著者以上にテクストに精通しうる存在がもしいるとしたら、それは翻訳者以外にないだろう。
一昨年、ワルシャワから鉄道でベルリンに向かうなか、ポズナンから乗り込んできた30過ぎの女性が、熱心に読んでいたのが村上のエッセイだった。私は村上を介して彼女、すなわちイザベラ・ソビエスキと知り合いになったのだが、不思議なことに、わずか一時間ほどのあいだで、村上を経由した相互感化によってか、深層のレベルの共感をはぐくむことになった。
そのときほど村上の言語がすでに日本語を超えた倍音をはらんでいること、そして、人の霊性を賦活し、魂を活性化させる事実を実感したことはない。
ジェイ・ルービンは四名いる村上春樹英訳者の中で、最も村上自身の信頼を勝ち得ている。ルービンが村上に見出しているのは、「還元的感化」(夏目漱石)である。還元的感化とは、人間それぞれが持つごく個別的な痛み、悲しみ、喜びなどの感情の機微を言語という容器に密封する行為だ。それはチェホフの言う「ポエジー」、ドストエフスキーの「対話」に通じる、個から普遍にいたる唯一の道である。
このインタヴューは、私、井坂が行ったものだが、結果としてルービンが村上の中に内在する詩学に気づいていることをみごとにすくい上げたものになったのは幸運だったと言える。ルービンは「よい文学」とは生活に通ずるものであると述べている。村上が料理を、掃除を、アイロンを描くのは、つまるところ言語における美的感性の源が、生活のごくささやかな営みを基礎としているためであることに、ルービンは気づいている。
ちなみに、私は村上春樹のなかにビジネスの要諦はすべてつまっていると考えているのだが、それはまたいずれ、「村上春樹とドラッカー」と称する未来に書かれる本に明記したいと思う。