日本とドラッカー
日本とドラッカーとの関係には魂の絆と呼ぶにふさわしいものがある。
その表れとして、日本でのドラッカーの評価は世界でも稀に見る高さである。60年代あたりには、東京大学経済学部で経営学を教えていた岡本康雄らが、ドラッカーを本格的な研究対象としており、一時期は学界での討究姿勢は高かった。神戸大学の藻利先生なども、大変熱心に研究していた。
だが、ほぼ同時に、彼の所説は日本の経営者の間に深く確実に浸透していった。研究から実践への移行は瞬時であって、戦後日本経済の興隆から高度経済成長期に至る経営者でドラッカーの影響をまったく受けていない者はいないはずである。特に『断絶の時代』(1969年)以降その傾向が顕著だが、それはほとんど一人の経営学説と言うよりも、時代の空気と一体化した何かとなっていた。
私に最初に彼の存在とその固有の価値を教えてくれたのは金森久雄先生である。金森先生は旧商工省出身の官僚で、高度成長期には下村治らと並ぶリーダー、あるいはプロタゴニストの一人だった。
金森先生ご自身はケインジアンだったが、経済に関する論者の持つ固有の価値を読み取る能力などは並大抵ではなかった。彼は反対派であるフリードマンの説も研究し高い評価を与えていたし、若い頃からマルクスへの憧憬も持ち続けていた。そのような一時代を作った金森先生にとってドラッカーが格別の意味を持つのはある意味当然だったように思う。
また、日本では金森先生をはじめ、ドラッカーの理解にひたむきな知性を傾けた知識人が多くいた。彼らのおかげで、現在の基盤が整えられたことを忘れるべきではないと思う。ドラッカー学会という成果は、戦後の知識人や実践家によるたゆまぬ努力の結果に過ぎないのだ。
そんなこともあって、ドラッカー学会をつくるという話が上田惇生さんとの間で持ち上がったとき、何よりそれを実効ある活動とするためには、ドラッカーを高く評価する人々を集め、中心的に活動してもらわなくとも、せめて温かく見守ってもらうことが必要だった。
同時に、クレアモント行きも着々と用意を進めていた。しばしばドラッカースクール卒業生のヤギサワさんとも連絡を取り、同スクールでリーダーシップ論などを教える著名なリップマンブルーメン教授と会う算段などもしていただいた。むろんドラッカー本人との面談のための努力も引き続き行っていた。
上田さんとは週に一度ものつくり大学で顔を合わせていた。その間、高い頻度で上田さんはドラッカーとFAXのやりとりを繰り返していた。ちょうどその頃は彼の技術論をまとめた書物(『テクノロジストの条件』)が準備されていた。
ドラッカーに会いに行く
その間、ダイヤモンド社国際経営研究所の藤島秀記さんは、ドラッカー本人と何通かの手紙のやりとりをしていた。というのも、学会を設立するならば、まずもってその事実を通告し、応援を要請するべき存在がドラッカー本人であるのは間違いない。
ドラッカー学会なる研究グループが日本で発足すると聞き彼はどう思ったのだろうか。自らの名が冠される学会というものの誕生を彼が具体的にいかなる感情をもって受け止めたかについてはよくわからない。だが、彼が自らの思想を拡張発展させるよい契機となるものと考えていたことは間違いないだろう。
ドラッカー自身は自ら学派を形成もせず、弟子もいっさい持たなかった。アカデミアの世界で彼は実力相応の名声を獲得できなかったし、自らもあまり関心は持たなかった。学会からすれば、彼はつねに異端とはいわずとも隠者だった。ドラッカー自身学界から評価されたいという希望を持っていなかったようだ。
だが、後になってドリス夫人などに聞いてみると、彼は自らのマネジメント体系が一つの「社会思想」として発展していくことを望んでいたという。彼はマネジメントを経営学の一領域とさえ考えてはいなかったとさえ言われる。むしろ社会に関する総合的な教養科目、いわゆるリベラルアーツと捉えられていた。
そんなこともあってか、あるいは別の理由があってか、藤島さんからドラッカーに提示された会の英文名には、academic societyといった語はなかった。いくつかの候補があったけれども、ドラッカー自身の答えは「私は名前は何でもいいと思う。よいと思うものを名前にしてくれればいい」というものだった。
結局最もシンプルなものとして、workshopが選ばれた。Drucker Workshop。私は今もこの英文名が気に入っている。workshopの原義は、作業場とか工作場である。テクノロジストに最大の期待を置き、文明の創造者としたドラッカーにふさわしい名と思う。まさしく「新文明の工房」、なかなかおしゃれではないか。
考えてみれば、彼はものつくり大学にInstitute of Technologistsの英文名を与えた。そして私たちは彼の名を関する学会に、Drucker Workshopの名を与えた。お互い底流には似たものがあったのかもしれない。
今なお、Drucker Workshopの名は、世界各国のドラッカー関連団体として、日本に在籍するものとして正式に認知されている。すでにアメリカ、カナダ、ブラジル、中国、韓国、インド、ドイツ等にドラッカー学会に相当する団体が存在する。だが、そのなかでWorkshopの名を使用するのは日本だけである。私はそのことに奥深い部分での喜びを常々感じ続けている。
危ぶまれる健康状態
ドラッカーは1909年の生まれだから、2005年を迎えた時点で95歳だったことになる。ずっとさしたる病気もなく健康そのもので来ていたが、4月に入って若干の変調が見られるようになった。
まず、テクノロジーに関する編集版の書物が日本版限定で準備されていたにもかかわらず、編訳者の上田さんへのFAXの返事が大幅に遅れるようになり、やがてほとんど来なくなっていた。
上田さんからは新著に関する問い合わせや依頼が再三なされていたようだが、いつものような迅速な反応はなくなっていた。そもそもドラッカーという人は欧州生まれながら、きわめて義理堅い人だった。古い人間によくあるように、長く続いた信頼関係を尊重し、手紙に対する返事は常に速かった。
約束は必ず守ったし、守れない約束というものは一切しなかった。彼自身はよく半ば冗談で、「自分は明治の人間だ」と言っていたという。言葉が重かった時代だ。そして礼儀というものが社会の中心を占めていた時代--。彼の美意識はまさしくそれだった。
そんな彼から返事が来ないということは、それだけで不穏な何か、あるいは何らかの変事を意味していると言ってよかった。そんななか、思い出したように4月25日に上田さん宛に短いFAXがあった。それは原稿の一部だったようだが、まず生存が確認されただけで安堵だった。しかし、不完全なものだったという。
27日の夕方、授業の後に、上田さんをものつくり大学の研究室に訪ねた。最近彼に会った人の話では、かなり心身に衰えが見られ、少し痴呆の徴候もあると知らされたという。そんな話をしながら、吹上駅に向かう途中、西日の射す元荒川のほとりを歩いたのを昨日のことのように思い出す。そこは上田さんが、integrityに「真摯さ」の訳語を思いついた道だった。今では「真摯さの道」と一部では呼ばれている。
すでに5月に入ってから私のクレアモント行きは決まっていた。その最大の目的とはドラッカーとの面会だった。私はドラッカー経営学を研究する者として、一度は彼に会っておかなければならなかった。ずっとそんな焦りを抱えてきた。
だが、彼がそんな状態なら私に限らず誰にとってもドラッカーとの面会など不可能であって、人としてそんな無体な要求などできるものではない。私はその時点で彼との面談をあきらめざるをえなかった。
その間、上田さんは親切にもドラッカー宛に、同僚で友人の研究仲間があなたを訪ねたいと言っているという紹介状を数日前に出してくれていた。むろん返事を得ることはできなかった。
HPを立ち上げる
ドラッカーの健康状態については不安が絶えなかったものの、他方で学会設立の手を休めるわけにはいかなかった。ある意味で、2005年4月時点で、それは不可逆のものとなっていた。あるいは、見方を変えれば、それはドラッカーという知的巨人の終わりと始まりに関する一つの暗示だったのかもしれない。今になってそんな気がしている。
上田さんから電話をもらった。いい連絡だった。ナム・サンジンさんという日本在住の韓国人の方から学会設立に合流したいという連絡があったということだった。
日本からのドラッカーへのアプローチは幾通りかあった。その流れは大きく言って三つある。一つは出版物を通しての接点であり、それはほぼ上田さんもしくはダイヤモンド社を通じてなされた。もう一つは、産能大学の小林薫先生を通したものだった。小林先生は経営のみならず語学の達人として知られる天才肌の方で、やはりドラッカーとは長い友人だった。さらにもう一つはクレアモントの留学生グループである。
ナムさんは20年ほど前に日本に留学し、以来日本と韓国のほぼ半々で自らビジネスを展開していた。産業能率大学を経て、北陸先端技術大学院大学で修士を取得されていた。学問的には小林薫先生の弟子に当たる方だった。
小林先生はそれまで年に一度、学生や友人と共にクレアモントを訪問し、ドラッカーに会うのを恒例としていた。 そんなふうに構えることなくドラッカーに会える数少ない人が小林先生だった。
ナムさんの場合、小林先生とともにクレアモントに行き、数回ドラッカーにも会っていた。ただ、2005年は小林先生が体調を崩したこともあり、訪問は取りやめになっていた。そのグループにはドラッカー家ときわめて親しい関係にある日本人の方もおり、そこから学会設立の話を聞いたとのことだった。 クレアモント・グループの人とは私も面識があった。
大宮にて
ナムさんと最初に会ったのは、2005年の4月27日、大宮のパレスホテルだった。上田さん、ナムさん、私の三人で簡単な意見交換が行われた。少し蒸し暑い曇った日だった。
この件に限らず、ものごとをはじめる際、上田さんがたいてい何度もしつこいくらいに念を押す原則がある。「小さく、ささやかに、シンプルに」スタートせよということである。シンプルというのは耳障りのいい言葉である。だが、それは簡単というのとは違う。むしろシンプルであることはとても難しいことである。
その時点で、上田さんの頭の中では、まだ何もはじまっていない状態にもかかわらず、「大成功ゆえの失敗」が構想されていた。驚くべきことだった。今にしてみれば、そのときどんなイメージが上田さんの頭の中で結ばれていたのかはそれなりに想像がつくものの、やはり企業家的なマインドというのはある種天性のものなのかもしれない。
というのも、大成功ゆえの失敗というのが、現実世界に存在する失敗の中で最も多く、しかも消えない禍根を残すものになるという。端的に言えば、ベンチャー企業がそうである。あるベンチャー企業が新製品を市場に投入する。製品が大当たりをし、需要が急上昇する。生産は間に合わない。設備も人員も足りない。にもかかわらず、増強すべきもの、資金を要する案件ばかりが増大していく。そんなときには、誰も責任を持って現実を語れなくなっている。いつしか収支は黒字なのに、キャッシュフロー不足で倒産している。そんな状態である。
上田さんとナムさんの会話は、一つのベンチャーを立ち上げるのとまったく変わらぬ鋭敏な現実把握によるものだった。実際、会にあっという間に人が集まり、活動が盛況となるとする。だが、会のほうに運営能力もなければ、責任者もいない。会費ばかりがたまっていくのみで、実質的な活動は何もない。そうすると、結局のところ運営そのものが立ち行かず、活動そのものが未来に禍根を残すこととなる。やらないほうがましだったということになってしまう。
小さくはじめるとは、その意味で究極の知恵の一つである。いつでもやめてしまえるというのは組織運営の基本である。何よりも企業組織が持つ他の組織にない最大の美点とは、「倒産できる」の一点にしかありえない。やめてしまえることほど安心できることはない。やめてしまえば、少なくともそれ以上社会に害をなすことはない。だからこそ、非営利組織等いかなる組織運営も企業を模範にすべきなのである。
ナムさんの話では、ウェブの立ち上げそのものはさほど時間はかからないということだった。ならば、ドラッカー学会はウェブ上の学会と言うことにしてしまえば、まずは無難である。会費もさしあたり必要ないし、リアルでの具体的な活動はまだ存在しないことにしておく。
その日の会談の最大の成果は、基本思想の確認にあった。一つは決して広げ過ぎず、身の丈を超えることはしないこと。そして、小さく、ささやかに、シンプルにを信条とすること。また、ウェブを活動の基本とすること、であった。
5月5日
それから約一週間後、私は一人でアメリカに出発した。むろん目的は一つしかない。ドラッカーに会うことだ。確率は低いとはいえ、それをあきらめるべきではなかったのだ。私にとってそれ以上に太平洋を横断するだけの価値ある理由は存在しなかった。
出国の直前、上田さんに電話すると、ドラッカーから新著のはしがきが送られて来たと聞いた。まずは生きていることに安心した。9時間近くのフライトを経て、窓の下にはロスの街が見えてくる。確かに人や生活の営みが伝わってくる。脈打つように、運動場や建物の蔭が濃くなっていく。
空港前のシャトルが到着した。乗り込むと、すでに旅の道連れが三人で話し込んでいた。車はフリーウェイに入り、ぐんぐんスピードを上げる。時折、紫色の鮮やかな花が目に止まる。桜に似ているが色が違う。隣を走るトラックや車の横顔が目に入る。日本よりもすべてが大胆で、快活な印象を受けた。
数人の先客がいる。ひっきりなしに話している。一人のオーストラリアの中年女性、台湾の若者、インドからきた老人だった。台湾の人は賢そうで、歯科関係の仕事をしているらしかった。中年女性は娘に会いに、このあたりにきたらしい。インド人はブエノスアイレスはじめ世界中に居住経験を持つ旅の達人だった。
私はただぼんやりと外を眺めていた。しばらくして、女性が「あなた、どこからきたの」といきなり水を向けてきたので、「日本です」と慇懃に答えた。彼らは私を学生だと思っているようだった。ちなみに運転手はパキスタン人で、寡黙な人だった。やがて台湾人は途中の中国系商店モールに姿を消していった。しばらくして車はハイウェイを降り、クレアモントの街に入っていった。
クレアモント――。
これがドラッカーの住む町かと思った。空は青くすっきりと突き抜けていた。市街を通り抜けて、駅を横目に車は進んでいく。しばらくしてクレアモント・インという看板のある建物に到着した。実にスムーズでほとんど無駄な時間はなかった。
着いたのは11時半、チェックインをして、部屋に入る。テレビをつけると、裁判番組がやっている。英語が流れていると頭が疲れるので消した。異国の空気にただ包まれていた。その空気がじんわりと肌を刺すように痛かった。
カリフォルニアの空
ヤギサワさんは奥さんと友人の三人で数日前にカリフォルニアに来ていて、その日は砂漠方面を観光していたという。東京ではこれ以上ないほど真面目なビジネスマン風の八木澤さんが、ラフな格好で車から颯爽と降りる姿が眩しかった。まるで一枚のロックCDのジャケット写真のようだ。
フロントでチェックインした後、ヤギサワさんは海の家でするように、砂漠でサンダルに入り込んだ砂をホースの水を使って丁寧に落としていた。
飛行機の中ではほとんど眠れなかったものの、ヤギサワさんに会う前数時間睡眠がとれたおかげで少し楽になっていた。それにしても、会ってまだ3か月も経っていないのに、異国で行動をともにするのがとても不思議に思えた。
その後、ホテルから車に乗せてもらい、5分くらいのところにあるクレアモント大学院大学ピーター・ドラッカー&伊藤雅俊スクールに連れて行ってもらった。すでにクレアモントの町全体が夕闇のなかに浮かんでいた。「暮れなずむ」という日本語の表現はきっとこんな情景を指すのだろう。時折、思い出したように眠気に襲われた。夢の中にいるように、身体の動きが緩慢になった。
ドラッカー・スクールは敷地面積自体はさほどでもないが、かなり高度なセンスをもって設計された美しい建物だった。ガラスが多用されており、表からの自然光が取り入れられるようになっている。ヤギサワさんはそのなかを何の衒いもなく歩いていく。
それからの数日間は当地でのヤギサワさんのスーパーマンぶりをいかんなく見せつけられることになった。まず、彼は恐ろしいまでの英語の達人だった。というよりも意思疎通の達人といったほうがよいかもしれない。非言語的な伝達方法も実に多彩で豊かだった。例えば、道行く人がヤギサワさんを見かけると満面の笑みで話しかけ、ひとしきり思い出話と近況の花が咲くのだった。
隣にいた女性の事務員が、私に教えてくれた。「ヤギサワさんはこの学校のスターだったんですよ」。ともに聡明で誠実であることは変わらない。しかし、エネルギーの現れ方が日本にいるときと違っている。それがとても興味深いものに思えた。
そのときに、ふと思った。ヤギサワさんはこの土地で、はからずも、ある意味本当の自分、あるいは失われたと思っていたもう一人の自分に出会ったのかもしれない。彼はきっともう一人の自分に会いに半年に一度かつての留学先にやってくるのではないだろうかと。
そんなもう一つ心の故郷を持つヤギサワさんが羨ましく思えてきた。
ジョー・マチャレロ
その日、ヤギサワさんが紹介してくれたのがマチャレロ教授だった。マチャレロの名は恐らくイタリア系である。やや浅黒くて大柄だった。
マチャレロによって編集されたドラッカーの本はすでにいくつか日本でも発刊されている。特に専門家の間では、評判はさほどでもなかった。仕事そのものに緻密性がなく、しかも全体を貫く美的感性のようなものが欠如したものに見られている。
だが、編集や研究の腕はともかく、彼が好人物であることは会ってみて認めざるをえなかった。おおらかで、磊落で人をそらさないところがあった。
彼は日本でのドラッカーによる著作の普及状況などもきちんと知っていた。彼自身はある面でドラッカーがかわいがる年若き同僚の一人だった。年が若いとはいっても、ドラッカーと比較すればの話で、年齢は60後半だろう。数年前には大病をして、文字通り死線をさまよったと聞いたが、私があった時はそんなふうに感じさせるものなど何もないほどに元気そうだった。
マチャレロの研究室は思いのほかこぢんまりしていた。日本の学者の通常の研究室の半分くらいか。私の知る研究室のイメージは、奥の窓側に机があって、その手前に長いテーブルがあり、周囲は天井までいっぱいの本によって埋め尽くされている。だが、違っていた。がらんとしており、あまり本もなかった。ただ机があってデスクトップのPC、電話が乗っている、それだけのものだった。
ヤギサワさんを中心に少し話をした後、「せっかくだからアーカイブに行こうか」と彼は言う。ドラッカー・アーカイブである。それは学校の一部、実に広々とした研究室だった。一応ドラッカー関連の資料をすべて収集することを目的として設置されたものという。是非見ておきたい場所だった。
というのも、ドラッカーの執筆活動は1920年代から80年近くに及んでいる。その間書かれたものは、恐らく当の本人さえ完全に把握しきれる数ではなかったはずだ。それらがすべてとはいわないまでも収集されているのだろうと思った。だとすれば、ドラッカー思想を体系化していく上で、それはなくてはならない知的要衝の役割を果たすことになる。
だが、実際にアーカイブを見せてもらうと、想像したのとはだいぶ違うものだった。研究室とは名ばかりで、全体にやはりがらんとしており、アーカイブというにはあまりに貧弱だった。講義ビデオが10本くらい、それから翻訳も含むドラッカーの本が並んでいるだけだった。まだ、充実の余地ははかりしれずあるという印象だった。
とはいえ、よく空気と光の通る快適な空間であるのは間違いなかった。すでに、大学は休み前ということもあって、人影もない。キャンパス全体がしんとしている。
ドラッカー自身は高齢もあって講義はしばらく前から行っていないものの、大学に来る時は必ずここに立ち寄るということだった。恐らく、据えつけてある椅子のどこかに彼は座って、若い教員と談笑したに違いない。マチャレロはこともなげに言った。「昨日も来ていたよ」。具合が悪いと聞いていたので、意外だった。FAXを打っても返事がなかったと私がいうと、「それはいけない。FAXは中世の道具だ。それでは無理というものだ」。
奇跡の電話
研究室に戻り、おもむろにマチャレロ教授は電話をかけ始めた。まさかと思った。やはりドラッカー邸にかけていた。「娘さんが出たよ」と彼はいった。そのとき電話に出たのはドラッカーの次女キャサリンさんだった。
「今、日本から人が来ていてドラッカー教授に会いたいといっている。今本人に代わる」と話している。外国語のはずの英語が一つひとつ脳に突き刺さるようだった。
それよりも、ドラッカーの娘と電話で話す? とても話しきれる自信はなかった。対面でもしばしば文脈をはずすのに、電話でなど不可能だ。しかし受話器はもうすぐ目の前にある。選択の余地なく、観念しつつマチャレロから受話器を受け取った。
その刹那頭をめぐったのは、上田さんとの関係をいえばわかってもらえるのではということだった。特に「上田」とは魔法に近い効果を持つ名前のはずだった。一介のドラッカー・ファンとは違うことを印象づけられるに違いなかった。
それに、上田さんによるドラッカーに関する八回のインタビューは、すべて英訳されてドラッカーに送られていた。彼はそのインタビュー記事を驚くほど高く評価してくれて、「私の思想を理解するのに、このインタビュー記事にまさるものは存在しない」とまで言ってくれたのだ。伝説のインタビューだった。
以下が、キャサリンさんとの電話の模様である。
私「お忙しいところすみません。数日前にあなたのお父様にFAXをさせていただきました。ご覧いただけましたか?」
キャサリン「ごめんなさいね。よくわかりませんが、何が書かれていましたか?」
私「日本の訳者の上田さんがドラッカー教授の体調がよくないのではと大変心配しています」
キャサリン「ええ、父は高齢で95になりますからね」
私「そのFAXではあなたのお父様が今度出される本についてインタビューを申し込んでいるのです。その際、かつて上田さんから、私が彼にしたインタビュー記事をドラッカー教授が大変喜んでいると聞きました。この件で教授は私の名前を覚えていて下さっているものと思います」
キャサリン「そうですか。ちょっと聞いてみますね。このまま切らずにお待ち下さい」
その間、「保留」にしていなかったので聞こえたやりとり(おとうさーん、イサカさんから電話。イサカさん。上田さんのご関係の。知っている? 知ってるのね。はいはい)
キャサリン「わかりました。父は存じ上げているとのことです。是非お目にかかれればと申しております。時間のご都合はいかがですか」
私「はい、明日の午後早い時間はいかがでしょう」
(ヤギサワさん「明日の早い時間はだめですよ。先約があります」)
キャサリン「明日の午後は会合が入っています。明後日の11時はいかがでしょうか」
私「7日の11時ですね。大丈夫です。その時間に伺います」
キャサリン「わかりました。確認してきますので、切らずにお待ち下さい」
(ドラッカーと話している様子)
キャサリン「大丈夫です。では7日の11時にお待ちしています」
私「どうもありがとうございます。感謝します」
とにもかくにも無我夢中の時間だった。気づくと、ドラッカーとの面会のアポが取れた。信じられない気持ちだった。マチャレロ教授に心からお礼を言った。
ブルースの夜
その後受話器をマチャレロに戻した。少し世間話をして彼は受話器を置いた。研究室の窓から微かな残り日が差し込んでいた。もうじきカリフォルニアの真っ黒な夜がやってくる。
マチャレロ教授と別れて、いったんクレアモント・インに戻る。少し休憩してから再びヤギサワさんの車でドラッカー・スクールまで出る。元気のいい白人女性が乗り込んできた。マシンガンのように四六時中喋り続けていた。もうじき博士になる方らしい。
ミックス・ボウルというタイ料理屋につれていってもらい、食事をした。その間もこの女性はずっと喋りっぱなしだった。剽軽ながら、聡明でかつ繊細な方なのはなんとなくわかった。「あなた、どこで英語を勉強したの」と聞かれたので、「ボブ・ディランの音楽から習ったんです。アメリカ人はみんな彼みたいに話すのかと思っていた」と冗談でいうと、ボブ・ディランの口振りを剽軽に真似している。
「何か使える表現を一つ教えてくれませんか」というと、「I got your back!」というのを教えてくれた。「あなたの背中を見つけた」つまり、「お前、見つけたぜ!」というややワイルドな語感の表現という。古い日本語で言えば、「ここで会ったが百年目」というところか。いつまでもその具体的用法を豊かな表現力で再現してくれていた。
とはいえ、しばし強烈な眠気が容赦なく襲ってくる。同時に、明後日ドラッカーに会えるのはこのうえない幸運としても、何の準備もなしに行くことなどできない。明日には時間を見つけて質問事項を煮詰めておく必要がある。いろいろな思いや考えが後から後から出てきて、いっこうにまとまらない。
表はいつしか激しい雨が降っている。店を出てから、彼女を寄宿舎まで送った。私はホテルには当然歯ブラシがあると勝手に思いこんでいたので、持ってきていなかった。それを言うと、部屋まで行って使っていないものをとってきてくれた。心優しい人なのだなと思った。
時間は現地時間で21時を回っていたと思う。ヤギサワさん夫妻と友人についてブルースのライブハウスに行った。クレアモントの隣町でやや治安が悪いところだった。後で聞いた話では、クレアモントは高級住宅街で平均年収10万ドル前後というが、ちょっと脇に外れるだけで急に治安が悪くなり、平均年収は3万ドル前後にまで下がるのだという。
さっそく通りを挟んで警察が巨漢の黒人に手錠をかけてパトカーに押し込んでいるのを目にした。ライブハウスはすでに10人くらいの客がいた。入り口で切符を売っていた人から「背中に気を付けろ(Be careful of your back)」と注意された。「背中」と縁のある夜だった。
すでに黒人バンドによるブルース演奏が間断なく続いていた。演奏者はプロとアマが混ざっているのだという。ブルースの醍醐味はまさにこの雑さにある。チューニングがちょっとやそっと狂っていても気にしない。
マディ・ウォータースなどの一連の名曲が演奏された。途中で演奏が終わり、ずっとボーカルをしていた若者が言う。「今日は地球の裏側からお客さんです。腕利きのドラマーを紹介します」と言った。その人が誰あろう、ヤギサワさんだった。ヤギサワさんはおもむろにステージに上り、スティックを受け取る。さっきまで巨漢の黒人が座っていた場所に陣取る。実際よりもとても大きく見えた。
それなのに、ヤギサワさんのドラムはとても繊細なものに聞こえた。銀座の街に降る雨のように、柔らかく、悲しげだった。それでいて独特の存在感があった。そこにパワフルなギターとボーカルがからんでくると、まったく想像も付かない絶妙なブルースになる。ブルースに国境はない。喜びや悲しみに国境がないように。
10曲くらい、素敵な演奏だった。ホテルに帰ってきたのは軽く24時を回っていた。たぶん30時間近く起きていることになる。上田さんの携帯に電話して、ドラッカーとの面会が可能になったことを伝えると、心から喜んでくれた。
ハル・レヴィット教授
翌日、ヤギサワさんに隣町のパサデナという住宅街に車で連れて行っていただいた。前日からの雨は上がってきれいな晴れ間が見えていた。パサデナはカリフォルニアでも有名な高級住宅街という。「閑静な住宅街」とは言葉ではよく聞くけれども、こういうところを言うのだ。
車の中で、ヤギサワさんがドラッカーの授業を受けたときの様子を話してくれた。ドラッカーはゆったりと椅子に腰掛け、学生から質問を受けることからはじめる。ただじっと耳を傾ける。本当に聞いているのかと思うくらい、彫像のように微動だにしない。数秒して、唇が動く。「Let me see」、それはちょうど日本人が英語を発音するように、レット、ミー、シーと聞こえる。
名門フィルの音合わせのように、この3つの音符が発声された時、彼の頭にはすべての交響楽のイメージが出来上がっている。ヤギサワさんはこの少々諧謔あるレット、ミー、シーをおもしろそうに真似していた(そしてその口真似がいかに本物そっくりであるかを、私はすぐ後に確認することになった)。
ハイウェイを下りると、定規で測ったように正確な区画のエリアに入る。そこには大きくて白い清潔感ある住宅がたくさん並んでいる。巨大なリスが通りを横切り、品のいい子供たちが勢いよく走っていく。緑が目に痛いほどだった。そのなかリップマンブルーメン教授の邸宅は佇んでいた。
出迎えてくれたのは、リップマンブルーメン教授とハル・レヴィット教授だった。二人は夫婦である。夫のレヴィットはスタンフォードの教授で、専門は心理学である。その筋ではよく知られた学者で、邦訳された著書もある。本当に絵に描いたような素敵な夫妻だった。ともに年齢は70は超えているはずながら、そこにはいささかの老いをも感じさせるものはなかった。あたかも少年と少女のようだった。
オフィスも兼ねた二階の居間で用談に入った。私は英語を話していると自分でも何を話しているのかわからなくなることがきわめてしょっちゅうある。長文の場合はなおさらである。ご多分にもれずそのときもこのようになった。どぎまぎしていたら、レヴィット教授が「大丈夫。よくわかります」と言ってくれた。何ともいえない奥深い優しさを感じた。魂の言語を話されたような気がした。癒す言語だった。ふるえる魂の言語だった。本当の優しさ、美しい魂を感じさせるものだった。たぶん一生でこのような人に会える確率はさほど高くはない気がした。
日本に帰ってから少しして、レヴィット教授が重い病に伏したと聞いた。そして、ご自宅で亡くなったと聞いたのは3年後だった。私はレヴィット教授とは一度しか会わなかったが、彼が私に与えた印象はあまりにも深く、そして鋭かった。私は心からレヴィット教授を追悼した。
何とか用談が済んだ後、一息ついた。その後、自然な流れを崩さず、リップマンブルーメン教授は、おもむろに数千人のユダヤ人を救った日本人の話をはじめた。リップマンブルーメン教授も、レヴィット教授も、その両親の世代はナチスの欧州から逃れてきたユダヤ系の移民だった。ちょうど前日、戦時中にユダヤ人を守った英雄的な日本人の存在を知ったのだと言う。ラトヴィア駐在の日本人外交官の記録だと二人は言っていた。心の震えが止まらなかったと話していた。あの地獄の欧州に人間が存在した誇るべき事例の一つだと強調した。話しながら、リップマンブルーメン教授の頬に一筋の涙がつたうのを私は確かに見た。
私はその方は正確に言うとリトアニアの外交官で杉原千畝という人だと話した。まさかこんなところで杉原千畝の話が出るとは思わなかった。きっと何らかの生々しい記憶に結びついているのだろうことを想像し、彼女の脳裏に浮かぶ映像を恐れつつ、私の知る限りのことをたどたどしい英語で話した。杉原のことを私が知ったのは、だいぶ昔のことだった。以来、興味を持って折に触れて調べてはいた。そんな雑な知識がこんなところで生きたのを不思議に思った。
格闘
レヴィットご夫妻との面談後、ヤギサワさんにクレアモント大学院まで連れていっていただき、彼の友人の職員や教員、学生と学食でランチをともにした。表は雲行きがあやしい。陰惨な雲が青い葬列のようにざわざわと流れている。
ヤギサワさんは女性の先生に、一生懸命日本人の遇し方を教えていた。「留学から帰って、『日本人』に戻るのが何よりも大変でした」とヤギサワさんは笑っていた。
私の左には品のよい女性がいた。専門は教育学だそうだ。知的で優美だった。私のたどたしい英語をきちんと聞いてくれた。ふと見ると日本人とおぼしき二人の女子学生が窓際で食事をしていた。
その後解散し、私は考えごとをしながらヤギサワさんたちの後を付いていっているつもりで、いつしか見失った。キャンパスはとても広くて、それでもきちんと整理されていた。雨が降り始めていた。前日なみの豪雨だった。聞き違いでなければ、さっきの女性はカリフォルニアでこの季節にこれだけの雨が降るのは19世紀末以来といっていた。ふだんはもっと乾燥して晴れている気候なのだ。
一人でホテルに戻り、ずっとドラッカーへの問いを考え続けた。気づくと天井から水が落ちている。雨漏りなどという生やさしいものではない。わりに多く水を含んだぞうきんを絞ったような水である。重たい水滴が分厚い絨毯に落ち、バスドラムの連打のような音を立てている。見ると、天井の一部が真っ黒になっている。内側に陥没している。やれやれと思う。
だが、そんなことにかまうわけにはいかない。夢中になってドラッカーとの筆談の準備を書き留める。このときほど書かなければ思考をまとめられない自分自身の性質を思い知らされた。書き出さなければ自分が何を考えているのかさえわからず、途方に暮れる。質問を一つひとつスケッチし、具体的なものにしていく。自分は何を聞きたいのか、それについてどう思うのか、枝葉を付けていく。
思えばその晩から朝にかけて何も食べていなかった。それどころではなかった。時間などいくらあっても足りなかった。そのときの私はきっと食べるという行為が永遠にこの地上からなくなってしまっても気にしなかっただろう。ドラッカーに会えるというだけで胸がいっぱいになってしまっていた。あらゆる心身の機能が非常事態を告げていた。
ただ書いては考える。考えては書く。頭に浮かぶとりとめのないものごとを虫取り網でつかまえて、一気に白い石に封じ込めるように、質問事項を書きとめていく。
結局完成したのは翌朝、ぎりぎりの時間だった。
ドラッカーはそこにいた
気づくとたちの悪い冗談だったかのように雨は上がり、乾いた青空が広がっていた。もういい時間だった。作成した質問はとても完全とは言い難かった。まだまだ手を入れる余地はあった。だがベストを尽くしたという満足感だけはあった。
大慌てで荷物をまとめ、フロントでチェックアウトを済ませる。すでにヤギサワさんはフロントのソファで待っている。この人は分刻みかつ大量のスケジュールをこなしながら、決して寝坊もしないばかりか疲れた顔一つ見せることがない。翌日はボストンに出張に行くことになっているという。本当に超人だった。
ヤギサワさんの車に乗せてもらい、ドラッカー邸に急ぐ。すでに約束の時間の五分前だった。宿からさして離れていないところにドラッカーの家はあった。話では聞いていたが、本当に質素な平屋だった。面積も大したことはない。たぶん一〇〇坪強がせいぜいというところだろう。
私の印象では山荘に似ている。コンパクトで機能的である。華美なところがないのは、自らのありように心から納得し満足しているからのように見える。ようやくにしてここまでたどり着いたと思った。ヤギサワさんはカーラジオを消して、手慣れた感じで表に出る。そして、呼び鈴を押す。
扉を開けてくれたのは、中年の女性だった。セシリーさんというドラッカーの娘である。比較的近くに住んでいると聞いた。にこやかで、活発そうな女性だった。奥さんのドリスさんは不在の様子だった。握手してご挨拶をした。彼女の背後には、食卓と思われるテーブルが鈍く光っており、さらにその後ろには少し広めのバルコニーがある。その大きな窓からは小さなプールが見えており、陽光が差し込み、白く反射している。室内は水墨画のように、黒と白が、絶妙に混ざり合っていた。ところどころ日本的な趣味の置物も目に付いた。
私の視界の中心に、赤いカーディガンをまとい、籐の椅子に腰掛けている長身の老人の像がいやおうなしに浮かび上がっている。思わず胸が高鳴る。深い畏敬と恐怖、そして歓喜の中間くらいに位置する感情に思えた。老人は何も言わず、ただ全身を椅子に預けている。来客を認識しているのかどうかも傍目からは窺い知れない。
セシリーさんは、これからスポーツジムに出かけなければならないとのことで、後事をヤギサワさんに託した。「父は疲れやすいですのであまり話が長くならないようにしてくださいね。話が終わったら台所の冷蔵庫にジュースとクラッカーが入っているので、父にあげて下さい」といった。なんだかこの大思想家を猫のように扱うのがおもしろかった。
セシリーさんは急に私に向き直り、韓国語版の翻訳出版に関わっているアレックスという人物を知っているかと尋ねた。私が知らないというと、それ以上は何も聞かずそのまま表に出ていった。急いでいたようだ。そして、白と黒の空間には私たち二人とドラッカーだけが残された。
インタビュー
私はドラッカーに歩み寄り、握手をした。彼は丁寧に歓待してくれた。その手は長くて大きかった。さらさらと乾いた感触だった。少し冷たく感じられた。「話が聞こえるように、私のすぐ隣に来て下さい」と彼はいった。私たちは奥のソファに腰掛けた。
窓からプールが見えた。しばらく使われた形跡はなかった。裏手には本棚があった。日本人形が飾られていた。ドラッカーは私を「センセイ」と呼んだ。上田さんの同僚ということを知ってくれていた。最初に、上田さんから預かった原稿を渡すと喜んでいた。やはり上田さんの知人というだけで相当程度私を信頼に足る人物と判断してくれていたのだと思う。以下原文のまま、彼の発声に忠実にそのときのやりとりを再現する。
Drucker: Thank you very much for… Thank you, thank you.
Isaka: First of all, would you please see this notebook?
Drucker: I do not expect any money, interview. Do not pay for interviews. OK.
Isaka: Thank you. Here is a final manuscript of your new book on technology. Professor Ueda left me to hand it to you in person.
Drucker: Thank you. That’s, for me?
Isaka: Sure.
Drucker: Thank you. In Japanese?
Isaka: No, those are all English, edited from you original books.
Drucker: English, thank you. OK. Now let us begin.
Isaka: Yes, please. Then, do you have anything to say on how the information technology is changing our world view in society as well as business world?
Drucker: Let me see, the real change is in attitude. People are suddenly and extremely conscious of information much more than ever been before.
Let me give you one example of change. Between six in the afternoon and midnight, we cannot telephone Japan and send a fax Japan, since every Japanese in this country, and in southern California who posses headquarters of the Japanese company or head office in the evening impossible in any channels.
And also, he is a friend of mine plans international company and he tells every morning four o’clock our time in the morning half an hour conference video, conference of all its major managers all over the world.
They can see each other, and talk each other by the way the Japanese company, what they speak English, because everybody knows English.
And asked them, he said in conference important agenda, nothing happens in it. But they use it keeps the group together. But you couldn’t see this twenty years ago.
And impact of stay ahead because so far, most of the information there is being produced is internal or the inside of the enterprise, information about the outside with that, so in still most cases by all the last chaotic, casual and accidental.
Very few institutions have organized or being to organize information the outside environment more gets very fuse and fill, hit the mist, in some ways especially of major Japanese institutions which have excellent to organize inside information.
But it has really organized information gets environment and technology. But the same is true very much of excellent western enterprises, it’s not just business.
The eighteen years old or twenty years old who in thinking in school usually has more information ever than occasional system of the people.
So there is enormous amount of data and so fourth very little information about where enormous amount of data about the inside of the enterprise in the street, not very much yet in the little organization about the outside.
That’s a great challenge. OK?
Isaka: Yes, thank you. The second question. How do you see the critical conditions of “Technologists” in knowledge society?
Drucker: Yes. Making technologists productive is I think the great challenge.
Let me see, the last ten years and the last hundred and twenty years, from 1880 to 1927, we learned to make manual worker productive. And we increased the productivity manual worker ever fifty times.
That is, that underlies tremendous economic development of the twentieth century. And we have to learn to make knowledge productive.
Actually, knowledge work has not become more productive since the invention of printed book. I lecture exactly the way.
I lecture the five hundred. Altogether I visualize but to answer difference he qualified five hundred. That is changing very fast. In power because the same lecture can read ten weeks nine to people. But also became they are beginning to use technology but it is very beginning.
And thirty years, differently. I don’t know how to ask, how I yet, I don’t think me “No.” by this only beginning. Last time that the transition of knowledge changed was printed book.
That was long time ago. The printed book made room difference, it is the greatest change in the workforce though West is not the machines in the nineteenth century. But a printed book before the printed book is the great majority of people read and write.
They were busy copying manuscript. All the works yet copied the manuscript but thousands of them. If can have printed book in 1444, sixty years later. In 1506, the first great publisher in Europe, Paris, Antwerp had first prints five thousand copies and could produce three thousands of copy of the book in one day.
And suddenly all these monks were unemployed. That was one of the main causes of the Protestant Reformation. The monks were lost their lives or come to be unemployed. OK?
Nothing later happens since. The introduction of the steam engine was very substantial change in the workforce. There is nothing better happened if you wonder these earlier OK?
Isaka: Thank you. Then, do you have anything to say how “Management” changes in a knowledge-based economy?
Drucker: I only know a few things. Firstly know there is a workforce changes. Impact of computer programs is so fast, quite limited except on industrial production.
As the import of tremendous because to a large extent, the skilled worker is being replaced to computer program. And so, the century in which trains skilled workers were the major political power was over.
At the same time, the skill has shifted from the ability to do the work manually for their hands to the ability to write the program. That is the way different skill from the traditional one. And most social and political theory still as that the manual working class is the center workforce, that is simply no longer as true.
They have lost not only as on going numbers as down numbers as in developed country. They are very rapidly losing influence. Now you have countries are heavily minimized as Germany or Japan.
In that sense, uniform to power or try to, but they are losing is fast parties because losing numbers but even so, because manual worker can be replaced and may be the majority by the program. OK?
But if you reach, if the cause the manual worker reach the point, that can replace the manual worker. OK?
Isaka: Thank you very much.
This is the final question. I hope that you tell us anything on which points should we concentrate our strengths. And how should we co-operate with such productive and innovative other Asian countries as China or South Korea?
Drucker: Look, I don’t give an advice to other people, other countries. The great strengths of Japan going back to Heian.
It takes what has been developed. First, in China than in the West, what Japan has created and done better was it first Chinese quite well. You see them very much in Japanese art.
And they did that again Meiji. And they did that after the Pacific War. And they did that again. Inspect information. And the Japanese has never set it Meiji before.
Big range in both ways, both for the West to the East, from the East to the West. And they are in the unique position of being both. A member of the Asia, a member of the West.
And they are all in both. And the way success in the business in the last thirty years is in China. Was the Japanese established themselves as the leader successfully on the Coast.
But now the Japanese face with India and China of tremendous opportunity for Japan and tremendous competitors. OK?
最大のインパクトは意識の変化
以下、やりとりの和訳(若干編集してある)。
――情報技術のような新技術が社会や経済に与える影響をどう見ているか。
ドラッカー:最大のインパクトは意識の変化だ。
産業革命において鉄道が距離を縮めたように、IT革命ではインターネット、特にeコマースが距離をなくす。
産業革命において鉄道が生んだ心理的な地理によって人は距離を征服した。eコマースが生んだ心理的な地理によって距離は消えた。もはや世界には、一つの経済一つの市場しかない。
eコマースの時代にあってはローカルな存在はありえない。もちろん、どこで生産しどこで販売し、いかに販売するかは重要である。しかし、まもなくそれらのことさえ意味がなくなる。まったく新しく、誰も予期できなかった変化である。
私の友人でグローバル企業のCEOがいる。アメリカの西海岸時間の朝四時から、毎朝世界中のマネジャーと30分程度のテレビ会議を開いている。国内の会社の社内で会議をするように、互いに顔を見ながら会議をしている。「会議では毎日どんな重要なことを決めているのか」と聞いたら、「いや、とくに毎日何かを決めているわけではない」という。「全体の一体性を保つためにやっているんだ」といっていた。
今から20年前にはそのようなことは行われていなかった。技術的にも行うことはできなかった。そのようなニーズとそのような技術のどちらが先に生まれたかは、私にもよくわからない。
――情報革命は組織にいかなる変革を促すのか。
ドラッカー:大事なのは意思の疎通という意味でのコミュニケーションだ。コミュニケーションが行われるには、情報と意味の二つが必要である。東京の連中、カリフォルニアの連中、北京の連中という風に、お互いの気心がわかっていなければならない。考え方を知っていることが情報をコミュニケーションに転換する触媒となる。
そして、そこで大きな役割を担うようになったのが、情報技術のハードであり、ソフトである。ここで理論と技術を身に付けたテクノロジストが情報化のインフラとして大きな役割を果たす。
産業革命もジェームズ・ワット(蒸気機関の発明者)だけではたいしたことはできなかったはずだ。産業革命が産業革命たりえたのは、イギリスに工具製作者というテクノロジストがすでに誕生していたためである。
情報についてはさらに大きな変化がやってくる。なぜなら、まだ今のところ、情報のほとんどは組織やグループの内部のことについてのものだからである。外部の世界についての情報は混乱してばらばらなままだ。企業を初め、役所や大学、病院その他のあらゆる組織にとって、成果は組織の内部にではなく、外部にある。その外部の世界についての情報が全然把握されていないのが実状だ。
外部の経営環境についての情報に正面から取り組んでいる組織はまだまだ少ない。ということは、情報革命の本番はこれからだということだ。
日本の企業にしても立派なインフォメーション・システムを持ってはいるものの、中身のほとんどは組織内部の情報だ。しかも、過去のことについての情報である。一番大事な市場や経営環境や技術変化についての情報は未整備のままである。しかし、欧米の企業も同じ状況にある。企業以外の組織も同じだ。
入試準備中の若者のほうが大学についての情報を集めている。実は組織内部の情報にしても、今手にしているのは情報ではなくデータに過ぎない。外部の情報をいかに手にするか、それをいかに使いこなすかという問題こそ、われわれに課された情報に関わる最大の課題であり、挑戦である。
技術が教育を通じて文明を変える
――今、「テクノロジスト」という言葉を使われたが……。
ドラッカー:文明をつくるのは技術であり、テクノロジストである。知識労働者のなかで、知識労働と肉体労働の両方を使う人たちをテクノロジストと呼ぶ。
彼らは知識労働の用意があり、教育と訓練を受けた人たちである。彼らこそが先進国で唯一といっていいほどの競争要因となる。働く者のますます多くがテクノロジストとなっていく。知識労働者の生産性の問題に関しては特にテクノロジストの生産性が重要性を増していく。だからこそ、技術のマネジメントが重要な意味を持つ。
理系の者がマネジメントを理解し、文系の者が技術を理解することが大切だ。さらには、テクノロジストの生産性をいかに上げるかが重要な意味を持つ。
――知識と仕事との関係をどう考えるか。
ドラッカー:第一に、単純肉体労働については、1880年から1929年頃の間に生産性向上の方法がまとめ上げられた。フレデリック・テイラーのサイエンティフィック・マネジメント(科学的管理法)、のちのTQCやインダストリアル・エンジニアリングのおかげだ。
その後今日までの間に肉体労働の生産性は五〇倍にも伸びた。したがって、20世紀の経済発展は科学的管理法による肉体労働の生産性向上によってもたらされたものであり、テイラーのおかげであったといえる。テイラーは仕事に知識を適用した最初の人だった。文明をつくるのは技術であり、技術こそが文明の変革者だということである。
そもそも知識とされるものは、それが知識であることを行為によって証明しなければならない。今日われわれが知識とするものは、明日の行動のための情報、成果に焦点を合わせた情報である。その目的とするものは、人間の外、社会と経済、さらには知識そのものの発展である。
しかも知識は成果を生むためには高度に専門化していなければならない。知識と技術に関わるこの変化こそ、知識の歴史における最大の変化である。体系が技術を方法論に変えた。それらの方法論は、個別的な経験を普遍的な体系に変えた。技術として教え学べるものに変えた。
一般知識から専門知識への重心の移行が、新しい社会を創造する力を知識に与える。
そして、今われわれにとって知識労働の生産性の向上、しかもその飛躍的な向上に取り組むべき時がきた。
――教授のいう新技術による文明転換の根拠を教えてほしい。
ドラッカー:知識が社会の中心に座り社会の基盤になったことが、知識そのものの性格、意味、構造を変えた。この断絶こそが最も急激であって最も重要である。
実をいうと、知識労働の生産性は15世紀のグーテンベルグによる印刷革命以来、たいして伸びていない。教室での教え方を例にとっても、中身は変わっていない。ほとんどの教室が相変わらず退屈きわまりない状態のままだ。しかし、ついに大きな変化がくる。情報技術のおかげだ。
いよいよ再び技術が教育を通じて文明を変える。価値ある授業ならば今までの何百倍もの人が受けるようになる。すでに先進的な教育機関では実現されている。それだけでも革命的な変化だ。この変化がこれから加速していく。
情報技術によって教え方が変わり、驚くべきことに、教えることの中身まで変わっていくはずである。
1455年の情報革命
ドラッカー:教育という知識の伝達方法の変化がこの前起こったのは、印刷革命によってだった。印刷革命が人類の歴史を変えた。人類の歴史において、知識が主役の座を得たのも活版印刷の発明以降のことだった。
そのとき、ヨーロッパが抜きんでた存在となり、西洋と呼ばれるものになった。活版印刷の発明が書物の大量生産をもたらし、社会を一新し文明を生んだ。活版印刷による印刷本の出現は真の情報革命であったといえる。
それまでは何千人という修道士が書物を筆写していた。最初の印刷本は一四五五年に印刷された。約50年後の1506年には、パリやアントワープの印刷テクノロジストは富豪となって貴族にまで列せられたほどだった。
一冊一冊筆写していたものが300冊の印刷に一日を要するのみとなった。のみならず、印刷革命は労働力をも変えた。数千人に上る教養ある修道士から生計の資を奪った。
印刷が宗教改革をもたらしたわけではない。しかし印刷がなければマルチン・ルターも聖書を印刷できず、彼の宗教改革も地元の小さな運動に終わっていたはずだ。ルターはメディアとしての印刷本を理解したのだった。
ご承知のように、この印刷革命が人類の文化・文明を変えた。近代合理主義を生んだものは、蒸気機関ではなくこの印刷本だった。経済発展なるものを生んだのもこの印刷本だった。
ところが、この印刷革命の後、今日の情報技術出現までの約500年間、知識労働の生産性に関してはたいした進展は見られなかった。
――それでは、現在進行中の技術革命で世の中はどのように変わるのか。
ドラッカー:労働力構成が大きく変わる。まず肉体労働の位置付けが変わる。単純肉体労働者は数も割合も減少する一方となる。若干の技術を身に付けただけの肉体労働者も減少する。そもそもなり手がいなくなる。
先進国では肉体労働者は職場の数の減少を超えて減る。当然、途上国からの外国人労働者が必要になる。ところが、外国人労働者の流入は文化に関わる問題であって、この問題に経験があって習熟しているアメリカはうまくしのげるかもしれないが、他の先進国では社会と政治に関わる大問題となる。
肉体労働者の減少と位置付けの変化は、すでに労働組合にも影響をもたらしている。日本にしてもドイツにしても、肉体労働者の組織体としての労働組合は急速に政治的な力を失っている。どこの国でも労働組合は、拮抗力としての自らのあり方を探っているところだ。
技術を監視する意味
――技術のマネジメントにとって必要なことは何か。
ドラッカー:技術が社会そのものを変えていっている。ということは、われわれは技術がもたらすものを注視していかなければならないということであり、技術そのものをマネジメントしていかなければならないということである。ちょうど今私は技術のマネジメントについての著作の原稿をまとめたところだ。
そのために必要なものは、いわゆるテクノロジー・アセスメントではない。人間の力ではテクノロジーの影響をアセスしきることはできない。関係する要因が多すぎる。因果関係という、モダンつまり近代合理主義の手法では処理しきれない。
なかでも最大の危険は、新技術のインパクトを予測できると誤解し、本当に重要な仕事を軽んじることである。技術というものの全貌を知るには予測は無効である。せいぜいトラック一杯分の誰も読まない資料をつくるだけに終わる。
では、何が必要か。テクノロジー・モニタリングである。モニタリング、すなわち監視していくことである。
新技術についての予測はどうしても賭けになる。間違った技術を奨励したり、最も恩恵をもたらす技術を軽視する危険がある。ゆえに発展途上の技術についてはモニタリングが必要となる。観察し、評価し、判定していかなければならない。これこそがマネジメントの責任である。
さらにもう一つ付け加えるならば、これからの複雑で変化の激しい時代においては、企業にせよ、病院、大学、政府機関にせよ、あるいは経営政策、マーケティング、イノベーション、人のマネジメント、技術のいずれにおいても、自らが世の中に与える影響についてはすべて自らに責任があるという倫理観が不可欠となる。
――最後に、激動の時代における日本の可能性を教授はどう見るか。
ドラッカー:私は個人に対しても国に対しても助言は与えられない。
しかし、日本には平安時代に遡る他の国にはない強みがある。外の世界で生まれたものを導入し、消化し、使いこなすという力である。
最もそれがよく現れているのが、日本の美術である。中国から輸入した水墨画は、もはや中国の水墨画ではなく、日本の水墨画である。
日本は明治の開国でも、西洋の日本化に成功した。第二次世界大戦の後も、日本化した復興に成功した。それらはすべて、日本の西洋化ではなく、「西洋の日本化」だった。
しかも、日本は東洋と西洋の橋渡しの役を果たしてきた。東洋のものを西洋に伝え、西洋のものを東洋に伝えてきた。さらにいうならば、日本はアジアの一員であり、西洋の一員であるというきわめてユニークな位置付けにある。
すでに日本は中国で30年にわたって成功してきた。躍進の目覚ましい中国の沿岸地方で重要な役を果たしてきた。これからの日本にとっては、アジアの二つの国が自らにとっての巨大なチャンスとなり、かつ巨大なライバルとなるだろう。それが中国であり、インドである。
夕日に赤い帆
ドラッカーとの会見は正味で30分程度であったと思う。質問を理解するや彼の頭脳が確実に作動をはじめるのをはっきりと感じた。そして、最後の質問に答えたとき、ゆっくりと活動を停止させた。
それでも別れ際に何とか、今度あなたの学会をつくりますと伝えることができた。「ありがとう。楽しみです。それが私の望んでいることです」が答えだった。本人に直接伝えられたのは、幸せなことだったと思う。「近々また会いましょう」と彼はいい、そしてふたたび長椅子に移り、ゆっくりともといた姿勢に戻った。
ヤギサワさんは終了を見てとるや手早く冷蔵庫から飲み物とお菓子を取り出し、ドラッカーの前に置いた。彼はやわらかな視線を中空に漂わせていた。実際に接した印象では恐らくその時点で痴呆症状はかなり出ていたのではないかと思う。そして、午前中のある時間、天女が百年に一度寺院の瓦をなでにくるように、ふと意識が戻る。私たちはその時間にドラッカーに会いに行ったことになる。そしてドラッカー一人を残して、鍵をかけることなく扉を閉めた。それが生きたドラッカーを目にした最初で最後となった。
その日、カリフォルニアの名所のいくつかをヤギサワさんに案内していただいたが、ずっと心は奇跡の会見に占められていた。今にして考えれば言葉の正しい意味において奇跡といってよいものだったと思う。クレアモント大学で会ったある先生はこういっていた。「私もここにきてだいぶ経つけれど、ドラッカー教授を見かけたことは一度もないな」。
現地に在住するアメリカ人でさえ、そうそう会える人でないくらいのことは知っていた。だが、それが事実であることは当地に行ってみてさまざまなところで実感させられた。ヤギサワさんが明日ドラッカー教授を訪ねると言うと、会う人会う人驚きの表情を浮かべたことを思い出す。
その日だいぶ遅くまで数人で飲みに行った。海が見える場所だった。アメリカの人たちは日本人のようなディープでウェットな飲み方はしない。グラスを片手に軽い笑みを浮かべて、さっと飲んでさっと別れる。そんな風景を私はずっと興味深く眺めていた。彼も若い頃はあんなふうにウィスキーを傾けたのだろうか――。
サンタモニカの海辺に赤黒い日が射し込んできて、一日の終わりを告げる。それは毎日規則正しく繰り返されるありきたりの風景なのかも知れない。しかし少なくとも私にとってはそうではない。その日はいささかの誇張もなく、異国で遭遇した人生最良の日だった。
途中でヤギサワさんはボストンに向かうためその場を立った。ヤギサワさんなしでは恐らく何もできなかったろう。今なおそのことに感謝している。ホテルに入ってからも、ほとんど眠気というものを感じなかった。頭脳の動きとは別に、すべてが高度に作動し続けていた。しかたなく、ドラッカーとの対話の録音を聞き、聞こえた音をそのままノートに書きつけていった。気づくと朝が来ていた。
むろんそのときは自分がドラッカーに取材した最後の編集者になろうとは思いもしなかった。ちょうど数カ月前には『日本経済新聞』の「私の履歴書」にドラッカーが出ており、話題になっていた。すぐれた意欲作だった。当時編集委員をされていた牧野洋さんが数回におよぶ長時間インタビューの末にまとめたものだった。労作であるばかりでなく、証言として貴重なものも多く入っていた。
質や量ではむろん私の会見は及びも付かない。しかし、私がほぼ彼に会った最後の日本人であって、発言を記録に残した最後の者となったことは不思議な感慨としかいいようがない。少なくともそれは意図して可能となる性質のものではなかった。
実は今なお、あのときの録音を聞き直すのが怖い。だからほとんど聞いていない。それでも彼の独特のドイツ訛やくぐもったような発声、ゆっくりとしたイントネーションは今も何かのはずみで脳裏によみがえる。わけてもよく思い出すのはインタビュー冒頭の質問に対する答え、「The real change is in attitude」(本当の変化とは意識に関するものである)だ。
その一文そして韻律を私は一生忘れないだろう。