高知のドラッカー研究者への手紙--『ドラッカー入門 新版』に寄せて

無題
LINEで送る
Pocket

DSC_2243

 

小笠原様

みなさま

 

『ドラッカー入門 新版』を高知読書会の文献としてご使用くださっているとのこと、ありがたくも光栄に存じます。

本書はドラッカーについて書いた私にとって初めての本なのですが、同時にドラッカー、上田先生、そしてみなさまとのかけがえのないご縁の証ともなりました。

簡単な経緯を交えて、この本への思いのようなものを書かせていただきたいと思います。

きっかけは2001年でしたから、15年前のことです。勤務する出版社の発行する雑誌で、私はドラッカーをテーマとして、上田惇生先生にインタビューする機会に恵まれました。当時『プロフェッショナルの条件』など日本オリジナル編集版が数冊出ており、いずれも記録的なベストセラーとなっていました。

8回にわたる連載インタビューということで、総計80時間にわたる対話が上田先生との間で交わされました。いずれそれらが本になるとの見通しは当時にしてあったように思います。

このとき、ドラッカーの分身ともされる上田先生とのダイアログが、私にとってほとんど「天啓」にも似たドラッカー体験であったのは間違いありません。というのも、それによって、自分ですら気づかなかった意識のなかの隠し扉がきしみつつ開く音が確実に響いてきたからです。そして、おおげさではなく、ドラッカーや上田先生との内面的対話を通して、人間社会の見え方ががらりと変わったのをはっきりと覚えています。

とくに、それまでのドラッカーのイメージというと「マネジメントの父」というもので、経営分野でのドラッカーの存在感はあまりにも圧倒的でした。世の中もどちらかというとドラッカーを経営のグルとして見ていたように思います。

でも、上田先生の視点を介して見たドラッカーはまったく違いました。経営のドラッカーだけではとうてい扱いきれない、はかりしれぬ奥行きを持つ思想家でした。

あるいはこうも言えるかもしれません。ドラッカーには、はるかに根源的なある問題意識があって――そこには彼自身の生まれた時代や国、来歴が色濃く反映されているのですが――それをわかりやすく伝えるために、あくまで一つの便宜として経営というルートを採用したにすぎない。そんなふうに感じたのです。

それに私には最初読んだときから、「この人は、何か大切なものを隠している」という直観がありました。あまりに大切なものであるために、安易に口にできない種類の何かでした。

だいぶ個人的なことなのですが、私自身は大学で経済学を専攻し、経済や経営の専門出版社に務めながらも、ふとした折りに空しい思いにとらわれることがありました。明日死ぬかもしれないのに、株式市況とか、各種の経済指標に人は一喜一憂して何になるのだろうか。しかしドラッカーを読むほどに、彼が人間の根源にあるエネルギーにリーチしようとしてマネジメントを考えたのだということがわかってきました。

彼が若い頃に書いた「もう一人のキルケゴール」がそのことを暗示していました。それは人がなぜ生きるのかという根底的な哲学的命題を宿していました。そして、その問いこそが、ドラッカーが偉大な思想家であることを証していました。

一見経済的に見える記述が、実はきちんと生命の源にフィードバックされているのです。そのことに気づいたとき、一つの救済を得たように感じたことを今も覚えています。

ところで、上田先生と私のインタビューは後に大きく改稿・編集されて、『ドラッカー入門』として出版されました。タイトルにもあるように、マネジメントの入門ではなく、ドラッカーの入門です。

たぶんこの点が上田先生と私の最も基盤になる問題意識だったように思います。ドラッカーとは、その人自身が、一つの知的ジャンルを構成しうるのだということです。あたかも、ビートルズやボブ・ディランが、ロックというジャンルを超えて、固有名がそのまま普遍的なテーマや時代性を提示しうるのに似ているかもしれません。

基本認識を維持したまま、その後も上田先生との対話は断続的に続けられました。さらに対話を重ねていくと、上田先生は、ドラッカーを現代の人々が望みをかけるに値する哲人として捉えていることがはっきりと見えてきました。しかも、誰も提出していない知の地平を見据えている人でした。

ドラッカーの発する語彙は一つ一つわかりやすいのですが、それらは例外なくギリシャ以来のリベラルアーツの水脈に発しているのです。古くて新しい、数千年の歴史を踏まえながらも明日を実践的に導きうる哲学です。それを本書では正統保守主義、あるいはポストモダンなどと呼んでいます。

しかも、彼は偉い人のために書いたのではなく、私をはじめとする名もなきささやかな人のために書いてくれました。私はその一点をとっても、ドラッカーの名は、最大限の慎重さをもって記憶されるべきであると考えています。

そんなことを上田先生と対話するなかで、理解できたことを中心に拡充したのが、このたびの新版です。

決してすらすらと読めるものではないばかりか、むしろ難所の連続と言ってもいいのかもしれません。書いた私が読み返して難しいと感じるのですから、間違いないと思います。

それでも、ドラッカーという存在が、新しい世界観を予示する巨大な思想家なのだということをしっかりしたかたちで世に問いたいというのが上田先生との共通の思いでした。

正直に言えば、「ドラッカーとは何者か」という問いに歯切れ良く答えることができないという、そのことのなかにドラッカーの本質はあるのではないかというのが、共通のドラッカー像なのです。

ある種の事柄は、簡単にわかってはいけない。たとえば、「マネジメントとは何か」との問いにも私はクリアな答えを与えられずにいます。たぶんこれからもできないでしょう。

そのどうにもならないもどかしさが、むしろ私たちとドラッカーをつないでくれているように思うのです。そこには永遠の未完があるように思います。ドラッカーという存在自体が、私にとって、永遠に完結することのない何かの象徴なのだと思います。完結しないからこそ、いやがおうでも顔を未来に向けさせてくれる存在なのだろうと最近は思っています。

とりとめもなく書いてしまいました。このような不完全な書物を手にとってくださいましたこと、申し訳なくも、ありがたく思います。

いつか、直接お目にかかり、対話させていただける日がくることを心待ちにしております。

 

2016年4月