石橋湛山とピアソン

ishibashi
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孫崎享『戦後史の正体1945-2012』創元社、pp.63-68

 

日本は敗戦後、大変な経済困難にあります。このなかで、6年間で約5000億円、国家予算の2割から3割を米軍の経費にあてています。ちょっと信じられないような金額です。

この状況に日本人はどう対応したでしょうか。ここでもまた、ふたつのグループに分かれていたのです。

「占領下だから文句をいってもしょうがない。なまじっか正論をはいて米軍からにらまれたら大変だ」と思うグループがいます。もちろん吉田茂が中心です。

一方、「自分たちのほうが正論である。したがって、いうべきことはいう」というグループがいます。第一次吉田内閣に大蔵大臣として入閣し、のちに首相となる石橋湛山のグループです。石橋湛山は戦前も軍部に対してきびしい発言をしています。戦前、軍部にたてつくことは容易なことではありませんでした。しかし、戦前にそれができた人物は、占領下でもみな堂々と発言しています。

増田弘著『石橋湛山』(草思社)には、GHQが終戦処理費を増額したことに対して石橋大蔵大臣が憤慨し、マッカーサー側近のマッカートに書簡を送ったことが書かれています。

「貴司令部においては22年度〔1947年度〕終戦処理費〔米軍駐留経費〕を、さらに増額しようという議論がされていると伝え聞いている。インフレが危機的事態にたちいることは避けられない。そうした事態になれば私は大蔵大臣としての職務をまっとうすることはとうてい不可能である」

この文面がESS(GHQ経済科学局)側を刺激した。マッカートからこの事実を知らされた吉田首相は『えらい強いことをいってやったそうだが、あれは困るぞ』といって、湛山の態度に注意をうながした」

こうして抵抗した石橋湛山は、GHQによって1947年5月16日、公職追放されてしまいます。石橋の側近だった石田博英は次のように書いています。

「石橋蔵相が力を入れた問題に終戦処理費の削減がある。

当時は国民のなかに餓死者が出るという窮乏の時代にもかかわらず、進駐軍の請求のなかに、ゴルフ場、特別列車の運転、はては花や金魚の注文書まで含まれていた。総額は60億ドルになると記憶しているが、石橋蔵相はあらゆる手をつくして、それを削減した。

『私が終戦処理費の削減を強力に主張したので、それが司令部の憎むところになり、追放をうけたと風説するものがある、しかしそれは誤りだ』

石橋先生はこう否定しているが、〔私は〕この終戦処理費削減問題こそ、石橋追放の原因と信じている。(略)終戦処理費削減などの問題で、日本の立場を堂々と主張してGHQの反感をかったこと、そしてそのようにGHQに反抗する石橋蔵相に国民的人気が集まり、自由党内で重きをなすにいたったことにGHQが危惧を抱いた点にあると私は考えている」(『石橋政権・七十一日』行政問題研究所出版局)

石橋大蔵大臣を追放したときの首相は吉田茂です。吉田は石橋に対して「山犬にかまれたとでも思ってくれ」といったそうです。

また、「石橋先生の女婿で外交官の千葉皓氏がある席でケーディス民政局次長にあったところ、ケーディスが、あの当時、石橋があるシンボルになろうとしたので、われわれとしても思いきった措置に出ざるをえなかったとのべた」(同前)という証言もあります。

GHQ内の実力者として知られたケーディスは、石橋湛山が「占領軍に対し日本の立場を堂々と主張する人物」になることを懸念したのです。米国は、そうした人物が出現して国民的人気を集め、「自主路線のシンボル」になりそうな危険性を察知すると、「思いきった措置に出る」というわけです。重光葵に対してもそうでした。そして石橋湛山についても同じです。

このときの石橋の言葉が重要です。

「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかもしれないが、まあ、それを2、3年つづければ、GHQもいつかは反省するだろう」(同前)

この話は私に、カナダのピアソンという首相のエピソードを思いださせます。私は以前、カナダに赴任していましたが、カナダの外交史上、非常に有名な話として、1965年の4月3日、ジョンソン米国大統領がピアソン・カナダ首相のコートのえりをつかみ、もう片手を天に向けて振りあげ、約1時間にわたりつるしあげるという驚くべき事件が発生しています。

 

レスター・B・ピアソン
レスター・B・ピアソン

事件のあらましはこうでした。4月2日、ピアソン首相がベトナム戦争中の米国の大学で、北爆(北ベトナムへの空爆)反対を間接的に表明した演説を行います。それを知ったジョンソンは、すぐにピアソンに連絡し、翌日のキャンプ・デービッド(米大統領の別荘)での昼食にまねきます。しかし昼食中、ジョンソン大統領はピアソンに対しひとことも口をききません。たまりかねたピアソンが食後、「私の演説はどうでしたか」と聞くと、すぐにジョンソンはピアソンの腕をつかんでテラスにつれだし、それからえんえんと一時間にわたってつるしあげたのです。

北爆は、ベトナムが米国艦艇を攻撃したというウソの口実(「トンキン湾事件」)によって開始されました。それをピアソンは遠まわしにですが批判し、その結果つるしあげられたのです。

カナダではだれもが知っているエピソードです。しかし、ではこの屈辱をうけたピアソンは、その後カナダでどのようにあつかわれているのでしょうか。

情勢判断ができず、米国との関係を悪化させた首相として糾弾されているでしょうか。

大男のジョンソンに屈辱をあたえられた、みじめな首相として軽蔑されているでしょうか。

逆です。その後もカナダの首相および外務省は、

「たとえ弾圧をうけようとも、米国に物をいうべきときはいう」

という理念を、首相が何人代わっても受けついでいきました。その象徴として、今日、カナダ外務省の建物は「ピアソン・ビル」とよばれているのです。米国の隣国である意味日本よりもその圧力にさらされやすいカナダですが、こうした歴史に支えられ、2003年のイラク戦争では、最後まで参加を拒否しました。

でも残念ながら、日本ではそうはならないのです。むしろ逆です。重光葵のときと同じく、警告が出ると、われ先にと、その警告を自分たちの行動の指針にするのです。

「石橋追放の噂が強まったころ、私たち石橋先生に世話になった議員が集まり作戦を練ることになり、37、8名の同志が顔をみせた。しかし事態が急転し、追放が決定した。驚いてふたたび同志に召集をかけたところ、集まったのは自分を含め3人でしかなかった」(同前)