【社会生態学者の本棚】小澤征爾・村上春樹対談

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【協奏の世界】

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小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮文庫

時にスポーツ選手がビジネスマンの参考にされるわりには、音楽家が参考にされる頻度が低い気がしてならない。だが、音楽もまた、組織やマーケティング、イノベーションなどの多様なマネジメント的要因が詰まったスリリングな世界でもある。

スポーツと大きく異なる点は、音楽の判断基準が質以外にない点である。審美眼の判定基準をはかるのに、ピカソを見に美術館に足を運んだ回数は多少の参考にはなっても決定要因にはならない。質的なものの尺度は驚きであり感動であって、どこまでいっても内心の心の働きだからだ。心の働きは残念ながら測定することができない。

世界的指揮者の小澤征爾と村上春樹の対論である。二人の最高峰を占める芸術家が語る世界――。気づくと、本当に音楽が聞こえるようなフィジカルな手ざわりが感じとられる。

冒頭のところで書かれている村上春樹による観察だ。

「世の中には『素敵な音楽』と『それほど素敵じゃない音楽』という二種類の音楽しかないのであって、ジャズであろうがクラシック音楽であろうが、そこのところは原理的にはまったく同じことだ。『素敵な音楽』を聴くことによって与えられる純粋な喜びは、ジャンルを超えたところに存在している」。

私は思うのだけれど、人間が主体となる活動において、右の考察はほぼ共通に当てはまるのではないだろうか。事業などでも同じであって、結局のところ作るのも配送するのも消費するのも人である。人とはどこまでいっても生身を伴う存在であるから、質的な評価尺度がいつもしっかりとアンカーを支えている。

ならば、会社や組織においても、人を質的に見て行かなくてはならないのだろうと思う。小澤征爾が楽団員を一人一人のプロとして、全体の中でかけがえのない存在として見るように。あるいは村上春樹がシューベルトのピアノソナタニ長調に心から没頭して耳を傾けるように。

芸術は定量化の世界でないとともに、競争の世界でもない。「協奏」の世界である。

いい音をつくるためのバリエーションは、オーケストレーションのみならず、ソロや協奏曲まであまりに多種多様である。すべては人の芸術的感性を最大化するための方法であり、技法なのだ。

時にビジネスの世界はあまりにメカニカルに人の能力を査定しようとするところがあり、成果もまたクリアカットに示せと迫る。だが、芸術に見るように、クリアに示せない部分、不完全さを残すところに、人間の能力の潜在性はある。

自ら指揮を執るベートーヴェン『ピアノ協奏曲第三番』を聴きながら、小澤が言う。オーケストラがぐっと盛り上がり、ドライブがかかる部分である。

「ここはもっとやるべきなんだ。もっとディレクションをはっきりするべきです。こうじゃなくて、たあ、たあ、たーーん(アクセントを強調する)、という具合に。もっと勇気を持ってやらなくちゃいけない。もちろん『勇気を持って』なんてことは楽譜に書いてないんだけど、それを読み取らなくちゃいけない」

たいていの大切なことは収支決算書には書いていない。それを勇気を持って読み取らなければならない。