村上春樹の異界――井戸と暗渠と1995年
作家・村上春樹の名を知ったのは高校の頃だった。1989年だったと思う。『ノルウェイの森』や『ダンス・ダンス・ダンス』がベストセラーになっていた頃で、バブル景気も手伝って、どことなくしゃれた「いけすかない」空気を醸していたように思う(村上自身大いに不本意だったとは後になって知ったのだが)。どことなく口にするのがはばかられる「軽さ」が村上にはあった。
一般に村上は個人主義的なライフスタイルを重視する作家として知られる。ジャズを好み、アメリカの現代作家や食文化をことのほか愛する姿勢は、日本的な暑苦しい共同体的雰囲気から切り離されているかに見える。突き放すようなデタッチメントとクールさがあり、文学とするには「色物」じみていた。そのせいか、村上にノーベル賞がどことなく不似合い(あるいは不釣り合い)と口にする人は今も少なくない。
だが、村上につきまとう軽さには、ある面でニーチェがワーグナーの楽劇を激賞したのに似た、反転した深みのようなものを感じないわけにはいかない。むしろ村上は軽さの装いのなかに何かを秘蔵する。わかるものに対してのみ人が進んで触覚を向けるとは限らない。ある種の「わからなさ」は、ときに内面の秘密を暗示し、尽きせぬ神秘の所在を指し示す。ときとして、わからなさは、わかりやすさよりはるかに雄弁である。
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