ドラッカーはフィードバックせよと言った

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真説ドラッカー入門

 

安富歩

経営学者ピーター・ドラッカーは、経済についてまともな思考を展開した希有な学者である。それゆえ(「にもかかわらず」ではなく、それゆえ)、いわゆる「アカデミズム」の経済学からはまったく相手にされなかった。そればかりか、彼自身が創設者の一人でもある経営学でさえ、ドラッカーにはなるべく言及しないようにしている。その最大の理由は彼の思想が経済学や経営学の思考の枠組みと相いれないサイバネティックスだからではないか、と私は考えている。

サイバネティックスとは、機械の制御手法の名称ではない。それは「原因/結果」あるいは「目的/行為」といった静的な二項対立思考枠組みから離脱し、それらのダイナミックな相互依存を考える、循環的枠組みへの移行のことである。それは「フィードバック」と「学習」という二つの層で語ることができる。フィードバックとは、主体が自分の行為の影響を観察し、次の行為に反映させることだ。学習とはフィードバックを執り行う自分自身のあり方を、自ら作り変えることである。機械にはフィードバックのみが可能であり、学習はできない。いわゆる学習する機会は、複雑なフィードバック機械に過ぎない。学習(あるいは進化)は、生命のみ成しうる業である。

 ドラッカー思想のもう一つの基盤は、その卓越したコミュニケーション理論にある。「無人の森で木が倒れたとき、音はするか」という公案である。たとえ音波が生じても、それを聴く人がいなければ、音はしないのである。この公案は、コミュニケーションは受け手が行う、という重要な含意を持つ。メッセージの発し手は「叫ぶ」だけであって、それだけではコミュニケーションは生じない。誰かがそれを受け止めて、心を動かすことが決定的条件である。コミュニケーションが生じるには、受け手が自らの経験に基づいて感情を変える、という学習の構えを開いておかねばならない。

ドラッカー経営学の根幹は次のようにまとめることができる。

  • 自分の行為の影響のすべてを注意深く観察せよ。
  • 人の伝えようとしていることを聞け。
  • 自分のあり方を改めよ。

これは個人に対しても、組織全体に対しても当てはまる。この三つの格率を実行すれば(簡単なことではないが)、個人は組織の要請に、組織は社会の養成に創造的に応え、生き延びることができる。

ドラッカーはマネジメントを、マーケティングとイノベーションから構成されている、とする。右の①と②とがマーケティングであり、③がイノベーションである。私見によれば①~③は、『論語』の倫理とも一致しているので、私はドラッカーを「現代の孔子」と呼んでいる。ついでに言えば「マネジメント(経営者)」は「現代の君子」たらねばならない。

 

マーケティングとイノベーションの秘密

マーケティングとは売り込むことではない。その逆である。Only Marketing and no sellingがマーケティングの理想である。マーケティングは「市場調査」でもあに。「市場」というものが企業の外部に確固として存在し、その状況を天気を眺めるように調査する、という発想がそもそも間違っている。企業の環境はコミュニケーションでできている。コミュニケーションの内容を知るには、コミュニケーションするしかない。それを通じて自分に求められていることを理解するのがマーケティングである。それには、自らの活動の影響の注意深い観察と、内外からの声に耳を澄ます誠実な態度以外にない。最も重要なマーケティングの資源は、トラブルである。トラブルとは組織が社会の要請にうまく対応できていない、ということを意味する。トラブルに正面から向き合うことが、イノベーションのカギを与えてくれる。それゆえトラブルを隠蔽する組織に将来はない。

イノベーションとは技術開発のことではない。そればかりか新結合のことですらない。自分のあり方を変えることがイノベーションの本質である。自分の売る商品を変えるなら商品開発であり、生産方法を変えるなら技術革新であり、売り方を変えるならビジネスモデルの開発になる。それらは、自己変革の諸側面にすぎない。マーケティングとイノベーションとを遂行し、組織が質的な成長を遂げることが、マネジメントの本質である。

企業を含め、組織の目的は、社会の要請に創造的に応えて価値を生み出すことである。利益はその条件に過ぎない。利益の出ない事業は続けられないが、何をすべきかを利益は教えてくれない。何をすべきかを考えるのが、トップマネジメントの最重要の仕事である。ドラッカーの挙げる例では、イギリスの最も成功した小売業者マークス&スペンサーの目的は「階級社会の打破」であった。彼らはこの目的を、良質な衣料を所得の低い階層に販売することで実現しようとした。このような崇高で明確な目的の設定が、個人の心を開いて学習を可能にし、組織関係者のコミュニケーションをも可能にするのである。もし企業が利益を「目的」と勘違いすると、何をやったらよいのかわからなくなり、人々は「利益を作る」ようになる。端的に言えばそれは他人から合法・非合法に盗むか、利益が上がっているフリをすることである。これがガンディーの言う七つの大罪の一つ「道徳なき商業」だ。逆に正しくマネジメントされたビジネスは道徳にかなっている。

同じことは非営利組織や政府にも言える。これらの組織も、何らかの形でキャッシュフローが維持されていなければ、事業を維持することができない。企業との違いは、キャッシュフローを支えるのが利益ではない、という点だけである。また、企業は主として受益者から貨幣を受け取るが、非営利組織や政府は、寄付者は納税者から貨幣を受け取って、受益者にサービスするという形になっている。しかしこれは本質的な違いではない。というのも、グーグルやテレビ局やプロ野球球団などといった企業は、スポンサーから貨幣を受け取って、サービスを無料で提供しているからである。

このように考えるなら、企業、NPO、大学、政府といった区分は便宜的なものにすぎないことがわかる。これらの区分けは各組織の作動を硬直化させて壁を作り出し、フィードバックと学習を停止させる作用がある。この硬直化を解除するために、社会起業家の飯島博氏は「組織の壁をとかして膜にする」というアプローチを提唱した。壁を取り払おうとすると事態を混乱させるだけなので、組織をまたいで運営される、夢のあるプロジェクトを媒介として、壁を膜にしようというのである。飯島氏の場合は霞ヶ浦の浄化を目指すアサザ・プロジェクトがそれである。筆者のグループもまた「生態文化回復」を目指すプロジェクトCRECを、中国黄土高原と関西とをつなぐ形で展開してきた。現在、NPO法人とCRECの設立と、企業の協力を開始している。このような組織を越えたプロジェクトの推進が21世紀のマネジメントの主流になると私は考えている。それは、ドラッカー流マネジメントの新たな発展である。