ボブ・ディラン著/菅野ヘッケル訳『ボブ・ディラン自伝』ソフトバンクパブリッシング、1890円
「すごいことだよ、フォークナーがやっていることは。深い感情をことばにするのはむずかしい。『資本論』を書くほうが簡単だ」(本書より)。
いつの時代も、芸術は思潮をさきどりしてきた。政治や経済理論が体系化を図るはるか以前に、興隆をきわめる民心のありかを的確に把握してきた。
近年では、文学ばかりではない。音楽、特にロックが時代の水先案内役を担ってきた。
60年代――。
この響きに胸焦がす人々は多い。ちなみに私は72年の生まれなのだが、同時代を過ごしていないのに、不思議なノスタルジアを感じてしまう。
独自の若者文化、荒廃した政治、カウンター・カルチャーやヒッピーの群れ。「自由」を求め続けた人たちとウッドストック。
戦後の断絶を60年代に求める論者は少なくない。60年代を一つのシステムの終焉ととらえる見方は近年にいたっていっそう強まっている。アメリカでは、60年代に関するものだけで実に多くの著作が刊行されている。
音楽ではジャニス・ジョプリン、ジョーン・バエズ、ジミ・ヘンドリックス、リッチー・ヘイヴンスなどの顔ぶれだ。彼らの存在が世界を変えた。音楽は新時代の行方を示す哲学になった。
むろん、この時代を象徴するロック詩人がボブ・ディランである。
60年代以降に力を伸長させた思想の特徴として、その独自の価値観がある。
かつて、19世紀にロシアの文豪ドストエフスキイは、『地下生活者の手記』のなかで、近代合理主義の終わりを予言した。その後、ロシア革命、第二次世界大戦を経て、世界はこれまで見たことのない価値意識の表出を見た。
これが一般に脱近代(ポスト・モダン)という今もって曖昧な名称しかない得体の知れぬ潮流であった。そして、ディランの最大の特徴は、まさにその得体の知れなさにある。
ボブ・ディランはいう。
「わたしと同じ時期に生まれた人間はみな、ふたつの世界に属している」。
この発言は奇しくも彼の生きた時代状況を的確に捉えている。まさに戦争を経て、60年代とは合理的な計画主義と自由主義との拮抗を象徴するエポックであった。現代われわれを取り巻く現実も、60年代という広大無辺の海から流れ出ているようにさえ見える。
そして、2つの時代を生きることによる矛盾・葛藤のみならず、新たな希望の種子をも象徴する音楽が現れる。これがロックであった。そのなかでディランは時代の寵児という呼び名がふさわしい存在だった。60年代の不安な空気のなかで鮮烈なデビューを飾り、そしていつしか神格化されていった。
彼の作品、というかテーマは決して万人受けするものではなかった。彼自身いう。
「わたしが代弁するといわれる世代について、わたしはよく知らないし共感もあまりない」。
誰でも、『風に吹かれて』や『くよくよするなよ』を聴いたことがあるだろう。
反戦やプロテストといったイメージが強い反面、その実像は恬淡としていながらも、現実の深奥をえぐる。本書の書き方も、必ずしもロック・ファンに媚びた「わかりやすい」構成ではない。
むしろ、彼の歌のように、軽く読者を翻弄する。文字を追いながら、フレーズをぶったぎるような彼のだみ声や、超然と軋むハープの音色が聞こえてくるようだ。一見とりとめもないが、抽象画を見て、何かを会得できたときの不思議な爽快感がある。
ビートルズ、ストーンズ等々と並び、ディランも音楽史に名を残すに違いない。数十年の後には、ベートーベンやバッハと同じ舞台に上るであろう。そのとき、彼自身の自伝は資料として貴重なものとなるはずだ。