である。

対象的思考の訓練はドラッカーに言葉を学ぶ人にとっても大切なことではないかと思う。

芸術は目的の世界である。

芸術は対象的思考の回路を提供してくれる。そのことを意識するのとしないのとでは長い時間が経つうちに大きな開きを生んでくる。

質に着目するゲーテの対象的思考は、特に聞き手との関係で意味を持つ。

第一が、聞き手を量ではなく質として考えるということである。手段ではなく目的として見ることである。私たちのなかの想像力を培う思考ともいえる。想像力を通して、一人ひとりを質的にとらえていくことが、人間としての理解につながっていく。

同じことはあらゆる人間活動にも開かれている。顧客、取引先、社員、同僚……。ドラッカーはこのことを現代にふさわしいアプローチで徹底的に示してくれた。

特に現代のビジネス社会の人間関係では、つい批判的に見がちになる。あたかも、お客が商品を値踏みするように、何か文句を言って当座の値段を下げさせることが短期的には得になる、そんな見方が幅を利かせている。時には批判的な意見を言う人のほうが知的に見られることさえある。

しかし、批判は長期的には生産性を保証しない。信頼というかけがえのない資産を毀損するからだ。
周囲を見回して、どれくらいの専門知識があるだろうかとか、このなかで自分より偉い人がどれくらいいるかとか、そのような見方をするととたんに空気は冷たいものとなり、信頼は氷のように溶けていく。

そのようなものではなく、一人ひとりが芸術作品のように、私たちが美術館に行って作品を一枚一枚心を開いて見るように、かけがえのない作品のようにひたすら理解に努めるときにどのような人間関係でも芸術的な雰囲気が生じる。

同時に、相手がどのような生き方をしているのかが見えてくると、それは一つの新しい世界を手にしたのと同じことになる。そのようなことをドラッカーはまさしくマネジメントの実践のなかで実現させようとした。