哲学の始めであり、終わりである。同時に、ドラッカーのセルフマネジメントの始めであり、終わりでもある。いわば究極目標だ。
というのも、私たちは日々自分という立派な宝箱を背負いながら、鍵がないばかりに、せっかくの宝物が重荷にしかなっていない。自分が何を背負って日々を生きているのかを知らない。結果として最も身近にある自分自身から遠く離れていってしまう。
残念なことに、大半の人たちにとって自分はほとんど他人であり、自分自身が何者であるかさえ知ることなく、この世を去っていく。
では、どうすれば自分を知ることができるのか。
一つ究極的な着眼点、それは強みである。ドラッカーによれば、人には生まれながらにして、人並みすぐれてできてしまうことがあるという。彼はそれを強みと呼ぶ。強みとは、単に得意という以上に、ほとんど生物的に持っている卓越の源を意味している。
自分を知るとは、自分の強みを知ることと同義である。自分の強みに気付くときに、人ははじめて自分自身を知ったと言うことができる。
自分の強みを知る代表的な方法が、フィードバック分析である。フィードバック分析は自分の強みを発見するために、ドラッカー自身が自らに課していた方法だった。『プロフェッショナルの条件』で彼は次のように述べている。
「強みを知る方法は一つしかない。フィードバック分析である。何かをすることに決めたならば、何を期待するかをただちに書きとめておく。九か月後、一年後に、その期待と実際の結果を照合する。私自身、これを50年続けている。そのたびに驚かされている。これを行うならば誰もが同じように驚かされる」
フィードバック分析とは何だろうか。簡単である。自分の目標を紙に書きとめておき、9か月〜12か月たってから見直してみる。できたことにはいっそう力を入れていき、できなかったことはやめてしまう。
フィードバックの主体は「われわれ」に置かれている。鍵を握るのは、対話の相手すなわち、聞き手である。そのために、ドラッカーの行う診断つまりコンサルティングなども、対話から始められるものだった。
ところで、ドラッカー自身はフランクフルト大学教授だったマルティン・ブーバーのユダヤ思想からも深く学んでいるのだが、このブーバーには、ドラッカーのフィードバック論の原型ともいえる『我と汝』『対話』という代表的著作がある(今も手に入りますので、関心のある方は読んでみてください)。
ブーバーの発言に次のようなものがある。
「対話には音声を必要としない。いや身振りすら必要としない。言語は一切の感覚的特性を捨ててでも、言語たり得るのである」
対話の精華とも言うべき一文だ。対話とは、正確に言えば「話し合い」でさえない。むしろ「聞き合い」なのだということである。相手に対し、耳を傾け続けること、そこに対話の本質がある。
ドラッカーは、ブーバー初期の作品の中の知恵あるラビの言葉を引用している(『傍観者の時代』)。
「『神は過ちを犯すものとして人をつくった。したがって人の過ちに学んでも意味はない。人のよき行いから学ばなければならない』を読んだとき、はたと気付いたのだった」。
叡智を日常の仕事に落とし込む簡単な方法がある。書きとめるということである。ここは意外に忘れがちだ。
フィードバックの結果わかったこと、できたこと・できなかったこと、自分に向けて投げかけられた言葉などをしっかりと、たんたんと書きとめておく。一喜一憂することなく、自分が聞きたくないような指摘も、一つの重要な情報として公平に記録しておく。同じことは他者に対しても言える。相手からフィードバックを求められたら、率直かつ公平に伝える。
ある意味では、耳触りのよくないこと、攻撃ととらえてしまいたくなる言葉にこそ、自分自身に出会うチャンスがかくれている。フィードバックから見えてくる自分自身は、自分を高めるための有益な情報だ。
フィードバック分析の一つの要は、モニタリングにある。モニタリングとは、ひたすら観察することである。
ドラッカーはここで一つ大切なことを教えてくれる。私たちはしばしば、観察対象が未来にどうなるかを推測してしまう。予測してしまう。未来がどうなるかを推論することをアセスメントと言う。ドラッカーは、アセスメントをしてはいけないと教える。なすべきはモニタリング、つまり虚心坦懐な「今・ここ」の観察のみであると言う。
なぜなら、人間の認識能力には限界がある。すべてが見えているわけではない。アセスメントしようとするとどうしても大したことのない要素を過大評価したり、大切な要素を過小評価したりしてしまう。そのリスクはとうてい負いきれない。だから、なすべきことは予測ではなく、観察であることを強調する。
なすべきは、客観的な「セルフモニタリング」である。モニタリングのポイントは「習慣」にある。日常のルーティンに落とし込んでしまう。その方法として最もメジャーなのが、日記の活用である。毎日、自分の行動を記録しておくことだ。
たとえば――。
・自分は今日一日で何をなしとげたのか。
・自分は今日一日で誰と会って何をしたのか。
・自分は今日一日でどんなことを考え、何を学んだのか。
日記は一人で行うことができる最もシンプルなモニタリング手法である。
こう聞くと、あなたはこう言うかもしれない。「ただでさえ忙しいのに、日記なんてほんとうに重荷だ。面倒くさいことこのうえない」と。しかし、フィードバックはあなたの人生の価値に通ずる大事業なのである。そこには何ものにも代えがたい意味と価値がある。
しっかりとモニタリングする習慣が生活に根付くと、毎日書かないと気持ちが落ち着かないくらいになる。筆者も日々日記をつけているのだが、日常の意味を感じ取るうえで有効なのを実感しない日はない。
今日かりに日記をつけ始めることができたら、そのこと自体が革命の始まりとさえいえる。もちろん、ブログでも、SNSでもいい。とにかく、書き留めておくことがドラッカー流の基本である。
では、なぜ日記をつけることをかくも強調するのか。自分の身に起こっていることの意味を後になってから振り返る素材を手にすることがフィードバックの実践そのものだからだ。
日々起こっていることの意味を知り、明日につなげる、ちょうどほどよく熟成されたお酒のように、それぞれふさわしい時間を経て、振り返ることに意味がある。
「何かをすることに決めたならば、何を期待するかをただちに書きとめておく」
これが原点である。