概説ドラッカー経営学(5)-プロフェッショナルの論理

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意思決定の作法――見解からスタートせよ

初めから調和的で美しいものには必ず嘘がある。

ドラッカーが関心を寄せたのは、頭の中で考えられた思想や観念ではなく、眼で見取られた現実だった。では、彼にとっての現実とは何だったのか。

事実と現実とは違う。彼は意思決定に際して、データなどの事実からスタートせよとは言わなかった。「見解からスタートせよ」と言った(『経営者の条件』)。

事実とはそれ自体意味も訴求力も持たない。ただあるだけである。あるいは生起したというだけである。事実は、解釈され、意味を獲得することで初めて現実としての力を持つ。彼が重視したのは現実のほうだった。

たとえば雨が降るというのは事実である。それ自体は自然現象であり、単に雲から無数の水滴が落ちるというだけである。しかし、見る人によってまったく異なる現実をつくり出す。屋外で労働している人と、家の中でくつろぐ人、それぞれに雨の持つ現実は異なる。雨音さえも同じようには聞こえない。乾燥する季節に降る雨は恵みである。梅雨や台風の時期の雨はうんざりである。

漱石の小説に、雨の日には来客を拒絶する紳士の話が出てくる。彼にとって雨の日は亡くした子どもを思い出させた。

ドラッカーは無人の森で木が倒れても音はしないという。音波が発生しただけである。これが彼のコミュニケーション論の基本である。いかなる名曲であっても、スコアそれ自体は何のメロディも奏でない。指揮者とオーケストラの合奏を待って、初めて旋律として人に感動を与える。貨幣とは紙や鉱物に過ぎないが、人間にとっては価値の媒介手段であり、これほど現実的なものはない。これが社会や人に関わるとさらに複雑になる。

思考方法や思考内容についても、人には個性、習性、癖がある。それぞれの経験がある。同じ対象物であっても、人によって見え方はまったく違う。同じ車窓から眺める景色も、見る人によってすべて異なる見え方をする。見え方が違うということは、人はそれぞれ異なる現実を持つことを意味する。現実とは、ありのままの事実ではなく、個々人の経験、価値観、嗜好によって意味づけられた主観の産物である。

読書や会話を通じて、人は日常的にさまざまな情報に触れる。しかし、現実のものとして受け入れるのは、すでにある経験、価値観や嗜好と合致するものである。事実そのものを直接つかみとるというよりは、自らが好み、理解できるもののみを現実として受け入れる。そのため、人によって異なる見解が形成されることになるのだ。

意思決定に際しては、会議の席ではさまざまな見解が噴出するのが常であり、自然の状態である。しかし、ここで認識すべきは、見解とは事実ではない。まだ事実としての客観性を持たない仮説に過ぎない。見解の基礎となっている現実とは、そのときにその人に見えるものに過ぎない。それぞれの人の経験や知識、知覚によってその現実は成立する。

『経営者の条件』でドラッカーは述べている。「何事についても、選択肢すべてについて検討を加えないならば、視野は閉ざされたままとなる。成果をあげるエグゼクティブが、意思決定の教科書に出てくるような原則を無視して、意見の一致ではなく、意見の不一致や相違を生み出そうとするのは、このためである」。

ここでよく知られた話がある。GM(ゼネラル・モーターズ)のCEOアルフレッド・スローンの意思決定に関する逸話である。「スローンは、GMの最高レベルの会議では、『それではこの決定に関しては、意見が完全に一致していると了解してよろしいか』と聞き、出席者全員がうなずくときには、『それでは、この問題について、異なる見解を引き出し、この決定がいかなる意味をもつかについて、もっと理解するための時間が必要と思われるので、検討を次回まで延期することを提案したい』といったそうである」(『経営者の条件』)。

事実スローンは全会一致を極度に警戒し、危険なものと見なした。対立意見が一つも出ない場面では、無条件に意思決定を一週間ずらしたという。

意見、つまり見解とは、人が見た現実をもとに紡ぎ出され、形成される。現実が多様であるほど、したがって見解が多様であるほど、意思決定はよく行いうる。人は自らの現実しか把握できない。その認識能力はきわめて限定されたものである。このことは言い換えれば、人間が持つにいたった現実とは、それがいかに説得的に響こうとも、検証されざる仮説に過ぎないということである。

ドラッカーのメッセージは、一個の人間が持つ見解とは仮説に過ぎず、知られていないことのほうが無数にあるという点にある。そしてそのことを認識せよという点にある。

すべてを知ることが不可能であり、かつそれぞれが自らの持つ現実に縛られるならば、選択肢は多ければ多いほどよい。しかも見解の不一致は自らの見ていない現実を見る好機となる。さらには、多様な現実にあえて目を向ける重要な契機ともなる。

スローンも言うように、よい意思決定と満場一致は原理的に相反する。逆にいえば、限りある人間の能力では最善の意思決定、これが唯一という意思決定は行いえない。人間の認識能力は完全ではありえず、誤りやすいゆえに、ともすれば事実に反する都合のよい現実からスタートしてしまう。

人はそれぞれ相異なる現実を持つために、調和的回答を期待するのはそもそも無理である。絶えず摩擦と対立が生ずる。加えて劣化、陳腐化が進行する。

これこそが社会をめぐる事実である。ドラッカーが探し求めたものとは、不滅の真理ではなかった。不完全な人間社会で相対的に機能する意思決定にほかならなかった。

「見解からスタートせよ」とはそのための手法である。なぜなら、相反する意見の衝突、異なる視点の対話、異なる判断からの選択があって、初めて検討すべき選択肢が提示され、相対的に信頼できる決定を行う条件が整うからである。そうして初めて、そもそもが仮説に過ぎないということを認識しうるからである。ここから、意見の不一致がないときには、意思決定を行うべきではないという手法も導き出されることになる。

実際、いかなる組織にあっても満場一致で意思決定がなされるならば、異常と見なしてさしつかえない。事実とは常に多様な角度からの検討を要するものだ。誰もが一つの現実しか見ていないということは見られることのない多くの事実がありうることを意味する。

逆に言えばみなが同じ見解を表明するならば、何かが病み歪んでいると考えてよい。会社であれば、個が抑圧され意見が出しづらい環境なのかもしれないし、経営者の取り巻きが幅を利かせているだけなのかもしれない。国家において同様だった。

旧ソ連では国民の九〇%以上が投票で同一の党幹部を支持していた。圧倒的多数による支持は根源的歪みを想像させる。

選択肢のないところに意思決定の必要性はない。リスクなきところに意思決定など不要である。しかし、リスクなき人間社会などない。だからこそ意思決定とは個々人が異なる現実を見るという、まさにその現実からスタートしなければならないものなのだ。

流通チャネルは顧客そのものである

一つドラッカーのユニークな見解を紹介したい。彼は流通についても意味深長な発言をしている。その一つが、「流通チャネルは、製品そのものよりも重要なことが少なくない」というものだ。

現実に市場に関わる問題の八割は流通チャネルに関わるものである。そこに本質的な問題がある。

流通チャネルとは繊細である。現在流通し始めた電子端末の帰趨も、その華やかな外貌に反して、核心は情報や知識の流通チャネルたりうるかに尽きる。顧客の末端神経と製造者の末端神経を結ぶものであるから、繊細たらざるをえない。ちょっとしたサービスの付加や削減が顧客にとって大きなストレス要因になりうる。そして多くの場合、製造者は顧客の感じるストレスを自らのものと感じることに失敗する。

流通チャネルの問題とは、一次元上の認識を必要とする。製品とは企業活動の一部である。企業にとっては、経理上はコストである。しかし、流通チャネルとは企業の一部ではない。社会という外なる世界との接点であって、事業の外延である。

製品が価値に変換されるのは、流通チャネルを通じて顧客に選好され、購入された時はじめて可能となる。だが、流通チャネルと製品とは一体のものではない。原理上別個であって、相互に独立している。流通チャネルのほうが一義的に成立し、製品のほうが二義的である。いかなる有力商品といえども、流通チャネルにぶら下がっているだけの有象無象に過ぎない。

さらなる問題は、流通チャネルは企業がコントロールできない点にある。与件である。製品は命令によって変えられる。企業の意思が及ぶ。しかし流通チャネルに命令しても変わらない。合わせなければいけないのは製品をつくる企業のほうである。

製品に合わせて流通チャネルを変えさせようとするほど無謀で絶望的な努力はない。現在進行中のIT革命が変えたのは、この流通チャネルだった。未来における産業の帰趨は、いかに新たな流通チャネルにふさわしい製品を創造できるかにほぼかかっている。

大衆消費財を専門店で売ることはできない。いかに優れたものであろうとも、その商品を理解する客のいない場所では意味がない。間違った流通チャネルで正しい製品を流すほどの徒労はない。

簡単に言えば、製品が流通チャネルを決定するのではない。流通チャネルが製品を決定する。流れを形成するものの構造が、そこに流れるものを決定する。経済の実相を観察するならば、誰もが認めざるをえない事実である。

流通チャネルは、製品に適合すると同時に、顧客の最終用途に照準を合わせなければならない。ここでも合わせなければならないのは製品のほうである。

流通チャネル自身は一ミリとても事業のほうに歩み寄ることはない。

いかに優れた製品といえども流通チャネルに合っていなければ失敗する。まずそれでは製品が市場に届かない。購入されないし業績をあげることもない。

製品や販売への考え方が顧客の意識としての流通チャネルに適合していなければ、顧客としての流通チャネルが買ってくれない。

たとえば、通常の出版社でも、大衆向けの雑誌や書籍を出すところなどは流通チャネルがビジネスそのものであることを知っている。彼らは主婦や若いビジネスマンといった大衆読者と書店やコンビニなどまったく異なる要求を持つ二種類の顧客がいることを知っている。だが、知的に洗練されたものの出版を手がけるところはそのことをきちんと理解してはない。

たとえば、かつて岩波書店といえば日本の知性を代表していた。岩波書店のイノベーションはドイツのレクラム文庫を範とした読みやすいスタイルの書籍シリーズにあった。だが、それも戦前の話で、戦後にあってはそのようなハイクラスの出版社ほどに高正味の定型的なビジネスモデルに安住した。

その特徴は小売店だけしか流通チャネルと認めない点にある。彼らは流通チャネルを顧客とは見ない。ただの水道管としてしか見ていない。出版流通の非効率が慢性化している原因はここにある。

流通チャネルが顧客であるならば、顧客が流通チャネルでもあるということである。まだ知識産業全体が、顧客が流通チャネルであることに気づいていない。出版に関わる産業としての製紙や印刷、デザイナー、DTP業者などを単なる取引先としてのみ見ている。しかし、それらはすべて顧客の最終用途を規定するものであり、流通チャネルの機能を果たす致命的な人たちである。

市場もまた、流通チャネルと同様の配慮が必要である。市場も顧客そのものである。したがって、製品の分析以上の示唆を与えてくれるところが少なくない。生産者側にとって好ましくない現実をも明らかにしてくれる。

現代の経済においては、流通チャネルの変化は技術よりも速い。顧客ニーズや価値観よりも速く変化する。本来流通チャネルの意思決定で、五年で陳腐化しないものはない。だが出版業やテレビ放送、新聞などについてはゆうに半世紀も流通チャネルが変化せずにきたことを異常と考えるべき根拠がある。

では、ドラッカーは、企業は何をすべきと言っているのか。

確認すべきは、次の仮説である。これがドラッカーの考える「企業の現実」であって、取り扱われる製品にはほとんど関係なく妥当する原則である。

① 利益の流れとコストの流れは同じではない。

② 事業上の事象は、成果の九〇%が一〇%の原因から生まれるという社会的事象に特有の分布の仕方をする。

③ 利益は売上に比例し、そのほとんどはごくわずかな種類の製品や市場や顧客によってもたらされる。

④ 同じく、コストは作業量に比例しそのほとんどはごくわずかの利益しか生まない、おそらく九〇%という膨大な作業量から生じる。

ものごとの順番からすれば、まずは自らの持つ製品の分析から入らなければならない。流通チャネルや市場とは生産者とは別個で独立である。ものごとのはじまりは手慣れたなじみあるところからでなければうまくいかない。製品のなかのもっともなじみのあるものからスタートしなければならない。

事業そのものからスタートしなければならない。

だが、そもそも業績をもたらす事業とは何かという問いに答えるのが意外にも厄介である。基礎とすべき事実が考えられるほど自明でないところに由来する。今日の消費者を悩ます端的な現象とは数字の洪水である。情報の洪水である。

必要な情報を見きわめるには、市場、顧客、流通チャネルへの理解が不可欠である。現在、情報を創造し流通させる技術は数百年以来の変化にさらされている。しかし、つまるところ情報を適切に活用できるのは人間しかいない。基本は同じである。顧客に立ち返ればよい。

ドラッカーの答えである(詳しくは『創造する経営者』)。

利益の考え方

ドラッカーにとっての利益の解釈はいささか変わっている。

利益とは社会的存在として企業が明日も意味ある活動をするための「条件」あるいは「手段」と彼は言う。ドラッカーにとって目的に値するものとは生物としての命のみである。社会であれ、人であれ、企業であれ病院であれ変わることがない。利益は生命体存続の条件に過ぎない。

利益に伴うドラッカーの見解はきわめてラディカルであるが、考えてみれば至極まともともいえる。彼にとっては社会も組織もすべてが生命体である。利益とは、組織が外部環境とエネルギーのやりとりをするための便宜的な装置の一部をなす機能に過ぎない。人間にとって呼吸はかけがえのない機能ながら、呼吸のために人間が生きているわけでないのと同じ理屈である。

ドラッカーの利益の考え方はよく知られたものの一つなのだが、考えるほどに重い意味をはらむものがある。ドラッカーはそもそも利潤動機というものはないとさえ言う。

一八世紀の経済学者が概念中心に世界を構造化する必要が生じた結果捏造された一つのフィクションであると見る。

現実に、利潤が社会の中心に出てきたのはせいぜいここ三〇〇年ほどのことである。それ以前はそのようなものなしに社会はきちんと機能していた。貨幣さえない社会もあった。利潤のための人生、金のための人生、それらに人生を賭けるなどという価値観は人間本来の姿に裏打ちされたものではない。人為的な、半ばでっち上げの構造物に過ぎない。

働く人たちにしても、何のために働くのか。経営する人たちは、何のために経営するのか。

生活のため、従業員のためというのはあるにしても、利潤のために働く人などおよそいない。利潤はその意味で人や社会に奉仕すべき従僕に過ぎないためである。

目的には利益や私益を超えた何かがなければ成り立たない。実際に、金儲けのために会社を経営しているなどという経営者に私は一人も会ったことがない。企業は儲けを目的にあるのではないし、経営者も私欲のために経営しているわけではない。これは意外な真実である。

では利潤が手段に過ぎないとするならば、企業の目的とは何か。ドラッカーは企業の目的は一つ、顧客の創造と言う。顧客の創造とは、一言で言えば、自分を内に含む世界そのものへの貢献である。

自分の内部から発し、自分の中にしかない何かを外の世界の成果に変えること、顧客創造だ。だから顧客とは消費者に限らない。世界に関わる人すべてが顧客たりうる。そして、貢献によって社会の次元を日々上げていくこと、社会をまがりなりにもよい場所、せめてまともな場所にする、企業の存在理由である。

利潤はそのための手段であって、目的ではないというのはそのようなロジックからも導かれる。燃料がなければ飛行機は飛べないが、燃料が飛行機の存在理由にならないのと同じである。飛行機の存在理由は多くの人を安全に運ぶという外の世界にあるからだ。

企業の目的を顧客の創造とする場合、利益にはいかなる意味があるのか。

目的を適切に定めるとき、利益の存在理由が不思議なほどくっきりと見えてくる。利益には企業が社会的に機能しているかを測る尺度としての意味があるためである。

利益が出るとは何か。社会にある資源の組織化に成功し、顧客創造を遂行している証左である。逆に利益が出ないとは社会の資源を浪費し、消耗し顧客創造に失敗している事実の反映である。

利益が出れば企業は存続できるが、利益が出なければいずれ企業は倒産せざるをえない。倒産とは本業によって社会に貢献できず、社会からの預かりものである人材をはじめとする貴重な資源をきちんと生かしきれなかったことを意味する。

だから、利益が出るということは、社会から企業に対する活動許可証と見てよい。このまま続けていいよというメッセージと解釈できる。

一つ疑問が生じるかもしれない。利益が出る、つまり顧客さえ創造できれば企業は万事OK、何の問題もないのかという問いである。

ドラッカーの考えに徴すれば、利益が出るとは企業活動存続の必要条件ではあるが、十分条件ではない。難しい言葉を使うとそれを正統性と言う。これは売れればすべてが社会的に許され受け入れられるかとの問いでもある。

結論から言えば売れさえすれば、顧客さえ創造できれば、企業が完全な正統性を獲得しうるかというと答えは「ノー」である。そんな即物的な考え方はドラッカーがもっとも嫌うものだった。では、顧客創造とともに満たさなければならない条件は何だろうか。

プロの倫理が質を補完しなければならない。プロとは人間のもの、その意味で純然たる内発的な姿勢である。

プロの倫理とは個人のものであって企業のものではない。道徳や信仰に似ている。倫理とは「にんべん」がつくことからも、どこまでいっても人間しか持ちえない資質である。企業それ自体は人間ではないから、倫理も信仰も持ちえない。

だから、厳密には「企業倫理」などというものはない。真に倫理的でありうるのはそこにいる人間だけである。

プロであるとは仕事に伴う倫理と責任である。その双方がなければいかに顧客を創造して利益を上げてもかえって世を損なう場合がある。そんな企業ほど世間では褒めそやされることが少なくないが、危険な徴候と言わざるをえない。

特に責任についてドラッカーは厳しいものの見方をしている。プロには権限とともに厳しい責任がある。ドラッカーは権限と責任を一枚のコインの裏表の関係と考える。確かに利益が上がれば企業活動存続についての権限が与えられる。しかし同時にその質について責任も与えられている。プロたるものは権限以上に責任に反応すべきとドラッカーは考える。そこには資格も何も関係ない。存在自体が社会的責任なのである。

いくら儲かるからといって、不正を働いて儲けたのでは、結局世の中を損なう。不正とは何も法律に反することだけではない。社会の価値観、慣習、常識など重要な基準はいくらでもある。

仮にグローバルで広く事業を展開して安価な商品を世界中で売っても、働く人たちのリストラや派遣社員を切るなどの生活基盤の切り崩しによってしか成し遂げられないのなら、そもそも事業として成立していないのと同じだ。コストカットと国際競争力は違う。ただの効率の名を借りた破壊に過ぎない。競争力とは卓越性の追求であって、リストラとは異質のものである。これなどは経営者のプロの倫理である。プロにはプロとしてなすべきことと、なすべきでないことがある。

利益や過剰な貪欲、そしてプロの倫理の劣化ほどに世界を損なうものはない。そんなプロの倫理を奨励する風土が世界から消失しつつある。ドラッカーは瞑目するまでそんな暴走を気にかけていた。現代を生きるわれわれは何より心にかけるべきではないか。