社会生態学者・村上春樹

無題
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【旅への誘い】

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村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫

時々思うのだけれど、読み手は書評欄に何を期待しているのだろうか。あるいは何を求めているのだろうか。

金融機関に勤めているからといって、24時間金融のことばかり考えて人は生きているわけじゃない。金融マン(あるいは金融パーソン)の人生にも、いろんな粒子状のグラデーションがあるし、時に全然緩い書評があってもいいのではないかと思って、それが僕に軽い葛藤をもたらしてくれたりもする。

正直なところ取り上げる本の全てが意に染むわけではない。本の選定にはある種の便宜というか、機能的な思考が常に働くためだ。だが、評者とていつも便宜的な書物のみを手にするわけではない。読書というのは、もっともっとカラフルで、ソリッドで奥行きの深い行為なのだ。

仕事柄もあってよく書店には行くけれど、最近とみに感じるのは、「いったいこの本はどんな人が買っていくのだろう」と首をひねるものが増えたことだ。ビジネス書にその種のものが多い気がする。

それでも、やはり書店は素晴らしいと思う。書店はそれ自体が一つのメディアで、今人が何を考え、感じているのか、てのひらからこぼれるみたいにフィジカルにわかる場だからだ。確かに陳列棚はテーマごとに細かく分かれている。分かれているけれども、読み手の頭の中までビジネスとか文芸とかに分かれているわけではない。それこそ、出版社か書店の便宜主義で偶然そう決まっているわけであって、それは読み手の受け止め方とは何ら関係がないのだ。世の中にある本は、手に取りたい本と手に取る気がしない本(あるいは存在にさえ気づかない本)の二種類しかない。もしくは、読み出したらとまらなくなる本とそうでない本の二種類――。僕はそう思う。

村上春樹は前から特別に感じていた作家だ。なのに、なぜか旅行記はあまり読まなかった。この文庫は、彼が1988年のベストセラー『ノルウェイの森』のほとんどを書いたギリシア、ローマ、ロンドンの三年ほどの生活を綴ったものである。さっき旅行記と言ったけれど、厳密にはどこにも分類されない、あるいはどこにも行けない。そんな種類の本だ。

彼の書くものには不思議な郷愁観がある。それは何も教えないし何も説かない。彼はただ書きたいから書いている。あるいは書かずにいられないから書いている。それなのに、秋口に音もなく降る細い雨のように、心と体にしっとりと染みこんでくる。この本を手にすると、彼(と彼の奥さん)と一緒に遠い太鼓に誘われた旅に出たような気持ちになる。

時に人生は楽なものではない。ろくでもない連中とろくでもないことに手を染めなければならない局面だってある。そんなとき、この本を手に取ってみるとよい。心の色調に何か小さくて繊細なさざ波が立つかもしれない。あるいは何も起こらないかもしれない。そんな読書も悪くない。